コカンのコビン
コンココンッ、独特のリズムが響いて、看護師の佐々木美幸がスタッフルームに入ってきた。が、小動物めいた顔をめいいっぱい不機嫌に歪ませたまま、ただ矢吹の方を睨んで一言も発さない。
「どうした?お前すごい顔してるぞ」
「しっっつれーな!ヤブ先生はコロナ対策本部長のくせして昨日はずいぶんと濃厚接触されていたそうじゃないですか。不潔なので近寄らないでいただけます?」
自分から部屋に入ってきてこの言いぐさである。だが恐るべきは地方都市。人の目はどこにでもあるもので、歯科医師の常井舞子と昨晩飲みに行ったことはすでに知れ渡っているらしい。
「なんだそれ。濃厚接触なんてしてない」
矢吹は自信満々に答えた。なにせ矢吹は32年間誰とも濃厚接触をしてこなかった男である。矢吹があまりに堂々と答えるので、佐々木は少しだけ表情を緩めた。
「それで何の用だよ?」
「あ、救急車来ます。50歳男性、乗用車の単独事故ですね。バイタル安定ですけど車は大破。あと5分できまーす」
「それを早く言え!」
矢吹は大慌てで初療室へと向かった。
※※※※※※※※※※
ストレッチャーからはみ出そうなほど大きな体の男だった。
「こんにちは。ここがどこだか分かります?」
「うーん、えーっと」
「ここがどんなところか分かります??学校?市役所?」
「あー、あっ。病院」
男は矢吹の問いに一応正解したが、どこかぼんやりしている。脳出血か。いずれにせよ重症だ。病院のベッドに移動させ、服を全て脱がせた。わずかな見逃しすら命取りだ。
背中一面に入れ墨。左の小指がない。明らかにその筋の人間。そして陰毛に。黒いガムテープが貼ってあった。
慌ただしく進む診療の時が止まった。矢吹と佐々木と救急隊と。お互い顔を見合わせる。
「ああこれ」
ボンヤリしていたはずの男が、急に手を伸ばしブチチと陰毛ごとテープをむしり取る。痛くはないのか。テープには小瓶が張り付いていた。透明な容器に、黄色がかった透明な液体。
「これは・・・何ですか?」
「これ?糖尿病の薬」
「糖尿病でしたっけ?」
「違うよ」
「え?じゃあなんで薬を?」
「薬ってかお守り?糖尿病の人に貰った」
腑に落ちないが、やることは盛りだくさんだ。小瓶は無視してペースを上げる。超音波検査、レントゲン、点滴、採血、心電図、CTスキャン・・・
男は案外軽症だった。車は走行不能なほど大破したらしいが、男の体は分厚い筋肉に守られて骨一つ折れていなかった。しかし少し目を離すとすぐに寝入ってしまう。
脳出血もないのに、この意識状態はおかしい。酒か薬かに酔って、事故を起こしたに違いない。
「さっきから目を離したらすぐ寝ちゃいますけど、お酒とか飲んだりしてません?」
「ん?飲んでないよ」
「じゃあアルコールの検査していいですか?」
「んー、いいよ」
あっさりと快諾。飲酒ではないらしい。近づくと、確かに酒臭さを感じない。だがうっすらと、大麻特有の匂いがする。
「それと一緒に薬物の尿検査もしていいですか?」
「んー、どうぞ。でも今すぐにはションベンでないかな」
予想に反してこちらも快諾。だがついさっき撮影したCTでは膀胱はパンパンだったはずだ。
「事故のショックで出ずらくなっているなっているのかもしれませんね。お腹苦しいでしょうから管いれて出しましょうか?」
「えー、それは嫌だなぁ。トイレ行かせてよ。そしたら出そう」
断る理由もないのでトイレに行かせると、男は尿カップをもってすぐに出てきた。
「ほい、ちょっとだけ出たぞ」
本当に少量だ。だが薬物検査には十分。しかし予想に反しても薬物検査も陰性であった。どうやら大麻の匂いは勘違いだったらしい。
「今はだいぶよくなりましたけど、運ばれてきた直後はぼんやりとしていたので脳震盪かもしれません。一晩入院して様子をみましょう」
「えー、先生勘弁してよ。どこも折れてないんだろ?疲れたから帰るわ。交通事故って入院費高いって聞くしさ。それより先生、検査の結果警察の人に説明してくんない?俺素人だからうまく説明できないからよ」
どこまでも怪しい男。だが何一つ証拠はない。警察の事情聴取を受けた後、男は帰っていった。
※※※※※※※※※※
「さっきの患者さん変な人でしたねー。明らかにヤクザだし、あの小瓶なんだったんですかね?覚せい剤とか?」
いつの間にか不機嫌から回復した佐々木が矢吹に話しかけてきた。
「いやでも薬物検査は陰性だったぞ」
「そうでしたねー」
「糖尿病の薬とかいってたけどインスリンはあんな黄色っぽくないし・・・黄色?」
くそっ。やられた。
男が渡してきた尿。本当に少量だった。ちょうど、あの小瓶の中の液体くらいに・・・
コロナファイター!奴隷医矢吹。 @inaeshimuro
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