第2話 人はそれをストーカーと呼ぶ
2−1
今日は金曜日。次の日が休みというだけで浮足立った気持ちになり集中できない。現在時刻は午後1時40分。昼飯を食べた直後なので体内の血液が消化に回り頭に養分が届かない。教室は窓が締め切られている。少し暑く、息がしづらいし、あきらかに二酸化炭素濃度が高い。科目は国語。教師が向田邦子の随筆を淡々と読み上げるだけで、何も目新しい情報が入ってこない。これらの条件が重なった時に何が発生するかわかるだろうか。
答えは簡単だ。眠くなる。
俺は眠気に耐えるために、歯を食いしばって教科書を読もうとした。しかしいくら紙の上に目線を走らせても、眼前に白と黒が明滅するだけで何も頭に入ってこない。ペンを回して眠気を取ろうとしても指からどんどん力が抜けていく。
眠いなら寝ればいいという考え方もある。国語の授業は、数学みたいにずっと聞いていないと問題の解き方がわからなくなるようなものでもない。それに現代文の問題は解が一意に定まらないものだし、定期テストの点数は教師のノリで点数が決まるので、しっかり授業を聞いたところで成績が上がるという保証もない。実際、周囲を見渡すと居眠りしている奴がちらほらいる。
しかし、俺はなんとしてでも眠りたくなかった。この教室で寝ている奴らは、部活のために体力を残そうとしている奴らや、ちょっと不良っぽい奴ら、つまりスクールカースト上位の奴らだ。彼らを教師が注意すると、暴力や暴言で反抗されたり、クラスのメンバー全員から冷ややかな目線を向けられたりする。だから教師たちは面倒なことになることをわかっていて注意しないのだ。ところが、ここで俺のようなスクールカースト最底辺の奴が寝ると、姑息な教師たちは俺をスケープゴートにすることで全体に注意を促すだろう。実際そういう現場をこれまで何度も目にした。公立中学校の教師なんてだいたいそんなもんだろう。
何とか眠気を覚ますグッズがないかと筆箱の中を眺めた。使い慣れたシャープペンシルとボールペンと消しゴムと定規しか入っていない。ガムの1つでも入っていればよかったんだけど。そもそも授業中にお菓子を食べることは禁止されているので、ガムがあったとしても噛むことはできない。
だがこの筆箱を眺めた途端に、ふと、峰岡紗雪が美術室でこの筆箱の場所を言い当てたことを思い出し、少し目が覚めてきた。
*
あの時から、俺は峰岡紗雪のことが気になって、少し調べていた。
あの日、美術室で峰岡と別れた後、卓球部の部室に戻り、井本と根岸に峰岡のことを聞いてみた。根岸は知らないようだったが、井本は去年同じクラスだったと言った。
「わかるよ。眼鏡かけた、すっごく大人しい女の子だよね?」
井本は間の抜けた声でそう言った。俺が美術室で出会った時は眼鏡をかけていなかったけどな。
「さっき美術室で筆箱を探したとき、少しだけ話したんだけど、どういう人なんだ?」
「さあ?」
「さあ、って。話したことないのか」
「ないよ。1年のとき、同じクラスだったけど、特に話す用事もなかったし」
「そもそも井本が女と話せるわけないだろう」
根岸がイヤミったらしい声でそういうと、井本は「へへへっ」と間抜けな声で笑った。俺は、根岸だって女子と話せないだろう、と思ったが口にはしなかった。なぜなら俺も話せなかったからだ。ワハハ。
あの時、峰岡と少し話したのを除けば、中学に入ってから女子と話した記憶がほとんどない。業務連絡的な短い会話はしたかもしれないが、雑談は全くと言っていいほど無い。小学校の時はそうでもなかったんだけどな。覚えていないだけかもしれないけれど、覚えるほど印象深い交わりはなかったというのは間違いない。俺が黙っていると、井本が最後にこう付け加えた。
「あ、でもそもそも、峰岡さんが誰かと話してるところを見たことがないな。ずっと本読んでる人だったよ」
さて、その次の日から俺は、学校に来た時や教室移動の際、2年5組の教室の前を通るたびにちらちらと覗き込むようになった。ここまでくるとストーカーみたいだなと思ったけど、気になったものは仕方ないのである。いいか、チラ見するだけなら犯罪ではない。これはストーカーではない。
毎朝、自分の教室に入る前に5組の教室の前を通りかかるので、そのたびに中をさりげなく覗き込んでいたが、峰岡はいつも俺より先に到着していた。俺は早いときで8時、普段は8時過ぎにつくように登校しているので、峰岡は早くとも8時前には既に教室に到着しているようだった。家がメチャクチャ近いか、早起きなのか、どちらかだろう。
2年5組の教室では、廊下側の列の真ん中あたりの席に座っている。人がたくさんいる時だと、あまりにも目立たなすぎて、「峰岡を見るぞ」と思って見ないと見逃してしまうくらいには地味だ。ネクタイはシングルノットできちっと結ばれ、スカートはひざ下まであり、シャツは汚れの1つもなくアイロンがきちんとあたっている。周囲の女子は着崩している奴ばかりなので、逆に目立つくらいきちんと制服を着ている。俺の家は共働きなので、洗濯は結構させられるが、アイロンなんてちゃんとあてない。母親が専業主婦で全部きちんとやってくれるか、そうじゃなければ峰岡自身が相当几帳面なのだろう。
教室で誰かと話している姿を見たことはなく、井本が言っていたように、いつ見ても自分の席で何かを読んでいる。右手で本をもって、左手でページをめくっているから、多分左利きだ。いつ行っても同じポーズで何かを読んでいるので全く動いていないかのように思えるが、見るたびに読んでいる本が変わっているので、相当な読書家のようだった。それと3回に1回くらいの確率で細い銀縁の眼鏡をかけている。井本の話では1年生の時は眼鏡だったとのことなので、途中でコンタクトをつけるようになったのだろうか。
教室での様子を見ている限りだと、大人しくて何も話さないため、友達もほとんどいないみたいに思えた。だが、特にいじめられたりしているわけではないように見える。もしいじめに遭っているなら、絡んでくる奴が周囲を取り囲んでいたりするからだ。そういうシーンは見かけなかった。だから少なくとも目に見える形ではいじめられていない。俺のスクールカースト論で言うと下から2番目の層の人間だ。
そういうわけで1週間くらい峰岡紗雪をスト……いや、観察するという時間を過ごしたのだが、これ以上のことは分からなかった。規則正しい生活、きちんとした身なり、読書量、おとなしい。これはあてずっぽうだけど、かなりのお嬢様なんじゃないだろうか。
というかなぜこんなに峰岡のことが気になったのか、自分でも不思議だった。可愛かったからだろうか。推理がすごかったからだろうか。客観的に言っても、一度話せばなかなか忘れないタイプの人間ではあった。でも、それだけだっただろうか。
まあしかし峰岡と俺はクラスも違うしカーストも違う。なにか偶然でもない限り、もう二度と話すことはないだろう。さよなら峰岡。短い付き合いだったぜ。
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