(その35)
政五郎と浮多郎の親子がそんな話をした数日後、浮多郎は、岡埜に呼びつけられ、三ノ輪の蕎麦屋の二階に上がった。
岡埜は蕎麦を頬張りながら、
「先手組の山村が謹慎処分になったぜ」
と箸先を浮多郎に突きつけ、
「自死した山形屋の番頭が版元というのを見逃し、内報者の江頭某を死なせた責任を取らされた。・・・いや、正しくは、責任を感じて、みずから謹慎処分を願い出た」
と言ってからニヤリと笑った。
何かをたずねたそうな顔の浮多郎を見て、
「これからは、先手組は、江頭と照吉を殺した牢人者を追い、奉行所は、これまでに四十八手本に絡んで殺された町人の下手人を追え、というのがお上の命令ぞ」
めずらしく神妙な顔をした岡埜は、居ずまいを正してそう言った。
「しかし、ずいぶんと乱暴な手仕舞いだぜ。江頭が内報して斬り殺された経緯とか、番頭が首吊りを偽装して殺されたとか、何ひとつ解明されておらん。臭いものに蓋とはこのことよ」
岡埜は、先手組のドタバタぶりを、半ば嘲るように語った。
照吉親分を殺した牢人者を挙げるまではと、禁酒の願かけでもしたのだろうか、岡埜は、めずらしく酒は飲まずに蕎麦だけを掻き込んだ。
「山形屋の番頭を版元に仕立てるのには相当な無理がある、と岡埜さまはお考えで・・・」
向島の白髭神社裏の武家屋敷を調べろと言っておいてから、後になって照吉親分に張り込ませたのは、そこに裏の版元がいるという目当てがあったのではないかと、浮多郎は、岡埜を疑った。
「番頭を調べると、呉服屋の丁稚上がりなのはまちがいねえが、手代になるころに博打に手を出して店を辞めさせられた。それからは、お定まりの石ころが坂道を転がり落ちる人生さ。・・・それだけじゃねえ、勤めの替わった先々の店に強盗が入る不思議なことが続いた」
岡埜は蕎麦を食べ終わると、蕎麦湯をすすりながら言った。
「それって、押し込み強盗の手引きをしたってえことですかい?」
岡埜が答えないので、
「暖簾分けでもなく、降ってわいたように神田明神下に呉服屋を開業したと岡埜さまはおっしゃっていました。・・・でも、どうしてそんなことができるんで?」
と、浮多郎が重ねてたずねると、
「馬鹿野郎、少しは頭を使えよ。押し込み強盗の親玉が、ご褒美に番頭に取り立てて新店を任せたとしたらどうだ」
岡埜は、やっと口を開いた。
「ああ、泥棒の親玉が、押し込み強盗稼業で溜め込んだ悪銭を使って、まっとうな呉服屋になろうとした・・・」
そこまで言うと、
「悪事を働いて得た悪銭を商売の元手にして、まっとうな商売をすれば、まっとうな金が手に入る。そうして、じぶんは決して表には出ずに、裏に回って手下を思うさま操っている。いい気なもんだぜ」
酒も入っていないのに、四角い顔を真っ赤にした岡埜は、目の前の見えない影に向かって怒りをぶちまけた。
「岡埜さまは、いつから、泥棒の親玉が、向島の白髭神社の裏に隠れ住んでいると見当をつけたので?」
と浮多郎がたずねたが、岡埜は、鼻先でフンと笑っただけだった。
その後、八方手は尽くしたが、影の元締めはじめ、逃げた者たちの行方は分からなかった。
・・・困ったことに、誰もその影の元締めの正体を知らない。
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