3章 雨の陰陽師
第10話 真神の真子
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酷くうなされている。
リアルと見紛うばかりの夢。目にする光景は鮮明であり肌に感じる感覚は現実そのものであった。
『お父さん! お母さん! マコちゃん!』
ハルは手を伸ばし叫んでいた。それは一瞬と言ってもいいくらいの短い時間だった。妹の
あの時、炎の中に飛び込んでしまっていれば死んでいただろう。
――助けられなかった。自分だけが助かってしまった。何故、誰もこの罪を
心に深く刻まれた罪悪感。幼かった自分に出来る事は無かった。分かっている。頭では理解している。それでも……。
『いっそのこと、僕を殺してくれよ。誰でも良いから僕を殺してくれよ。その方が、淋しいよりはずっとマシなんだよ。淋しいのは、もう嫌なんだ……』
悲しみに埋め尽くされた心。地面を激しく殴りつけていた拳が血と土に塗れる。痛みは感じない。痛覚は既に心ごと麻痺していた。
やがて炎の前で泣き崩れる子供の周囲から一人、また一人と人が消え、物が消え、景色が消えていく。その後、炎も消えると身体を闇が包み込む。そうしてハルは死人のように夢から覚める。
これは繰り返し見てきた悪夢――今朝も同様のはずだった。
いつものように闇に溶かされて消えゆくハルの手に誰かの手がそっと触れた。
ハッとして左右を見回すが暗闇の中で姿は見えなかった。
誰かは分からない。それでもその手は確かな温もりをハルの手に伝えていた。
『……アメ、サマ、お可哀想に。でも、私が、今は私がお側におりまする。どうかお心を穏やかになさりませ』
戸惑うハルに向けて暗闇の中から声が届く。
「……誰かいるの?」
『はい、ここに。私は今、あなた様のお側におります』
声の主を探してみるが何も見えなかった。ただ、傍らにふわりと温もりがあった。声には聞き覚えがあった。
「……君は」
『はい。私は、昨夜あなた様にお助け頂いた者にござりまする』
助けたと聞いて昨夜の出来事を思い出した。
悲鳴を聞き、子供を助けようとして助けられず、助けられた。
「待って、違うよ。僕は助けてない」
『いいえ、あなた様は私の声に応え、私を救うために駆けつけて下さいました。彼の場所は約束の地。然らば、あなた様に相違はございますまい。私は、そう信じております』
「あ、いや、違うんだよ。君は何か勘違いをしてる。僕は――」
違うと伝えようとしたところで光に包まれる。
「……ここは自分の部屋か」
悪夢を見る前の出来事はしっかり記憶しているが、巫女に救われた後のことは気絶してしまったので分からない。と、そこでハッとした。ハルは身体の所々を確かめた。あちこちに痛みはある、傷もそこかしこにあったが身体はほぼ無事と言っても良いほどに回復していた。しかも着替えて、手当をされて……。こうして自分の部屋に戻っている。誰に運ばれてきたのか、巫女かもしくは他の誰かか。
「これはどういうことだ……」
自分の布団に寝かされていたハルは半身を起こしてもう一度体中を触った。
――ん? その動きの中で手が妙な感触を捉える。
ふわりとしていて柔らかかった。直ぐは羽毛を思い浮かべたが感触がどうも違う。ならば何だと考えると毛皮という表現が一番適しているように思えた。
「ぬいぐるみ、じゃないな。これ、温かくて……」
ぼんやりと天井を見上げながらその毛皮を弄った。
「……ん、あ、ああ」
毛皮が吐息をはいた。
「え? ええええええ!」
聞き慣れない声に慌てて布団をまくり上げる。
驚いた。布団の中に青い毛並みの子犬が横たえていた。
「お目覚めでございますか。良かった、すっかりと回復されましたようで、ようございました」
子犬がゆっくりと瞳を開け人の言葉を話す。
「……犬が喋った」
「ふふ、犬ではございません。私は狼でございます」
「狼?」
「はい、狼でございます」
喋る犬と夢の中の声は同じだった。微笑む子犬は全て承知している様子だった。
「あの子供は、この子犬だったのか……」
「アメサマ、私は犬ではございません。狼でございます」
子供の狼が拗ねるように話す。
「分かったよ。君は狼なんだね」
「左様でございます」
「それと、黒い犬のような化け物に襲われていたあの子供も君ってことで良いのかな?」
「はい、左様で。昨夜は危ういところをお助け頂きありがとうございました」
子供の狼が恭しく頭を垂れた。
「あ、いや、それは……」
自分ではないと言いかけて口が淀んだ。嘘をつくことに居心地の悪さを感じたが、自分の
「アメサマ?」
「え?」
声がハルの意識を引き戻す。昨夜の子供が似たような音を発していたことを思い出した。確か「アメ玉」とかなんとか……。
「どうかなさいましたか、アメサマ」
また、おかしな呼び方をされた。ハルは首を傾げる。「アメサマ」とはいったい何のことなのだろう。
「……あの」
「はい」
「君は? いったい何者……ええっと」
安易に名を尋ねようとして口をつぐむ。仙里との出会いを思い出して戸惑ってしまった。
「私の名は
ハルの躊躇に構うことなく子供の狼は自分のペースで話を進める。
「……まこ、おおくちのまがみ?」
「はい、
「マコ……あ、ああ……真子ね」
「何か?」
「あ、いやいや、ごめんよ。なんでもない。それより君は、その、真子さん? 真子ちゃん? 真子様? その……なんて呼んだら良いのかな?」
「ん?」
「あ、いや、妖怪ってさ、みんな敬称にうるさいのかな? って思ってさ」
「私は、妖怪ではありませんよ」
「はて? 妖怪ではない?」
「はい、私は妖怪ではありません。私はこれでも神格の者に連なっております」
「しんかく?」
「神格といっても、正式に神というわけでもございません。一応、神ではありますけれど……いうなれば氏神クラスといったところでしょうか」
「そうか、君は神様なのか」
「ふふふ、然程のことでもございません。それよりもアメサマ、私にも、あなた様のお名前を頂戴出来ませぬでしょうか」
「頂戴? って、僕の名前を教えて欲しいってこと?」
真子は黙って頷いた。その後、小声で何事かを呟いた。
「え、なに?」
不思議に思って尋ねるが真子は微笑みを返すだけで応えなかった。
「そんな大袈裟な。名前は何って普通に聞いてくれれば良いのに。なんだか君も変わってるね。言葉使いもそうだけど、その振る舞いにしたって古風というか何というか。妖怪ってみんなそうなのかい? あ、違った。君は神様だったね」
「……」
「僕はね、僕の名前は、蒼樹ハ――」
「あははははははは!」
突如湧き出た声が瞬く間にハルの平穏を破る。一瞬にして部屋の空気が緊迫した。
それはハルが名前を言い終える直前のこと、その鋭利を伴った笑い声は最後の一音を遮るようなタイミングで落ちてきた。
「何者だ!」
小さな体が跳ねるようにして部屋の入り口に向く。真子は毛を逆立てて襖の向こう側を睨んだ。
「まったく、この
声と同時に
「仙里さま? 何でここに?」
急な展開に考えが追いつかない。横を見ると仙里に向かって敵意むき出しの真子が唸り声を上げながら威嚇していた。
「お前、
仙里は呆れ顔で言った。
「……意味」
「そうだ、意味だ。あれ程覚悟を説いたのにもかかわらず、今またこうして馬鹿面を見せて名を告げ
仙里が嫌悪を顔に浮かべ吐き捨てる。
「ちぎり?」
「そうだ、契りだ。人で言うならば、一生添い遂げるなどと妄言を吐きながらまぐわうといったところか」
「まぐわう?」
「……お前、本当に何も知らぬ馬鹿だな」
仙里は、言葉が通じ無い様に苛立ちをみせ頭を掻いた。
「あなたは……」
真子が目を細めながら状況を見ていた。真子の視線に気づいた仙里がニヤと笑って彼女を見下げる。
「解せませんね。何故このようなところに? しかも真神ともあろうお方が人間の
「……」
「ん? どうなされました。下卑た様を見られ恥じ入っておられるのですか?」
仙里が挑発する。意を受け真子がキッと睨み返した。
「あなたはアメサマの……従僕? あ! あなた、昨夜あの場所におりましたね」
「さて、知りませんがね」
「惚けないで下さい。気付かれなかったとでもお思いですか!」
真子が詰め寄るように問いただすが、仙里は素っ気なく鼻を鳴らすだけで応じなかった。
「しらを切っても無駄です。しかし解せません。何故に加勢しなかったのです。従僕ならば主を助けるが筋。あなたは何故にアメサマをお助け致さなかったのですか!」
「助ける? 何のことだ? それに私が誰の従僕であると? おい犬ころ、世迷い言もいい加減にしろ」
「盟約を結んでいるではないですか!」
「従僕? 盟約? 知らぬな。子供が、笑わせてくれる」
仙里は居直るようにして横を向いた。
「この私に、あなたとアメサマの
「陳腐な
「何を! 私とて本来の力を出すことが出来ればあのような雑物など――」
「フン! 本来、か。まぁ良い、私には嘘も真もお前の事情もどうでも良いことだ」
「くっ」
見下されたその上に突き放された真子は歯がみして仙里を睨んだ。
「私にも都合というものがある。言っておくぞ、邪魔をするな。そいつと名を交わし、契ろうなどと考えるな」
「それは出来ませぬ。これは私の使命。私はアメサ――」
「アメなどおらぬよ」
「な!」
「伝承は作り話に過ぎぬ。しかも人間が作り出した話だ。お前も神格を名乗るのなら分かるだろう。人は平気で偽り事を語る。それにだ、そこにおる馬鹿はただの人間だ。昨夜のことも、お前の呼びかけに応えてのことではない。偶然である。縁もゆかりもない」
「……」
「そう悔しがるな。良かったではないか。お前も私のおかげで助かったのではないのか。危うくのところで過ちを犯すところだったのだぞ。使命があるといったが、ならば、逸ったが故にうっかり盆暗と契ってしまったとなれば洒落にもなるまい」
「……」
「分かったなら私の邪魔をするな。おお、そうだ。この際だ、せっかくだから私がこの馬鹿の名を教えてやろう。こいつの名は蒼樹ハルという。こいつはどこにでもいる人間のガキだ」
「……蒼樹、ハル、さま」
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