童貞医、送り狼す
藤堂教授はなぜ偽の検体を提出してまでPCRを誤魔化したのだろう。昨日行った救急科医全員のPCRの結果は陰性だった。だが藤堂教授だけは分からない。これを藤堂教授に問い詰めるべきだろうか。矢吹が悶々と考え込んでいると、看護師の佐々木美幸が声をかけてきた。
「矢吹先生。さっき帰した女の人お会計中にまた痛くなっちゃったみたいで、診察して欲しいって言ってますよ」
「縫った唇のところか?」
「いや、上の歯の付け根だそうです」
その中年女性は両手が買い物袋で塞がった状態でこけ、顔面から地面に突っ込みんで救急車で運ばれてきた患者だった。上の歯で自分の下唇を貫通したらしく、顔面血まみれでこれを縫うのに矢吹は大変苦労をした。
「上の歯・・・?」
嫌な予感がして傷を縫う前に撮影したレントゲン写真を見直す。
「げ・・・歯の付け根のとこ折れてるかも」
実は医者と歯医者は完全に分業しており、矢吹の医学生時代も歯科領域はほとんど授業すらなかった。だから多くの医者は歯科領域を苦手としている。だがそんな言い訳が患者に通じる訳もなく、矢吹はとにかく患者に平謝りしてから、佐々木に当番の歯科医を呼んでくるよう頼んだ。
診察に来たのは例の
「これ・・・折れてるってレントゲンですぐ分かりますよね。しかも撮ったの1時間前じゃないですか・・・このとき呼んでくれたら他のスタッフさんたちもまだいたのに、もう5時だからみんな帰っちゃいましたよ。ずれた歯を整復しなきゃだから人手いるんですよ」
「いや、その・・・本当に申し訳ないです。あの、僕他に患者いないので処置手伝います」
「まぁそれはありがたいですけどもう一人くらいいないと・・・」
「あぁ、それなら佐々木が手伝います」
「ちょっと!矢吹先生勝手に決めないでくださいよ。私だってもう勤務終わりです!」
「まぁまぁ」
「え、じゃあ今度奢ってくださいよ!矢吹先生が見逃したからこうなったんですからね」
「まぁまぁ」
「雑っ!もっと言葉巧みにお願いしてくださいよ!」
「はいはい、奢る奢る」
本当に奢ってくれるんでしょうねー、とぶつくさ言いながら佐々木は結局矢吹についてきた。
※※※※※※※※※※
初めて見る歯科処置の衝撃に、矢吹と佐々木は何度も顔を見合わせた。
まず常井はメスで上の歯茎の肉をためらいなく剝がしていき、捲りあげて上顎の骨をむき出しにした。
スプラッター映画でもなかなか見ない光景だ。矢吹は首筋に鳥肌がたつのを感じた。
ずれた歯の位置の微修正を繰り返し、手早く左右の歯とワイヤーで固定。そして捲りあげた歯茎の肉を戻し、ワイヤーごともとの状態に縫いつけた。
踊るような手さばきで、常井はものの20分で処置を終わらせてみせた。
※※※※※※※※※※
「本当にありがとうございました。常井先生お若いのに流石ですね。歯科処置は初めて見ましたけど、本当に早くて正確な手さばきで驚きました」
「ヤブ先生と大違いですね」
すかさず佐々木が横からチャチャを入れる。
「おい、そのあだ名やめろって。特に今日は洒落にならん」
「だめですー。これからはヤブ先生って呼びますー」
「矢吹先生も初めてなのに的確な補助でしたよ。今日からでも歯科助手になれますね」
常井がサラリととどめを刺す。苦笑するしかない矢吹に、常井は独り言のように言葉を続ける。
「あー、なんかお腹すいちゃったなぁ」
少し嫌味に感じたが、この状況を作ったのは矢吹である。
「それならどこか食べ行きません?佐々木も行こうぜ。奢るからさ」
すると佐々木は小動物のような顔を精一杯に不機嫌に歪ませ矢吹を睨む。
「ヤブ先生、頭大丈夫ですか?一昨日 "職員3人以上の会食禁止" ってメールが届きましたけど。コロナ対策本部長って人から」
そういい捨てて佐々木はズカズカと出て行った。
「コロナ対策本部長がそういうなら仕方ないですね。ヤブ先生、二人で行きますか」
後ろを振り向くと、常井が小首をかしげてこちらを見ていた。
※※※※※※※※※※
矢吹が病院を出ると、すでに常井が待っていた。オフショルダーの青のトップスに白のロングスカート。アシメトリーな前髪が、右眼の前に揺れるている。化粧気のない顔はそのままなのに、その洗練された立ち姿に目が離せない。
「すみませんお待たせして」
「いいえ。どこにしましょっか?」
「そう・・・ですね。近くにうまい中華料理屋があるんですよ。酢だけで食べる餃子がおいしいんですよね。そことかどうですか?」
我ながら素敵ではない提案な気がするが、男勝りな常井ならば案外喜ぶかもしれない。
「あ、そういえば私行きたいイタリアンあるんでした」
矢吹の提案はあっさりと無視された。
常井が案内したイタリアンは、確かにいい雰囲気だった。木を基調とした店内を、橙の間接照明が優しく照らしていた。白い清潔そうなシャツに黒いエプロンを着たノッポの店員が、余程暇だったのか嬉々として矢吹たちを座席に案内した。
常井はいきたりボトルでワインを注文した。これまでの強引な流れにもはや慣れてしまい、矢吹はおとなしく常井と自分のグラスにワインを注ぎ続けた。
常井の飲みっぷりは痛快だった。飲むたびに表情が柔くなっていく。
「常井先生ってこうしてると若いですねー、職場のときとはまた違った雰囲気ですね」
「よく大学生に間違えられるんですよー」
ニヘッと笑う顔はことさら幼かった。
「職場ではなめられないように気をはってるんです。女だと看護師さんも厳しいし、他科の先生からも歯科医ってよく馬鹿にされるから・・・」
でも矢吹先生は違いますね・・・と小さくつぶやく。結局二人でスパークリング、白、赤の計3本を空にした。
帰り道、常井との体の距離が近いな、と矢吹は思った。なんの匂いだろうか、ココナッツのような甘い香りが夜風に漂う。男として、言うべきことややるべきことがある気がする。だがアルコールで蕩けた脳ではどうしたらよいのか分からない。常井を家のすぐ傍まで送ると、矢吹はそっと手を振りおやすみなさいと告げた。
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