第7話 朱髪の少女
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次の日の昼休み。
抜けるように空は青かった。
校舎の裏手にあるこの緑の広場はお気に入りの場所だった。周囲にはちらほらと園芸部の生徒や文庫本を手にする生徒の姿が見えたが騒がしさはない。ハルは木漏れ日の下で清涼感のある空気を深く胸に吸い込んだ。
平然と日常を取り戻した学校。ハルは木々に囲まれたベンチに横たわり冷えた気持ちで空を眺めた。ポツリと自分のみが蚊帳の外に置かれている気分だった。
溜め息交じりに蛇に噛まれた腕を見る。牙による傷跡はもう見えなくなっていた。
藁人形と蛇の女の子が関わる殺人事件。聞き込みは捗らず思考は彷徨う。途方に暮れたあげくに事情を知っている仙里を探すが見つけられず、成果は上げられなかった。ハルは結局、袋小路に突き当たってしまう。
不意にそよ風が頬を撫でた。
――ん? ハルは異変に気付いた。
気が付くと見知らぬ女子が間近にいた。
まるで幽霊のように唐突に湧いて出たことを不思議に思うが、それよりも……。
頬が熱くなる。
スカートのプリーツが頭上で風に吹かれユルユルとそよいでいた。
それは甘い誘いだった。目の前にある厄介事のことを考えれば、今はこのようなことに構っている場合ではない。ハルは自制心を働かせようとした。しかし、男の子の衝動が理性を大きく振り切ってしまう。鼓動が大きくなった。
気取られぬように素早く左右に眼球を動かす。透き通るような白い足が見えた。――もう少し。
葛藤する心を焦らすように弄ぶそよ風。その風が顔の真上を通りぬけ前髪を揺らすと、紺色がそれまでより大きく揺れた。――あああ。
「はあ!?」
思わず声が出てしまったことに慌てて手で口を塞いだ。
スカートの中に見えたのは体操服だった。
なんて始末の悪い結末なのだろうか……。
「なんだよ、そんな悲しそうな。まるで生き仏になり損ねた僧正が断末魔に悔やんでそのまま乾いてミイラになってしまったような顔をしているじゃないか」
「どんな顔だ!」
訳の分からぬ御託を受け反射的に言葉を返す。だが自分の顔を見下げる女生徒の、見透すような目を見れば顔から火が吹き出した。ハルの心は後悔に塗れてしまった。
「まぁな、男の子だから仕方ないとしても、今の覗き方は完全にアウトだぞ」
「……あ、いや、これは」
掠れた声を出しながら純心は瓦解していったのだが……そこでハルは首を傾げた。既視感を覚えていた。これはまた何かおかしな事が起きている。
身体を起こし少女の立ち姿を見た途端に目が霞んだ。見ている景色の輪郭がぼやけるように二重になって再び一つに戻る。ザワザワと心が騒いだ。この感覚は、あの時、灰色の景色に色が戻った時の感覚に似ている。
見たところ周囲に異常はないようだ。この子にも怯えたり追われたりしている様子はない。
……なんだ? と思って慎重に辺りを見回す。右から左、左から右へと視線を移す過程で異変を見つけた。「え? なに」と目の前にいる女生徒の髪を二度見する。女生徒の髪色が夕焼け空のような朱色をしていた。
「君の、その髪は」
「髪?」
ああ、といって少女は肩で切り揃えられた髪をクルリと回すように摘まんだ。
「その髪色って、校則は大丈夫なの?」
「もちろん、何の問題もない。これは地毛だから」
「地毛って、そんな赤いのに?」
「赤い? 赤いって何が?」
少女が可愛らしい笑顔を向けてくる。しゃあしゃあと惚ける様子にツッコミをいれようとすると、彼女の髪の色が毛先から栗毛色に変わっていった。
「なんだよ、そんなにジロジロと、ちょっと明るいだけだろ」
何をそんなに、と首を傾げる少女。ハルは目をしばたたく。確かに今は少し赤みのある茶色であるが……どうもおかしい。受ける日差しの加減か? と思って空を見上げ、再び少女の髪を見る。やはりおかしい。
「お前、昼休みはいつもここで一人だよね。なんで?」
ハルは答えに窮した。ここで家族がいないことや自炊が面倒だからという理由を押し並べても仕方がない。卑屈に見られるのも嫌だし、同情にも飽きていた。
「べつに理由なんかないよ。そんなことより君は何なの? 君こそなんで」
「私は隣のクラスの
「あ、ああ」
彼女の無邪気な笑顔に押し流されるまま曖昧に応じてしまう。
「ところで、きぬがわ、さん?」
何か用事でも、と聞き返そうとすると、
「茜でいいよ」
「茜、ちゃん、さん、様、殿?」
「何言ってんの?」
「あ、ああ、最近、ちょっと敬称に煩いに人に出会ったもので……」
答えながら作る笑顔が強ばる。どうやら仙里との出会いの場面を引き摺っているようだ。
ふーん……、といって茜は意味深に目を細めた。
その見透かすような眼をどう受け止めれば良いのか。問い詰められている気がして困惑する。ハルは仙里との邂逅を思い出し茜へ視線を戻した。鋭い目つき、瞳の奥に強い意気のようなものを感じて思った。彼女も普通ではないのかもしれないと。
昼休みにわざわざ訪ねてくる女子に心当たりはない。自分は有名人でも人気者でもない。ならば、こうして尋ねてくるのは何らかの意図があってのことではないのか。――もしかすると事件に関することかもしれない。ハルは藁をも掴む想いで事件のことを尋ねようとした。もちろん、この怪しい雰囲気の女子に妖怪の存在を匂わせながら。
思い立つと直ぐにハルは身を乗り出した。ところが、あの、と話し出した矢先に口ごもってしまう。俄に鳥肌が立った。
「……なんだ!?」
唐突に感じ取った気配。どこかにハルらを見ている存在がいる。
どこから見られているのかも、いつから見られていたのかも分からないが、はっきりと感じた。いま、確かに視線を感じた。
ハルは探す。まずは体育館の方を見た。次に渡り廊下の先に見える運動場を見て最後に校舎の窓へ目を向ける。その刺すような感情の出所をくまなく探した。――どこだ!
「何だ? どうしたんだ、急に」
茜もハルにつられて周囲を見回した。
「居た!」
校舎二階の窓辺に、去りゆく後ろ姿を見つけた。
「居たって、誰が? どこに? 誰も居ないぞ」
茜は首をかしげた。彼女にはどうやら見えなかったようである。だけれどハルの目は確かに校舎二階の窓からこちらを見ていた人影を見つけていた。
黒の長髪、背は高い方だ。女生徒であるがその顔に覚えはない。あれは誰だ?
「何か見えたのか?」
茜が尋ねた。彼女の顔に緩みはなかった。
「あ、いや、あの二階の窓からこちらを見ていた女の子がいたんだ」
「へぇ、お前、意外とモテるんだ」
茜が茶化すようにいった。校舎の窓辺には先程のような険しい気配はなかった。緊迫した空気が緩むと肩から力が抜けた。
「茜ちゃんは僕に何の用事があってここに?」
気を取り直して訊ねると茜がニッと微笑む。続けて大したことでもないんだけどね、と答えは素っ気なかった。
「もしかすると、あの呪いの事件のことじゃないの?」
「呪いの事件? 何それ?」
「聞いてないの? 少し前までは、けっこう騒がれていたんだけど」
「噂とか、あんまり興味ないからなぁ」
茜の関心がないという態度に嘘は見えなかった。少しでも手掛かりが得られるのではという期待は直ぐさま霧散してしまう。
「そう、じゃ、なんでここに?」
「そうだな、まあ強いて言えば、蒼樹ハル、お前に忠告しに来た」
「忠告?」
またか、と思った。
「あまり深入りしない方が良い」
「深入り? それはどういうこと?」
「直ぐに思い当たる節がないならそれでいい。でも、少しでも思い当たるならやめておく方が良い」
鬼怒川茜との会話はそれで終わる。いきなり目の前に現れ、自分の言いたいことだけを伝えて彼女は立ち去った。
呪いの事件について知らないと答えた茜。訳の分からない忠告を行うためにわざわざ足を運んできた彼女は何者で何を見ているのか。呪いの事件の上に更に重ねられた難問を抱えてハルは唸る。謎が深まった昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
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