5月20日 きりこが風邪を引いたその後で

 ゆいかを見てると、よく想い出すものがあった。


 ごろごろと気まぐれに、気ままに、こっちのことを分かってるんだか、分かってないんだか。


 そのくせ、すりすりと足元にすり寄ってくるような。


 なんだっけ、ああ、ネコだ。


 おばあちゃんの家にいた、野良ネコだ。


 野良ネコのくせに首輪がついてて、縁側から人の家のこたつに勝手に侵入してくる。


 相手は選ぶけど撫でさせてくれるし、するめを出せば必死こいて寄ってくる。


 兄貴もよく餌をやろうとして引っかかれてたっけ、私は何度かのアタックの末、どうにか気を許してもらえたのだった。


 一度懐かれたら、その後はずっとべったりで、なんでもついて回ったり、やたらすり寄ってきたり、他の人と遊んでたら嫉妬して攻撃してきたり、おばあちゃんもお前はイヌかネコかわからんねって呆れてた、そんなネコだった。


 今のゆいかとどことなく、似てる。そんなネコだった。


 想い出すのに時間がかかったのは、その記憶も随分古びたものだから。


 ある夏、おばあちゃんの家に行ったら、そのネコはいなかった。


 おばあちゃんに聞いては見たけど、わからないという答えだけが帰ってきた。


 もともと野良だし、けっこう年も食ってたらしい。


 病気か、猫同士の喧嘩か、寿命か、保健所に連れてかれたか、あるいは気が向かなくなってこなくなってしまったのか。


 おばあちゃんの家に行く楽しみを大分その子に頼っていたから、妙に落ち込んだのを覚えてる。


 おばあちゃんは落ち着いた、でも少しだけ悲しそうな目で、生き物ってのはそういうもんだよって言ってた。


 その日は、兄貴と二人で家の周りを探したけれど、結局見つからなかった。


 家に戻ってそれを告げると、そういうもんだよ、とおばあちゃんは抑揚のない声で言っていた。


 私も兄貴も納得いかなくて、そんな冷たいこと言わなくていいじゃないかと想ったりもしたっけ。


 ちょっとドライなおばあちゃんだったんだ。おじいちゃんも先に死んで独り暮らしだった。


 それから大体、三年くらいしておばあちゃんも死んだ。


 出棺の時、隣に添えられた写真には、いつかの野良ネコを抱くおばあちゃんの姿があって。


 見たこともないような笑顔だったのをなんとなく覚えてた。


 そんなことを思い出しながら、ただ無言で頭を撫で続ける私に、ゆいかが不思議そうに顔を向けてきた。


 私は無言で首を振った。


 なんでもないよって、そう伝えながら。



 ※



 目を覚ますと、もう夕方の五時ごろだった。


 風邪から目覚めた身体は少し疲れてて、寝汗もあってかなりだるい。


 ただ、軽く息を吐くと身体の奥の暑さはましになっていたから、熱自体は引いているのかな。


 そんなことを想っていると、廊下の方からどんどんと足音がして、程なくして私の部屋のドアが開いた。ああ、私、誰かが帰ってきた音で目が覚めたのか。


 ドアを開けて現れたのは、大学帰りの兄貴で手にはビニール袋を提げていた。


 「おーっす、きり、起きてるか……あれ、誰それ?」


 兄貴の言葉に誘われて、視線を下に向けると私のベッドの傍に眠りこけるゆいかの姿があった。


 朝方、私の部屋に来てベッドのそばにいて、それからゆいかも寝入ってしまったみたいだ。


 ヘッドホンを着けたまま、スリープ状態になったゲーム機を太ももに乗せて、呆けた顔で寝入っている。よだれとか垂れてそう。


 というか、眠るなら、肩凝るだろうし、自分の部屋で寝ればよかったのに。しょうがない子だぜ。


 「あー……、あれか隣の家の子か」


 「うん、ゆいか、って子」


 兄貴はゆいかを軽く一瞥すると、こっちに視線を戻してふらふらとビニール袋を揺らした。


 「ところで、アイス買ってきたけど、食うか?」


 「ありがと、なんか優しいじゃん」


 「俺は元からピンチの時だけ優しい男だよ」


 「映画版ジャイアンかよ」


 「ああ、普段はいがみあってる宿敵のライバルでも可だ」


 そんなくだらないことを言いながら、手渡されたビニール袋の中身を一瞥する。中にはハーゲンダッツが四人分、味は適当にばらばらだ。


 「私は……」


 「抹茶」


 「あたり、十点」


 「んで、俺は」


 「ストロベリー」


 「残念、濃厚ストロベリーチーズケーキだ。落第」


 「何それ、ズル。ストロベリーはあってたんだから、部分点ちょうだい」


 「十点中、二点だな、どちみち落第」


 「点ひくっ、ストロベリー成分少なすぎない?」


 「チーズケーキが三点で、濃厚が五点だ」


 「配点クソじゃん」


 「模試とかで偶にあっただろ? そこその配点にする? みたいな、クソバランス問題」


 「あったけどさ……」


 お互い、減らず口を聞きながら、アイスの容器を手に取る。こんな減らず口だから、うちの母親は私たちが食卓で喋ると、またかと言わんばかりに眉間にしわが寄るし、父親は困ったように苦笑いになる。


 私は寝ころんでいた上体を起こして、ハーゲンダッツの独特な形状のスプーンを口に加えて包装を外す。


 なんとなくゆいかをちらっと見た、騒がしいし起きるかなと思ったけど未だに眠りこけていた。結構、私らうるさいと思うのだけどな。


 まあ、そのうち起きるかと放っておいて、私はそのままアイスを食べ始めた。兄貴も対面で食べ始める。


 しばらく兄貴の手によって、外を連れまわされたアイスは、少しばかり溶けて食べやすい。まあ、個人的には固まりきってる方が好きなのだけど。これはこれで悪くはない。


 「で、熱下がったん?」


 なんてことはないって感じで、兄貴が聞いてきた。そっけない風に、相変わらず気の遣い方が下手だね。

 

 「まだ測ってないけど、朝よりだいぶまし」


 「そりゃ何より。しかし、きりが風邪って珍しいよな。前引いたの何時だよ」


 「んー……三年前とか」


 「あー、皆勤賞のがしたとか騒いでたな。で、なんで引いたんだ、生活サイクル崩れたか?」


 「ううん、プール行ってさ、帰りに雨に思いっきり降られた」


 「はは、そりゃ災難だ」


 「でしょ、勘弁してよって感じだった」


 「そうか」


 「うん、それゆいか一緒でさ。一緒に濡れて帰ってきちゃった」


 私の中で何かのネジが外れたことは告げなかった。まあ、告げたところでどうしようもなかいし。というか、ゆいかも同じように濡れて帰った割に、風邪ひいたの私だけか。つまり、一年間、引きこもってるゆいかより病弱になっているってことかな。ちょっとくらい運動した方がいい気がしてきた。


 「ふうん、ところでさ、きり」


 なんてことはないって感じで、兄貴が話を切り出してきた。


 「なに」


 「この子、


 思わず、指が止まった。ハーゲンダッツが口腔の中でしばらく停止する。ついでに、ゆいかのヘッドホンが少しだけずれた。


 兄貴を藪にらみで睨むけど、意外と眼は真剣というか、割と真摯にこちらを見ていた。……いやでもなんか、勘違いしてるなこれ。


 「はあ? 違うっての。身内だとしてもその冗談は引くわ」


 「あ、違うんか、そら悪かった」


 そして、割とあっさり身を引いてきた。なんじゃ、こりゃ。


 「大体、どうしてそうなんの」


 「いや、そういえばおかんがネットで、『もし子供が同性愛をカミングアウトしてきたら』みたいなページを、この前みてたからよ」


 「……」


 あの母親、一体何してるんだ。いつの間にそんなあらぬ誤解を抱いたのやら。


 思わずしかめっ面を継続させながら、スプーンを噛む。


 「勘違いにも、程があるでしょ」


 「まあ、おかんの言いたいことも、俺はわからんでもなかったけどな」


 ため息をつき続ける私に、兄貴はちょっと呆れ返したように、そう告げてきた。


 「なんで……」


 「


 「………」


 歯に力がこもった。口の中で、プラスチックのスプーンがぐにゃりと曲がった。


 「言いにくいこと、個人的な問題、勉学面で問題なし、いじめの経歴もねえ……じゃあ、あとなんだろって考えて、到達する推理としてはまあ、上々だと思うけどな。それにお前、その子との話するときだけ、やたら機嫌がいいじゃん?」


 ま、外れたんならそれまでだが、と兄貴は言葉を締めくくって食べ終わった容器を締まって、そっと腰を上げた。


 「なんか飲み物いるか?」


 「朝に持ってきてもらったの、まだ一杯あるし、いらない」


 「そか、んじゃ、またなんかあったら呼べよ」

 

 「……わかった」


 兄貴はそう言ってドアに手をかけた。ただ何かを想い出しのか、こっちをくるっと振り返っる、口にはスプーンがまだ咥えられている。


 「言えるんなら、何があったかくらい誰かに言っとけよ? 別におかんでも、俺でも、その子でも、誰でもいいけど」


 最後にそう告げて、兄貴は今度こそ出ていった。私は胸の奥がちょっと痛むのを感じながら、スプーンを口から出して、軽くため息をつく。


 相変わらず、嫌な兄貴だ。他人のことに妙にドライで、シンプルで、そのくせ気を遣っているというのだけはわかってしまう。


 要するに、助けが必要なら助けはするけど、根本のところは自分自身で解決しろと言われているのだ。


 ああ、嫌になる。


 そうあるのが正しいと、頭のどこかが認めてしまっているから、余計に。


 そう、結局、私の問題は私が誰かに告げなければ、進展しない。


 私の気持ちはそれを誰かに見せる勇気がなければ、解決のしようもない。


 誰かに助けてもらえるのは、誰かに助けられる気がある人だけだから。


 わかってるけどさ、いつか、誰かに告げないといけないことくらい。


 わかってんだけどさ。


 ため息をついた。


 はあ、気が滅入る。


 なので、仕方ないから兄貴が残していったビニール袋を拾い上げた。


 残り二つ、多分、本当は母さんと父さんの分だろうけれど、部屋に残していったからには食べていいんだろう。


 あとは、ちょっと隠れたつもりのネコでも引っ張り出そうか。


 私は一つ、バニラ味のそれを握ってそっとゆいかの傍による。


 それから、ふっと首筋に息を吹きかけた。ゆいかの頬が若干、歪む。


 わきの下をつんっと、ついてみた。ゆいかの身体が弱く、でも確かにぴくんと跳ねる。


 手先に目を向けると、指がぷるぷる震えてる。はてさて、一体、何時から起きていたのやら。


 色々、ため込んだ腹いせを、精一杯看病してくれたゆいかにするのは、非常に申し訳ないのだけれど。


 それはそれとして、狸寝入りで他人の話を聞き続けるのも、どうかと思うのですよ。というか、あの兄貴、ゆいかが起きてても構わないと思って話してたのかね。


 はあ、まったく。母さんも、兄貴も、ゆいかも、気の回しすぎだと想うわけですよ。私も、私なりに、解決はするっていうのにさ。


 私はゆいかのパジャマの胸元を引っ張って、そこにアイスを一つ、すとんと落とした。


 「っふひゅぃ!?」


 ゆいかの身体が思いっきり跳ねるのを見届けて、私はふーと息を吐く。それから、コロンと寝転がると、少し眠ろうと目を閉じた。


 「あ、アイス食べてていーよ、ゆいか」


 「…………ふぁい……」


 眠る前にちらっとゆいかに眼をやると、ちょっと涙目になったゆいかがアイスをもって、ぷるぷると震えんばかりの眼で私を見ていた。


 その姿が、雷におびえたネコみたいで。


 「……きりこ、怒ってる?」


 「怒ってない、怒ってない」


 私は思わず笑って目を閉じたのだった。

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