第18話 因果の帰結
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体躯は犬神の優に三倍はあった。
「何者だ」
鬼が新手を警戒して睨み付ける。黒犬は淡々と受けた後にフッと嗤った。
「これは私の獲物だ。邪魔は許さぬぞ」
刃物を振り上げ威嚇する鬼。黒犬は鬼の様子に構わずゆっくりと歩みを進めた。一歩、また一歩と進む足運びには地鳴りを響かせるような迫力があった。
「そ、それ以上は近づくな!」
鬼が声を上ずらせる。直後、狼狽えながら取りなすように言葉を続けた。「ま、待て! それではこうしようではないか、骨だけは残してやろう」
鬼は黒犬に交渉を持ちかけた。話の内容は獲物の部位の取り分けといったものだったが冗談ではない。ハルは喰われてやるつもりはないと逃げる算段をした。完全に黒犬に気を取られている鬼の隙をみて痛めた足首の状態を確認する。少し痛むが歯を食いしばれば走れそうだ。ハルは行動に移る。鬼に気取られぬようにゆっくりと少しずつ動く。静かに、細心の注意を払って足を横へ横へと滑らせていった。だが――。
「甘いわね、逃がしはしないわ」
ハルを横目で捉えた鬼が腕を振った。
「のわっ!」
直感のままに飛び退く。足下の地面に刃が突き刺さった。
「分かったわ、仕方ない。じゃあこうしましょう、半分ずつ、均等に分けたらいいのよね。それでいいわよね」
「ちょ、ちょっと待った! 半分って、半分ってどう分けるんだよ」
「うるさいわよ、雨! そんなことはどうでもいいのよ。手足を一本ずつでもなんでも――」
「あ、頭はどうすんだよ! 腹は? 心臓は? えっとその他諸々の一個しかないものはどうすんだよ!」
「ちっ! うるさいわね! じゃぁ、何もかもちょうど真っ二つに分ければいいじゃない。私はお前を食えたらそれでいいのよ」
どこか珍妙な話をしていると思うが、狙いどおり鬼はハルとの会話と迫る黒犬への対応に手を余している。このまま上手く鬼の気を逸らして隙を作りたい。ハルは情況を観察した。武器はまだ足下にあり鬼の両手には何もない。ならば得物は飛んでこない。鬼の目は黒犬を牽制している。ハルは黒犬の動きを確認した。黒犬は相変わらずゆっくりとこちらに向かってきていた。
――よし! 今だ!
鬼の注意がより多く黒犬に傾いたタイミングを見計らうと、ハルは逃げ道へ向かって飛び出した。
「残念でしたぁ」
素早く進路を塞いだ鬼が嬉しそうに目尻を下げる。
「早いっ! あの……さっきよりちょっと速くなってませんか?」
「もういいわ」
「え?」
「お前と話すのも面倒になっちゃった。それにあいつに気を遣うのもね。もうね、食べちゃったらいいのよ」
「はあ?」
「あいつより先に食べちゃえばいいって言ってるの」
言って鬼は腕を振り下ろす。目の前を鬼の爪が通り過ぎた。
「なんで逃げるのよ! 観念なさい」
鬼はハルを捕まえようと手を伸ばした。それを半歩下がって避けた。
横殴りにくれば身体を折って逃れる。縦にくれば身体をくねらせて躱す。両腕で捕まえにくれば屈んで転げた。鬼との攻防は何手も続く。ハルは間合いの中で必死に目を凝らした。一度でも見逃せばそれで終わりだった。
「ちょっと、いい加減になさい!」
「嫌です。無理です!」
捕まるわけにはいかない。捕まれば喰われてしまう、とは言うもののハルの体力も無尽蔵ではない。疲れが徐々に足の動きを鈍くさせ始めた。
「アハハハ! 面白いぞ小僧」
いつの間にか側まで近づいていた黒犬が笑った。
「やっぱり喋るのか! でも、もう驚かないもんね」
ハルは鬼から目を離さず凶手を掻い潜りながら得心を口に出した。
「お前、あの夜の小僧だな」
「ええっと、あの夜とか分からないんですけど、人違いじゃないですか?」
息を切らせながら応える。鬼の爪が髪を梳いた。
「おお、大した胆力だ。ここでまだ戯れるか。しかし、この俺の鼻はごまかせん。お前からは、あやつの、あの真神の匂いがする。それと先代の雨殿の匂いもな」
「また雨ですか……。おっと! 危ないっ」
鬼の爪が制服をかすめた。
「こいつ、ちょこまかと、ほんとうに嫌になっちゃう」
鬼が地団駄を踏んだ。
「そんなことより、どうしてくれんだよ!」
「はあ?」
「こんなに切り刻んでくれちゃってさ、こんなんじゃ、明日から何着て学校に行けばいいんだよ!」
「フン、何をバカなことを、お前はここで死ぬのよ、明日のことなんてもうどうでもいいじゃない」
「良くない! それにバカじゃない! だから逃げてんだろ!」
「アハハハハ! これは愉快だ。よく動けている。鬼を目の当たりにして萎縮するどころか、まるで遊ぶようではないか。人間にしては大したものだ」
黒犬が感心したように言った。
チラリと横目で見る。こいつは何なのだ。鬼と比べて段違いの力を感じさせる格上の者。何が目的なのだろうか。襲ってくる様子はないが味方とも思えない。どうやらこの黒犬は自分と真子のことを知っているようだが。
「あんた、何しにここに来たんだ? ――うわっと!」
黒犬に問いかけながら鬼の手を躱す。
「お前、随分と余裕を見せてはいるけど、もうそろそろ足にきているのじゃないかしら」
鬼が笑った。
「ま、まだ大丈夫です。まだいけます」
「そう、流石は雨ね。本当に食べるのが楽しみだわ」
「……雨、雨、雨、ってどいつもこいつも。言ってるでしょ、さっきから言ってるよね、聞いてる? ねえ、聞いてますか、僕は、雨なんかじゃないって! ――おわっ!」
「アハハハハ! であるな。その小僧は『雨殿』ではない」
「え?」
「はあ?」
思わぬ介入に、ハルと鬼とが動きを止めて同時に黒犬の方へと顔を向ける。
「どうした? 俺は何か可笑しなことでも言ったか?」
「あ、いえいえ。至極真っ当なご意見かと」
「……」
「小僧、お前は違う。お前は雨殿ではない。何故なら雨殿はここにおられるのだからな」
「はあ?」
ハルは黒犬を見て首を傾げた。すると黒犬の後ろから一人の少女がゆっくりと姿を現した。少女は黒犬の傍らに立ち氷のように冷たい視線をこちらに向けた。
黒い獣のその体色に負けないくらいの美しい黒。彼女の長い髪は、世界の全てを塗り尽くしてしまいそうな漆黒の闇を見せていた。――あの黒髪は!
「クロマロさん、お願いできますか?」
少女が黒犬に目配せをした。すぐに黒犬は笑みを返し行動に移る。
それは瞬間の出来事だった。ハルはその場で呆然として立ち尽くしてしまった。目の前にいた鬼が黒犬の咆哮を受けて消し飛んだ。
「良かったな、これで命拾いだ。我が主に感謝するのだな」
「あ、ああ、そうだね」
「どうした? 先ほどまでの威勢はどこにいった」
黒犬が笑う。
「あ、あんた、さっき僕のことをあの夜の小僧だと言ったよね」
「それがどうかしたのか?」
「それに、君は……」
少女を見る。視線を合わせた少女は僅かに首を傾けた。
「君が……。君が『雨様』なのか」
尋ねると、少女はもう一度首を傾げ呟くように言った。
「そんなことは知らない。それは、黒麻呂さんがそういっているだけ」
ハルは黒麻呂を見た。
「あの夜の……。い、いやそんなことよりもまずは君だ。助けてくれてありがとう。でも、雨って、それも犬神を従えて……。それに君は、あの時こちらを見ていた子だよね。君はいったい」
尋ねたいことが山のように思い浮かんで上手く言葉に出来なかった。
「私は
「たまき、ほうか……同級生」
呟くように名前を復唱すると訪花は頷いてみせた。
「あなたに、忠告しにきたの」
訪花は冷淡な視線を向けてきた。風圧のようなものを受けると同時に寒さを覚えた。敵意は感じられなかったが、彼女からは並々ならぬ決意のようなものが見て取れた。
「何を、ってちゃんと聞いていいかな?」
「あなたは、あの子が死んだあの場所でその死を悼んでいた」
「見ていたのか」
「誰もがあの子の自殺を忘れてしまっているのに、あなたはその死を忘れなかった」
「忘れるわけはないさ」
「なぜ?」
「何故って……。そうだね、妖を傍らに置く君になら、話しても信じてもらえそうだ。だから話すよ。僕は、彼女が死んだところを間近で見ていたんだ。彼女は自殺したんじゃない。彼女は殺された。唯一僕だけが殺人を知っている人間なんだ」
「そう」
「そうって、人が一人死んでいるんだよ。罪もない人が命を落としたんだよ」
君は何も感じないのかと問いかけた。しかし彼女は答えなかった。それどころか氷の瞳に影を宿し薄い笑みを浮かべた。
「やっぱり、黒麻呂さんの言ったとおりだった。でも、だからといって彼が邪魔になるとは思えないのだけれど」
「邪魔? 僕が、邪魔って……」
殺人事件の話をサラリと受け流す訪花。彼女は、知っていると言わぬばかりに冷笑を浮かべていた。邪魔をするなという言葉と態度を見て感じ取る。それはまるで……。
「ちょ、ちょっと待って! もしかして、君なのか! あの『呪いの事件』は君がやっていることなのか!」
彼女は、目を伏せたまま沈黙を返した。
「分かっているのか! それ、人殺しっていうんだぞ! 人を、それも二人も殺して君は平気なのか!」
「……わたしは、殺してなんかいない」
彼女はこともなげに言ってのけた。
「た、確かに、その手では殺していないのだろう、けど、呪い殺すのだって結局は同じ事だ。変わらない。それを人殺しっていうんだ。君は――」
「私は殺してなんかいない。あいつらが、自分で勝手に死んでいるだけ」
「それを詭弁っていうんだよ!」
「あなたは、あいつらに罪はないって言った。でも本当にそうなのかしら? それではあいつらは何で死んだのかしら?」
「はあ? 何を――」
「教えてあげるわ。あいつらは、自分の罪に殺されているのよ。自分の罪に呪われているだけ。償っているだけ。それって当たり前のことじゃない? だからこれは、因果の帰結にすぎない」
「君は何を言って……」
「まだ、半分なの」
「半分?」
「あなたは他の人たちとは違う。だから忠告しにきたの。邪魔はしないで」
少女は、そっと黒犬に手を添えた。
「小僧、今のは貸しだ。我が主の宿願を妨げるなら命で払ってもらう。それから、これは俺からのサービスだがな。もののついでに言っておいてやる。あの真神には気をつけろ」
闇に溶けるようにして消える黒犬と少女を呆然と見送る。辺りは静まりかえっていた。
「この呪いの事件は終わらない。残りはあと二人……」
絶対に阻止しなければならない。ハルは夕闇の中で拳を握った。
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