第19話 憂いの残滓

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 両親を伴ってその家を尋ねたのは中学三年生の夏休みのこと。

 その日は命日だった。彼女は一年前に自ら命を絶った。

 

 呼び鈴を鳴らすと張りのある声が一家を迎え入れた。元気な様子を意外に思った。その明るい声が玄関先で両親と何事か話をしていたが、会話の中身はつんざく蝉時雨にかき消され耳には入ってこなかった。庭先を見つめながら漫然と小学生の頃に二人で仲良く遊んだ日のことを思い出していた。

 その後、招かれた訪花ほうかは俯いたまま誰にというわけではなく会釈をして家の中へ入った。


玉置たまきさん、その節はお世話になりまして」

 彼女の母親は昔と何ら変わりのない調子で話した。


「いえいえ、私達は何も、それよりも、このように遅くなりまして誠に――」

 父の社交辞令に少しだけ苛立ちを覚えたが、それよりもまずは彼女の母親が想像していたよりも元気そうで安心した。


「訪花ちゃんも、今日は来てくれてありがとう、きっとあの子も喜んでいると思うわ」

 普段通りに声を掛けられ少し肩から力が抜けたのだが、顔を上げた途端に心が凍りついた。声のトーンとは裏腹に痩せこけた顔は精気が抜けていた。


 ――目に色が無い。

 

 彼女の母親が作る死人のような笑顔に心の底が冷えた。

 見つめる視線をそっと受け流す。訪花は居辛さを誤魔化すために家の端々へと目を向けた。

 見て最初に感じたのは、どこもかしこも整然としていたことだった。だが、そのことがどうにも遣る瀬なさを思わせるようで居心地の悪さを感じさせた。たぶんこの整理整頓の様子はこの日の来客に備えてということではないだろう。

 ――この人は自分が使うべき時間を失ってしまったのだ。

 母親の孤独を感じ取り動揺した。冷え冷えとした空気の正体を知って焦点が揺らぐ。訪花はグッと口を噤んだ。 

 

「さあ、こちらにどうぞ」

「あ、ああ、すみません。お線香を上げさせて頂きましたら直ぐに帰りますので」

 父が戸惑いながら答えた。この時また、視界が揺らいだ。

 両親の背中を見送ると訪花は束の間その場に立ち尽くしてしまう。


 ――私は、このようなところで何をしているのだろう。

 

 懐疑に惑わされていたその時、名前を呼ばれる。

 懐かしい声を聞いて振り向くと、そこに友人の蒼白の顔があった。

 

 友人は物憂げな様子でこちらを見ていた。訪花もジッと彼女を見つめた。目の前にある存在は生前と変わりがなく生きているようだった。

 訪花は更に現実感を失ってしまう。無言で彼女の方へ手を伸ばした。いま捕まえれば彼女はここに戻るのではないだろうか。


「訪花、何してるの? 早くいらっしゃい」

 呼ぶ母の声で我に返る。

 

 行かなきゃ、と咄嗟に答えた言葉の意味は分からなかった。

 ――私は、どこへ……。

 戸惑っていると、優しい眼で見つめる友人が「うん」と頷き促してくれた。


 部屋に入ると直ぐに二枚の写真が目に入った。

 仲良く並んで置かれている写真。小さなアクリル制のフォトフレームに収められたそれは遺影。一枚は数年前に病気で亡くなっていた父親の写真で、もう一枚は……死んだはずの、友人の笑顔。


「訪花、早くこっちに来てお参りしなさい」

 仏壇の前に立ち両親の顔を見る。目が合うと父は黙って頷いた。

 線香の香りに包まれながら仏壇に向かって手を合わせるが、そこで違和感を抱く。訪花は未だ友人の死を受け入れられていなかった。


 ――だって、あの子は今も直ぐ側にいるじゃないか。

 

 それからしばらくの間の記憶は曖昧だった。

 訪花は彼女に会った。

 彼女の変わらぬ優しい笑顔を見た。

 本当にあの子は死んでいるのか。

 時間の流れがひどく淀んでいる気がする。

 両親と並んで座卓に向かう。合わぬ視点で麦茶が注がれているグラスの結露を見ていた。

 

「私どもにはこんなことしか出来ず……」

 訪花はハッとして音を取り戻した。耳に届いた父親の言葉、座卓の上に風呂敷に包まれた四角いものを見る。

 

「玉置さん、それは……」

「有志で集めました。これは署名と嘆願書です」

「嘆願書?」

「余計なお世話かとは思いました。しかし、前に進むために必要なことだとも思いました。私達は、彼女の死の真相を突き止めねばならないのではないか、その責任の所在をちゃんと明らかにする必要があるのではないのかと、そう、思いました」

「玉置さん……」

「すみません。一番お辛いのはお母さんだと承知はしているのです。だけど、……何か動くことで、その……それが生きる活力となることもあるのではないのかと」

 父は正座した膝の上で拳を強く握りしめていた。そこに母の手がそっと添えられる。そんな両親の姿を見て友人の母親は少し困り顔を見せる。

 

「お心遣い、ありがとうございます」

 友人の母親はやつれた顔に柔和な笑みを浮かべた。

 

「で、では――」

「せっかくのことですけれど」

「しかし、それでは」

 父は戸惑い言葉を詰まらせた。

 

「娘は、帰ってきませんから」

 はっきりとした口調で言い切ると彼女は弱々しく首を垂れた。その時のその一言が重く訪花の心を押しつぶしていく。


 ――あの子は帰ってこない。やっぱり死んだんだ。


 心の中に芽生えた感情の正体はよく分からない。それは嘆きではなく、悲しみでもなく、憤りでもなかった。強いて言うならば、責任感というものが近いだろうか。

 訪花は友人とその母親を不幸にして嗤う者達を絶対に許してはならないと思った。

 

「玉置さん、どうかもうお気遣いなく。訪花ちゃんも来年の春には受験、今はとても大切な時期だわ、私ならもう大丈夫ですから、だからどうか私達のことはもう……」

 無理に絞り出したような声だった。聞いた途端にキツく胸が締め付けられた。


「……けやきの仇は、私が討つわ」

 芽生えた思いを口にする。止めどなく流れた出た涙が頬を伝って膝に落ちた。


「ちょっと訪花、あなた何言って」

 面食らった母が引いたその手を訪花は振りほどく。


「私、さっき、欅に会ったの」

「……訪花ちゃん」

 欅の母親の幽暗を湛える瞳がふうっと持ち上がる。


「おばさんもにも見えているんですよね」

「おい、訪花、お前何を」

「あの子はまだここにいる」

「訪花! お止めなさい。すみません、吉野さん、この子、どうかして――」

「私は会ったの。ついさっきよ、欅はここにいる。おばさんのことが心配だから。後悔しているから」

「……後悔。そう、あの子は、後悔しているのね」

「はい。私にはそう感じられました。欅は、おばさんをこんな形で残してしまったことを後悔しているのだと思います」

「訪花、もういい! 止めなさい!」

 狼狽する父から叱責を受けた。だが訪花は思いを止めることが出来なくなっていた。


「なんで! お父さんも同じ思いだったんでしょう! だから署名を集めて嘆願書なんかを作ったんでしょ」

 訪花は強い視線をもって父に覗った。


「確かに、父さんは欅ちゃんを知る皆で話し合って行動をした。だがそれは仇討ちとかそういうんじゃない。これは、これはまだ子供のお前には分からないことかも知れないけど――」

「分かるわ! 私にだって分かる。欅が死んで、いや違う、欅は殺された。この世には、欅を殺した犯人と、その殺しを見過ごした者とがのうのうと生きている。その紙はその理不尽を正すためのものだ。欅が死んでからまだ一年しか過ぎていないのに、みんな、まるで何事もなかったようにして生きている。生徒も、親も、先生も、この社会も」

「落ち着きなさい訪花。だから父さん達はそれを正そうと、こうして――」

「本当に、もう良いのですよ。玉置さん」

 欅の母親は物静かな口調で父の言葉を遮った。


「し、しかし」

「ありがとうございます。お気持ちだけ受け取らせて頂きます。私達のことを思って下さる皆さまが、このようにたくさんいると知れただけでもう十分です。私はそんな皆さまのお気持ちをとてもありがたく思っています」

「……吉野さん」

「いいんですよ、もう」

「それでも、それでもね――」

「玉置さん、教育委員会に訴えたところで、事件を認めさせることが出来たところであの子は生き返りはしないんです」

「……吉野さん」

「私の望みは一つなのです。私はあの子を返して欲しい。今のこの時を、あの子が生きていた時間まで戻して欲しい」

 欅の母親は、淡々と言葉を繋げて話したあと優しい眼差しで訪花を見た。


「ありがとう訪花ちゃん、欅の気持ちをくみ取ってくれて」

「おばさん、私……」 

「いいのよ訪花ちゃん。私もね、実はフッと欅の気配を感じることがあるのよ。ああ、そこにいるんだなってね。おかしいよね。もう死んじゃってるのにね」

「……おばさん」

「でもね、訪花ちゃん、仇を討つなんて言っちゃ駄目よ。思っても駄目。復讐なんて……。それはあなたのすべきことじゃない」

 

 欅の母親が溢す一筋の涙。その冷たい雫の中にあるのは悲しみだけでない。

 彼女の呪いの言葉が胸の中に木霊する。「復讐」それは、意図せず語られた本心。訪花は欅の母親から目が離せなくなっていた。訪花は感じ取っていた。無理に作られた笑顔の下に黒々としたものが潜んでいることを。

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