実朝公

三津凛

第1話

八幡宮参拝の朝、実朝公の傍らに侍る広元はさめざめと泣いた。流れる涙は不思議と温もりがなく、淡々と落ちる雨露のようであった。広元は不吉を憶えて実朝公に進言した。

「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これは只事ではありません。御束帯の下に腹巻きをお着け下さい」

広元は胸のあたりが重く、細面の実朝公が今朝はより細く、どこか蒼白く見えた。朝霧の中で実朝公を見たならば、幽霊のように思われたかもしれぬ。当の実朝公は口数少なく、広元の進言をじっと聞いていた。

だが実朝公が口を開く前に、太刀持ちの源仲章が「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と、これを止めた。実朝公はやや思案するような顔つきをされた。齢26の若人らしい、艶やかな頰をしているが、妙に老成した陰が降りているのを広元は見逃さなかった。それがなお一層哀れで、不吉で、広元はさらにさめざめと涙が溢れた。

これは事によると今生の別れとなるのではないか。落涙はその不吉な標なのかもしれぬ。

だがこの若き源氏の総大将にこれ以上のことは申せないように広元は思った。実朝公は広元を見下ろし、まるで憐れむように笑った。その憐れみは広元ではなく、実朝公自身に向けられた憐れみであるようだった。

「考えすぎであろう、広元」

実朝公は朗々と言った。それは総大将の風格を帯びている。広元は上目遣いに実朝公を見た。だが実朝公が広元と目を合わせることはなかった。

これを仲章は「なんと陰気な男であろう」と広元を軽蔑した。腹巻きなど、巻くべきではない。八幡宮は源氏の守神である。そこに源氏の総大将が参拝なさるのだ。なにかあろうはずもない。邪な者の太刀は折れ、弓の弦は切れるであろう。

鬢の整髪を終えてから、実朝公はふと思いついたように、広元に自らの髪を一房与えた。広元は一層不吉なものを憶えたが、舌が固まり動かなかった。覆しようのない運命(さだめ)の急坂を、すでに実朝公も仲章も広元も滑り落ちていたのかもしれぬ。



八幡宮には雪が二尺ほど積もっていた。参拝を終えた実朝公と仲章は、しんしんと固まる石畳を共に降りていた。石畳の途中に大きな銀杏が傍らに植わっている。見事な大木であった。ふと実朝公はその瘤の膨らんだ幹のあたりを見た。一瞬であったが、そこに頭巾をかぶったものが潜んでいたのが見えた。実朝公はそこで仲章の方を振り返ろうとして、やめた。仲章は気づいた様子はない。それが実朝公の運命を決めたのかもしれぬ。いやすでに、実朝公にはその全てが見えていたのかもしれぬ。

歩みは止められない。

実朝公はただ静かに、石畳を降り、その急坂を息を切らすことなく降りた。それを待っていたように、銀杏の幹の陰から、先代将軍頼家公の子、公暁が飛び出してきた。

「親の敵はかく討つぞ!」

公暁の野太い声はよく響き、林から野鳥の驚き飛び立つ音がした。粗い草履の石畳に擦れる音、太刀の疾風、仲章の怒号と鞘の抜ける音、その全てが不思議と実朝公には美しく聞こえた。それは八幡宮が実朝公の運命に与えた最後の情けのように思われた。最初の一太刀は笏にあたり弾かれたが、公暁は素早く持ち直すと今度こそ実朝公の首を刎ねた。実朝公は最期に「広元やある」と叫んで、その短い生涯を閉じた。公暁は仲章をも素早く討って、実朝公の首を脇に抱え、脱兎の如く雪の八幡宮から駆け出した。首は生温かく、鬢も滑らかで切り口からは鮮血が溢れ続けた。それは公暁の脇を染め、そのまま八幡宮の雪を点々と染めた。

そのころ八幡宮の麓で待っていた広元は野鳥の羽ばたきに不吉なものを憶え、石畳を駆け上がった。実朝公の首はすでになく、仲章も斬り殺されていた。主人の無くした胴体と、踏み荒らされた新雪とを見て、広元は全てを悟った。そして実朝公の血が点々と雪に続いているのを見つけた。源氏の嫡流はまさに絶えたのだ。その生々しい血の蠢きは、さながら泣くように広元に迫ってくる。広元はその痕を追い、やがて公暁その人に追いついた。

公暁の脇には実朝公の首がしっかりと抱えられていた。だがその首は実に高貴で、苦痛のない、蝋のように生っ白いものであった。雪の上で斬り離されたものであったからか、実朝公が常人離れした御仁であったからかは分からぬ。その切り口の生々しさ、野蛮さと比べるとそれは畏怖の念を起こさせるほどのものであった。だが野卑な公暁はそれに頓着せず、追っ手の広元に気がつくと撫でつけられた鬢を乱暴にむしってその髪を紐として帯に結びつけ、首をぶら下げだ。決して首は渡さぬ意志を広元は感じた。公暁と実朝公とは血縁浅からぬが、そうであるがゆえに実朝公は斬り殺されてしまったのだ。公暁は獣の息を吐き、問答無用と広元の脇腹を大きく斬った。それは実に粗く稚拙であったが、広元は一太刀も浴びせることなく斬られるに任せた。実朝公の首が公暁の腰元にくくりつけられたまま、その返り血を浴びる。広元は倒れ込んで、すでに光のない実朝公の瞳を見た。腹わたが傷口から溢れる。雪の冷たさが肉の奥深くまで沁みた。広元は首に刃が食い込んだ瞬間の実朝公も、このような冷たさを感じたであろうか、と思った。公暁は白い息を吐きながら後退り、躊躇いなく駆け出した。広元は頭を上げて、公暁を目だけで追った。すでに実朝公の首は見えぬ。

広元は大きく息を吐いて、自らの行く末と、これから起こる時代の流れについて僅かに思案した。公暁もやがて殺されるだろう。その時に実朝公の首は戻されるのだろうか。公暁は何処へ駆け出しているのか。それは公暁自身の死というものに知らず知らず駆け出しているのかもしれぬ。

痛みの中で、広元は人の声が聞こえるのに気がついた。鼻腔には火を焚く音と匂いが漂ってきた。近くに人家があるのだろう。ここで声を上げれば誰かなりが駆けつけてくるかもしれぬ。だが広元はもはや主人の居ない時代にこのまま生き永らえることに一層の虚しさを強く感じたのである。広元は横たわったまま、懐を探った。そこに実朝公の髪が一房あった。広元は哀れな若き源氏の総大将を思った。

脇腹から、じっとりと血が流れ腹わたがゆっくりと這い出てきた。広元の目に、老爺の腕のような枯木が目に入った。すると不思議哉、段々と新緑が萌え陽射しは眩しく夏の盛りのように広元を照らした。そこへ黒い束帯の実朝公が現れ、消えた。実朝公の顔色は分からぬまま、その姿態だけが広元の眼前に束の間現れたのである。広元はそのまま息耐えた。



しばらくの後、近くの人家の娘が広元の遺骸を見つけた。娘はやや頭が足りず、彼が何者であるか確かめることもできなかった。娘は面白半分に見事な着物と太刀とを無理やり剥がした。その時、懐から瑞々しい鬢が一房零れ落ちた。

娘は不思議に思ってそれだけを握りしめて家へと帰った。遺骸のことは父母には言わなかった。母は飯炊きに夢中で、父はまだ畑から戻って来ていないようだった。母は娘が戻ってきたのに気がつくと、釜の番を変わるように言いつけた。娘は素直に釜の番をやりながら、持ってきた鬢を取り出して眺めた。

そして、なんの躊躇いもなくそれを火の中にくべた。一層赤々と火は美しく燃えた。

「お前、何を焼いたんだい」

母がすかさず怒鳴った。

娘は黙ったまま、火の盛るのを眺めていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

実朝公 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る