第27話 悪夢の中の少女

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 微睡まどろみの中で四肢を強張らせていた。――酷く寝苦しい。これが俗にいう金縛りというやつか。

 ハルが思い浮かべる霊は恐ろしいものではなく身近な者の姿をしていた。なので幽霊は怖いものではなかった。幽霊でもいいから失った家族に会いたいと思う。だがそれは決して叶わぬこと、だからハルは幽霊の存在など信じていない。


 円香まどかが襲われてから数日が過ぎていた。狂気を纏った日本人形の襲撃を受けどうにか命の危機を脱したのはつい数時間前のことだった。

 疲れていた。心も身体も。いい加減に休ませてくれよと溜め息をついたハルは再び夢寐むびに意識を沈めた。


 ――なんだよ……。まったくもう、どうなってるんだ?

 これは、夢の中か。

 重苦しい空気が身体を包み込んでいた。見果てぬその空間は仄暗く、灰色に濁った水面みなもが辺り一面に続く。周囲には黒い霧のようなものが立ち込めていた。

 その淀みに腰まで浸かって狼狽する。いったい何が起きているのか。

 捕らえられているという感覚がある。とりあえず上半身の自由は利いたが水面下にある下半身は酷く重かった。とにかくこの状況を何とかしなくてはいけないと目を凝らし黒い霧の向こう側を見る。ハルは注意深く状況を探りながら歩きはじめた。


 もうどれくらい進んだだろうか。そろそろ不味いのではないかと思い始めた時だった。

 ――誰かいるのか……。前方に人の気配を感じた。

 無警戒に過ぎるという認識はあったが、こんな素っ頓狂な出来事など、どうせ現実ではないだろうとハルは気にせず気配のする方へ進んだ。夢ならば覚めれば終わりである。


 女性らしき人の姿を見つけた。心なしか見覚えがある。その制服をどこかで見たような気がする。ハルは少女に声を掛けようとした。だが、声が出なかった。――またか……。声が出ない事には覚えがあった。初めて仙里と出会った時がそうだった。


 ラブストーリーの主人公が二度も同じ愚を犯すことなど許されない。これは好機、とハルは奮起する。たとえ夢の中であろうと、このようなドラマティックな出会いなどそうはあるまい。後ろ姿しか見えないことにもどかしさはあるが、ときめく直観が教えている。彼女はきっと自分好みの美少女に違いない。

 

 あれやこれやを想像し一頻ひとしきり腹に気合いを溜め気力を最高潮まで高める。口を大きく開いたその時だった。いきなり後頭部に衝撃を受けるとハルはそのまま淀みの中へ突っ込んだ。


 ――まったく、なんなんだ?

 水面から顔を出し音にならない言葉を吐く。背筋を伸ばして周囲を見回すが辺りには少女以外の気配はなかった。再びハルは意気を燃やす。濡れていない髪と衣服についても不思議に思ったが、それよりも目の前の少女のことが気になった。

 


『ごめんなさい。私には……止められない』

 哀愁を孕む声を拾った。言っていることの意味は分からなかったが、酷く悲しんでいる様子は見てとれた。目の前で少女が悲嘆に暮れている。ならば力になるより他はない。拳を握り込みヤル気を出す。ハルは少女の肩へ手が届きそうな距離まで迫った。


「お前というやつは、よもやここまで馬鹿だとは思わなかったぞ」

 仙里の呆れ声を耳にした。溜め息交じりの声がハルに刺さる。


「ば、馬鹿って」

 声が出た。

「よく考えてから動けと言ったはずだがな。それはつい先ほどのことだったのだがな。しかしお前は、またこのように呆けたままで関わろうとする。余程命が要らないらしい」

「いったい何のことですか?」

「忘れたか」

「ええっと、何だっけ?」

「闇雲にあやかしと関わるな、と言ったことだ。そのことを忘れたのかと聞いているのだ」

「あ、ああ、でもこれって夢ですよね? 夢なら覚めちゃえば終わりなのでは? それを命懸けって、いやだなぁもう、仙里様も大袈裟な」

「やれやれ、このようなまがまが々しい気に当てられても臆することがないのは大したものだが、単純に気が付いていないだけとは。存外に呆れた奴だ」

「禍々しい気? ええっと、それは……」


 ハルは首を傾げた。仙里の言う「気」というものがさっぱりと分からない。


「おい、何をやっておるのだ?」

「あ、いえいえ。『気』っていうのが何なのかなぁって」

 気を感じ取るために胸を張って深く息を吸い込む。深呼吸を繰り返すと微かに甘い匂いが嗅ぎ取れた。はて? どこかでと思うが気付いたことはそれだけで「気」などというものは感じられなかった。


「……お前は」

 仙里が姿を見せる。ふわりと宙に浮かぶ仙里が切り揃えられた前髪を搔き上げるようにして上を向いた。口は半分開いていた。どうやら気抜けしているようだった。


「か、可愛い」

 良いモノを見た、と感激する気持ちが言葉となって口から漏れる。


「どうした?」

「あ、いえ、いえいえ」

「まったくおかしな奴だ。しかしまぁいい、もう分かっただろう、帰るぞ」

「帰る?」

「ここから出るという事だ。このようなところに長居しても無意味だろう。所詮、お前には何をどうすることも出来ないのだからな。それに、ここの気は『おん』で満ちている。今はどうということもないようだが、お前ひとりでは呪いに絡め捕られるのが落ちだ」

「……呪い」

「さぁ、もう良いでだろう。行くぞ」

「でも仙里様、あ、あの……」

 もう少しここを調べてみたいと言おうとした。


『――けて、下さい……。誰か……助けて……』

 声がハルを引きつける。


「仙里様! これは!」

 ハルは振り返った。少女の周囲で炎のように光る何かが揺らいでいるのが見えた。その様子を見て矢も楯もたまらず走り出す。


「お、おい! お前!」

 呼び止めようとする仙里の声を置き去りにする。

 淀んだ水の中で動きにくさはあったが、構わずに水を蹴り上げ、もう少し、あと少しと近づいて行った。


「それまでだ! それ以上進むな!」

 仙里の強い声がハルを止めた。


「だって、女の子が、女の子が、あんなに苦しんで……」

「捨て置け、これ以上はお前が危ない」

「でも、仙里様」

「行ってどうする? 近付いて、そこで何が出来るというのだ」

「何がって、助けなきゃ」

「助ける? お前がか? どうやって?」

「ど、どうって……」

「フン! 考えも無しとは笑止千万だな」

 仙里は鼻で笑って冷えた目を向けてきた。


「そもそも、お前はあれが何なのか知るまい。知りもせぬくせに大きなことだけをほざく」

「でも、でも、あんなに苦しんで……」

「だから大バカ者だといっておる。見目が苦しむ姿をしているからと言って、どうしてその者が苦しんでいると分かるのだ? それが人を喰う為の演技でないと何故言い切れる」

「助けてって……助けてって言ってたじゃないか」

「ほほう、助けてくれと言われれば、お前はどのようなものでも助けにいくと? たとえその者がお前を喰らおうとしていても近寄っていくというのか? 頭を冷やせ、馬鹿者。真実を見極めろ。あれが見えているならばもっと凝視をしろ。注視して本質を見極めろ」

「本質……」


 仙里に言われ、ハルは人影に目を向けた。

 相変わらず人影はゆらりと揺れる光の中にいる。その姿は……。

 ジッと見つめる。それはやはり少女の姿をしていた。水面の上にへたり込み、両手で顔を隠すようにして塞ぎ込んでいるようだった。肩が震えている。泣いているのだろう。果たしてこれが人を喰う為の演技なのだろうか……。


「仙里様、僕にはどうしても、あれが危険なものには思えないよ」

 

『誰? そこに誰かいるの?』

 華奢な肩がピクリと動いた。顔を覆っていた手を下ろすと少女がゆっくりと振り返る。


「チッ! 気付かれたか」

「舌打ち? それに気付かれた?」

 仙里の厳しい視線が目の前のハルを通過して威嚇する。


「よく見てみろ」

「な、なんだ、あれは! 鬼? まさか」

 そこにいたのは鬼だった。突き出した二本の角、ニタリと笑う口は耳まで裂けるほど大きい。頭蓋骨に深く沈んだまなこがギラリと鈍い光を見せていた。


「フン、今更動じるとは仕方のない奴だ。よく見るがいいあれが奴の真の姿だ」

「真の……。あれはいったい何?」

「あれは、『生成なまなり』というものだ」

「ナマナリ……」

「人の女が、嫉妬や憎しみを抱いた末に鬼へと変化へんげする過程をいう」

「鬼への変化」

「そう、変化だ。生成りは、いずれは般若はんにゃとなり、その中でも更に業深いものは真蛇しんじゃと化す。もっとも、真蛇などめったにお目にかかるものではないがな。この私とて八百年を生きてきて僅か一、二度見たかどうか」

「は、八百年! せ、せ、せ、仙里様ってそんなに歳を取ってるんですか!」

「おいおい、何をおかしなことを、私は『仙』である。そのようなこと取り立てて騒ぐほどの事でもなかろうに。それにこのことは既に言ったはずで――」

「八百年、八百歳、八百歳、八百歳……。とすれば、僕との歳の差は……」

「おい、何を呆けておる」

「あ、あの……。それで、結局、仙里様は八百何歳なのでしょう?」

「はあ?」

「あ、ああ、いや、その、仙里様と僕の歳の差って何歳なのかなぁって」

「こ、このたわけ者め! まったく何を呆けておるのだ! 今はそれどころではないだろ! お前、奴が恐ろしくはないのか? 既に気付かれておるのだぞ」

「あ、ああ、奴。そうですねぇ。そんなに恐ろしいって感じはないですね」

「駄目だこいつ。駄目だ……」

 仙里は嘆くように呟きながら両手で頭を抱えた。


「う、うわあああ!」

 ハルは不意に身体を引っ張られた。抗う事が出来きず生成りの方へと吸い寄せられていく。それはあっという間の出来事で、気付いたときには鬼の正面に立たされていた。


『助けて……』

「うん。分かった。僕が助けるよ」

『私には止められない……あの人達に罪を重ねて欲しくない。これ以上、続けさせたくないの』

「……あの人?」

『うっ、ううう……』

 鬼の少女が突然胸を押さえて苦しみ始める。


「だ、大丈夫か! どうした! おい!」

『くっ、くくっ、くかかかかか!』

 肩を震わせながら含み笑った鬼は、空を掴むように手を上げて天を仰いだ。


「お、おい、君!」

『死ねばいい、皆、死んでしまえばいい。殺す。全部、全部、殺してやる』

 嬉々として笑う鬼の両手がハルの両腕を掴んだ。


「痛っ!」掴まれた瞬間に腕から全身に激痛が走る。そこでハルは光に包まれた。


 ――ふんぎゃっ!

 

 情けない声を出していた。布団の上から鳩尾を押さえる。身に受けた衝撃がハルを現実に引き戻していた。なんだよと思いながら、ハルは瞼を開いた。するとすぐ目の前に猫の顔があった。


「……猫の仙里様」

 仙里はフンと横を向いてから、そそくさと胸から降りて部屋を出ていった。

 痛む腕にはくっきりと鬼の手形が残されていた。

 ハルは鬼の痕跡を見ながら夢の中で会った少女のことを考えた。


「止められない、って言ってたよな……。でもあれは何だ? 仙里様は確か、ナマナリとかなんとかって……」

 鬼へと変化していた者の正体が誰なのか。彼女はいったい何を止めたいと願っていたのか。何故あのような夢を見たのか。


「そうか、僕は呼ばれたのか……」


 きっと、夢の中で出会ったあの少女のことも救わなければならないのだろう。ハルは、生成と呼ばれた鬼の少女のことを記憶として心に刻んだ。






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