第32話 迫る窮地
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心地よさを覚えるほどの澄んだ声。青銀の毛並みが気迫と共に揺れると天空へ向けて雄叫びが放たれた。
「……あれが、真子の真の姿」
ハルは、優美な狼の姿に目を奪われた。
「やれやれ、お転婆娘が我を失わせよって。あれでは持たぬぞ」
黒麻呂は臨戦態勢の真子を見ても歯牙にもかけぬといった様子で呆れ顔を見せる。
「黒麻呂さん、持たぬってどういうことですか」
「あやつは、その力の全てを封じられている。いま見せている力は借り物、それでは持たん」
「だから、持たないってどういう――」
「死ぬ、ということだ」
「な!」
絶句して真子を見た。言われてみれば鬼気迫るものを感じる。真子はこの場で燃え尽きようとしているかに見えた。
「ハル様、お下がりください。危のうございますゆえ」
「真子、待って! 落ち着いて!」
真子を制止しながら両者の間に割って入った。
「お退きくださいませ。私にはやらねばならぬことがあるのです」
「駄目だ、ここで無理をするな!」
「ハル様!」
「まだだ! まだ何かがある!」
ハッとした。思わず発した言葉が真理のように思えた。黒麻呂と真子の会話に噛み合わせの悪さのようなものを感じていた。心の何処かに消化しきれぬ何かが引っかかっていた。ハルは、知り得たことを一つずつつなぎ合わせようとした。――どこかに矛盾がある。それはなんだ。
過去の戦について真神は敵を悪として戦ったと言ったが、狛神は本意ではなかったと話した。それから八百年を経て再び両者が争うことになったのだが、どうにも辻褄が合わない気がする。
真子はこの場に来て初めて敵が黒麻呂だと確信したようだった。
……里から奪われた鏡も元々は狛神方の神器であるという。両者の間に何があるのだろうか、何が起きているのだろうか、真子の言葉に嘘はないと思うし黒麻呂の言葉にも嘘はないような気もする。ならば、いったい誰が嘘をついているのか。
「うわっ!」
思索に耽るハルの横を鋭い風が駆け抜けた。
振り向いてその風を追うと、真子が雷撃を放ちながら突進していく姿が見えた。
「待て! 真子!」
青い線が舞う。目はその激しい動きを追えていたが、頭は起きている事実を受け入れられない。四方八方から挑んでいく真子の攻撃は凄まじいもので、それは信じがたき光景だった。ただ、凄いのは真子ばかりではなかった。あれだけの攻撃を受けても黒麻呂は泰然と腰を据えたまま微動だにしなかった。彼は敢えて雷撃を受け、牙を受けていた。
「構えも取らぬとは、舐めてくれたものですね」
「虚を持って俺を討つことなど出来ぬ。先ほどもそう言ったのだがな」
黒麻呂は平らな声で諭すように話した。見ると頑強を思わせる体躯には牙による裂傷も雷撃による損傷も何もなかった。
「通じぬか、やはり初手から全身全霊をもって挑まねばなりませなんだか」
「やめておけ、それ以上は死ぬぞ。左方をこのような形で失うのは本意ではない」
「どの口が言うのか、我が里を襲っておきながら」
「そのことは知らぬといっているだろう」
「もう結構です。次で決めます。差し違えてでも、あなたをここで滅します」
真子の体が青白い炎のようなもので包まれた。青い揺らぎの中で雷が暴れる。一段と気勢を上げた真子が前傾になる。おそらくは渾身の一撃を繰り出す構えなのだろう。
「やめろ、真子! もうやめるんだ!」
ハルは背に庇うようにして黒麻呂の正面に立った。
「ハル様! そこを退いてください!」
「駄目だ、僕は君に消えて欲しくない。ここは引いてくれ!」
「ハル様、退いて!」
「駄目だ! 黒麻呂さんはきっと敵ではない。君の里を襲ったのは黒麻呂さんではない」
「それは嘘です。騙されてはなりませぬ。こやつらは昔々のあの戦で我らを裏切り悪事を働いた者です」
「黒麻呂さんは、本意ではなかったといった」
「ハル様は私をお信じにならずに、その痴れ者を信じるのですか」
「真子、違うよ僕は――」
「私がハル様を殺そうとした。そうお思いだからですか」
「違う! 真子、それは違う! そんなことじゃない!」
真子に狙われたことなどとうに忘れてしまっていた。驚きはしたが今は気にも留めていない。現にハルは死んでいない。真子に殺されそうになってもいない。助けに来てくれたこともあったくらいだ。
何とか真子を落ち着かせようと、両手を大きく広げて前へと進む。真子の目を見つめながら一歩、また一歩と、ゆっくりと歩みを進める。もう少し、あと僅かと真子の目の前まで迫った時だった。目を合わせていた真子の目がサッと横に動く。同時に耳が無数の風切音を捉えた。ハルは瞬時に何かが自分めがけて飛んできていることを悟った。
「なんだ!」
手をかざすように身を庇いながら殺意の出所を見る。飛んできたものが矢であったことに気が付いたのは全ての矢をその身に受けながら敵を睨み付ける真子を見たときだった。ハルは真子に庇われていた。
「真子、大丈夫か!」
真子の体には何本も矢が刺さっており、その傷口からは血が流れ出ていた。
「ハル様、良かったご無事ですね」
言った直後、真子は前足を折るようにして地に崩れた。
「真子、しっかりして! 目を開けて!」
呼びかけるハルに真子は微笑みを向けて言った。
「まだ、油断はなりませぬ。まだ敵が……」
辺りを見て黒麻呂を見る。黒麻呂はこちらを見ていなかった。彼の視線の先を辿ると大きな木々の上の方、その太い枝に立つ異形の者の姿が見えた。
「なんだ! あれは何者なんだ」
「
形様は大小様々、白き狐面の者は白装束で包み込こまれたその身体に胸当てを備え手には弓を持っていた。
「……やこ」
「狐だ、野に狐と書いて野狐、狐の妖だ。しかし分からぬ。何故にやつら……」
「ハル様、お逃げください、まだ来ます!」
「まだ?」
「あれだ、蒼樹ハル」
黒麻呂が睨み付ける先に新手が現れる。ガサリと草木の影から犬神が顔を覗かせた。
「黒の王よ、ここまで卑怯な真似をするとは……」
「勘違いするな。俺は奴らを呼んではいない」
「この期に及んでまだ言いますか! ハル様、どうか今すぐお逃げください。
真子が目を怒らせながら立ち上がる。だが、四肢は震えておりとても戦えるようには見えなかった。
「チッ! この真神のなんと頑迷な」
「黒麻呂さん、黒麻呂さん!」
「俺は呼んでねえ、蒼樹ハル、お前が信じるかどうかは知ったことではないが、とにかく俺は呼んでねえ」
「あ、いえ、そういうことではなくて」
「あん? 何だよ」
「僕はこのまま真子と逃げようと思うのですが、助けてもらえませんか?」
「はあ?」
「あ、いや、固まっている場合じゃないです。とにかく、ここは一旦逃げよう――」
「阿呆か! ちっとは考えろ! ビビってねえところは大したもんだがな、ちゃんと周りを見て見ろ! ったく!」
「……はぁ」
「はぁって、お前なぁ、上に野狐の弓、下に犬どもだ。あれだけの数に周囲を囲まれているんだぞ。しかも、野狐が使っている矢には呪が施されている。そこのお姫様がただの矢で動けなくなるなんてことはねえ、お前如きでは、かすっても死ぬぞ」
「ええと、この前みたいに咆哮でズバーンってわけには……」
「そんな便利なもんじゃねえ! 大体なぁ、敵のその数も五十を下らねえ、いや、もっといるな。俺だけならどうとでもなるが、数で押されたら隙が出来る。手に余した敵はお前達へと向かうんだぞ!」
「あ、なるほど。……でも、じゃぁ、どうすれば?」
「戦えよ」
「へ?」
「死にたくねえんだろ? だったら戦え! 出来るだろう、お前も雨の陰陽師に間違われた程の者だ」
「え、ええええ! 無理、無理、無理です! 犬神ですよ、黒麻呂さんもあの夜に見ていたんでしょう? 僕が棒を振ったって、あいつらはすり抜けるんですよ」
「んなもん、気合いでなんとかしろ! 覇気を込めれば棒でも当たる。当たらなければやりながら覚えろ!」
「そんな無茶苦茶な……。あ! そうだ!」
「なんだ?」
「なんか武器を、使える武器を出して下さい。黒麻呂さんも神獣なのでしょう?」
「おめえな、おれはどこぞの猫型ロボットじゃねえ! それに猫でもねえ!」
「黒麻呂さん?」
「なんだ?」
「その言い回しはもう使い古されてます。もっと捻ってもらわないと」
「……」
「黒麻呂、さん?」
「おい、戯れ事はここまでだ。来るぞ、覚悟を決めろよ。しょうがねえから加勢してやるが、自分の身は自分で守れ」
言われて周囲を見回すと、犬神達が包囲を狭めてきていた。上の方では野狐が方々に位置取りをしてこちらの様子を覗っていた。
「ハル様のことは何としてでもお守りしてみせます」
「いいや、真子にこれ以上は無理をさせられないからね。僕もなんとか頑張るよ。とにかくこいつらを退けて生き延びるんだ。だから真子ももう少し頑張って」
「し、しかしハル様」
「大丈夫! 覇気とやらを込めれば棒も当たるって、その言葉を真に受ければ、きっと拳も当たる。やってみるさ」
「む、無茶です!」
「無茶でもなんでもやるしかない」
いつしか三者が互いに背中を合わせて敵を見ていた。その周囲を敵が囲む。
ハルは拳を握りしめボクサーのように構えを取った。
「まったく……。お前のその楽天的な思考ときたら、それはもう呆れるという言葉も過ぎるくらいだな」
敵味方、皆が一斉に声のする方を向いた。次の瞬間、声が発せられたその場所で、黒い集団が一気に爆ぜた。
「仙里様!」
「
「この場に猫だと……何者だ?」
受ける爆風、舞い上がる土埃、ハルは目を凝らす。風が舞って視界が晴れるとそこに煌めく緑の双眸が現れた。
「ほれ、忘れ物を届けに来てやったぞ」
ニヤリと笑うと仙里は手に持つ太刀をハルに向かって放り投げた。
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