8−2
俺は職員室の入り口で、目的の人物がいるかどうかを探した。夏休みだというのに多くの先生が出勤して仕事をしている。規則正しく並んだ机の中の、3年生の担任陣が陣取っている区画に、
「野辺先生」
俺が声をかけると、野辺はやおらに立ち上がって職員室の入り口までやってきた。
「どちらさまでしたでしょう」
「2年6組、卓球部の木下幸太郎です」
気の抜けた声で慇懃な話し方をされるもんだから笑ってしまいそうになる。割と最近出会ったと思うんだけど、俺のことを覚えていないらしい。まあ、3年生の国語担当の教員だし、卓球部の顧問と言っても部活動にほとんど顔は出さないから、俺のことなんか覚えていなくて当然だ。野辺は、口をあけてしばらく黙り込んだ後、「ああ」と言った。こいつ、おそらく自分が卓球部顧問であることすら忘れていたっぽいぞ。
「卓球部に関することですか」
「はい。この度、受験勉強のために退部しようと思いまして」
「ほう」
「一応、これを書いてきました」
そう言って俺は昨日書いた退部届を出した。書式はネットで検索し、家のパソコンで適当に作った。書類の理由欄にも「受験勉強のために」と書いておき、それ以上には細かくは書かなかった。親のサイン欄も作って、父親に署名・捺印させた。俺が「そろそろ受験勉強に向けて時間を作りたいから、意識を変えるために、特に何の活動もしていない卓球部をやめようと思う」と適当な嘘をつくと、両親は小躍りする勢いで喜びサインをしてくれた。ちょろいものである。
野辺は、そんな経緯に露ほども関心を払わず、ノロノロとした動作でそれを受け取り、その紙に一瞥をくれた。
「わざわざご丁寧にどうも」
「……それだけ、ですか?」
「はい、後の手続きはこちらでやっておきます」
そう言って野辺はそそくさと自分の席に戻ってしまった。この学校では、所属したまま幽霊部員になるパターンが多いので、俺のようにはっきりと「退部します」と宣言して律儀に手続きをするやつはとても珍しい。だから退部する理由をもう少し詳しく聞かれるものかと思って覚悟していたのだが、あっけなかった。
職員室を出て空気を吸うと、肩の荷が降りたような妙に清々しい気持ちになるかと思いきや、別にそんなことはなかった。どんよりとした気持ちが、毒煙のように肺の中に溜まっている。時間は午後3時頃。ま、おやつにアイスでも食ってから帰れば、気も紛れるか。俺がため息をついてから帰路につこうとすると、スクールバッグを肩にかけた峰岡沙雪が突然目の前に現れた。
「あれ、木下くん」
「お、おお。峰岡。何してんの」
「ちょっと美術室で作業してたんですよ。秋の文化祭に向けて展示作品を用意しないといけなくて。今帰りで、鍵を返しに来ました」
そう言って峰岡は細長い教室用の鍵を顔の前で振った。峰岡は半袖の夏服の上に、真夏だというのに、学校指定ではない濃い紺色のカーディガンを羽織っていた。俺がそれをジロジロ見ていると「これは冷房対策です」といった。
「木下くんは? 部活ですか?」
「卓球部は休みなんだが、部活に関することといえばそうか。退部届を出してきた」
「た、退部?」
「ああ。卓球部を辞めたんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください、鍵だけ返してくるので」
そう言って峰岡は慌てて職員室へと駆け込んだ。部活用に鍵を借りる場合は、職員室に入ってすぐのところにあるキーボックスから鍵を取り、誰でもいいので職員室にいる先生を呼びつけ、専用のノートに貸出日時と借りた人と見届けた先生の名前を書き、返すときには借りた人がキーボックスに戻して返却日時を書くという仕組みになっていた。つい最近まで先生による見届けすら不要だったのだが、その仕組みを悪用した奴がいたためにこの制度に変わったみたいだ。生徒の俺が言うのもおかしな話だが、さっきの野辺といい、色々とゆるゆるな学校だ。20秒もしないうちに峰岡は出てきた。
「お待たせしました」
「そんな慌てなくても」
「帰っちゃうかと思って」
俺は黙って首を振った。そんな薄情なことはしないぞ。流石に。峰岡の中で俺はどういう人物だと思われているんだ。
「で、さっきの話ですけど」
「立ち話するのもアレだな。峰岡、今から暇?」
「え、まあ……後は帰るだけでしたが」
「デートでもしようぜ」
思いつきでそう提案すると、峰岡は口をぽかんと開けて3秒くらい固まった後、一気に顔が真っ赤になった。峰岡、色白だから顔色の変化がすぐわかるよな。さっきの泉と比べると、季節感を感じさせない程の肌の白さに驚かされる。黙って観察していると、さらに3秒くらいたってから真顔に戻った。
「もしかして、冗談で言ってます?」
「俺の発言の大半は冗談だ。自分が生まれたことすら悪い冗談だと思っている」
「……今、生まれて初めて、人を殴りたいという感情が芽生えました」
「その感情、俺が受け止めてやる。来い」
そう言って、ボクサーのスパークリングを受けるトレーナーのように両手を体の前に構えたのに、峰岡は力の入っていない左フックを俺の右脇腹にぶつけた。めちゃくちゃ綺麗にボディに入ってしまったけど、力が入ってないので全然痛くない。ただし、力が入ってたら肝臓が破裂しててもおかしくないくらいのクリティカルヒットだった。
「デートっていうのは不適切な表現だったかもしれない」
「そんな言葉、好きでもない女性に軽々しく使うなんておかしいです!」
峰岡は頰を紅潮させてそう言った。でも俺、友達としてって意味でだけど、峰岡のことわりと好きなんだけどな……ただ、これを言ったらややこしくなりそうだったので、喉の奥に押し留めた。
「暑いからこれからアイスでも買い食いして帰ろうかと思ってたんだが、お前も食いに行かないか、退部に関する細かい事情はついでに説明する、という誘いだ」
「私、お金持ってないんですけど……」
「今の冗談のお詫びにおごる」
「ん? 何か上手く騙されたような気が」
「騙してない騙してない」
「そもそも放課後に2人きりでアイスを食べに行くのはデートと呼んでも差し支えないのでは?」
「お前がそう呼びたいならそう呼んでもいいぞ」
そう言うと峰岡はまた顔を真っ赤にして左フックを打ってきた。
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