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峰岡は持っていたスケッチブックを机の上に置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「この教室に入ってきたとき、何かいつもと違うと思ったことはありませんか」
「いや、何も」
「窓です。とっても綺麗になってると思いませんか」
そういわれてじっと見てみれば確かにそうだ。他の教室の窓は埃や砂や塵で汚れているのに、この教室の窓はピカピカだ。そういえばさっき峰岡の顔に橙色の西日が当たって綺麗だと思った時も、なぜかいつもより色が濃いように見えたが、あれは気のせいではなかったみたいだ。光を遮蔽するものがなかったのだ。
「まあ、でも俺は、君ほどこの教室に来ないからあまり違いが判らなかった」
「それはそうですね。私はいつも美術室に入るたび、埃や黄砂のようなものがついていてとっても汚いなと思っていたので、教室に入った瞬間気が付いたんです」
そう言って峰岡は口に手を当ててクスクスと笑った。多分、絵を描く人にとって窓から入る光は重要なものだから、峰岡が気を留めたのもわかる。だが、窓が筆箱とどうかかわるというのだろうか。俺が次の言葉を待つように黙っていると、峰岡は話をつづけた。
「おそらく直前の掃除時間で誰かとっても丁寧な人が窓も拭いたんだと思います。この教室は天井が高いので、窓もそれに合わせて作られていて大きいから、窓を拭くためには椅子や机に乗る必要がありますよね」
確かに、学校の教室は一般的に天井が高い。確か法律で3メートル以上って決められてるって聞いたことがある気がする。いくら育ち盛りの中学生とは言え、なんの台にも乗らずに3メートルの高さまで手を伸ばすのは無理がある。あ、そうか。なるほど。
「机を使って拭いて、その机が移動したっていうのか」
「はい。窓を拭くなら、窓側の列の机を使うのが、一番運ぶ手間がないです。木下くんが、筆箱が消えたと言ったとき、私が一番初めに考えたのは筆箱自体じゃなくて、机が動いた可能性だったんです」
「いや、でも、誰かが筆箱を別の場所に動かした可能性とか、俺がそもそも違う場所に置いていた可能性もあるだろう」
「後者に関しては可能性が排除しきれなかったのですが、木下くんが『筆箱をこの机の中に入れたことは覚えている』と言っていたので、ひとまず考えないことにしました。前者はそもそも可能性が低いと思っていました」
「なんで」
「木下くんの筆箱を違う場所に動かす理由は2つ考えられます。1つは木下くんを困らせたい人が筆箱を隠した場合と、もう1つは悪意なく筆箱を動かした場合、そうですね、例えば筆箱を落とし物として届けた場合です」
そう言って峰岡は指を2本立てた。前者の方は無いと信じたいぜ。いくら教室の中でナメられてるとはいえ、いじめられているとまでは思っていなかった。
そう俺が思っているのを察するように峰岡は話を続けた。
「1つ目の方はほぼありえません。美術室の机はどこにだれが座るか特に決まっていません。だから木下くんが偶然選んだ机に、偶然筆箱を置き忘れたことに気づいて、それを狙って隠すのは難しいでしょう。その筆箱には、木下くんの名前も書いてないんだから、なおさらです。いじめとしてやったのなら狙いすぎです」
そう言って峰岡は2本立てていた指の1本を折り曲げた。
確かに峰岡の言う通りだ。同じ時間、同じ授業を受けていたクラスメイトなら、俺の筆箱を隠すのは可能だ。だが、それをするためには、授業中に俺の行動をしっかりと観察し筆箱を置き忘れるのを確認した後、6限目が終わりみんなが教室に戻る中、俺の目を盗んで美術室に引き返さなければならない。筆箱を盗んで困らせたいのなら、もっと別の、容易に犯行を行うタイミングがあるはずだ。
俺がなるほどと小声で言ったのを見て、満足そうに頷いた後、峰岡は話をつづけた。
「2つ目の方は、可能性は低いかなと思いました。美術室から、落とし物を届ける事務室までは結構時間がかかります。見つけたとしても持っていくのは結構面倒です……私も美術室で落とし物を見つけたことがあったのですが、きっと取りに来るだろうと思って、放置したことがありました」
「確かに。掃除係にもこの後部活があるだろうから、放置しておきたいだろうな」
「そうですね。それでも事務室にある可能性は排除しきれません。ですが、経験的に言って、少なくともこの教室の中に残っている可能性の方が高いかもなと思いました」
峰岡は先ほど初めて見た時の「大人しそう」というイメージが崩れるほどに饒舌だ。俺が黙っていると、相槌を打つのを待つようにきらきらとした目でこちらを見つめてきたので、たじろいでしまった。
しかしまだ大事なところの推理が抜けている。問題は、峰岡がなぜこの教室にあると思ったのかではなく、なぜ筆箱の入った位置を当てることができたのかということである。俺はポケットに突っ込んでいた手を出しながら、その空白について聞いた。
「でもなんで1番前に机が移動したと思ったんだ」
「うちの学校では、習慣的に、掃除をするとき、教室全体の机を前に動かしますよね」
さっき自分が1人でやっていた教室の掃除の手順が脳内にフラッシュバックする。教室の机を一度全部前に移動させてから、前に向かって埃を掃き、1列ずつ後ろに戻してからまた埃を掃くという操作を続ける。そうだけど、なんで1番前に移動したと分かったのだろうか。
「初めに机を全部教室の前に移動させたとします。そのあと窓を拭こうと思って、窓側の最後尾の机を動かして窓を拭き始めたとします。この窓はとってもピカピカになっているので、相当念入りに拭かれたんだと思います。結構時間もかかったと思います。その間に机を1列ずつ後ろに戻しながら掃いていくと……」
「窓側の1番前が空くのか」
「そうです。もちろん、とっても几帳面な人なら、元の場所にきちんと戻した可能性もありえます。ですが、美術室は特別教室なので、どこが誰の机とちゃんと決まっていないから、どこかとどこかの机が入れ替わっても誰も気にしません。ですから、一番前の窓側の机が、最も可能性が高いだろうと思ったんです」
俺は舌を巻いた。いくつか仮定を挟んでいたが、確かに筆箱は窓側の一番前にあったので、峰岡の推論が正しかったのだろう。こんな大人しそうに見える子なのに、理路整然と推論を説明する姿はかっこいいとさえ思ってしまった。
俺が感嘆していると峰岡が突然咳込んだ。
「大丈夫か」
「学校で、あんまり喋らないから、いっぱい喋ったら、咳込んじゃって」
「なんか、俺のせいで、ごめん」
俺がそう言うと、峰岡は黙ってにっこりと笑った。
これが、衝撃と言うにはあまりにもささやかで、ありきたりと言うにはあまりにも印象的な、俺と峰岡紗雪の出会いだった。
(第一話 おわり)
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