着火マン2
快楽を求めた彼はいつからか自分の肌を焼くようになった。熱湯や使用直後のガスコンロのごとくに触るところからはじめて、すぐに電子ライターで常習的に行うようになった。
まさに今手にしているライターも、さっきまで彼の太股に火をつけていた。ズボンのポケットに入れたライターに火を灯す。それが彼の唯一自分で認識している癖であった。
武内のライターを手に入れてからは、自分を燃やすライターが変わらなかった。それまで、使い捨てのライターで耳や鼻などの人がピアスをつける部位や、肩や腕といったタトゥーを彫る箇所を炙った。
火ぶくれするほどはしない。しかし軽い火傷の数は日を追うごとに増えていった。そんな彼を不審に思うくらいには、武内は彼を愛していた。
努力しても結果は実らず、武内は彼と同じ大学に進学することは叶わなかった。武内は彼におめでとうと言って、補欠合格した第三志望の大学に進学した。
独り暮らしをはじめた彼女の家には何度か訪れた。しかし、かつての武内詩杏はどこかでのたれ死んだらしく、殺伐とした口論が増した。
大学生になった彼にできた友人との時間や、長期休暇中には工場の短期アルバイトをするなどで、武内から距離を置いた。すると自傷行為の回数も減っていった。
そんな日が続いたとき武内が自分の部屋に来るように言ってきた。
久しぶりに会いにきてという内容の文面を一度は無視した。
指定された日から2週間ほど経ったころ、彼の母が慌てたようすで彼にいった。
詩杏ちゃんがウチにきた。あんた、あのこに酷いことをしてるんじゃないの。
詰問する母に、彼女とは最近会っていないと答えた。
とにかく会ってあげて。あれじゃあ可哀想だ。
母をこうまで言わせた訳が知りたくなった。
その日のうちに彼女に電話をした。すると今すぐ来るように申し付けてきた。
彼女のアパートに訪れたのはかれこれ2ヶ月は遡らないとならない。オートロックの番号は辛うじて覚えていた。
ノックをした。返事はないが、玄関の鍵は開いていたので浸入した。
そこから既に酒臭く、かつてこの女の部屋で感じた爽やかさはない。
ユニットバスの扉が開いたままになっていた。黒や茶色のシミが目立つ便器周辺にはトイレットペーパーの芯や紙くずが散乱していた。髪のたまった風呂の排水溝。天井のタイルの継ぎ目は黴が生えていた。
洗浄していない食器のある台所、その下には飲みかけのジュースのペットボトル。ごみ袋が口をだらしなく開いておりティッシュや菓子パンの袋が散っていた。
髪や埃で砂地を歩いている気にさせられる床は獣道のようにベッドにいたるところだけが整理されていた。
あわないうちに、人間性を欠いた住環境に成り果てていた。
泣き腫らした彼女が部屋の中央のベッドで彼を待っていた。やや眠たげであった。かれを見るなり煙草を吸おうとした。
彼はこれほど汚れた部屋に呼び出しておいて一服しようとする彼女が許せず、火をつけたライターを奪った。
久しぶりに感じた強烈な熱は、すぐさま走り出したくなるほど彼を昂らせた。
ライターを握りしめた手に、彼女が腕を伸ばした。
それを振りほどいて、彼は部屋を出た。それから二度と会っていない。
このライターがもたらした刺激は、つまり炎に自分の身体が蹂躙される悦びであった。
以前ならば快楽を求める意思のようなものがあったが、今の彼は弛緩した、まるでチェーンスモーカーが口寂しさを言い訳に喫煙するかのように身体を焦がした。
今日も彼は自分の太股を燃やしていた。
カチッと火を灯す音が周囲の目をひくこともあった。
この日も、電車内でライターを着けた音が隣の男の目をひいてしまった。
男は彼を見て、そしてすぐに目をそらした。
彼は男が妙に背中を向けてくるため、せまい車両内でそうも必死な男の様子から、最初は自分の身体が臭いのかと考えた。
ガスの臭いが漏れたのだろうか。しかし自分には刺激臭が感じられない。鼻が麻痺しているのだろうか。けれども目の前の女の香水の匂いはしっかりと嗅ぐことができる。
んっ、と声を必死に押し殺した女の子の声がした。
彼が周囲を見ると、その男の隣にブレザーの女子がいた。鞄を男におしあてて可能なかぎり距離をとろうとしていた。
しかし男は接近することをやめない。
噂にしか聞いたことがなかった犯罪を目撃し、俺はここまでの外道ではないことを誇りに思った。
男の右手はスカートを撫でていた。
不意に、彼のライターがポケットから飛び出した気がした。もちろん彼の腕がそうさせたわけであるが、後になってもこの行動をする動機を解き明かせないだろう。
背中の膨らみ、スーツの中に手をいれた。汗で湿ったカッターシャツを小指の側面で触れてしまった。
しかし男は気がつかない。
ライターが燃焼した。
はじめて他人を炙った。あぁ、きっとこの男は皮膚が捲れて消えにくい傷を負うことになるだろう。俺とおんなじだ。俺の腿や肩はもうドロドロだ。お前もこの皮膚の柔らかくなっていく感触を味わってみないか。そんな声を出すなよ。周りが見ているじゃないか。
彼の目の前で男が燃えた。何もかもこの世に残さぬ業火。スーツは燃えて肌は燃えて骨は燃えても、男がこの世でおかした罪は消えない。罪が消えないなら炎は消えない。彼は理解した。火炙りは原始的な罰なのだ。
だから俺は火が好きなんだ。
燃え盛る男が救いを求めて列車を走る。誰も彼も男を助けない。
逃げ場のない電車内、男は息絶えても、炎は罪人を舐めまわしていた。
そんな幻覚を見た彼は我にかえると火を消した。
男の背中には軽い痣ができた程度であろう。
都合良く駅についた隙に彼は人波に乗るように立ち去った。
そしてゴミ箱の前にいる。
着火マン 古新野 ま~ち @obakabanashi
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