仔を殺す性

「さすがヤブ君ですね。だいぶブランクがあるはずなのに今の技師さんたちよりも上手かもしれません。ヤブ君に頼んでよかった」

「いやPCRなんてちょっとやれば誰でもできるじゃないですか・・・まぁ急に頼んだのはこちらなのでもちろん手伝いますけどね・・・」

「そうですよー、こんな時間に検体渡されても技師さんは帰っちゃいましたしね。それも今日中ってなかなかな無茶振りですよ?」


そういって青木誠はいたずらっぽく目を細めた。青木は救急科に所属する研究者で、今は普段の研究を中断しコロナの研究に取り組んでいた。研究の傍ら病院検査技師たちを指導し、院内PCRの体制を作り上げた立役者でもある。


「それについては本当に申し訳ないです・・・」


時刻は19時。検体数は矢吹を含めた救急科所属医師23人分と相当であった。しかも共に働いていた集中治療室看護師長の感染が発覚したため、感染症内科医の狩川譲から今日中に結果を出せと圧力をかけられていた。まったく、どちらがコロナ対策本部長かわかったもんじゃない。


「まぁでもヤブ君でよかったのは本当です。PCRが簡単、って言いますけどね、これだけの検体数をこの速度でこなせる人ってそういないですよ?」

「いや、雑なだけですよ。むかしからせっかちで」

「ヤブ君。仕事が早いことと雑なことはイコールじゃない。時間をかければ正確になるとも限らない。一つ一つの工程の意味を理解し、正確さが求められるときには集中し、そうでない行程では手を抜く。漫然とすべてに集中しようと時間をかけるよりも、緩急をつけた方がかえって正確だったりします。ヤブ君はそれができているから、安心して任せられます」


矢吹はかつての指導教官の言葉に思わず頬を緩めた。矢吹は医学生時代、救急科の研究室に出入りし青木の指導をうけていた。この人はいつもそうだ。言葉を飾らず、正しいと思ったことしか口にしない。だが口にする言葉の選択に、優しさがある。


「先生に褒められると俄然やる気がでますよ」

「それはそれは!それならば丁度いい。また私と研究をしませんか?コロナの研究は世界的に需要があるし、ヤブ君もせっかくコロナ対策本部長としてコロナに関わっているわけですし」

「僕は研究なんて高尚なことできる人間ではないですよ。目の前の仕事を日々こなすだけで精一杯です」

「もちろん目の前の患者さんを救うことはとても大切な仕事です。ですが患者さんは目の前にいるだけではありません。将来あらわれる患者さんに備えて研究するのも医師の務めですよ」


同じことを藤堂教授に言われたばかりだ。だが矢吹は、その言葉が前回とはまったく違うように心に響くのを感じた。


「買いかぶりです。もっと向いている人がいますよ」

「ねぇヤブ君。あんなに研究に打ち込んでいたのに、どうして突然やめてしまったのですか?君がね、研究を嫌いになったとはどうしても思えない。何があったんです?」


思い出したくもない記憶が押し寄せて、矢吹は思わず顔をしかめた。


※※※※※※※※※※


矢吹は医学生時代、自分が使う実験用マウスの管理し定期的に繁殖させていた。あるとき1匹の雌がうまく子育てできていないことに気づいた。


普通の雌は乳を与えやすいよう子供を1か所に集めるが、その雌の子供はあちらこちらにとっ散らかっていた。案の定7-8匹いた仔のうちほとんどが栄養失調で死んでしまった。


しばらくして、また子育てができない雌があらわれた。記録を遡ると、以前みかけた子育てできない雌の子供だった。矢吹は、幼い自分を置いて男と出かけに行く母親の後ろ姿を思い出し、いたたまれなくなった。


あちこちに散らばる子供たちを一か所に集め、排泄物をティッシュで拭いてみたり、矢吹は研究の合間にかいがいしく世話をした。


だがその子供が大きくなると、やはり我が子をネグレクトした。矢吹も意地だった。子育て用の巣箱をいれてみたり、床材を変えたり、水飲み場の位置を調整したり。だがその子供も、そのまた子供も我が子をネグレクトした。マウスは生まれた2か月後には大人になって次の世代を産むので、悲劇は2か月ごとに繰り返された。


矢吹は言いようのない疲労を覚えていた。見たくもないのに、世話をするのを止められない。


ある日、ネグレクトの系譜の雌の一匹がまた子供を産んだ。いつものように散らかった子供たちを集めようと矢吹がケージを覗くと、意外なことにケージの中は整然としていた。


ついに。ついに矢吹の努力が実った。負の連鎖を断ち切ったのだ。子供時代ネグレクトされたマウスも、環境と工夫次第でちゃあんと子育てをする。矢吹は自分までもが救われたように感じた。


だがすぐに異変に気付いた。母親の口の周りに、赤い何かが付着していた。


まさか。


矢吹は急いで母親の尻尾をつかんで持ち上げた。


いない。


母親の下で、一か所に固まって、幸せに乳を吸うはずの子供は一匹もいなかった。昨日まで確かに存在した子供たちは、ケージのどこにもいなかった。


何故だろう。急に自分の手足から血の気が引き冷たくなっていくのを感じた。


どれだけ立ち尽くしていたのか。矢吹の手はいまだに母親の尻尾を掴んでいて、母親はなんとか抜け出そうともがいていた。


がりっ


母親が矢吹の手に嚙みついた。そこで矢吹ははっと我に返り、そのまま母親を床に叩きつけた。


床でひしゃげ痙攣する母親を、矢吹は動かなくなるまで見ていた。そうして少し嘔吐した。その日以降、矢吹は研究室に行くことはなかった。


※※※※※※※※※※


青木の問いに答えず、ただ矢吹は黙々と作業を続けた。青木もそれ以上は聞いてこず、いくつか単純な指示を出すのみであった。


だがその沈黙は意外な形で破られる。


「あれ、青木先生これ・・・」


矢吹が測定器を見て青木を呼ぶ。


「あれれ、おかしいな。これ誰の検体ですか?」

「15番だから・・・藤堂教授です・・・」

「よりによって藤堂先生ですか・・・もう一度やり直してみましょう」


結果は同じだった。青木は言った。


「藤堂教授が提出された検体は、間違いなくただの生理食塩水ですね。これではPCRなど陰性になるに決まっています。ヤブ君、藤堂先生が検体を採取されるところを見ていましたか?」

「いえ。感染防護のためにみな自分で検体をとったので見ていません・・・」

「ふーむ。では藤堂先生があえて生理食塩水を提出したことになりますね。これは一体全体どういうことでしょう?」


矢吹はそれに対する答えなど持ち合わせておらず、ただただ困惑するのみであった。

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