振り下ろされたハンマー 擦られたマッチ

Jack Torrance

振り下ろされたハンマー 擦られたマッチ

私は現在スランプと言う名の蟻地獄に陥っており、藻掻けば藻掻くほどウスバカゲロウの思いのままである。私が生まれてこの方、味わった事の無い苦悩と葛藤のジレンマに思考は引き裂かれ人生においての挫折と言われる辛酸を嘗めさせられている。これは、誰が悪いといった類のものではなく、ただ単に私の力量不足といったものであり、怒りをぶつける相手は己のみである。私は、あの鬼才ジョン アーヴィングがカート ヴォネガットを師として仰いだアイオワ大学の創作科を卒業し、91年に処女作『奇抜な少女とホームレスの老人との奇妙な友情』と言う本で文壇にデビューした。この本は家族や友人との人間関係に価値観のずれや亀裂を感じていた少女がオクラホマからカリフォルニアにヒッチハイクで渡りそこで知り合ったホームレスの老人からマリファナやその地で生き延びていく術を伝授されながら奇妙な友情を育んでいくというストーリーだった。この本はカーソン マッカラーズの『結婚式ノメンバー』を引き合いに出されマッカラーズの再来と最大の賛辞を送られ、ぽっと出の新人作家が全米図書賞の最終選考まで残るという快挙まで成し遂げた。私は一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たした。2年後に私は2作目の『失われている自由 萌ゆる黒い炎』と言う本を出版した。この本は、公民権運動の真っ只中において組織の中核を担う黒人青年と白人青年との交流と勝利を勝ち取るまでの挫折の連続を描いたものでピューリッツァー賞にノミネートされた。此処までは私の作家人生も満更捨てたものじゃない。言ってみれば順風満帆というところだ。カポーティ、メルヴィル、フォークナーといった偉大な文人といずれは並び称される事になるだろうと囃し立てられた。新進気鋭の次世代作家ノーマン コナー現るとあらゆる媒体や紙面で私はイエスの生まれ変わりかのように持て囃された。私はピノキオのように鼻は高く伸びきり女性に言い寄られ鼻の下も伸びきり鼻持ちならない人物になっていた。3年後に出版した3作目『愚弄する人々』で読者の反感を買った。この本は特権階級の富裕層が庶民を馬鹿にしたようなん内容で所詮脳が無いからあなた達はその地位に甘んじているんだと揶揄したストーリーで人を小馬鹿にしたような小説であった。自分ではおもしろい題材だと思い書いたモノノ労働者階級や低所得者層の反感を買い批評家から酷評され初版10万部刷りに対して売れたのは僅かに1万部弱であった。私は自分に言い聞かせた。あのベーブ ルースも100球中100球をバックスクリーンに打ち返せる訳じゃない。空振りもするしど真ん中のストライクボールを見逃す事だってある。完璧な人間なんていないさ。そうやって私は自分を奮い立たせた。次の打席でホームランをかっ飛ばせばいいんだと。そして、私は4作目の『残骸となった老人』を執筆し、これを出版した事によって私自身が残骸と化してしまった。この本は、未来における老人が総人口の中で占める割合を合理的観点から算出して捲したてるというストーリーだった。延びていく平均寿命や進歩する高度な医学、開発される新薬、煙草、アルコール、ドラッグへの規制、食、労働、心療などのリスクマネージメントなどのあらゆる分野から算出し、それによって生ずる年金、医療、介護、福祉における増大する莫大な支出の賛否を問い老人は近未来でアンドロイドから抹殺されるといったSF仕立てのストーリーだったが全米の老人組合、介護施設や福祉に携わる団体職員、職員退職年金基金や公務員年金基金や年金運用管理理事会などが老人を軽視した差別的な本だと出版差し止めを訴え一悶着あり初版5万部刷りに対して売れたのはたったの2023部だけだった。これには堪えた。メディアの取材も激減し私は表舞台から姿を消し去り『奇抜な少女とホームレスの老人との奇妙な友情』と『失われている自由 萌ゆる黒い炎』の2作のみで辛うじて現存している過去の産物となってしまった。私は立ち止まって己を見つめ直した。己に驕傲などの偉ぶった思想が蔓延っていなかったか?自分は選ばれた人間で特権階級で何をしても許されるといった驕りが芽生えていたのではないのだろうか。生を受けて33年。全てが風に乗ったヨットのように緩やかにダウンウインドしながら視界は開けていたのに突然座礁してしまったような感覚だった。私は積み上げてきた煉瓦、信用、実績、自尊心、知性、宗教観、構造理念、世間体、常識、所作といったような既存の概念ばかりを積み上げてきた。この既存の概念を打破してオンリーワンの自分を覚醒させなければ私はこのスランプから脱却出来ないと感じた。私は目には見えないが、確かに高くそびえ立つ壁となった積み上げられた虚しく目の前の行く手を阻む煉瓦にハンマーを振り下ろした。煉瓦の壁はもろくも微塵に砕け散った。それはベルリンの壁が崩壊した時のよな衝撃であった。瓦礫となったその石ころを私は33年間せっせと積み上げてきたんだという虚無感が私の心を一陣の風となって吹き抜けた。そして、私は過去の4作の原稿とハードカヴァーを炉に焼べてマッチを擦った。それら私の過去の産物は瞬く間に赤い炎となって燃え上がり黒い灰と化していった。黒い灰を見つめ、これも何れ大地に帰るんだと自分に言い聞かせた。私は何だかすっきりした気持ちになり新たな創作意欲が沸き起こってきた。私は寝る時間も惜しんで書いて書いて書きまくった。その没頭した2ヶ月は私が生きてきた33年という長い月日にも匹敵するくらいの濃密な2ヶ月だった。そして、私は己の殻を打破せんと無の境地と言えば嘘になるが、もう一度、自己を再生すべく放った鉄拳を打ち込み己のリミットを超越した。私の5作目となる『性への陶酔 麻痺していく感覚』の出版にこぎ着けた。それは、私を見放さずに鼓舞し続けてくれた編集者の尽力が大きかった。この本のストーリーはルックスが今一つなセックス依存症の詐欺師の男がバーで知り合った女性を自分は弁護士、医師、大学教授だと身分を偽りホテル、トイレ、戸外に誘い込み考え得る限りの有りと有らゆる性的嗜好を試行していく。それだけでは物足りない男は娼婦を買い己の性欲を満たしていく。だが、とある娼婦は男の性的嗜好から命じられた要求を拒み激高した男は娼婦を絞殺してしまう。その行為中に殺害するという行為に性的興奮を覚えた男は連続殺人犯へと変貌していく。当初は娼婦のみしか殺害しなかった男は次第にエスカレートしていきバーで知り合った女も殺害するようになりFBIの手が男に徐々にせまっていくという猟奇的なサイコスリラーのストーリーだった。『性への陶酔 麻痺していく感覚』は多くの批評家から支持されてブレッド イーストン エリスの『アメリカン サイコ』の主人公パトリック ベイトマンのサイコパスとジョン アップダイクの官能を一流の文学に昇華させた『金持ちになったうさぎ』のようなエロティシズムを兼ね備えた小説だと絶賛された。初版刷りされた1万部が口コミで3日で完売し出版社の販促による尽力とコラムニストやエッセイストの友好的な評論の助力もあり重版に次ぐ重版を重ね360万部を売り上げ、その年の全米図書賞を受賞した。これに気を良くした私は更なる創作意欲に掻き立てられ再びペンを執った。しかし、それは私にとって己の無力さと既に余力が残ってない事を悟らせた。私は知恵の限りを絞り、机上の空論、御託を寄せ集めてどうにかして『性への陶酔 麻痺していく感覚』を超えるものを書こうとした。だが、その作業は虚しく儚い徒労に終わった。いくら考えても考えても『性への陶酔 麻痺していく感覚』を上回るものが書けないのである。そう『性への陶酔 麻痺していく感覚』は私の最高傑作でありそれを超える事はもう無いと私は悟ったのである。この先、私は佳作止まりで傑作はもう書けない。私は再び苦悩と葛藤のジレンマに陥った。私は己に問い掛けた。ノーマンよ、お前の力量は所詮そんなものか?お前より優れた作家に対してお前は撤退という道を選ぶのか?あの、ぎらついていた頃のお前は何処に行ったんだ?私は不眠症に陥り睡眠薬と精神安定剤を服用し始めた。起きているのに微睡む意識。心は常に此処に在らずという毎日を送った。誰か私の脳天にハンマーを振り下ろしてくれ。誰か私にガソリンをぶっ掛けてマッチを擦ってくれ。私はリチャード ブローティガンが拳銃自殺した真意が解ったような気がした。私は静かにペンを置いた。今、私はベッドに座っている。トーラス85の銃口を蟀谷に押し当てて…

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