(その29)

浮多郎は、深川の弥勒寺裏に摺師の熊吉をたずねた。

熊吉は、きつい墨の匂いが漂う土間で、瓦版を摺るのに余念がなかった。

「ああ、岡っ引きの・・・」

と、前にやって来た浮多郎を、熊吉は覚えていたようだ。

「その後、四十八手本の摺りなんかやってやしませんか?」

と、いきなりたずねると、

「めっそうもねえ」

と太い首を横に振った。

「『恋ぐるい四十八手』の下巻が大評判で。仲間うちで、この仕事を請け負った彫師や摺師を知らないですか?」

とたずねると、熊吉は仕事の手を止めて、浮多郎の顔を覗き込んだ。

すかさず、掌に小粒を乗せると、

「・・・初めは、その仕事はうちに来たんだよ。忙しかったし、四十八手本など気も進まないので、この先の菊川の彫師に回したんだ」

印刷の発注は、仲間で仕事の回し合いをするので、彫師か摺師か製本屋のいずれかに声をかければよいと熊吉は言った。

「特急の徹夜続きの仕事だったが払いがいいと、エテ公は喜んでたね。・・・それが不意にいなくなってさ」

と、声をひそめ、おびえたような顔をした。

「いつごろで?」

「ああ、四五日ほど前かな。懐が温かくなったせいか、本所あたりで飲んだ帰りにここへ寄ってたのが、ふっつり姿が見えなくなってさ」

熊吉の摺りの仕事が一段落するのを見計らって、連れ立って横川に架かる菊川橋たもとのエテ公の長屋へ行くことにした。

日数からすると、両国橋の千本杭であがったお吉の偽装心中の相方がこのエテ公かと思ったが、相方の男はなで肩の優男で、サル顔の職人ふうではなかった。

それに、熊吉の掌もそうだが、いくら大川の水で洗われても、摺師の掌に染み込んだ墨はかんたんには消えない。


エテ公の長屋の土間には版木がうず高く積まれ、上がりの四畳半には、製本屋に渡す刷り上がった半紙が積み上げられていた。

だが、エテ公の姿はなかった。

熊吉と手分けして、土間に積み上げられた版木をひとつずつ下し、四十八手枕絵の版木を探したが、見つからなかった。

「版木って、摺りが終わったら版元へ返すんですかね?」

浮多郎がたずねると、

「版木の代金は版元が払うので、モノは版元のものだが、・・・いろいろだね」

「いろいろというと?」

「版元が増刷するつもりなら、ここに置いておくだろうが・・・」

「増刷しなければ?」

「まあ、しばらくはそのままで、あとで削って他の版木に使うとか。・・・でも、これって売れてるのかね?」

「数までは分かりませんが、今のところは大評判のようで」

熊吉は、『恋ぐるい四十八手』の下巻を手にしてパラパラめくっていたが、

「これぐらいの分量の本だと、版木の数も多いし、いくらエテ公の手が早いとはいっても、何人かで手分けしてやらなきゃ追いつかねえ。・・・でもさ、この仕事をやらなくてよかったよ」

と安堵の溜息をついた。

「どうしてまた?」

「歌舞伎役者の顔を使ってるよね、それも大御所の。・・・たしかに、これだと大評判は取るが、お上が黙ってねえだろうよ」

熊吉は、この枕絵の版行にからんだ者どもの行く末を、過たずに言い当てた。

「そもそもこの話を持って来たのって?」

浮多郎がたずねると、

「ああ、瓦版屋だよ」

熊吉は即座に答えたが、

「法恩寺橋の?」

と聞かれると、

「ええ、まあ・・・」

と、とたんに熊吉は歯切れが悪くなった。

「今からそこへ行ってみませんかね」

と誘うと、

「いやあ、ちょいと急ぎの仕事もあるし・・・。ああ、瓦版屋が話を持って来たなんて言わないでくれよ」

熊吉は、弥勒寺の方へ逃げるように走り去った。

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