5月3日 きりこはゆいかと外へ行くー①

 その日、ゆいかは朝に私の部屋に来なかった。


 それ自体は、たまにあることだったけど、朝食を終えて10時ごろになっても、連絡の一つも来なかった。


 ゲームを起動しても、ゆいかはオンラインになってない。ゲームすらつけていない。


 しばらくそのまま、ゲームをしてなんとなく集中できなかったから、ラインを飛ばした。


 『はろー、おきてるー? ゲームしよー』


 朝の挨拶。ただ、それだけの内容。


 でも、既読はつかなかった。


 10分経って、20分経って、30分経って、一時間たった。


 訝しさと同時に、何だろう、何とも言えない予感があった。


 なんてことはないはずだけど、そうではないような。


 普通に考えれば大したことじゃないはずだけど、そうでもないような。


 部屋に独りでこもっているから、分かってしまう。そういう嫌な予感があった。


 壁に耳を当てた。人がごそごそと緩慢に動く音がする。


 そこに誰かいるのだろう。そのうえで、反応をしていない。


 嫌な予感がする。


 なんか心配だ。


 気のせいならいい。


 ダメならさっさと退散しよう。


 言い訳をしょいこんで、それだけ決めて、窓をガラッと開けた。


 日差しが少し眩しく、ほんのり熱を帯びた風が私の頬を揺らした。


 雲の少ない五月の晴れ模様。そろそろゴールデンウィークも近い、そんな日和。


 視界を巡らして隣の部屋のベランダを見やる。


 そこにはいつもゆいかが飛び越している、おなかくらいの高さのベランダの柵が隣の部屋へと続いてる。


 幅は10センチあるかないかくらい、隙間に入って落ちるようなことはないけれど、真横に滑ったらわからない。


 三階だから死にはしないだろうけど………いや、打ちどころ悪かったら死ぬかな。


 引きこもりをしていてわかったことだが、どうもこういうときも思考が平坦になる。


 変化が少なく、毎日同じことの繰り返しだからだろうか。


 その分、新しいことへの忌避や恐怖も大きくなる。


 その柵は私は飛び越えれるだろうか。失敗したら大けがかな、怒られるかな、今後ここを使うなって言われるかも。


 わからない、そんなことわかりはしないけれど。



 平坦な心のまま飛び越えた。



 恐怖も不安も、端から見れば些細なそれを乗り越えて、無視をした。


 そういえば、ゆいかは毎朝こんな体験をしているのかな。


 慣れれば大したことはないのだろうか。


 というか、私側からここを飛び越えたことは、今までなかった。


 飛び越えた後にそんなことを思い出して、ベランダの向こう側、他人様のおうちに着地する。


 コンクリートに着地した足が痛くて少し顔をしかめた。


 サンダルはいてくればよかったと思うけど、時すでに遅し。短慮な自分に舌打ちしながら首を巡らした。


 ユイカの部屋は、窓は締め切られていて、カーテンも閉まってる。


 開けようと手を伸ばしたら、がっと思いっきり引っかかった。


 ……そうか、私側がいつも開けっ放しだから忘れてたけど、窓って普通、鍵かけるもんね。


 なにせ三階とか、頑張れば空き巣も入ってこれるわけだし。


 閉じてたって不思議じゃない、不思議じゃないけど少しもやっとしたものを抱えながら、思案。


 仕方ないので、こんこんと窓ガラスをノックする。あんまり強くやると威嚇みたいになっちゃうから、絶妙な強さで。


 それから、ゆいかが出てくるのをじっと待つ。


 —————不思議な気持ちだった。


 緊張してる。変なことしてるから、やったことないことをしているから。


 でも同時に、すごく落ち着いていた。


 これは必要なことだって。


 これはやらなきゃいけないことだって。


 よくわかんない確信があったから。


 出会って一か月のやつに一体、何がわかるのかと言われれば、何とも言えないけれど。


 それでも、これは必要なことなのだ。ゆいかにとって必要なことだ。


 ……多分ね。


 10秒くらいしたら、カーテンを開けて、ゆいかが顔を出してきた。


 なにがあったのか酷い顔してる。


 くまが酷くて、表情は暗くて、ちょっと泣いたみたいな跡がある。


 そんで私を見てなんでか余計に泣きそうになってる。はてさて、なんでなんだか。


 何はともあれ、このままじゃ話もできないので、私は鍵を指さして、口をパクパクさせる。


 「開けて」


 ってそういう、意図を込めて。


 ただ、その言葉に反応することなく、ゆいかはじっとその場で俯いた。迷ってる、かな。


 ……開けて、くれるかな。


 私だったら、開けるかな。どうだろう、わかんないな。


 きっと、何か辛いことがあったんだ。


 きっと、何かしんどい考えが思い浮かんだんだ。


 それが何かは私には想像もつかないけれど。


 助けてほしいんだと思う。


 聞いてほしいんだと思う。


 でも、多分、同時にすごく怖いのだと、思う。


 だって開けてしまえば、その人の言葉を聞かないといけないから。


 向き合わないといけないから。


 開けてしまわなければ、独りだけど、誰の言葉も受け容れずに済むのだから。


 逃げてしまえるなら、逃げてしまいたいと思う。


 自分が抱えている弱さを、自分が背負っている醜さを、人に晒すのはそれほどまでに怖いことなのだから。


 相手に替えが効かなければ、効かないほど、嫌われたらもうどうしようもないのだから。


 ……私なら、そう想う。


 いや、多分、私がいつかそう想ったから、ゆいかにそう想っていて欲しいって勝手に期待してるだけかな。


 我ながら、独り善がりだ。


 自分に嫌気がさして、ため息をついた。引きこもる前に色々やらかして学んだんじゃなかったけ、私。まあ、そんなにわかりやすく変われば誰も苦労などしないかね。


 しばらくそのまま、ゆいかに動きはなかった。


 仕方ないので、何も分からないまま、私は背を向けて窓ガラスに体重を預けた。


 ぎっと窓枠がきしむ音がする。


 仕方ない、まあそう言うときもあるのだろう。


 そのままじっとしていたら、もう一度、窓枠がきしむ音がした。少しだけ後ろを窺うと、ゆいかが同じように窓ガラスに背を預けていた。


 俯いているから、表情は見えないけれど。泣いているのかな。


 結局、ゆいかがなんで泣いてるのかはわかんない。


 だって、何も言わないから、何も届かない。窓ガラスがあって、触れあうことすら今はできはしないけれど。


 でも、窓ガラスの向こうに確かにこの子の気配がする。


 それでいいかと想えてしまうのは、春の陽光が少し気持ちよすぎるせいだろうか。


 できるなら、部屋の中にもこの日差しが少しでも入って暖かくなっていれば、いいな。


 それでこの子の気持ちが少しでも暖かくなっているなら、それがいい。


 私のちっぽけな自己投影をする相手が、それで少しでもましになれるなら、それがいい。


 そうやって、風に吹かれながら、ちょうどいい陽気の中、日向ぼっこをして、私は長く息を吐いた。


 「ゆいか」


 声を出す。


 窓の向こうにも聞こえるよう、少し大きく声を出す。


 耳がぎしっと窓枠が動く音を聞いた。


 「ご飯食べたら、外いこ」


 この言葉は届くかな。


 あなたはまだ、前を向けるかな。


 全部、私の早とちりだったり、余計なお節介だったりするのかな。


 わからない。


 わからないまま、振り向いた。


 日差しの中、泣きながら私を見るゆいかの顔があった。


 どことなく、笑っているように見えるのは、きっと私の思い過ごしじゃない、はずだ。

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