隣
「卒業おめでとう」
校門へと続く石畳の割れ目から、若草がひそかに覗いている。
横で春野がぼろぼろ泣いているからかもしれない。寂しいのか清々しいのか判然としない心が、別れの言葉をすんなりと言わせなかった。
「本当に、高等部には進まないんだな……」
「うん」
神谷はいつもと変わらない表情で頷いた。
手には卒業証書、胸には花を飾って。
お茶会のあの日。神谷が住む村で、実り豊かな田園の周りを、ぶらぶら歩いていた時。
残陽もわずか、街灯がぽつぽつと
「あたし、高校は別のとこ行くよ」
俺たちが足を止めたので、神谷もそれ以上進まなかった。
鳥谷学院は中等部と高等部があり、俺も春野も、受験はせずそのまま高等部に進学だ。奇行は目立つものの、毎日出席し、成績も抜群の神谷は、退学なんてあり得ない。
「ど、うして……?」
「もともと祖母との約束は中学までだったし、高校は面白そうなところ見つけてさ」
近所の高校なんだけど、と言う彼女の目には期待の色が浮かんでいて。
だから、俺は「そっか」としか答えられなかった。
「じゃあ、お別れ?」
力のない春野の声に、神谷は笑った。
「なんで? こころが会いたいって時はいつでも会いに行くよ。物理的距離なんて関係ない」
——だって、運命共同体でしょ、あたしたち。
その時、『変人』ではなく、神谷せいらを見たと思った。
春野はこくりと首を縦に振ると、そのままうずくまって泣いた。
ざぁっと風が吹いて、稲穂が優しく揺れた。
そして今日。俺たちの中学生活に終止符を打つ。
「泣かないで、こころ。ほら、あたしの髪の毛あげるから」
「…………髪?」
「藁人形に髪の毛を入れてなんやかやすれば呪われるんだよ。犯人調査する時も、床に髪が落ちてないか調べたりするし、髪の毛ってDNAの塊みたいなものだから、あたしの代わりになれると思うんだよね。はい」
本当に引っこ抜いて渡している。
しばらく春野は受け取ったそれを見て沈黙していた。あたりまえだな。
「よーすけも、はい」
「要らねぇよ」
「じゃあちょうだい」
「は?」
俺の髪を指差してくる。まさか欲しいのか。
「……い、嫌だ」
「なぜ!」
DNAの結晶を渡すなんて、不吉な気がする。しかも持ち主が神谷だ。何されるか分かったもんじゃない。
「……」
だけど、一瞬。自分の髪に手を伸ばしかけたのは、秘密。
「そんなのより良いものあげるから」
校舎から複数の足音が聞こえてきて、俺は微苦笑した。
いつも驚かされてばかりだったけど、最後くらいはサプライズさせてほしい。
「かみやー!」
「神谷!」
次々と走ってくるのは、クラスメイトたち。
ずらりと、三年二組全員が、神谷せいらと向き合う。
「おお……!」
眼を輝かせて両手を広げるも、しかし誰もその胸には飛び込まなかった。
「神谷……」
代表して、村上が一歩進み出る。
「お前にはさんざん苦労したけど、でも、やっぱり別れるとなると寂しいぜ。高校でも元気にやれよ」
「うん、まかせて! えと、村上!」
「お前、ようやく俺の名前覚えたな」
村上が片頬を引きつらせる。どっとその場が和んだ。
「これ、みんなからお前に」
折り畳ませた黄色いプレゼントが、神谷の手に渡る。
神谷はキョトンとしながら、ゆっくりそれを広げた。
「色紙に書き寄せってのはベタかなって。だから、色紙じゃなくて布にしてみた」
身体を包みこめるほどの大きさの布は、風にふわっとはためいた。
『卒業おめでとう』の文字の周りに寄せられたたくさんのメッセージには、『三年間ありがとう』や『ケガすんなよ』など優しいものから、『学校一変だったで賞』とか、『頭脳くれ』『俺の彼女に何したの?』『今日の夕飯なに?』なんていうのもあった。実は隅っこに澤平からのもある。
「ありがとう」
落ち着いた、だけど心から嬉しさに溶けるような。あまりに自然にこぼされた言葉で、目を見張る。
「あたしはあと何本髪の毛抜かなきゃなんだ?」
「いや要らないから」
断るところは断るべし。
「ほら神谷」
岡村さんが神谷の肩に掛けさせる。
くるりと一回転すれば、マントのように翻った。感謝と喜びと祝福と期待の、黄色。
「またあたしと遊んでね!」
今はまだ蕾だけど。桜の舞う季節はもうすぐそこ。
彼女が咲かせる未来に、どうか幸あれ。
「しょーがないなぁ!」
口を揃えてそう言うと、俺たちは笑い合った。
じゃあな、また会おう。
*****
イルカショーまであと五分。
「ごめん、ちょっとお手洗いいってくるね」
「早く戻ってこいよ」
「うん」
春野が席を立ち上がり、俺はひとり観客席の最前列であくびをする。
あれから半年。神谷のいない高校生活は緩やかに過ぎていった。その証拠に、今日は二人でのんびり水族館だ。
とはいえ、うだる暑さには辟易している。水しぶきが盛大にかかる席にしたが、ずぶ濡れになるのは嫌なのか、それほど人気ではないようだ。後部座席より空きがたくさんあった。
「あ、あそこ五人分空いてますよー」
「よし座ろう」
「それにしてもこんなに水族館って人がいるのね」
学生だろうか。声が後ろから近づいてくる。どうやら俺の横の席を狙っているらしい。
しかしその中に、妙に聞き慣れた声があった。
「もうちょっと振動なくしてくれない?」
「……背負わされてる身にもなってください」
「背負われてる身にもなってよー」
「せいらさんがおんぶしろって言ったんでしょう!」
せいら、さん………………?
彼らが席に座る。長い髪が、視界の隅に映った。
俺はチラリと横目で見て、固まった。
「あれ? 陽介じゃん」
何回目だ。
変人こと神谷せいら。
奴は今日も、俺の隣にいる。
隣の変な奴 あさぎ @asagi186465
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