第5話 あの日、あの夏、ウミガメのスープ

5−1

 6月末。梅雨があけ、夏がやってくる。うだるような暑さが肌にまとわりつき、蝉の声が鼓膜を焼くように刺激し、ただでさえ辛い人生をより辛いものにする。夏だからといって心が浮き立つことはない。夏休みがあると言ったって、俺は部活に打ち込むわけでも、勉強に打ち込むわけでも、趣味に打ち込むわけでも、見知らぬ土地へ旅に出るわけでもない。家で漫然と過ごす日々の中で、自分の中学校生活の無為さと惨めさがあらわになってしまう。だから夏は嫌いだ。


 体育の水泳の時間、プールサイドに座って足湯の要領で両足をぬるい水に浸し、せめてもの涼をとりながら、俺は夏を生み出した神の世界設計に呪詛を放っていた。当然だが、今俺は水着を着ている。学校指定の体にぴったりと密着するタイプの奴で、着用感が悪い。服を脱ぐとガリガリなのが周囲にバレてしまうのも嫌だ。


 どうして俺が授業中にこんなダラダラできるかというと、授業制度と設備に原因がある。体育の授業は、隣の組と合同で男女別に開かれている。さらにプールの授業に関しては、水を張るのにとにかくお金がかかるらしく、授業回数を減らして男女合同で行っている。ということは、8レーンの25メートルプールに、2クラス分の男女、約80人の生徒が集うことになる。結果、大混雑してしまうのだ。それで、男女で4レーンずつに分けて使うのだが、手前から1レーンを待機用、もう1レーンを練習用、2レーンをタイム計測用、と分けて使っている。俺はこの待機用レーンでタイム計測の時間を待っていた。


 ところで俺は水泳にはある程度自信がある。俺もこの世に存在する数多のクソガキ共と同じくプール大好きな小学生だったので、夏休みのたびに小学校の無料プール講座に入り浸り、なんとか四泳法はマスターした。運動は得意な方ではないので、体育の時間はいつも劣等感に苛まれながら授業を受けているのだが、水泳だけは気楽な気持ちで受けることができる。まあ水泳なんか得意だからと言って、大会で成績でも残していない限り、例のスクールカーストゲームでのポイントにはならない。なぜなら、学校で水泳をやるのは6月後半から7月にかけての僅かな期間だけで、その間しか自慢にならないからだ。


 しかしだからといって、スクールカースト上位の奴は水泳ができないというわけではないらしい。俺の目線の先には、全身の筋肉を周囲に見せつけるかのように泳いでいる、サッカー部の城崎と小林がいた。奴らはサッカーだけでなく水泳も得意らしい。先ほど、城崎は50メートル平泳ぎで35秒台というタイムを出し、教師に驚かれていた。運動神経に恵まれているやつってホントずるいよな。


 っていうか、今ふと思ったんだけど、成長期の小学生や中学生を、身体能力で競争させるのって、おかしくないか。身長の伸び方も筋肉のつき方も、生まれ持った遺伝子や生育環境によって大きく異なってしまう。だから生徒によって異なる、無理なく取り組める目標を設定すべきだろう。でも学校は、体育だの運動会だので、一律の目標を与えて競わせている。これはめちゃくちゃアンフェアなんじゃないだろうか。またもや学校制度の闇を暴いてしまったな。


 学校制度の闇といえば、サッカー部である。峰岡の協力によって、俺は古村修二がサッカー部を辞めた真相を掴んだものの、結局その後何のアクションも起こせないままでいた。まず、俺がいじめの真実を大会委員会にチクってやることを思いついたのだが、それをやると修二が自分の身を捨てて守ろうとしたものを叩き割ってしまうことになる。また、修二に話しかけて親身になってやろうかと思ったのだが、俺がそんなことをしたところで彼には何の足しにもならない。せめて、久保いじめの首謀者が城崎と小林だと言いふらそうと思ったのだが、スクールカースト最底辺の俺にはそんな発信力はない。まあ、でも、修二も理不尽な理由でサッカー部から排除された被害者で、あいつがいじめに主導的に関わったわけじゃなさそうということがわかっただけでも良かった。峰岡にはまたお礼を言わないとな。


 そう言えば、峰岡は隣の5組なので、あいつもこのプールの中にいるはずだ。女子のレーンの方に目を移すと、タイミングよく、タイム計測用のレーンに峰岡沙雪が立っているのがわかった。学校で指定されている上下セパレートタイプの、露出が少ない黒い水着を着ている。こないだあいつに「細っ」と言われてしまったが、俺のこと言えないくらい華奢だ。胸は、大きくはないけど、思ったよりはあるな……おっと、これはよくないぞ、邪な目で見てしまった。こういうことを考えてしまうのは男の宿痾であるが、こういうことを公言してしまうのはポリティカルな問題がある。


 峰岡はゴーグルを当て、計測係の生徒の掛け声で、飛び込み台からきれいに着水し、平泳ぎを始めた。速いな……っていうか、いくらなんでも速すぎないか。さっきの城崎より速い気がするぞ。峰岡は無駄のない綺麗なフォームで25メートルを駆け抜け、華麗にターンをきめた後、さらにスピードをあげて50メートルを泳ぎきった。


「さ、32秒55!」


 計測係の女子が驚いて大声を出し、それを聞いてゴーグルをかけたままの峰岡がニヤッと笑っている。え、32秒台? サッカー部の城崎より速いだと? 俺だと平泳ぎ50メートルで42秒はかかるのに。っていうか、今の日本記録って30秒くらいとかじゃなかったっけ。あいつ、アスリート並みの記録出してないか。どうやってあの筋肉量であの速度出すんだ。あいつの周りだけ物理法則がねじ曲がってるのか。もしかして峰岡って、頭も良くて、見た目も良くて、絵も描けて、スポーツもできるのか……いやいや、神は世界をそこまで不公平には作っていないはずだ。多分計測係がミスしたか、俺が知らないだけで日本記録はもっと速いんだよ。そうだ。そうだと言ってくれ。


 後でネットで調べてみたら、やはり日本記録は30秒くらいで、女子中学生に限っても31秒くらいだった。それを見た俺は、神の世界設計に関して再び呪詛を唱えなければならなくなった。

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