5月20日 そしてきりこが風邪を引く
朝、隣の部屋に顔を出すと、きりこはまだベッドで寝ていた。
普段は早く起きてるのに、珍しい。
そう想って、顔を覗いてふと気が付いた。
荒れた息、苦しそうな表情、ついでに隣に置かれた飲み物。
……これは。
熱を測ろうと額に手を伸ばしかけたところで、後ろのドアが開いた。
予想外の出来事に思わず肩を思いっきり震わせて、手をひっこめる。別にやましいことをしていたわけではないけれど、なんとなく慌ててしまう。
振り返ると、そこにいたのはきりこのお母さんだった。きりことそっくりだけど少し背が高いその人は、そっけない顔で、スーツ姿をして手にはお盆を乗せて何やらいろいろと持っている。
何度か顔を合わせたことはあるけれど、実はちゃんと話したことはなかったりする。
「あー……ゆいかちゃん……だっけ?」
「は、はい……お邪魔してます」
きりこのお母さんは私を見て、少し困ったように頭を掻くと、きりこのそばにお盆を置いた。
いくつかのペットボルトとクスリ、あとのど飴なんかが置いてあった。
それからお母さんは、私の横を通り過ぎてきりこの頭を軽く叩くと、無理矢理起こさせた。ちょっとぞんざいな手つきに、大丈夫かなと思わずおろおろしてしまう。
肝心の叩かれたきりこはゆっくりと体を起こすと、気だるげな表情で自分のお母さんをみた。それからちらりと私を見ると軽く笑ってくれた、それからお母さんに視線を戻す。
きりこのお母さんは多分、家の事情や飲み物のことを告げた後、きりこの額を小突いてまたベッドに寝そべらせた。
何を言うこともできずに隣にいる私に、きりこのお母さんは軽くため息をつきながら、声をかけてきた。
「見ての通り、このお嬢さん、風邪だから。もしよかったら看といてあげてくんない? ごはんとかは自分で食べれると思うし」
「は……はい!」
「じゃあ、よく寝てんのよ、きり」
「うっさい……頭に響くから……」
「はいはい、ごめんよ。じゃ、私、仕事に行ってくるからお願いね?」
「わ、わっかりました!」
そう言って、お母さんは軽く私に笑いかけてさっさと部屋を出ていった。私は思わずその背中をじっと見送る。なんだろ、ちゃんと話したの初めてだけど、さばさばしてるな、私をみても動じてないし。きりこもあの血を受け継いでいるのだろうか、確かに、似ているところがないでもないような。
そうこう考えているうちに遠くでドアが閉まる音がした。これでここに残っているのは、私ときりこだけになった。
せっかく頼まれたわけだし、きりこの看病をやらないと。私は精一杯意気込んで、きりこに声をかけた。
「きりこ! なんかしてほしいことある?!」
「とりあえず、静かにしててくれると助かるかな……」
そう言われて、私ははっとなって口を押さえた。そんな私を見て、きりこはしんどうそうながらも、くすくす笑ってた。
うぐぐ、早速失敗……。
しかし困った。
私の16年の人生において、病人の看病などしたことがない。
一人っ子だし、両親は体調を崩して私に世話をされるような人たちでもない。まあ、私はしょっちゅう体調を崩していたけど。
とりあえず、その時の記憶を頼りに自分が何をされていたか思い出す。えーと……暖かい物。消化にいい物。のど飴。フルーツ缶……あとはよく眠ること。
いや、そもそもなんでフルーツ缶がいいんだろ、というか、五月もこの時期だから結構蒸し暑いけど、温かい物なんていいのか。ダメだ、根拠が、根拠が足りない。
「よし、とりあえず何がいいか調べるか!! ちょっと待っててね!! きりこ」
「うーん……わかった……ごめん、声おっきいよゆいか……」
「ごめん……」
私は二度目に声を抑えた。きりこは目を閉じて眠たそう。うーん、ちゃんと水分を取ってるなら、そのまま寝てしまった方がいいのかな。
ただ、それはそれとして、私は今、準備も情報も足りない。大慌てでベランダを越えて自分の部屋に戻る。
スマホ・充電器・暇つぶし用のゲーム・音が漏れないようにヘッドホン・おやつ・ごはんのお金。あとウチにあったくすりとか、色々。外用のリュックにせっせと詰め込んで、もう一度、ベランダを飛び越えて、きりこの部屋に戻る。荷物が重くてバランスを崩しかけたのはちょっと内緒だ。
行きと同じく大慌てで戻ってきた私を、きりこは不思議そうな目で見ていた。ただ、なんかさっきより目がトロンとしてるというか、より眠たそうだ。眠いんなら、寝ててもらった方がいいかな。
私は無意識にきりこの頭をぽんぽんと撫でた。なんか、最近よくきりこの頭を撫でている気がする。そしてきりこも慣れてきているのか、違和感なく受け入れてくれている。
「そういえば、熱は?」
「えーと……八度五分だったかな」
「それなりにあるね、喉乾いてない? どっか痛いとかある?」
「今は……大丈夫。頭は痛い……かな。あと鼻水」
「ふうむ……あ、ご飯食べた?」
「うん……ちょっとだけ」
私はスマホで鼻水・頭痛・高熱で調べた。風邪と出てきた。うんまあ、そりゃそうか。
酷くなれば肺炎とかもあるらしいから、長引くようだったら病院とか行った方がいいんだろな。
それからついでに風邪の時の対処法を調べる……ビタミンCをとって、消化のいい栄養を取って……寝る。
うん、おけおけ。そのための缶詰ね。民間療法の理由に一人うんうんと納得する。
本当は生の果物の方がいいみたいだけど、まあ缶詰でも代用は効くでしょう。
つまり、あとは、あれだ。
「よく食べて、寝ることだね!!」
「まあ……そだね」
非常にわかりやすい結論が出た。うむ、人類の叡智って素晴らしい。私、特にやることなかったな、なんて気にしてはいけない。
というわけで、やることもないので。私はきりこのベッドを背もたれにしてゲームを起動した。缶詰はきりこがおなか減ったら出してあげよう。
念のため、ヘッドホンを着けて、きりこからは画面が見えないようにする。気になったら眠れないかもしれないし。
一応、きりこが何か言ってきたときに聞こえる様にヘッドホンを少しずらして、音漏れがないかも確認してから私はゲームを始めた。
「………」
「………」
きりこ寝たかな? そんなにすぐ寝ないか。
「…………」
「…………」
というか私、邪魔じゃないかな? 人がそばにいたら寝にくい人とかいるらしいし。
「………………」
「………………」
どっちの方がいいんだろう、でも、声かけて寝かけてたらあれだしなあ。
「……………………」
「……………………」
とはいっても、気になるものは気になるので。私はこっそりベッドを振り返った。
そしたら丁度、きりこもこっちを窺ってたみたいで、トロンとした眼と私の眼がばっちりあった。
ありゃ、やっぱり気になっていただろうか。
「もしかして、私……邪魔かな?」
「……ううん、いてくれると安心する……かな」
きりこは、優しい笑みでゆっくり首を横に振った。気を遣われてないといいのだけど。
「そか、なら、よかった。かな」
「うん……ゆいかは……めいわくじゃない?」
「もう全然ばっちりですよ! 引きこもってるから用事もないしねー!!」
「はは……そだね。ありがと」
……うーん、なんだろ。病気のせいかな、きりこがなんだかいつもより、御淑やか……とは違うけど。弱弱しくて可愛げがある。眼は細められ、微笑みのまま少し眠たげにベッドに横になっている姿は、何だろ普段と違ってギャップがあると言うか、なんか素直さが出ているというか。うん、これ以上はやめとこ、なんかやましい考えが出てきそうだ。
私はぶんぶん頭を振って、ゲームに意識を戻す。
あんまり話しかけてちゃ、きりこ眠れないし。今はポケモンに集中せねば、いや、ただ自転車で走ってタマゴを割り続けるだけの作業なのだけど。集中もくそもないのだけど。
すると頭にぽんと何かが乗った。
振り返ると、きりこが私の頭を優しく、どこか儚げな表情で撫でていた。
「なに……?」
「んー……なんでもないよ?」
「病人は寝てなさーい!!」
「んー、寝てるよ? それにこっちのほうがリラックスできるし」
「ぬぬぬ……」
「ゆいかも一緒に寝る? 風邪、移っちゃうかな」
「はよ寝ろーい!!」
私がもろ手を挙げて憤りを全身で表現をするときりこはくすくす笑ってた。
それに私は軽くため息をつく。まあ、無理してないならそれでいいんですけども。
なんかキャラ崩れてない、お嬢様? あ、だからきりこのお母さんもお嬢様呼ばわりしてたのかな、風邪になると性格変わるのか、なにゆえ。
なんかネジが外れるのか。
……それとも普段は抑えてるのかな。
キャラが変わってるなどと言ってみたけど、結局、私はきりこの何を知っているのだろう。
思い起こされるのは、昨日、突然理由もなく、帰り際に大笑いをしていたきりこの表情。
私が知らなかったきりこの表情。何かが原因でタガが外れてしまった、そんな顔。
私達は一緒にゲームする時間こそ長かったけれど、お互いの話はほとんどしていない。つまり、ほとんどお互いのことを知らない。
きりこの想いも、価値観も、性格も。
ほとんど、知らない。知る由もない。
今の、気持ちさえ。
大丈夫かな、邪魔に思われたりしてないかな、
……。
…………。
………………。
知りたいな。
そう、想った。
ダメかな。
どうなんだろ。
そもそも、何から聞けばいいのかすら、わかんないか。
そう、今のきりこの気持ちさえ、わからないんだから。
だから。
「ねえ、きりこ」
「なに? ゆいか」
「これ今、どんな気持ちなの?」
「ん? ゆいかがいてくれてよかったな、って気持ち」
せっかくなので、思い付きで気持ちを問いただしてみたら。
きりこは私の頭を撫でながら、そんなことを言ってきた。
なんじゃそりゃ。
つまりどういう気持ちか、さっぱりわからんのですが。
なんでよかったのか、どこがよかったのか、どうしたのがよかったのか。
さっぱりわからないのですが。
わからない。
わからない、けれど。
「じゃあ、いっか」
「うん、いいとおもうよ」
私はきっとこれで納得してしまう。
そんな言葉で納得してしまう。
私がいてくれてよかったってさ。
そっか。
そっか。
そうですか。
あはは。
だめだな。
今はきりこのほうを振りかえれない。
頬が緩んでしかたないから、顔がにやけて仕方ないから。
顔のほてりも、胸の熱さも、脳の奥の痛みが抜けていく感覚も。
まだ知られるにはちょっと恥ずかしい。
だって、一年間、誰も私の隣にいなかった。
いや、そのずっと前から、私はいつも独りだった。
別にそれでいいと想ってたし、仕方のない事だと思ってた。
だから、ずっと気付かなかったのだけれど。
私、今まで、
ぶるぶると思わず頭を揺らす。
頭に乗っているきりこの手までぶるぶると横に揺れている。それが面白いのか、きりこは後ろで笑ってた。
だめだめ、勘違いしちゃ。
きりこはちゃんと、私と違っていろんな人と関われる人だから、気楽にそういうこと言っちゃうのだ。
感謝を伝えるのが当たり前で、それが今回たまたま私に向いただけ。
その、はずなんだけど。
もしかして、私って『特別』なんじゃないかって。
きりこにとっての、そういう大事な部分を許せる人間なんじゃないかって。
想ってしまい、そうになる。だから、まだ出会って二か月も経ってないって。
っていうか、そう思いこんで昔、失敗したのを忘れたか。このポンコツ。
自分の頬をふみふみ引っ張って、自制を促していたら、後ろからついでとばかりに一緒に頬を引っ張られた。
眠たそうな、火照って赤い楽しそうな顔で、きりこが私の頬を引っ張ってる。
くそう、遊びやがって。
「むむみみみみ……」
「どしたの、ゆいか?」
「なん! でも!! ない!!! はやく寝ちまえーーー!!!!」
そう、きっとこれは勘違い。
人はそう簡単に『特別』にはなれないし、なったところで全てを許せるわけじゃないんだから。
憤る私をよそに、きりこはなんでか楽しそうに笑ってて。
ようやく眠りについて、静かになったのはお昼も回ったころだった。
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