第7話 青年は潔白
〝そうだ『私は娼婦、私は娼婦』と自分に言い聞かせなければ、耐えられないほどの恰好をさせられていたんだ〟
祥子は診察室での出来事を鮮明に思い出した。
六林医師は
「これだけしか開けられないのか、関節が固いな、チェッ」と舌打ちをして、両脚を固定したあと、生理中の下腹部をぐいぐい押して流血させてから内診台を高い位置で止めて放置した。
少ししてから誰かを連れてきた。その人は軽快な足取りで処置室に入ってきたが、内診室の内側だと気づいた瞬間、足がピタリと止まった。
六林は優しそうな声でその人にこう言う
「かまへん、検査をするから手伝ってくれ」
「あ・・・、はい」とたじろぎながらも承諾する声が聴こえた。
しかし祥子には、その人は検査に慣れているようには感じられなかった。しかし婦人科医が連れ来たのだから研修医か検査技師だろうと思った。
「もう死んでいるかも知れんな」という六林の声が聞こえる、いったい誰に話しているのだろう、隣の診察台でも誰かが診察中なのかもしれない。
「これ着て」と六林医師はもう一人の人に促している。
次に六林医師は祥子に大きめの声で、
「妊娠できなくなったら嫌やろ、検査するから我慢しろ」と言った。
その言葉に祥子は怯え、恥じらいは拭われた。
どれだけ痛い検査でも甘んじて受けようと思った。
しかし恐怖で足を震える、その時、
「大丈夫ですよ、頑張りましょうね」という優しい声が聞こえて来た、祥子はこの時初めて独りではないのだと思えた。六林医師は連れてきた人に、
「ここを押さえて」と言って、祥子の恥骨あたりで前髪をあげるように恥毛をめくってその人の手を当てた。そして祥子に
「耳を塞げ、大きな音がするから、聞こえたら耳が潰れるぞ、しっかり耳を塞いどけ、しっかり押さえろ」と唸り、腹部で遮られているカーテンを捲って耳を塞いでいることを確認した。
捲られたカーテンの向こう側には白衣をいが人が二人いる。祥子は不安と恐怖に苛まれながら必死に耳を塞ぎ、足を強張らせ覚悟の時を待っていた。
しかし触れられることなく六林医師は検査技師らしき人に、
「観といて」と言い残し、自分だけ内診室を出ていった。台は高い位置で止められていたので、研修医らしき人の足が良く見える。
その人の足は祥子の真ん中を向いて立っていた。
けれども恥ずかしくはなかった、カーテンが仕切られているせいで相手の目が見えないこともあるが、股関節の痛みに耐えるのがやっとだったということもある、それに不思議とその人からは嫌らしさは感じ取れなかった。少しの沈黙のあとに祥子は
「耳はもう塞がなくてもいいでしょうか」と声を掛けた。
するとその人はハッと我に返ったかのように後方に身を引き、たじろぎながら
「たぶん、もういいと・・、思います、」と言った。
「検査はどうなっているのですか」と質問を続けると
「えっ、わ、分からない」と声を詰まらせながら答え
「脚が痛くてたまらないから緩めて欲しい、いったん降ろして欲しい」と頼むと
「僕にはわからない」と言う
「わからないって、何故、お医者さんではないのですか」と質問して、その人の足を見ると、その人の膝が震えていた。その直後に診察室から出してもらえたようだ
「ちょっと待ってよ」と叫んだが戻って来てはくれなかった、関節の痛みを堪えながら待っていると、遠くから
「先生、診察しているのですか?」という看護師の声が聞こえ、
「もう終わりましたから降りください」と淡々と言われ降ろされた。祥子は
「さっきここに、誰か別の人がいたでしょう」と聞いたが
「いませんよ」と返答される、しかし何となく惚けていように聞こえた。
不思議な診察であったが恐怖の検査をしなくて済んだことで安心した気持ちと、一方では検査をしなくても大丈夫なのか、妊娠は出来るのだろうかという不安で頭がいっぱいになっていて、あの人の事は完全に忘れてしまっていた。六林に
「あんなに緊張していては検査なんかできるか、もう帰れ」と吐き捨てるように追い出された。
祥子が苛立ちながら扉を開けると、男性とぶつかった。その人はまるで扉で聞き耳を立てていたかのように扉にへばりついていた。
そしてその人は祥子の顔を見たとたんムンクの叫びのような表情を呈し、顔面蒼白になった。
口から泡がでるかのように顎がガクガクさせ、頭を抱えながらワナワナワナワナと、回ったりしゃがんだりし、ひょろひょろしながら手すりにもたれかかって、ようやく立てているという状態に陥っていた。
祥子は一見して、その人は精神病棟からぬけだしてきたのかと見間違ったが、事務員の恰好をしていたので、その人に
「大丈夫ですか?」と声を掛けたが返答はなかった。
続けて、
「私はこの次にどこへ行けばいいのですか」と尋ねてみたが、その人は頭を抱えワナワナするだけだったので諦めた。
婦人科へカルテを取りに来た男性事務員が来たので、次に向かうべき場所を聞き
「あの人の様子が変ですよ」と伝えて、階下へ向かった。
婦人科はエントランスから吹き抜けになっている2階にあった、向かう先は一階の会計フロアーである、ワナワナさんが気になるので円弧状の階段を降りながら振り返り振り返り観ていると、婦人科からカルテを受け取った事務員にワナワナさんは肩を抱き寄せられたが、労わってもらっている風ではなくカルテを見せて冷やかされている風に見て取れた。まるでアダルト写真を見せているかのような嫌らしさだった。ワナワナさんは目をそらしてガタガタ震えていた。
総合受付カウンターのところで祥子がカワハギらの餌食になっているとき、離れたところから視線を感じた。視線の方を向くと先ほどのワナワナさんであった。少し落ち着きを取り戻したかのように背筋を伸ばしてはいるが、ミーヤキャットのような立ち姿の顔貌はボーとしていて、こちらを見ていた。そのときのシルエットが祥子の脳裏に焼き付くことになろうとは、この時の祥子は知る由もなかった。
六林が内診室に連れてきた人は、おそらく廊下を歩いていた新米の男性事務員で
「ちょっと手伝って」と軽く声を掛けて引き入れたのだろう、診察室の構造が分かっていない彼は、内診室の処置側だと言うことを知らずに侵入してしまい、そこでいきなり流血している女性性器を目の当たりにし、赤ちゃんが生まれる?流産か?と動転しているときに「手伝って」と言われて承諾してしまったのだろう。そして検査と言う名目で写真を撮るところを目の当たりにし、もしかするとこれは盗撮だったのではないのか、と気づき錯乱状態に陥ったのだろう。六林は自分に媚びない真面目な青年を陥れたのだ。
〝彼には卑猥な下心など一切なかった、純粋に目の前にある命を助けようとしただけなのだ。彼は清廉潔白な青年だったと証言したい。″
当時の祥子は、もしもあの時、苛立っていなかったならワナワナさんの背中をさすってあげられたのにと後悔している。そして、もしも時を戻せるならこう言ってあげたい。
「大丈夫、大丈夫、深呼吸をしてごらん、何があったか話してごらん、もしもあなたが診察室にいた人だったとしても、加害者ではないですよ、あなたも被害者ですよ。あなたがいなければもっと酷い事をされていたかもしれないから、あなたで良かった。さぁ、これから婦人科から出てきた事務員からカルテを取り上げて、二人で看護部長のところに駆け込みに行きましょう」
「その後、元気に過ごせましたか、何度も何度も頭の中にフラッシュバックしたのではありませんか、怖かったでしょうね。恋愛できましたか、生きていますか、私は上手い具合にパンドラの箱に仕舞うことが出来ましたから、生き続けることが出来ましたよ」
ワナワナさんを探すために三十歳の頃の二十五年前に潜ることにした。息を大きく吸って降り立ってみると、あっけないほど直ぐに出会うことができた。
実習初日の、まだ誰も祥子の正体に気づいていない時だった。食堂の階段の踊り場で背筋を伸ばして立っているミーヤキャットさんが祥子を視ていた。彼は真正面から祥子に近づき丁寧に会釈をして話しかけてきた。
「すみません、お名前を見せてください」そう言って祥子の名札を観るや否や
「フゥーッ」と長い息を吐いてから、
「生きていてくれて、良かったー」と言ってくれたのだ。
「えっ、何と言いました」と聞き返す祥子に
「このまま元気に生き続けてください」とまたもや言ってくれ、そのまま階段を下りて行ったのだ。
そうだ、初日にこんなに素敵な事を言って貰ったから気分を良くしていたのだ、
‶あなたがあの時のワナワナさんだったのですね、あなたも生きていてくれて良かったですよ。そして今のあなたは、ワナワナさんではなく紳士的なミーヤキャットさんですね″
しかしその時は嬉しい気持ちを抱きながらも、この人は誰で、いったい何故に自分にそんなセリフを言ってくれるのかが分からなくて、不思議な人として気になる存在となった。そして祥子はその理由が知りたくて、すれ違うたびに問いかけていたが、彼はただ首を横に振って通り過ぎるだけだった、そしてすれ違うたびに彼の表情は陰りをみせ、いつしか大袈裟なほど祥子を避けて壁際ギリギリを歩くようになっていた。
祥子への恥辱の浴びせられ方が日毎にヒートアップしてゆくのが耐えられなかったのですね、そして何も気づいていない祥子の代りに傷つき嘆き、そして自分を攻めていたのですね。こんな環境では誰にも相談できませんよね、言い出すタイミングを逃したまま九年間ずっと一人で抱え続けていたのですね、どれほど辛かったことでしょう。
五十五歳の祥子は彼の身上を想像して、母親の立場で涙を流した。もしも自分の息子がこんな目に遭っていたらと想像すると居た堪れなくなり、S病院に対する怒りが頂点に達し復讐の念が掻き立てられた。
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