第6話 ロールシャッハの蝶たち

6−1

 7月の夕空は押し付けがましいほどに明るかった。現在時刻は6時半ごろ。夏至を超えたばかりだから、まだ外は十分に明るい。俺は家から少し離れたところにあるコンビニの前に立ち、あまり香りのしない冷たいブラックコーヒーを飲んでいた。


 中学1年生の春、俺はとにかくモテたいという欲求に駆られ、これをやったらモテるのではという行動を研究していた。これまでずっと通っていた安い床屋でスポーツ刈りを注文するのをやめ、美容院に行って好きなバンドのボーカルの写真を見せてマッシュにした。そして、飲めもしないくせにブラックコーヒーを買って、通学路沿いにあるコンビニの前で舐めているのがかっこいいと信じ切っていた。


 結果はご覧の通りである。そもそもモテるためには最低限の好感度が必要であり、見た目や行動というのはその好感度があって初めて意味をもつ。だが、卓球部に入った時点で、俺の好感度の基礎得点はガタガタに下がった。つまり、この学校のスクールカーストの原理を理解していなかった時点で、俺は既に敗北していたのだ。サッカー部の奴が同じことをやってればモテたのかもしれないが、「卓球部の根暗がコンビニの前で黒い汁を舐めていた」なんて、「風呂場のタイルにびっしり黒カビがついていた」と等価な情報だろう。


 ただ、そのキモい自意識に突き動かされた無駄な行動の副産物として、ブラックコーヒーは好きになった。俺の持論なんだが、コーヒーの「美味さ」だと人が錯覚しているのは、カフェインの禁断症状からの解放なんじゃないかと思う。どんなに良いコーヒーだろうと味の構成要素は同じだ。要するに、苦くて、渋くて、酸っぱい汁だ。苦味も渋みも酸味もどう考えても不快な刺激だろう。だが、これを「美味い」と思うのは、これらの刺激が舌に与えられた途端、カフェインの禁断症状から開放されるということが条件反射で分かるからではないだろうか。この話を峰岡にすれば、きっと「いわゆるパブロフの犬ですね」などと言って、よくわからない講釈を垂れてくれるだろう。だが、だからこそ俺はコーヒーが好きだ――人間も所詮は餌を前によだれを垂らす犬だと自覚させてくれるからだ。


 そんな意味深なようで、実は特に含蓄のないカスカスのモノローグを心の中で呟いていると、目的の人物が2人で連れ立って歩いてくるのが見えた。そのうちの1人が俺を指差した。


「うわ、キノコじゃん」


「湿気が多い季節は菌類が繁殖しやすいんだよ」


「相変わらずつまんねーことばっか言ってんなあ!」


 泉涼子がゲラゲラ笑いながら、ポニーテールを揺らして俺に駆け寄ってくる。女子バスケ部のジャージから漂う、せっけんのような制汗剤の匂いが鼻腔をくすぐる。泉は俺にだけ聞こえるような小声で言った。


「……おい、連れてきてやったぞ、感謝しろ」


「ああ、助かった」


 俺が小声で返すと、泉は口角の片側だけ釣り上げて返事をした。そう。泉は今日の目的の人物の顔つなぎのために来てもらっただけだ。その今日の目的の人物は、泉の後ろからゆっくりと歩いてこちらにやってきた。


 そいつと目があった。多分、数カ月ぶりの会話だ。何から話せば良いものか。俺は手元に残っていたコーヒーを一気飲みした。


「こんなとこで何してんの」


「お前らを待ち伏せしてたんだ」


「嘘つき」


 俺がおどけた声で言うと、そいつは短く言い返した。実は嘘じゃないんだけどな。


「相変わらずだね、コータロー」


 そう言って目を細め、あの頃よりもずっと高くなった身長と、あの頃とほとんど変わらない声で俺の前にいたのが、俺の幼馴染、大畑美月だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る