第11話 偽りの看護実習慰労会

 1993年、祥子30歳

 S病院循環器病棟の主任看護師と実習指導者と祥子の三人は中華料理屋に来ている。

「臨時教員の期間が終わったら、どこに就職するつもり、S病院に来れば」と実習指導者である白田さんに話しかけられた、その言葉に反応して白田さんの隣に座っている病棟主任が、肘で白田さんを突くのが見えた。

「光栄ですけれど、病院勤務は望んでいません、理由は癌になった父の闘病生活を看取ってから日が浅くて、癌患者さんを診ると感情移入してしまうから」と祥子は答える

「看護学校の教員を目指しているの」と主任さんに聞かれる

「そのつもりもないです」その言葉を聞いて強張っていた主任さんの表情が和んだ。

「いたずら電話とか、掛かってきた事はありますか」と突然会話が変わる

「しょっちゅうですよ」と答えると、二人は顔を見合って、

「えっ」と言う表情を見せた。その顔を見て逆に祥子の方が驚いてこう言った

「えっ、若い子だったら誰でも掛かってくるでしょう」

「ないない」とありえなそうに返答され、その反応に祥子の方が驚いていた。

「例えばどんな電話が掛かってくるの」

「夜中に、ハアハアと荒い息で」と言うと、二人は顔を見合わせ、

「えー」と驚き「他にも被害を受けていたりするの」と質問は続く、その時一瞬、二人の視線は隣のテーブルの男性客にも注がれている、祥子は話し始める。

「先日、近畿電力の人に、高所作業車の上から二階の私の部屋を覗かれていたかも知れないです。部屋の中から目が合ったのですが、一瞬同級生に似ていると思ったけれど、向こうは直ぐにうつむいたので帽子のつばで顔が確認できなかったし、本当に作業中だったら疑うのは気の毒なので、気のせいだと自分の言い聞かせているところなんです、電柱のないところで電線を触る工事って、あると思いますか」と話すと、二人はまたもや顔を見合わせながら驚き、そして一瞬、またも視線は隣の客に注がれた。隣の客はおそらくS病院の事務管理職の立場の人だったのだろう。

「他にも何かある」と質問は続く

「母が悪戯電話を受けたのですが『今なら無料で、お嬢さんが性病かどうか診察してあげる』と言われたみたいです、母は『娘はそんなふしだらな行為はしません』と言い返したらしく、そしたら『親が知らないだけですよ』と言われたそうで怒っていました、私は『そんな電話、無視して切ればいい』と言っているのですが・・・」

 話し始めた祥子は封を切ったかのように話し続けている。

「母は、父が昨年進行がんで死去してからずっと精神的に滅入っているものですから、悪戯電話が掛かってくるたびに怯えています、自分一人では私を守り切れないと言っています。少し前にも『言うたら写真をばら撒くぞ』と脅されたみたいで、何を誰に言ったらあかんのか、脅かしている意味が分からないし、母に『どんな写真だと言われたの』と問いかけると、口を震わせながら『そ、そ、そんなこと言われへん』と言っていました。私は『かまを掛けられているだけやから気にせんとき』と言ったのですがオロオロしていました。そしたら丁度電話が掛かってきたので私が受話器を取りました。すると母が言っていたように『言うたら写真をばら撒くぞ』と言ってきました、それで『出来るものやったらやってみ、警察言うぞ』と言い返してやりました、すると相手は電話を切りました」

 話し終えると、白田さんは意を決したかのように体を乗り出し、強い口調で、

「訴えてもいいですよ」と言った。それに対して祥子が

「誰を訴えるのですか、特定できませんよね」と言うと、白田さんはもどかしそうな表情を見せながら乗り出していた体を元の位置に戻した。そして二人は話題を逸らすかのように院内の雑談を始めた。

「あいつら、今は自宅謹慎やけど、そのまま解雇や」と主任さんが言う

「解雇や、解雇や」と白田さんも言う

「いつも食堂で猥談に盛り上がっていた人達のことですか、先日ついに注意を受けていましたよね」と聞くと、二人はうなずく、

「処遇を受けるような酷いことを、していたのですね」と祥子が質問すると

 少しの沈黙の後に、

「鍵井さんも嫌な思いをしたことあるでしょう」

「私の場合は、誰かのヌード写真らしきものを顔の下に翳されましたけれど」

 少しの沈黙の後に、

「それを怒ってはいないの」

「それくらいでは怒りませんよ」

「それを訴えたいとは思わないの」

「訴えるほどの事ではないですよね、もっと酷い被害を受けた人がいるのですか」

 この時の祥子は、まさか自分が21歳の時に婦人科で盗撮されていて、そのときの写真を顔の下に翳されていたなんて想像も出来なかったのだ。

 少しの沈黙のあと突然話題が変わる

「明日、○○君のお葬式があるの、いい子やったから惜しいわ」と白田さんが言う

「昨日食堂で、女子事務員さんたちが『自殺した人が運ばれてくる』と言っていましたが、その人の事ですか? 助からなかったのですか?」

「・・・・うん」と二人は項垂れている

「○○君のこと、知ってる?」と白田さんに聞かれる、

「昨日も聞かれましたが、知りませんよ」と答えると

「病院に知り合いはいる? もしくは消防署の人で知り合いとかいる?」

「知り合いはいませんよ、消防署にもいませんが」と答えたが、祥子は何か重要な事を聞かれているのだと察知して頭の中を洗い出し、ふと過ったことを伝えた。

「私は知らないけれど、私の事を知っている人はいるみたいですね」と言うと、二人の顔は強張った。


 〝そりゃあそうだ、祥子は渦中の人物なのだから″


「実習初日に『名前を確認してもいいですか』と丁寧に話し掛けてくれた男子事務員さんがいて、その人が私の名札を見たとたん『生きていてくれて良かったー』と言ってくれたんです」と言うと、二人は顔を見合わせて

「手」と言った。

「手とは」と聞き返すと、「いえいえ、別に」とごまかしている。


 〝写真には手が写り込んでいたんだ!〟


 祥子は名前の知らない青年のことを

「スラリとした体格で愛くるしそうな瞳の人だった」と伝える

「顔はレッサーパンダみたいな感じ?」と聞かれたので

「レッサーパンダにも似ているけれど、ミーヤキャットに似ていた」と答えている。

「でもその青年は理由を教えてくれないまま私を避けるようになって、そして日に日に顔色が悪くなるんです、それが気になってしょうがなかったから、ある日思い切って

『生きていてくれて良かった、と言ってくれたのに、あなたの方こそ変よ、何かあったのですか』としゃべりかけたんです、そしたら猥談で注意を受けていた人が、その人の肩を掴んで私から離して

『しゃべりかけんな、お前に話しかけられるのは恥ずかしいんや、こいつはお前の恋愛対象にはなれへんから諦めろ、この病院にはお前を恋愛対象に出来る者はいないから、男は別のところで探せ』と言ってきたんです、私は意味が分からなかったので気にしていないですが、青年の目は震えながら『違う、違う』と言っている様に見えました」

「酷いことを言う奴らや」と主任さんが言う

「私は何も気にしていないから大丈夫です、そもそも猥談ばっかりの人達なんか、こっちからお断りですから」

「そりゃそうや」と主任さんは呟くが、心はここにあらずの表情をしている。

「ねぇ、もしかしてその子が○○君ってことはないですよね、嫌ですよ、あの人は『生きていてくれて良かったー』と言ってくれた人ですから、命の尊さを知っている人ですから自殺なんてするはずがありません、別の人ですよね」と祥子は懇願するような目で詰め寄る、しかし二人は頷きもせず首を横にもふらず、寂しそうな眼で祥子を見ている。

「違いますよね、違いますよね」と祥子が詰め寄ると、白田さんは俯きながら、

「うん、違うと思う」と言ってくれた。祥子は白田さんの言葉を信じ

「ですよね」と言って話題を変えている。

 食事が終わり、精算するために割り勘の計算をしていると、

「こっちで払っとくから要らないよ、事務長に言われたし」と白田さんに言われる、

「えっ、どうして事務長が言うんですか」と問うと、

「あ~、割り勘、割り勘」と主任さんは焦って訂正する、そして

「おなかいっぱいやー」と言いながら主任さんは目を滲ませている。

 白田さんの顔は曇っていて喋らなくなっている。


 三人は支払いを済ませてから直ぐに別れたが、祥子は白田さんの様子が気になり二人の後姿を見ている、白田さんの背は泣いているかのように震えていて、主任さんが白田さんの背中を摩ってあげている。

 当時の祥子は胸騒ぎを覚えながらも、自殺した人があの青年であるはずがないと信じ、慰労会のことを楽しいひと時であったと記憶に留めていたのだ。

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