5月19日 きりこはゆいかとプールに来た
昔から水の中を潜るのが好きだった。
頭から水底に向かって降りると、水面を越えた先で世界が変わる。
面を一つ隔てて世界の全てが塗り替わる、色が、音が、肌触りが、匂いが、吐く息さえ変わってく。
プールの底を反射した色が一面に広がる、水面を仰げば滲んで乱反射したよくわからない景色だけが瞬いている。
音は須らく水の音に変わる。私が潜る音、人が歩く音、誰かの声、その全てが水の音になる。ごぼり、ごぼりと気泡が耳の傍を通り過ぎていく。
肌触りも当たり前だけど、水だ。全身を少し冷たい何かかが覆ってる。足を動かせばその何かが確かに後ろに流れていく身体の隅の隅に至るまで、それは撫でる様に私の横を通り過ぎていく。
塩素の匂いが少し鼻を衝く。
零れる泡が口の奥から漏れていく。
水面に上がっていくそれを水底から私はぼんやりと見上げていた。
じわっと視界を滲むものがあった。
水中メガネの中に、水が入ってきたんだ。
少し、涙を流す感覚に似てる。でも、私、前に泣いたのいつだっけ。
答えを出さないまま、水底を蹴った。
水の中が好きな理由がもう一つある。
潜っている間は何も考えなくていいことだ。
水の中を揺蕩うその時には、きっと今しかないから。
そんなことを考えていたら。
水面に上がり際、見知ったお腹が見えた。ちょっと私より肉付きのいい女のこっぽいお腹。
せっかくなので、そっちに進路を変える。
「っぶっは!!」
「どぅわぁぁ!!?? びっくりしたあぁ!?」
勢いよく水面に上がると、隣でゆいかが本気でびっくりしていた。うん、やはり私のお腹審美眼は間違えていなかったらしい。
「ゆいか、いい水着だね。かわいい」
「え、うん、ありがとう。……何故、このタイミング?」
「ん? いや、なんとなく、水の中から見て思ったから」
「ふーん……えへへ」
魚雷よろしく、水中から突然出てきたことを棚上げして褒めると、ゆいかはだらしなく笑みを浮かべた。照れている、うん、非常にわかりやすくていいね。私はそんな彼女に軽く微笑んで、そのまま並走する形で背泳ぎをはじめる。
ちなみにゆいかはビート板をもってクロールの練習をしていた。最初は、ビート板なしで頑張っていたけど、「思ったより疲れる」ということで今はぷかぷか浮いている。最近、運動を始めたみたいだけど、まだまだ体力は足りてないらしい。
そのまま並走して泳いで二人で一旦、プールサイドについた。
それぞれ、プールから一旦上がって、息を整える。
ゆいかが伸びをする横で、私もふぅと息を吐いて、少しからだを震わせた。
久しぶりだから、どうにも水の冷たさに身体が慣れない。
ふと、横を見るとゆいかはとことこと、プールの入り口まで行くとビート板を元の場所に戻していた。どうやら、今度はなしで泳ぐらしい。
そんな私の視線を感じてか、ゆいかはふんふんと腕を回す。
「よし! 最後に25メートル泳いでくる! 脚をつくのは一回まで!」
「はは、頑張れー」
私は軽く手を振って、意気込むゆいかを見送った。ゆいかなりに頑張っているみたいで微笑ましい。
この一か月半ほどでわかったことだが、ゆいかは結構、頑張り屋だ。
努力もするし、いつも自分なりのゴールを決めている。ゲームをしてても、それは同じ。だから上手くなるのだろうか。
そんなことを考えていると、思わず少し背筋が震えて、軽く自分の身体を抱く。あれ、思ったより冷えている。風邪、引かないといいけどな。
ちなみにゆいかは無事、足を二回ついて25メートル泳ぎ切った。やったじゃんって言ったら、ちょっとへこんでた。はは、泳ぎ切りたかったのね。
※
「雨っすね」
「雨ですな」
プールで泳ぎおえて、疲労を抱えながらプールを出た私たちは思わず空を仰ぎ見た。
ぽつぽつと、大雨でもないけれど、歩いていれば確実に濡れてしまうではあろう雨が降っている。
私とゆいかは思わずお互いの顔を見て苦笑いした。お互い、雨が降るなんて微塵も考えてなかった。
「傘持ってる?」
「もってなーい」
「ちなみに天気予報は?」
「まだしばらく雨だねー」
雨が降ってる、このままでは帰れない。
でも、もうすぐ高校の下校時刻も近い。
そうすれば、もしかしたら、知り合いに出会ったりしてしまうかもしれない。
「早く帰らないとだねー」
「そだねー、風邪ひいちゃうし」
と、そんな話をしているとふと思いつくことがあった。
だって、どうせ、濡れてるようなもんだし。
帰っても誰もいないのだから、そのままシャワーを浴びてしまえばいい。どうせ、そのつもりだったし。
「走るか」
「まじで」
そう、こんな時間、どうせ私たち以外は誰も見ていないわけだし。
この雨の中を突っ切っていけばいいのだ、何も、気にせずに。
「うん、行こ。ゆいか」
「はは、しゃーないなー」
突飛な提案の割に、ゆいかはすんなりに乗ってくれた。
私はにやっと笑って、足を一歩、前に踏み出した。
一歩踏み出したその先では、確かに雨が降っている。
そうしてしまえば、きっと全身ずぶ濡れで、下着も透けて、他人様からの眼もそれなりに厳しいかもしれない。
そんな、きっと普通に学校に通っていたら、決して超えない境界線を。
私はそっと気楽に飛び越えた。
ぽつりと音が鳴る。
雨粒が一つ、靴に落ちた。
踏み出す。
踏み出す。
脚も、頭も、腕も、カバンも。
何もかも。
雨の中に踏み出していく。
水が染みる。
視界が濡れる。
肌が湿る。
雨音が鼓膜を揺らしてく。
「あはは!!」
「お、めずらしく、きりこのテンションがたかーい」
勢いよく走り出すと、後ろでゆいかが困ったように笑いながらついてきた。
なんでだろう、なんでかな。
でも、なんでか楽しいのは確かだった。
呆れるほどに楽しくて。
笑えるほどに虚しくて。
怖いほどに寂しかった。
暖かさと、可笑しさと、切なさと、冷たさが。
震える身体の中に一緒に住んでいる。
なんでだろ。
意味、わかんないね。
私も意味、わかんないや。
熱い何かが頬に零れた。
でも、雨っていいな。
だって、泣いてても分かんないし。
大笑いしながら、泣いてたら普通、どうしたのって心配したり、怖がられたりしてしまうけれど。
この狂おしさの中なら、何を言っても、何をしててもきっと、気にならない。
あは。
あはは。
あはははは。
なんだろう。
なんなんだろう。
気づけば、ネジが外れてる。
きっと大事なネジが外れてる。
ゆいか、大丈夫かな。こんな私で、困ったりしてないかな。
振り返ったゆいかは相変わらず困った顔で、私の後についてきてくれている。
そんな彼女を見て笑いながら、自転車に跨った。笑いながら、帰り道を急いだ。
ゆいかと一緒に。
取っ散らかった心で笑った。
整理もつかない想いで笑った。
意味すら、価値すら、認めぬまんま。
ただただ笑って、雨に塗られながら自転車を漕いだ。
ふと、後ろを振り返ると。
ゆいかはちょっとだけ悲しそうな眼をしてた。
気のせいかな。わかんないけど。
でも、なんでだろ。
おかしいな。
おかしいな。
今日は何があったっけ。
ゆいかと一緒に来て。
着替えて、胸おっきいなあ、私とどんだけ差あんのよって、ちょっと呆れて。
女の子っぽいなって、ちょっと
プールで泳いで、潜って、ゆいかが25メートルなんとか
そしたら。
そしたら。
帰りに雨が降っていた。
ただ、それだけだ。
悲しいことなんて何にもない。
ただ楽しいことをしようとした。
それだけだ。
なのに、どうして。
こんなに。
悲しくなるんだろう。
虚しくなるんだろう。
どうして、どうして。
誤魔化すためにただ笑った。いや、楽しいのも紛れもなく本当なんだけど。
でも、笑い声はいつのまにか尽きていて。
私達は、ただ無言で帰っていた。
雨の中、二人、無言で、帰ってた。
※
アパートまで帰り着いて、二人してそれぞれの部屋に戻った。
シャワーを浴びて、服も着替えて。
それからは意味もなく、訳もなくぼーっとしてた。
ゲームをする気にもなれなくて、ゆいかに連絡を取る気にもなれなくて。
疲労と痛みだけが身体を覆ってて、部屋のベッドに座り込んだら指先の一つまで動かなかった。
ガタンガタンと音がする。
窓の外から。音の鳴るほうを見ようとしたけれど、首の一つも動かない。
がらっと窓の開く音がして。
ちょっと湿った足跡が視界の端で一つずつ私に近づいた。
ああもう、雨で手すりが滑るのに、危ないなあとか考えてたら。
そっと頭に手が乗った。
その手が優しく、撫でていく。
私をすっと撫でていく。
撫でられる手の勢いに任せて、ゆいかの身体にしなだれかかった。
ゆいかの身体は柔らかい。私より随分と
目を閉じる。
ゆいかの体温がある。少し雨に濡れた湿った感覚がある。シャワーの匂いがする。頭を撫でられる感覚がある。
雨音がする。ゆいかの息の音が聞こえる。ゆいかの心臓の音が、聞こえる。
ああ。
ああ。
ああ。
あと。
私の涙の味がした。
「つらい?」
「……つらい」
「なんで?」
「……わかんない」
「今日、つまんなかった?」
「……ううん、楽しかった」
雨の音がする。窓が開いてるから、湿った風が吹き込んでくる。
ゆいかが喋るたび、胸が上下する。声と同時に身体が弱く震えてる。
どうしてこんなに苦しいの。
どうしてこんなに悲しいの。
そんな意味すら分からぬまんま、そんな価値すらわからぬまんま。
楽しかった、はずなのに。
「泣いてていいよ、どうせ雨だし」
「……うん」
なにがどうせなのかは分からないけれど。
言われるがまま、私はゆいかの胸にうずくまってた。
そう。
どうせ雨だし。
きっと私の泣き声も。
ゆいか以外には聞こえてない。
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