第8話 初めての左フックとデート

8−1

 これまで夏休み中に登校したことがなかったので、どういう雰囲気の空間なのかあまり想像がついていなかった。生徒がいなくて閑散としているのかと思っていたが、部活動の連中が普通にたくさん登校していることが分かった。運動場には、野球部がノックでもやってるのかカキンというバットにボールが当たる小気味よい音が響く。体育館の換気用の窓からは、バスケ部だかバレー部だかわからないがキュッという床の上を滑る靴の音が聞こえる。そして校舎中のそこかしこからから、吹奏楽部の連中の基礎練習と思わしき音が轟いている。音という点について言えば、むしろ授業のある日よりもうるさいかもしれない。俺は久しぶりに袖を通した制服のシワを伸ばしながら、職員室を目指した。


 校舎の中庭の芝生に倒れ込んでヘバっている女子の群れがいた。女子バスケ部だ。俺が近づいていくと、健康的に日焼けした女子が俺に手を振ってきた。


「お、キノッ……コータローじゃん」


「今キノコって言いかけたろ」


 スポーツタオルで汗を拭きながら俺の方に近寄ってきたのは泉だった。俺が睨むと、泉は「スマンスマン」と反省を感じられない声色で謝罪を述べた。


 先月、美月と話したときに「キノコ」と呼ばれるのが嫌だと言う話をしたところ、そのことを美月が親切にも泉に伝えたらしく、泉も美月に倣って俺を「コータロー」と呼ぶようになった。だが、わざとなのかうっかりなのか、偶に「キノコ」と呼んでくる。今のはわざとっぽいな。ま、いずれにせよ、顔の広い泉がこうやって呼んでくれてるうちに、俺の呼び方もだんだん変わってくるだろう。


「なにしに来たの」


「職員室につまらない用事があってな。そっちは外周?」


「うん。このクッソ暑いのに、5周だよ。狂ってる」


「美月は?」


「お花摘み」


 そういって泉はニヤッと笑った。無駄に雅な婉曲表現だな。

 

 ところで「外周」というのは、校舎の周りの道路を1周するというトレーニングだ。1周1キロちょっとくらいだが、傾斜もあるので、5周だとかなり辛い。卓球部でも、足腰を鍛えるためだとか言って、入部当初は先輩たちに倣ってやっていたが、先輩たちが受験を理由に抜けてからは誰もやらなくなった。

 

 泉は手に持っていたペットボトルに入ったスポーツドリンクを一気飲みした。健康的に焼けた肌が眩しい。もともと泉は色黒な方なのだが、外での練習のせいでより黒くなっている。


「お前、なんつーか……焼けたな」


「そうなんよ。日焼け止め塗ってんのにこれだよ、おかしくない? ってか焼けるの嫌だから室内でやるスポーツ選んだのに、結局外周やらされてんだから意味ないよね」


「将来、肌のシミが怖いな……」


「そういうマジなやつは言っちゃダメだよ」


 泉が急に真顔になったので、さっきのアイツと同じトーンで「スマンスマン」と言ったらゲラゲラ笑った。


「そういや、泉。言う機会がなかったんだけど」


「なに」


「お前、俺と美月を引き合わせたとき、俺と美月を2人きりにしようとしてたろ」


 そう言うと泉は、空っぽになってしまったスポーツドリンクのペットボトルを見ながら、ギクリとした顔をした。


「なんで?」


「不自然な行動がいくつかあったな。まず、明らかに1人で飲み食いする以上の量をいったんカゴに入れて、そのあと戻しにいくっていう動作は明らかに不自然だった」


「ふ、ふだんあれくらい食べるの」


「その細身で、そんなわけないだろ」


「急に褒めないでよ」


「どう考えても褒める流れじゃないだろ」


 あれ、でも実質的に褒めてしまったのか。なんか癪だな。まあいいけど。


「カゴに入れた商品を戻す時間で、先に黙って帰るためのスキを自然に作ろうとしてたのかと思ってな。それに、お前、約束した時点では、この辺だとあのコンビニでしか売ってない絶対買いたい雑誌がある、とか言ってたのに、俺らをほっぽり出してなにも買わずに帰ったろ」


「そうだっけ……ま、次の日でいいかってなったんよ」


「さっさと退散することで、俺と美月を2人にしようとしてたのかなと思ったんだが。あとは、お前が何も言わずに突然帰ったってのに、美月の方がほとんど慌ててなかったのも怪しかった――美月はお前が帰るってこと知ってたんじゃないかと思ってな」


「そ、それは……別に、何も示し合わせたりしてないよ。お前が自意識過剰なだけでしょ!」


「ふーん。ま、どっちでもいいんだけど」


 明らかに怪しい反応を得たが、追い詰めるところまではいかなかった。峰岡の真似をして推理をしてみようと思ったが、どうも上手くいかないもんだ。


 俺はカバンから、ここに来るまでに自分で飲む用に自販機で買ったばかりのお茶を出して、泉の顔に押し付けた。泉は不意をつかれたのか「つめたっ!」と声を出した。そのスキをついて、俺は泉が持っていた空のスポーツドリンクのペットボトルを奪った。


「理由は言えないけど、2人きりにしてもらってすげー助かった……これで借りは返す。さっき買ったばっかだ。こっちは捨てておく」


「あ、ありがと……」


「暑いからな。十分水分摂れよ」


「お前……そういうの、美月の前でやっちゃダメだよ」


 泉はジトッとした目で睨んできたが、俺はなにも知らないフリをして肩をすくめた。それと同時に、コーチによって再集合の合図がかかったみたいで、泉は俺に黙って微笑みかけてから去っていった。


 俺が泉と別れ職員室のある校舎の中に入ると、美月が女子トイレの方から出てくるのが見えた。


「あ……コータロー」


「おい、女バス、さっき集合かかってたぞ」


「え、ヤバっ、ありがと」


 それだけ言って美月は走り去っていった。


 峰岡が、美月は俺のことが好きだったんじゃないかと言ってきて以来、俺はどうも美月のことを意識してしまっていた。先週末のサッカー県大会会場の修二との一幕で、その仮説が少なくとも小学校の卒業時点では正しかったことがわかったわけだしな。あ、っていうか、今の一瞬の会話がそれ以来初めての会話だった。忙しそうだったし何も話せなかったな。

 

 この件について、正直に言うと俺は困惑していた。美月に惚れられたと聞いて嬉しいは嬉しいんだけど、小学校卒業直前の時点のことだし、今もまだそうなのかは分からない。泉はどうやら今もまだそうだと考えているっぽいが、もう少し情報がないと行動できないな。かといってガッついて聞くのもなんだか変だし。


 いや、今日はそういうことのためにここに来たわけではない。気が重くてどうも調子が出ないな。俺は目の前にある職員室の扉を睨んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る