第13話 奈落の底
祥子は不安に掻き立てられた。ミーヤキャット君が自殺した人だったのだろうか?別人であってほしい、真実が知りたくて仕方がなかった。
聴き逃していた○○君と言う名前も確認したくなった。
そして、この屈辱を誰かに共鳴して貰いたい、祥子は実習指導者の白田さんと会話をしたくなった。しかし病棟実習から二十五年も経過している。白田さんを探し出す手立てがない、しかしK病院には色々な年代の看護師がいて、協力を仰げば白田さんに辿り着けるかもしれない、そう思った祥子はK病院の旧知達に祥子の過去の被害のあらましを伝えてみた、しかし気の毒がってはくれるが、誰一人として協力してくれようとする者はいなかった。祥子がK病院を退職するときに、
「S病院には近づかない方がよい」とアドバイスをくれた人がいたことを思い出した。その人は現在K病院で看護部長をしている南さんだ。祥子はK病院の危機管理部に所属している、友人の山本さんに南さんと仲介を頼んでみた。彼女とは年賀状も交わし定期的に会食もしている仲であるから協力してくれるはずだ、しかし無下に断られ、それどころか、
「妄想だと思う、精神科に受診した方がよい」と言われたのだ。そうして彼女との長年の交流は途絶えることになった。また他の友人達も皆同様に差し障りのない対応で、協力してくれるものは誰一人なく、電話を掛けても、メールをしても応答はなかった。
意味深長な言動は過去の高校の同窓会の席でも遭遇している。同窓生でもありK病院の職員でもある深川君に電話を掛けてみると、既に亡くなっているお父様の声を真似て、居留守を使われた。こんなにも倦厭されているという実態を目の当たりにして、ようやく祥子は、山本さんは祥子を監視すべく近づいていたのではないかと疑うようになった。それは奈落の底に落とされたような衝撃だった。そして県立S病院と公立K病院は組織ぐるみで隠ぺいしているのではないかと疑い始めた。もしそうだとしたら接触は不可能だ、頼るべきは自分の記憶のみなのだ。
しかし意味深長な言動はあらゆる時代に散らばっている、心臓は唸りながら胸を締めてくる、祥子は死の恐怖に苛まれていたが、復讐できるのなら死んでも良いと思えた。
しかし精神が壊れる事だけはどうしても避けたかった。精神病になってしまっては被害者の負けなのだ、負けてなるものかと焦るから更に苦しくなる。もしかするとパニック障害に陥っているのかもしれない。祥子は自分自身が強くなれれば乗り越えられるのだと自分に言い聞かせ、心の中で〝強くなりたい″と念じるようになった。そんなある日、気持ちが楽になれる呪文を見つけることが出来た。
「ヒッヒッフーハッ、ヒッヒッフーハッ」と、ラマーズ呼吸法を繰り返しながら
「写真を見た奴、嘲笑した奴、娘も孫も、同じ目に遭え」と呪文をのせる。
「ヒッヒッフーハッ、ヒッヒッフーハッ、隠ぺいしたもの、傍観したもの、同じく同罪、同じ目に遭え」ほら楽になった、ふふふ。
祥子は念を唱えながらパソコンを叩き続けた。それは異様な光景であることが分かるが、正常に呼吸をするためにはやむを得なかったのだ、しかしある日、
「これ以上睡眠不足が続くと精神が壊れるから、寝るために精神科に受診した方が良い」と夫に勧められた。祥子は過去の記憶が蘇ったときには、堪え切れずに夫に話していた。妻の屈辱を聞かされるのは、夫にとっては堪えがたいものではあるだろうが、一度は聞いてくれていた。そして眠れずに布団の中でもがきながら朝を迎えた時、目覚めた夫は祥子の額を撫でてくれるのであった。夫は何を聞かされても動揺することはなかったが、祥子の苦闘に共鳴することもなかった。そのことが祥子にとっては歯がゆくもあったが、祥子がなんとか日常を過ごすことが出来ていたのは夫の存在があったからだ。その夫の勧めもあったし、山本から〝妄想″と言われたことが心外でもあったことから、精神科へ受診すること決意した。過去の記憶の蘇りが妄想ではないことを脳科学的に立証して貰いたかったのだ。
精神科医はこう言った。
「貴女はパニック障害ではありませんよ、パニック障害というのは、無意識のなかに突然起こる症状なのですが、貴方の場合は過去に意識を向けた時に症状が起こるのでしょう、それならば過去に意識を向けなければ良いのですよ。それから、貴方のような記憶の持ち主は長期記憶というのですよ。過去の出来事が場面として見えるのが特徴の、珍しい脳の持ち主なのですよ、ところで○○君の名前はちゃんと聞いていたのでしょう」
「さらっと聞き流していたので、自信はありません」
「でも聞こえていたでしょう」
「はい、自信はありませんが、ニキ君と聞こえました」
医師は〝ニキ君″の名前をカルテに書き込んだ。そして
「睡眠障害が続くと脳神経に支障をきたすかもしれないので、眠った方が良いです」と言って睡眠薬が処方された。
精神科医に妄想ではないと言ってもらえた事で、祥子は一筋の光を見たような気がして、力づけられた。しかも長期記憶の持ち主だと言われたのだ。S病院の連中に目にものを言わせてやれるではないか、そして、何食わぬ顔をして暮らしている当時の猥褻軍団を奈落の底に落としてやろうではないか、四十代五十代の親父が家族たちに軽蔑の眼差しで見られる日はすぐそこに来ているのだ。祥子はサイキ、シンジョウ、マキ、ヤギ、他のカワハギ達や、食堂で目の前に座っていた連中たちの顔を思い浮かべては嘲笑し、逆襲に挑むが如く書き続けた。
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