2021/05/20:客観視。――――――――――――――――――――#自説
よく「自分を客観視できる人間」が評価される。しかし、個人的な意見として、自分が自分である限り完全な客観視はできない。
例えば自分が描いた絵の評価を自分でつけるとしよう。描き終わったすぐは、なんだかうまく描けたように思う。しかし後々見てみると、なんだか下手な気がしてくる。このとき、正しい評価は後者であろう。時間を置いたことで製作途中の感情を忘れ、絵を絵としてみることが可能になったのである。
自分を客観視する方法はあるだろうか。一つ思い付くのは、自分しか知り得ない情報を除外して考えることだ。A君が次のような発言をしたとしよう。
(めんどくさいけど、役職決めるのに時間かかる方が嫌だから)
「私がやります。」
A君の評価はどうだろうか。主観的に見ればタスクをさっさと終わらせたいだけだが、ここで客観的に見ると、この人は面倒な役職を率先してこなしてくれる行動力のある人ではなかろうか。つまり、外から見たその人の性質は、外に放出した面でしか評価し得ないのだから、発言内容のみで構成されてしまう。誤解されていると感じているなら、自分でその誤解を解くように行動するしかない。
ここで、表出しにくい感情を考える。一つは行動理由だろう。先程の例を用いると、相手に伝えなければならないのは「私がやる」であって、なぜしたいかなどは今は必要ない。この発言に対して「なぜしたいのか」なんていう質問が来てようやく「誰もし無さそうだから」という理由らしい言葉が現れる。ただ、これは例にあったような、時間に関する話はしていない。つまりは理由全てを話したわけではないのだ。これでは客観的な評価である「行動力のある人」が変わることはなく、今後A君は面倒なタスクを押し付けられるだろう。
ただ、「行動力のある人」という評価は間違いだろか。確かに行動の理由が「時間をかけたくない」なのは物事に誠実ではないのだが、行動したことに違いはない。これがA君の客観的評価であり、主観的評価では判りづらいA君の長所である。
別の例を出してみる。今度はB君だ。
(めんどくさいけど、役職決めるのに時間かかる方が嫌だから)
「最後に残ったのでいいよ。」
この発言の客観的評価は言わずもなが。怠惰な人、こだわりが無い人。そんな感じだろう。しかし考えている内容はA君と一緒であるし、結局最後に残る役職は誰もしたがらない面倒なものだろう。最終的な結果が同じだとしてもこれだけ評価が変わるのは、A君は自身で選んだのに対し、B君は他人に任せたという違いである。B君が誰もしたがらない仕事をしてくれる人という評価を得る事はあまりないだろう。
客観的評価を上げたければ、自分がどんな思想を持っているなど一切考慮せず、一意に発言や行動の内容だけを吟味するとよい。言い方だけ変えれば、誤解は修正され、他人の評価は向上し、自己評価すら上がるかも知れない。
――――――
私の客観的評価はどうだろうか。学校で声を発するのは授業で当たられた時だけなので、行動を元に考えよう。
まず、誰とも話していないのだから社交的ではない。また、何か決める時は口を出さないので、多数派に巻かれる人だ。一人のときはスマホを見たり、小説を読んだりしてるので、暗い人間としか思われないだろう。勉強は、学校では宿題くらいしかしないのでガリ勉とは思われてないだろう。
私自身としては、過去を詮索されたくないから距離を取ったつもりだったけど、客観的に見ればただ社交性のないだけで、実際そんな人間なのかもしれない。
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