第29話 銀色の猫
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――遠い昔の話である。
月が惜しげも無く光を降らせていた十五夜のその日、桔梗は胸を躍らせながら樹海の中を駆けた。眼前を塞ぐ苔むした大岩を軽やかに飛び越え、
――ようやくだ。ようやくあの方に会うことが出来る……。
胸に抱くのは、
十年、二十年……。
気づけばもう、あの
森を抜けると一際明るい場所に飛び出した。
岩の上で立ち止まり天を仰ぐと真円の月が青白い光を放っていた。ピンと耳をそば立てて瞳孔を細めた直後、耳が激しい水音を捉える。
滝が轟音を伴って水面を叩く。 舞い上がった飛沫が霧となって宙を漂う。目の前には
水気を含んだ風が髭をそよがせた。風の心地よさに思わず目を細めるが油断はなかった。人里から遠く離れても警戒心を解いていない。それは彼女の獣としての性によるものでもあるのだが、もう一つ、慎重にならざるを得ない事由を抱えていた。彼女は呪われた魂魄の一片を抱いていた。
四肢を折り曲げて体勢を低くする。伏せると同時に白銀の体毛がふわりと浮いた。
後方には何事もないことを承知している。彼女は、首を折れんばかりに曲げて左右を見回した。厳重に、何事をも見落とすことが無いように意識を収束して何度も凝視を繰り返し気配を探った。
「うむ、ここまで来ればもう良いだろう」
彼女は短く言葉を吐き安堵の息をついた。が、その時、
「やれやれ、あまりに速うて危うく見失うところであった」
後方から唐突に
一瞬にして背筋が凍った。彼女は易々と後ろを取られていた。
「この私の後ろを取るか、何やつだ」
強く言葉で牽制し思考を素早く回転させた。
あり得ない。油断など無かった。それなのに声の主は自分の後ろに悠々と立っている。彼女を侮ることの出来る者などそうそういない。それ程の力を有していることは誰に問うまでもない。――であれば、今、後方に現れた者は桁外れの者だということになる。ごく僅かも気を抜くことが出来なかった。
「お前、名はなんという?」
名を訪ねてくる声は、彼女の耳に柔らかく響いてきていた。だからといって気を許してはならない。彼女は不快を面に出しながら、くねらせるようにしてゆっくりと体を声の方へ向けた。極度の緊張からか彼女の二本の尾は自分の意に反して逆立ったままだった。
「修験者か、なに用だ」
精一杯に気勢を放って威圧を仕掛けるが、男はそれをどこ吹く風と涼やかな顔をして受け止めた。
「まぁ急くな、心を静めてはくれまいか。いやなに、こちらにはお前と争う意図はない」
「どうだかな、後ろから不意を突いてくるやつなど信用ならぬ。しかもこの私に名を訪ねてくるとは不敬極まりない所業」
「それはまぁ、言われてみればその通り。相済まぬ、名を尋ねたは確認のためであった」
男は両手をへその辺りで重ねると恭しげに頭を下げた。だが、深々とかぶった
「私に何の用だ」
彼女はもう一度男に聞いた。
「用か、用のう……それはほれ、言わずもがなといったところ」
「だろうな。老いぼれが私を欲するとは思えぬでな」
「ほほほ。まぁな、この年になればもう色事などは無縁であるからの。それに、今のお前の姿は獣。いくらなんでもな。かの
男は調子よくおどけて白い顎ひげをしごいた。
「知らぬな、静御前など知らぬ。それに、人間が私を見て賛することにも興味は無い。見てくれなど、人間を利用する為に便利であるだけだ」
「
「なに」
「お前は人間が嫌いになったのか」
「フン、戯れ言であるな。人間など便利な道具でしかない」
「にしては、その胸の内に後生大事に抱いておるではないか」
「やはりこれが狙いか。しかし渡さぬぞ」
合点がいった。この男はようやく手に入れた大切な者を奪いに来た者だ。
思い至れば行動は速い。彼女は直ぐさま男に飛びかかった。先ほどは油断をして後ろを取られてしまったが、今度はそうはいかぬと爪を立て渾身の力を持って男を切り裂こうとした。
しかし、男は柔和な笑みを浮かべたままで些かも動じなかった。揺るがぬ態度と浮かべる笑みを見て胸中に疑義が生まれる。戸惑いが殺気を緩ませてしまった。
「なに!」
猫の爪が男を捉えようとした刹那、二人の間に強烈な閃光が発する。気がつけば渾身の一撃は男が取り出した黒塗りの鞘に受け止められていた。雷光を放つ鞘からは破邪の気が漏れ出していた。
「ほほほ。残念であったの、
彼女の力を軽々と受け止めて男は破顔した。
「そうか、私を桔梗と呼ぶか……。やはり端から
「ほほほ。急くなといったであろう、桔梗御前よ」
言葉と同時に太刀から覇気が放たれる。彼女はやむなく後ろに飛びすさった。
「随分と大仰な物を持ってきているではないか」
訪ねると男は太刀を顔の前まで持ち上げてニヤと笑みをこぼす。
「いやなに、これは護身用に持たされた借り物での。であるからして正直を言うとの、わしには扱えぬ代物なのじゃ」
男は太刀にチラと視線を落としたあと白い歯を見せる。その後、頭を掻きながら恥じ入った。
「太刀の覇気を見せておきながら戯れるのか」
「確かに覇気はこの太刀の力。しかしながらこの太刀の
「……御託を」
「はじめから申しておるではないか、争うつもりはないと。急くなと。……やれやれ、仕方の無いやつじゃ」
「……用向きは何だ?」
「であるの、もう察しておるようじゃから話を進めるか。お前の思うようにわしはお前が抱えておる
「これは渡さぬ」
「お前がそれを大事にしておることは承知をしておるが、それはあまりに邪悪。その魂魄に掛けられた
「黙れ人間! 大きなお世話だ」
「聞き分けてはくれぬか、桔梗御前」
「出来ぬ」
「どうしてもか」
「くどい!」
大声で拒絶を伝え、桔梗は再び臨戦態勢に入った。男を正面に捉え、うなり声で威嚇しながら前傾姿勢になる。後ろ足には次こそはと必中の為の力を込めた。
それでも、彼女の本気を目の当たりにしても男は苦笑を浮かべたままで動かなかった。
「構えぬとて容赦はせぬぞ」
桔梗は気勢に殺気を込めて最後を知らせた。
「やれやれ、困った娘さんじゃの。落ち着け、人の話は最後まで聞くものじゃ」
「能書きなどくだらぬ。さっさと忌んでもらおう。なに、この私の一撃だ。苦しませるような下手はないゆえ安心するがいい。いくぞ」
言い放ち前へと飛んだ。
「今宵ここで、
男は仕方がないといった具合に眉を一度上げてから呟いた。その呟きが思いのほか小さき声故に耳が尚更に男の言葉を捉えてしまう。爪は再び防がれた。
「桔梗御前よ。わしは今、ここに大峰兼五郎義親の魂魄のうち残りの五つを持ち合わせておる」
「……なに」
「少しばかり話をしようではないか」
彼女は沈黙した。その様子を了承であると見たのだろう。男は小さく頷いた。
「桔梗よ、まず己の今の姿を見てみよ」
また戯れ言かと思いながら桔梗は自身を見回す。
「な、なんだこれは!」
驚きとともに桔梗が見たものは、白銀の体毛の所々に浮き出たいた黒いシミのようなものであった。
「それが穢れじゃよ」
「穢れ……」
「そうじゃ。お前は胸に抱いておる穢れに犯され始めておるのだよ」
「まだ世迷い言を言うのか! この私を、仙たるこの私を穢せる物など――」
「あるのじゃよ。それに施されている呪は、残念じゃがお前にはどうすることも出来ぬ」
「見くびるなよ
彼女は己が身に纏わり付く邪気を払おうとした。己の内に抱く魂魄と向き合いそれを降伏せんとした。
「わしは何もかもを知っておるのじゃよ、桔梗御前。それは元はお前が慕う男の魂魄。出来るか桔梗、お前に」
挑んでみたが出来なかった。魂魄が見せる姿を目にすれば、どうしても意気をあげられなかった。桔梗は為す術もなく脱力する。
「そやつは、今はもう、大峰兼五郎義親ではない。そのようなことはお前にも分かっておるだろう。桔梗御前よ、お前が内に抱く魂魄、直ぐにでも吐き出さねば手遅れになる。手遅れになりお前が悪に転じれば、凶悪な化け物を世に解き放つことになる。わしはそれを止めに来た」
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