第9話 鬼面の少女
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暗闇の中にぼんやりと輪郭だけを見せる建物。勝手知ったる空間は異様を醸し出す不気味な世界に変貌していた。ハルは夜目を頼りに闇の迷宮と化した校内を進んだ。
震える手に持つ武器を見る。道すがら野球部の部室に立ち寄り金属バットを拝借していた。手ぶらで突っ込んでいくより少しはマシだろうと考えたが、果たしてこんな金属の棒がなんの担保になるのかと思えば心細い。
『……少しでも思い当たるなら、やめておく方が良い』
茜の台詞が何度も頭の中を巡る。
グラウンドの入り口に着くとハルは付近の物陰にそっと背中を預けた。
すぐにでも逃げ出したい気持ちをグッと堪える。頭の中を整理する。闇雲に飛び出すほど馬鹿じゃない。プランを持たずに挑むのはただの玉砕だ。
「先ずは、助けるべき者を確認すること。次に子供と相手の位置を確認すること。それと、相手の数も確認しなくてはいけないな……。とにかく、最初から全力でいって、助けて、逃げるんだ」
独り言のようにブツブツと話してから静かにゆっくりと深呼吸する。やるべき事を脳裏に刻み心の立ち位置を定めた。
建物の陰から半分だけ顔を出して様子を探る。薄らと明るさがあるグラウンドを一気に見渡す。
――子供はどこだ……どこにいる。……いた!
現場は直ぐに目についた。現在地から見て左側、校舎に沿って広がるグラウンドの端の方に数個の黒い影が見えた。
「あれが相手か……。獣のようだけど、あれは何だ?」
横たえる子供の側に力強く地を踏む四足を見る。獰猛を思わせる黒い影が子供とじゃれるように動いていた。目標地点まではまだ距離があったが妖怪を目にした途端にハルの心は萎縮する。それでも歯を食いしばった。
「た、すけて……」
耳が救いを求める声を拾った。子供が跳ね飛ばされる様子を目の当たりにすると反射的に肩がビクリと動いた。ハルは動悸が止まらぬ胸を強く押さえ息を飲み、汗掻く右手にあるグリップの感触を慎重に確かめた。――焦るな。
気配を殺しゆっくりと近づきながら観察し、相手にする獣の数を数えた。
「一、二、三……相手は三頭か」
そっと黒い影に迫る。目を細め凝視して確認する。闇に浮かぶ黒い影の正体は……妖怪、というよりも普通の犬のように見えた。
「待ってろよ、今、助けてやるからな!」
相手を犬とみて俄然とやる気になった。ここまできて、やはりただの犬でしたというオチを期待するべきではない。それでも、視覚で捉えている獣がハルには化け物に見えない。これなら何とかなるかも知れない。ハルは両手でバットを握った。犬の背中まで五十メートル程の距離に近づきフンと鼻を鳴らす。勢いよくスタートを切り敵の背後から飛び込んでいった。
「お前ら、こんな小さい子に何してんだ!」
大きな声を出しバットを振り回す。急いで駆け寄り華奢な子供を腕に掬い上げ素早く怪我の具合を確認する。あまりにも痛々しい様子に言葉を失った。息も絶え絶えの子供は無残な姿を晒していた。血混じりの泥で汚れた白のワンピース、血が滲む生地の裂け目からは裂傷が見て取れた。体中にある無数の傷は噛まれた跡だろう、衣服から露出した手足には幾つもの歯牙の型から血が流れ出ていた。
「おい、大丈夫か!」
睨みで犬を牽制しながら子供に声を掛けた。犬達は警戒するようにハルらを取り囲むが動かなかった。ただちに腕の中にある子供の状態を覗う。肌伝いにかすかな呼吸を感じ取るが意識があるかどうかまでは分からなかった。
「おい、しっかりしろ!」
敵から目を切らずにもう一度声を掛けた。
「あ……あ、う、うう……」
子供が僅かに細い息を吐いた。掠れた声を確かに聞き取って少しホッとした。
「気が付いたか! もう大丈夫だからね」
安心させようと声を掛け、しっかりとその身体を抱えた。
「あ……あ、めだま……」
子供がうわごとのように何かを呟いた。安堵の様子を見せるが声は弱々しいままで、ろれつは回っていない。持ち上げた手の中に淡く光る玉が見えた。
「――様……、良かった。や、やはり、おいででいらしたのですね……」
朦朧としながらハルを見つめる子供。
「無理にしゃべらなくていいから。とにかく直ぐにここから逃げよう」
すかさず周囲を見渡す。現在地はグラウンドの端の方、対峙する獣は三頭。
見た目はどこにでもいるような大型犬だった。灰がかった黒色の体毛は短く筋肉質な体躯をみせるが猟犬として飼われている犬種を思い浮かべればありふれた感じが否めなかった。
――さて、これからどうする……。
生臭い息を吐く黒い犬が首を上下に揺らしながらにじり寄ってくる。闇夜の中に鈍く光る双眸は飢える肉食獣を想起させた。低い唸り声。犬から威圧を受け取ったハルは背中に悪寒を走らせる。
緊迫する空気、辺りに充満する獣臭。その臭気が風とともに動いた瞬間、黒い影の一つが正面から飛びかかってきた。反射的に犬を薙ぎ払う。が、手にした金属バットは虚しく空を切る。確かに相手を捉えたと思ったのだが犬の動きは軽々とハルの想像の範疇を飛び越えてしまう。
戸惑う間にハルは犬に後ろを取られた。――しまった! 逃げ道が、と声を出したのも束の間のことだった。今度は左右にいたはずの二頭が消えた。焦る目が探すが犬は見えない。――と、不意に手にする金属バットが宙に持って行かれた。バットごと身体を引っ張られ体勢を崩す。直後、踏ん張るハルの脇腹めがけてもう一頭の頭が突進してきた。
犬の頭部を受け止めた瞬間、肋骨が嫌な音を鳴らした。
頭突きの衝撃に呼吸を失う。子供を置き去りにしてはじき飛ばされた身体が横倒しのまま宙を彷徨った。
地面に打ち付けられた衝撃で目が眩む。意識が朦朧とした。
伏せるがまま地面に着いていた耳が軽い調子の足音と震動を捉えた。更なる追い打ちを感じ取ったハルは飛んでしまいそうになっていた意識を強引に引き戻した。痛む身体を引きずるようにして歩み寄り無事を確かめて子供に声を掛ける。
「安心しろとまでは言えないけど、それでも大丈夫だから。きっと助けてやるから」
話すと子供が虚ろな目をしたまま微笑んだ。
――なんとか、ここから逃れる手立てはないのか……。
ハルは子供を抱いたまま片膝をつき立ち上がった。
闇の中、右手の方には校舎が見えていた。校舎の所々には点々と避難口誘導の緑が光っていた。窮地から脱する術を思い巡らすとき、安全を示すその緑の
「これも深入りってことになるのか……」
今更ながらに思う。相手が普通の犬であったならばと。
ここに来たことに後悔はないが、為す術もなく殺されそうになっている状態には呆れるばかり。ハルは手詰まりを感じながら敵を睨み付けた。
この子供だけは絶対に助けなければならない、こんなところで無駄死にしてたまるものかと思うが、じりじりとグラウンドの奥まで押し込まれていく。気付けば野球のバックネットを背にしていた。
囲まれてしまえば終わりだ。挑んでいかねば活路はない。ネット際まで下がり子供を横たえさせたハルは、きっと助けるからと話して子供の髪を撫でた。
覚悟を決める「来いよ! やるんだろ!」ハルが叫ぶのと同時に犬達が飛びかかってきた。
正面の犬が並ではない跳躍を見せたかと思うと上空から牙を降らせて来た。その犬を待ち構えて迎え撃った。だが再び金属バットは空を切った。
「くそっ! なんで体をすり抜けるんだよ!」
どうすればいいのか、吐き出した声が空しく響く。万事休す。焦るばかりで手立てなど思い浮かばない。そうしているうちに横手から一頭が飛び込んできた。反射的に手を出したが今度もバットは当たらなかった。ハルは泳ぐように体勢を崩した。
「くそっ! どうすんだよこれ」
バットを飛び越えた黒い犬が向こうで反転を見せると、別の一頭が背後から突っ込んできてハルを突き飛ばした。
グラウンドを転げるようにして飛ばされたハルは遂にバットを手放してしまう。
その後は犬のなすがままにいたぶられることになった。起きれば倒され、倒れても遊び足りぬと言わぬばかりに起こされる。力を失った拳を振り回したとて、そのような攻撃が当たるはずもない。無様を見せるハルを犬達が笑っていた。嘲笑が聞こえてくるようであった。
ついにハルの心が折れた。グラウンドに伏せたまま子供に手を伸ばしていたハルの身体が犬の鼻先によって仰向けにひっくり返された。残りの二頭もひしひしと近づいてきているようだった。――これで終わりか。
「本当に、ごめんね……」
また助けられなかったと自分の不甲斐なさを嗤う。ハルは近づいてきた犬の大きな口をぼんやりと見た。喉を食い破ろうとしているのだと分かった。程なくして顔に生暖かい息がかかる。
詰みを悟り死を受け入れた。これでようやく、家族の元にいけるのか。家族の笑顔を思い浮かべると自然に涙が溢れて耳の方へと伝い落ちていった。
ところが、これで終わりと覚悟をして目を閉じたその時に異変が起こる。ハルは閉じた瞼に光を感じた。直後、耳が轟きを捉えた。
なんだ? と思ったが力を使い果たしていた身体は動かない。何かが起こったということは分かるのだが意識も揺らいでいて思考が追いついていかなかった。どうやら命拾いはしたようであるが。
「だから言ったのに……」
なんとか声のする方へと顔を向ける。溜め息交じりに話すその声にはどこか聞き覚えがあった。
――炎? ……いや、違う。あれは、髪、なのか?
巫女装束を纏った少女が一人、ハルらを背に庇うようにして立っていた。
「さて、とっとと片付けるか」
さらりと言ってのけると、巫女は真横に伸ばした右腕の先で何かを扇状に広げた。戦意を発した巫女は何事か唱えるようにして言葉を発した後、手の内に広げたものを宙へと放った。途端に閃光が走り、轟音が響く。巫女が生じさせた
ハルは全身に感じる激しい痛みと疼きの中で、朧気に巫女の仕業を見ていた。
どうやらこれで子供は助かった。本当に良かった、と唇を動かす。安息を得ると意識がしぼむように薄れていった。深い水の底に沈んでいくようなその感覚の中でハルは巫女の言葉を聞く。
「ハルちゃん、これでもう分かっただろ。嵌められたんだぞ。――おまえはあいつに殺されそうになったんだぞ」
――嵌められた? ハル、ちゃん?
白い小袖に朱い袴、歌舞伎の連獅子を思わせる赤い髪のようなもの……。少女の愁いに満ちた面影は、少女が被っている鬼面が見せているものだった。ゆっくりと持ち上げられていく鬼面の下に徐に見えてくる白い肌と桃色の唇。姿は違えどその気配には覚えがあるような気がする。
――君、は、誰?
ハルの意識は、そこで完全に落ちた。
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