5月19日 ゆいかはきりことプールに行く

 「きりこー」


 「んー?」


 「プール行こうよ、プール。晴れたら行こうって言ってたじゃん」


 「んー、結構晴れてた日はあったと思うけど、今更だね」


 「今更だけどさー、ふと思い出しちゃったんだ、行きたいじゃん? それにほら水泳は健康にもいいんだぜー」


 「んー……この試合終わったらでいい?」


 「おっけー、つい癖で『つづけてたいせん』を押すんじゃあないぜ?」


 「あ、押しちゃった」


 「おいこら」


 空は晴れて、夏かと見紛うばかりの日差しが今日もせっせと降り注いでいる。


 そんな暑い中、ゲームのランク上げにいそしむきりこを連れだして、近所の室内プールまで私たちは出かけることにした。


 時刻は日も昇り切った平日の午前11時過ぎ。


 住宅地と田んぼを抜けて、私達はそれぞれの自転車を漕いでいく。


 この時間の住宅地は、人も車もまばらでガス回収のおじさんや、散歩をしているおじいちゃんおばあちゃん、そして私らみたいなサボり学生しかうろついていない。


 自転車のチェーンを転がしながら、晴れた日差しの中を唸り声を上げて、私達はプールに向かう。


 その間、きりこは何も言わず、若干日差しに眼を細めながら私の後ろをついてきた。自転車の車上故、話すこともあまりない。


 無言で自転車を漕ぐ時間の中、ぼんやりと考える。


 二週間ほど前、私が意味もなく大きく取り乱したことがあった。部屋にこもって、動けなくなった。


 特別なにかがあった……ってわけじゃない。


 むしろよくあることだった。


 特に意味もない不安も、外の世界に対する恐怖も、私にとっては、ありふれたいつも通りのことだった。


 きりこと出会うまで、私は大体一週間に一度は、酷い時は二・三日に一回くらい。


 意味もなく泣いて、意味もなく震えて、意味もなくベッドから動けなくなったりしたのだ。


 むしろ、きりこと出会って一か月近く症状が出てこなかったのが奇跡に近かったわけで。


 ただ、そんなことも知らないきりこだけど、それ以降、あのことについては何も触れてこない。


 どうして、あんなことになったのか、あの後、私がどう想っているのかとか。


 何も、何も聞いてこない。


 ただ、いつも通りゲームして、ただ、いつも通り他愛のない話を繰り返してた。


 そんな二週間だった。


 寂しさと安堵が入り混じった、壁越しに背中合わせでいるようなそんな距離感で私達は、相も変わらず過ごしている。


 大事な秘密は隠したまんま、重すぎる痛みには触れないまんま、傷つけないように、傷つかないように、でもお互い寂しくない様に、隣にいる。


 それでいい、というか、そうじゃないと私たちの関係は簡単に崩れ去ってしまうのだけど。


 それでも、少し寂しいと想っているのは。


 きっとこの一年、私があまりに人の心に触れなさ過ぎたからだろう。


 だって、きりこにとって私は一か月前に出会ったぽっと出の友達でしかないのだから。


 私ときりこじゃ、いろんなことがきっと違う。求めることも、抱えてるのもの。


 私達が触れあえる範囲は、踏み込める範囲はきっと決まっている。


 だから芽吹き始めた衝動の芽を、私はそっと棚の奥にしまい込んだ。


 きっと、これがあると今の関係が壊れてしまうから。


 その芽がどんな名前かすら、見つめぬまんま。


 「ひゃっはー!! プールじゃー!!」


 「ゆいか、なんかテンションたかくない?」


 今はただ、何も考えずに、笑っていたいのだ。



 ※



 市が運営する屋内プールに辿り着いた私たちは、受付でお金を払ってそのまま更衣室に入った。


 屋内のプールの空気はどことなく重く、独特だ。塩素の匂いと湿気が充満しているからかもしれない。


 時間も時間だから、まばらな人の中、私たちはいそいそと更衣室に入っていく、私たち以外にも主婦らしき人が一人いたけれど、早々に出ていったので私たちは二人だけになった。


 「なつかし、中学以来だ」


 「ふーん……」


 ちょっとどぎまぎ、かつわくわくする私を置いて。きりこはそう言って、よいせと肩に下げていたリュックから荷物を取り出していく。……今更だけど肩掛けの運動器具メーカーのロゴが入ったバッグは、運動部が部活で使うそれだった。元運動部だったのかな。


 いくつか質問が浮かんだけど、それはきりこが学校に通っていたころの記憶を掘り出させるものだから、私はそっと口を噤んだ。ただ、心はちょっとうきうきしたまんま。だって、友達と二人でプールに行くなんて、昔の私じゃ考えられなかった。うきうきを通り越してちょっとどきどきしてさえいる。


 「っていうか、水着はいるかなあ……いや、そんな変わってないし行けるか」


 そんな私の隣で、きりこは水着を広げてうんうんと唸っていた。きりこが持っている水着は、いかにも授業で使っていましたと言わんばかりのスクール水着で、中学以来というから仕方ないけど、少しくたびれている。まあ、まあそんなきりこの姿も新鮮だよとは口にしないまんま。


 とりあえず、折角なので私は意味もなく胸を張って、ドヤ顔をかましてみた。


 何せ、今日の私はしっかりと準備してきたのだから。お披露目するのが待ち遠しかったりした。


 「ふふん、きりこさん。そんなのでは最新のトレンドに乗り遅れてよ」


 「そういう、ゆいかお嬢様はどんな水着なのよ」


 適当に口調を変えたけど意外とノッテくれたのが嬉しくて、勢いのまま私は自分のカバンからバーンと自分用の水着を出した。ネットでポチったやつでいかにもかわいいフリルがついた白の水着だ。自分で言うのもなんだけど、ざ・可愛い若者が来てるって感じのする水着である。うん、この発想自体が世間に取り残されてる感があるとか知らん。でも、新しい水着ってやっぱりわくわくする、友達に見せるとなればなおのこと。おかげでがらにもなくかわいいのを探してきたりしたのだ。私服の九割を親に頼っているこの私がだよ。


 そんな感じで上機嫌に水着をお披露目する私にきりこは、おおーと低めのテンションだけど拍手をくれる。それに調子をよくして、私はなお胸を張った。ふふん、いい、すごくいいですわと、脳内のお嬢様も絶好調。


 「へへーん、どうでございますか、これ」


 「いいじゃん、かわいい」


 「うへへ、でしょ? ……まあ、私スクール水着を買ったのが昔過ぎて、サイズ変わってて入んなかっただけなんだけどね……」


 「Oh……」


 とまあ、自分でカミングアウトして、若干へこみつつも、私達はロッカーに荷物を突っ込んで各々着替え始めたのだった。


 なんとなく、自分から裸になるのが気恥ずかしくて私がどうしよと躊躇っていたら、隣できりこは勢いよくがばっとズボンを脱いだ。下着ごと。


 「……」


 「ん? どしたのゆいか?」


 下半身まっぱの……といってもゆるめのシャツを着ていたから、大事なところは見えないけれど、きりこが首を傾げて私を見てくる。私は思わず、そんなきりこから目を逸らしながら、慌てて口を動かす。


 「え? いや、なんか漢らしく御脱ぎになるなと思いましてよ……おほほ」


 「ん? ああ、部活の時の癖でさ、秒で着替えるために勢いよく脱いじゃうんだよね」


 「そ……そっかあ」


 「どうせ下着も部屋用の緩いやつだし、ま、大丈夫だよ」


 そう言いながら、きりこは言葉通りすさまじい速度でシャツとブラジャーを外すと、早々に水着に手をかけた。……同性の前とはいえ隠すこともなく全裸になっている。どうなんだろう、と想いつつもそれを口にしてしまえば、私は変に意識していますと告白するようなものなわけで、言えるわけがない。


 悩んだ末に私はまじまじと見ないよう努力しながら、頑張って自分の着替えに集中することにした。うん、してる、してる。偶にちらっと見ちゃうけど、ちゃんと集中してる。うん。


 きりこの身体は細くてスレンダーって感じだ。背も私より少し高めでそんな綺麗な身体が、今、私の目の前であられもない姿になっているのは、こう、なんか、あれだ。色々と想ってしまうのは、私がおかしいからだろうか。


 というか、私の水泳の記憶では、みんな身体を覆うマント的なタオルを着てせっせと隠しながら着替えいていた気がするのだけど、高校生というのはみんなこうなのだろうか。中学の水泳は一切出ていなかったから、そこら辺の知識に疎いな……。


 私はそんな自分の過去に少し歯がみしつつも、小学校の頃から使っている丈の短い自分用のタオルを羽織って、こそこそと着替えた。タオルがはためかないようゆっくりとズボンを下ろしてそれから下着をずらす、それで水着をつけて—————。


 「あの……きりこさん」


 「なに?」


 「そんなに視られると、着替えにくいんだけど」


 「あ———、ごめんごめん。暇だったから、つい」


 言葉通り、すでに着替えを終えたきりこは水中眼鏡を頭にひっかけて、水泳帽までばっちり装着した状態でじっと私を見ていた。眼を見てれば、やましい気持ちも下世話な気持ちも湧いてないのはわかる。だって、なんといか、無の表情だもの。対して私はちょっと顔が熱くなるのだもの。


 私はきりこ監督の監視下のもと、一人恥ずかしさを抱えたまま、こそこそとタオルの中で着替えをしていく。とりあえずもじもじと恥じらいながら、恐らく私の人生で最も乙女らしく着替えを終えて、着替えのタオルをいざ外そうとなった。しかし、それでもなおきりこはじっと私を見ていた。あいもかわらず、無の表情で。


 ……なんでそんな見てるんだろう。恥ずかしいんだけど、いや、恥ずかしがっちゃだめだ、多分恥ずかしがってる方が恥ずかしいやつだこれ。ここは、あれだ、こうばーんって、勢いよく開示しちゃった方がいいのだ。きっとそうだ、うん。


 焦りと火照りと恥ずかしさでよくわかんなくなった私のテンションは、とりあえず勢いで解決しろ言わんばかりに声を張り上げさせる。


 「というわけでオープン!!」


 見られるなら、もっと見せちゃえ、ホトトギス。


 私は漫画の怪盗張りにマントをはためかせると、ざっと自分の水着姿を晒した。それに対してきりこは変わらず無の表情、うん、そうだよね。気にしてるのなんて私だけ。そう、私だけ。邪な心なんてきりこにはありっこない。……うん、そう……私だけだよね。あれ、なんでこんな私馬鹿みたいに恥ずかしがってるんだろう……なんか情けなさに泣きたくなってきた。


 そんな風に、一人心の中でさめざめと涙を流す私をよそに、きりこはぼそっと口を開いた。


 私の一点を凝視しながら。



 「ゆいかって胸でっかいよねー」


 

 思わず、白の水着姿をさらしたまま固まる私をよそに、相も変わらずな感じで、きりこは私の水着姿をっていうか私の胸をじっと見ている。そして、そこには一年の引きこもり生活の末、私が確かに蓄えてきた脂肪の塊があるのだった。そして、水着の端にはそのおこぼれたる、脂たちもちょっとだけ、のっているのである。うん、ちょっとだけな。


 しばし、沈黙が続く。


 なぜか、きりこも固まっている。


 なんかいたたまれなくなって、私はそっと無言で天井を仰いだ。


 しかし、胸がおっきい、胸がおっきいかー。いや、そこそこはあると思う、きりこに比べればそりゃあるけれど。


 胸がおっきいだけでそんな『無』の表情、いたします?


 その無の奥に、何か別の意思があるのでなくて?


 その言葉は、太っているととるべきか、やましい目で見られていたととるべきか。


 もう一度、きりこの顔を窺うけれど、彼女の無の表情は私に何も教えてはくれなかった。

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