5月3日 きりこはゆいかと外へ行くー②
誰かの声がする。
意味は色々だけど、要するに自分が誰かを助けることで、自分に価値があるんだって思い込もうとする人のこと。
自分に自信がないから、誰かを助けることで埋め合わせしてんの、あんたみたいに。
つまりさ、要するに、全部あんたの自己満なんだよ。
そんな、いつかの誰かの声がした。
私はその言葉に、なんて返したっけ。
確か、「そうね」って、返したんだっけ。
※
食事を終えたころにゆいかを迎えに行った。
玄関を開けて顔を出したゆいかは、落ち込んでいたのがちょっとマシになった感じはしたけれど、まだ暗い雰囲気だった。
「はろー、ゆいか」
「……うん」
色々話してみるけれど、返事はずっと、うんとか、そうとか、そっけない感じ。話していてもどうにも話が進まなくて、少し玄関で立ち尽くしてしまう。
仕方ないので、無理矢理話題を変えることにした。
「まあ、いいや。どっか行こ、自転車でも乗ってさ」
そう言って、返事を聞かずにゆいかの手を取った。外行きの服を着こんだ私と違って、ゆいかはまだ部屋着のままで、でもそんなの気にせず私はその手を引っ張った。なんとなく今、部屋の中に返したら、もうしばらく出てこない気がしたから。
だから、ゆいかの事情も考えずに手を取って、外に連れ出した。
後ろで、えっ、って声がするけれど、ごめんね今は聞かないから。
五月に入りかけの日差しは少し暑くて、それを上塗りするみたいにアパートの手すりの向こうから涼しい風が吹いてくる。
いい風だ。
勢いがあって、耳元でびゅうびゅうと音が鳴る。
そんな風に背中を押されて、アパートの階段をゆいかの手を引きながら勢いのまま駆け下りる。
後ろを見ると、ゆいかがちょっと慌てたような顔で、パジャマ姿のまま必死に私についてきてる。
私が手を引っ張ってるからね、油断したらこけちゃうもんね。
そんな風に、ちょっと慌ててるゆいかが面白かった。きっと、さっきまで暗い気持ちに支配されていた脳みそは、今、どうやったら私に引っ張られずにこけないかで一杯一杯だ。
面白かったから。そのまま、ゆいかがこけない程度の速さで、階段を駆け下りていく。
少し乱れた息が私の後ろから聞こえてくる。
こっそりとほくそ笑んで、階段をかけ降りたら、そのまま自転車置き場まで走った。スピード上げて、ゆいかをぐんぐん引っ張っていく。
自転車の所に着いたら、手を離した。
それから、ポケットから自転車の鍵を取り出して、指の中で軽く回す。
「さあ、行こう?」
振り返ってそう声をかけたら、ゆいかは息を荒げながら、ちょっと呆れたような視線を私に向けてきた。あらら、ちょっと不機嫌かな?
「カギ……持ってきてないから」
「あら」
「だって、……取りに行く暇なかったし。……パジャマのままだし」
そう呟いて、俯いてしまう。……なんでか知んないけど、落ち込んでる。悪いのは勝手に連れてきた私なのに、なんでゆいかが落ち込んでるんだか。まじめなのかなあ。
ちょっと笑って、私は自分の自転車にカギを差して跨った。それから自分の後ろを指で差す。
「じゃ、二ケツでいこ。警察に見つかんないようにね」
「見つかったら不登校と二人乗りのダブル補導じゃん」
「そん時は警察に人生相談にでも乗ってもらおう」
私が笑ってそう言うと、ゆいかは少しため息をついた。でもその後、仕方ないとでもいう風に私の後ろに腰を下ろした。それから私の肩に頭を預けて、手を腰に回してくる。うん、ちゃんと乗ってくれた。
私は笑みを抱えたまま、勢いをつけようと、ペダルを思いっきり力強く踏んだ。
ただ、思いのほか反動が強くてバランスが崩れる。
「わたっ……」
二人してちょっと慌てて同じように足をつく。それからふうっと息を吐いてから、後ろを見た。ゆいかはちょっと慌てたような顔で、私を見てる。
「きりこ、大丈夫? ……って、なんで笑ってるの?」
「ん、別にい?」
そう言って私は、隠していた笑みをそのまま晒した。
出会ってたった1か月。わかることなんて、たかが知れていて。
ゆいかは明るくて優しくてゲームが上手くて、引きこもり。
私は、それくらいしか知らない、それくらいしかわからない。
もちろん、学校に行けてないのだから、何かしらの理由があったのだと思う。
それがおっきな理由か、ちっちゃな理由か、はっきりしたものか、曖昧なものかすらわからないけど。
当たり前だけど、ずっと何かを抱えているんだ。私と一緒で。
それがなんとなく、嬉しいなんて、言ったらゆいかは怒るかな。
「早く行こう。きりこ」
「うん、いこっか」
それを聞くのはまだ怖い。
だから今は、何も聞かないままで。
ガンとペダルに力を入れた。重い何かが引っかかるような感じの後、ゆっくりと自転車が前に進む。
2ケツのコツは常にスピードを出し続けること。
ある程度スピードが乗ってくると、自転車は勝手に安定する。
進み続けるものは、それだけでこけにくくなるから。
だから今はただ、前に進めばいい。
どこに行くか、考えるのはスピードが乗ったそれからでも遅くはない。
ガン、ガンと重いペダルが音を立てる。
でも最初よりは確実に軽く、そして進んでいるという実感が私とゆいかを前に連れていく。
「どこ行くの?」
「しっらなーい」
その日はよく風が吹く午後だった。
日に照らされて、風に押されて。
無理に呼吸しなくても、風が勝手に肺を動かしていく。
ガタン、ガタンと音が鳴る。
先も決めずに進んでく、どこに行こうか、何をしようか。
そんなことすら置き去りにして、アパートを越えて、住宅街を越えて、田んぼを越えて、川を越えて、進んでいこう。
意味すら何もわからぬまんま、価値すら何もわからぬまんま。
ゆいかがぎゅっと私の背中に張り付いた。
そんな感触をただ感じながら。
※
自転車を漕ぎまわったのは多分、時間にしたら一時間かそこらくらい。
そんなに短くもないけれど、そんなに長くもない頃だ。
ただ運動不足の身体が疲れて、喉が渇くにはちょうどいいころ合いだった。
自転車に乗って、あちこちを回った。いつも行くところから、普段いったことのないところまで。
二人乗りは段差に弱いから、坂道は避けて、警察が怖いから大通りも避けて。
川の傍や公園の傍、図書館の近くとかとりあえず通ってて気持ちよさそうなところを延々と漕ぎ続けてた。
その間、ゆいかと喋ったことはほとんどなくて。
この道どっち行く、右、とか。
川がある、そうね、とか。
喉乾いた、うん、とか。
そんなことばっかり。
話してるけど、心の奥は何にも伝わってこない。そんな会話。
まあ、いつもゲームしてる時もそうだけど。
私達はいつもそう、肝心なことは何も言わない。言わないまま一緒にいる。
私達がなんで引きこもってるとか。
今、何が不安かとか。
どんなことで苦しんでるとか。
どうやって助けて欲しいとか。
これから具体的にどうするとか。
そんなことは何も言わない。
大事な部分に触れないまま当り障りのない話にばかり終始する。
助けたいのに、助けた方が分からない。
助けられたいのに、助けられ方が分からない。
いや、わかっているんだけど、踏み出す勇気がないって言った方がいいのかな。
だから今日も、何も言わないまま帰ってきた。
すぐ隣で傷口が開いているのはわかるのに、触れることすらしなかった。
でも、それでもそんな不安じゃないのは、今日が晴れた日だったからかな。
気持ちいい風が吹いてたからかな。
自転車を降りて、ぐーって伸びをする。
わきの下が思いっきり伸びて、ゲームで凝った肩がごきごき音を立てながら、血を通していく。
「のっどかわいたー」
「……ずっと漕いでたもんね」
「うん、部屋戻って。なんか飲んでくるわー。……ゆいかはこの後、どうする?」
「私も喉乾いた……この後は、どうしよっかな」
自転車にカギをかけて、アパートの階段を二人で登る。当たり前だけど、平日のアパートは人気が少なくて。私達の足音すらよく響く。どこか遠くで、掃除機の鳴る音すらよく聞こえてくる。
「なんでもいいよ、ゲームする?」
「……うん、きりこの部屋でやってもいい?」
「うん、どーぞ。おやつはポテチのうすしおしか出てこないよ?」
「いーよ、気にしなくて」
「そう? 実はコンソメがいいとか思ってない?」
「思ってないよ」
ゆいかの声はどこか平坦だけど、なんとなく憑き物が落ちたような感じがしていた。
高くもなく、低くもない、そんな声。
落ち込んでいた気分も少しはましになったかな。
そうだと想いたいのは、多分、私の願望で。
どうだろ難しいからね、こういうのは。
なってみて分かったけど、引きこもりの悩みは当人すらよくわからないものだ。
何が不安なのか、何が辛いのか、どうすれば解決するのか、自分がどうしたいのか。
全部が全部わからなくて、できることもないから、ただ立ち止まってる。
自分についた傷の意味すら私たちは知らないまんまだ。
だから、ただ、隣にいるだけ。
それくらいしかできないし、それくらいしかやれることがない。
きっとそれに意味があるって信じながら。
いつか、大事なことをゆいかと話せる日がくるのかな。
そんなことを考えた。
「じゃ、後でね。ゆいか」
「うん、後でね。きりこ」
それから、願う。
手を振る君が、この後ちゃんと私の部屋に来れる様に。
笑顔の君が、その顔を無理して作っていない様に。
信じてもいない神様に、独り、こっそりと願っていた。
※
誰かの声がする。
つまりさ、要するに、全部、私の自己満なんだよ。
でも、それでも誰かがちょっとでもマシになるならさ。
それでいいんじゃないかって、私はわがままに思うんだよ。
だって、ゆいかが救われたら、きっと私も救われる。
そんな気がしてるから。
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