1−3

 美術室に近づくと扉が数センチ開いているのが分かった。つまり鍵は開いているということだ。施錠されていたら職員室まで鍵を取りにいかなければならなかったから、ちょうどよかったのだが、中に誰かがいるということでもある。


 困った。俺は基本的に人見知りなのだ。しかしその程度のコミュニケーション能力しかないからスクールカーストの最下層にいるともいえる。いや、今の状況でそのことはどうでもいいことだ。黙って入り、黙って筆箱を取り、黙って立ち去る。よし、この作戦でいこう。

 

 美術室に入ると、窓から燦々と降り注ぐ夕日によって橙色に染め上げられた教室の中に、知らない女子がぽつねんと1人で座っているのが見えた。ボブカットの、小柄でおとなしそうな女子だ。窓側の一番後ろの席に座って、机に置いた3つのリンゴを見ながら、スケッチブックに何かを描いている。とても集中しているようで、俺が入ってきたことにも気づいていないようだった。


 俺は少し見とれてしまった。なんというか、こう、あまりにも、「絵になる」光景だった。絵を描いている女の子が絵になるとは。脳内とはいえ、われながらくだらないことを言ってしまった。それくらい俺は動揺していたのだ。


 小顔で色白の彼女は、前に垂れた髪を耳にかけ、真剣な目でスケッチブックを見つめ、鉛筆を動かす手を止めない。窓から差し込んだ西日が、彼女の白い肌に薄い橙色を落としていた。西日の色がいつもより濃いように見えるのは気のせいだろうか。


 その女子の姿に見とれてぼーっとしてしまったのだが、よく考えてみると少し予定外の状況になっていることに気が付いた。彼女が使っている窓側の最後尾の机は、俺が先ほどまで授業で使っていたものなのだ。つまり俺の筆箱があるとすれば、あの机だ。邪魔したくなかったし、話しかけたくもなかったのだが、やむを得ない。


 俺は彼女に近づいた。


「あの、ごめん」


 そういうと彼女はぱっと俺を見上げた。白磁のような肌に、美しい黒髪、そして何かを見透かすような深い瞳。なんというか、可愛いというか、すごく良いお顔立ちをしていらっしゃる。俺は少し戸惑いながら、堅苦しくならないように、かつ失礼にならないように言葉を選んだ。


「その机、少し確かめさせてもらってもいいかな。筆箱を忘れちゃって」


「いいですよ」


 その子は透き通るような声で答え、椅子から立ち上がった。声がきれいだ。身長は俺より20センチ以上低く、守りたくなるような雰囲気。うちの中学にこんな女子がいたとは……見たことがないから1年生だろうか。いやいや、この子を賛美するのがここに来た目的ではない。俺が机を確かめようと思って近づくと、彼女が突然声を発した。


「あの、2年6組の木下幸太郎くんですよね」


「えっ……あ、うん。そうだけど」


「美化委員で一緒ですよね。私、2年5組の峰岡紗雪みねおかさゆきです」


 彼女、峰岡はそう言ってにっこりと笑った。なんと、同じ学年だったとは。しかも同じ委員会に所属していたとは。俺は結構周りを見ていたと思い込んでいたが、どうやらそうでもなかったらしい。


 何を隠そう、というほど大したことではないのだが、実は俺は2年6組の美化委員だ。2年生になってクラスが変わって新しい学級委員を決める時、くじ引きであたってしまい強制的にやらされることになってしまった。先週、顔合わせの会議があって、その時確かに名前だけの自己紹介をさせられた記憶があるが、他のメンツの顔や名前なんて一人も覚えてない。ってことはあの1回で覚えたというのか。なんつー記憶力だ。


「一応聞くけど、直接話したことはないよね」


「あ、そう……ですよね。はじめまして、ですね」


 峰岡は少しひっかかるような言い方をした。どこかで会ったことでもあっただろうか。いや。俺にはそんな記憶はない。小学校は違うはずなので、あったとしたら1年以内に会っているはずだし、こんなかわいい子なら結構目立つので覚えているはずだ。


「こちらこそはじめまして。峰岡さんは、美術部なんですか」


「はい。同じ学年にはいなくて、3年生の先輩方が受験で出て行っちゃって、1年生が入ってこなかったので、1人なんですけど」


 そういって峰岡は少し悲しそうに笑った。うちの中学は運動部の方が盛んなので、みな運動部に入りたがるのだ。それゆえに例のスクールカーストゲームでも文化系よりも運動部の方が強いのだ。まあ理由はそれだけではないのかもしれないけど。


 彼女の話を聴きながら、机の中をまさぐったのだが、筆箱が見つからない。一応しゃがんで机の中を覗き込んでみたが空っぽだ。俺がため息をつきながら立ち上がると、峰岡が話しかけてきた。


「どうかしたんですか」


「いや、5限目と6限目が美術で、筆箱をこの机の中に入れたことは覚えてるんだけど、俺が使ってたこの机の中に無くて。見てないよね。黒い布製の奴なんだけど……名前とかは書いてない、よくある布製の奴だ」


「はい、掃除時間が終わってから来ましたけど、筆箱は見てないですよ」


「ってことは、美術室の掃除係が事務室に届けたのか、あるいは、悪意を持った奴が、俺が筆箱を忘れたことに気づいて隠したかだな……まいったな」


 面倒なことになった。忘れ物があったら事務室に届けることになっている。ここは2階。事務室は、別の棟の1階。だからここから事務室までは結構歩かなければならない。いや、面倒くさがってないで、普通に取りに行けばいいんだけど。


 しかし事務室にも届いてなかったらもっと問題である。俺のこの学校での立ち位置は先ほどのとおりだ。掃除は押し付けられ、廊下でぶつかってもまともに謝られず、とことん下に見られている。とはいえ、面と向かって暴言を吐かれたり、目立って持ち物を隠されたり、直接的に暴力を受けたりする、いわゆる「いじめ」を受けてきた記憶はない。だが、どこかで悪意を買うようなことを全くしていないかと言われたら不安になるし、誰が自分のことを恨んでいるかなんて知りようがない。


 筆箱の中に入っていたものを思い出してみる。シャープペンシルと消しゴムと定規くらいだ。ごく普通の筆記具で、特に高級なものや大事なものが入っていたわけではないので、見つからなかったら見つからなかったで、あきらめてもよいのだけれど。


 俺は峰岡に会釈をして、美術室を立ち去ろうとした。その時だった。


「待ってください」


「はい?」


 峰岡に強い口調で制止された。なんだ、何かしたっけ。


「木下くんが座っていた席は、この窓側の最後尾の列で間違いないんですよね」


「そうだけど」


「なら、この同じ列の、1番前の机を確かめてみてください。筆箱、あるかもしれませんよ」


「……なんで?」


 俺はそう言いながら早歩きで教室の1番前の窓側の机まで行き、中を確かめた。すると、机の中から馴染みの筆箱が出てきた。俺は思わず前と同じ言葉を放ってしまった。


「……なんで?」


「状況からの推論です」


 そういって峰岡はにっこりと笑った。


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