(その28)
岡埜同心が教えてくれたように、渡し舟を降りてから桜堤土手を右手に進むと、白髭神社と諏訪神社の間の細い道を左に折れた先に松林が立ち塞がる。
その松林に隠れるようにして、広壮な屋敷があった。
昼なお暗い松林の中を背を屈めて進み、竹矢来に囲まれた屋敷の裏手に近づいた。
竹矢来の隙間から中をうかがうと、すぐのところに大きな池があり、その向こうの左手正面に母屋が、右手に離れがあるのが分かった。
江戸で財を成した隠居が住むというよりも、戦いに備える武家屋敷のような趣の屋敷だった。
半刻ほど、中をうかがっていたが、ひとの声も何の物音もしなかった。
さらに小半時ほどすると、離れから、琴の調べが聞こえてきた。
その琴の音が止むと、あたりは再び静寂になった。
離れに女がいるということだけは分かった。
松林を左に抜けて新梅屋敷と八幡神社の鎮守の森まで行ってみたが、あたりは田畑と百姓家ばかりで、絵師の幸吉が隠れ住むような家は、他にはなかった。
帰りは、桜堤土手を大川沿いを南行し、水戸家の下屋敷を大きく迂回して大川橋を渡って雷門へ出た。
「向島の武家屋敷だって?」
翌日、清水門外の先手組の役宅をたずねると、山村同心は驚きの声をあげた。
「へい、そのお屋敷で絵師の幸吉が四十八手枕絵を描いたのではないかと」
浮多郎が見立てを言うと、山村は、腕組みをして考え込んでしまった。
「お吉は、あの辺りで殺され、心中に偽装されて大川に投げ込まれたとも考えられます」
と、さらに踏み込むと、
「岡埜どのも、そのような考えなのか?」
と山村はたずねた。
浮多郎はどう返事をしたものかしばらく考えていたが、
「岡埜さまが、向島のそのお屋敷を調べろと命じられました」
と事実だけを言った。
「じつは、あの屋敷には、われわれも目をつけておった」
と、山村は、負け惜しみのように言ったが、どのような嫌疑があるかまでは教えなかった。
向島には、先手組の密偵を貼り付けるので、彫師、摺師、製本屋を当たってくれと山村は浮多郎に命じた。
昼下がりに奉行所で岡埜が町廻りから帰るのを待って、向島の屋敷に先手組の密偵を張りつかせる話をすると、
「先手組の密偵など役に立つものか」
と先手組を小馬鹿にしたようなことを口にし、奉行所も今戸町の照吉親分を向島に張りつかせると言った。
「そうそう」
と、岡埜は、奥の訴訟係の座敷にしばらく入っていたが、もどって来ると、
「御徒町の金華堂の新しい持ち主が分かった。神田明神下の呉服商の山形屋だ。借用書も真正なものだ。借金のカタに屋号と資産を総取りだ」
と言った。
・・・金華堂の隣の乾物問屋のご隠居が言ったことは正しかった。
金華堂の主の兼助は、呉服屋から借金をしてまで枕絵本を制作したことになる。
「まさか、呉服屋が、危ない枕絵など作るはずがありませんよね?」
と、浮多郎が、同意を求めるように言ったが、岡埜は何も答えなかった。
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