鋼のバゲット~パン屋の女神と呼ばれて~

公社

第1話

「いらっしゃいませー」

「お、クロエじゃないか」

「あー、ジャン。いらっしゃい」


 下町の一角に店を構えるパン屋、その名は「麦畑」


 パン職人のオーナー、店番の奥さんの夫婦2人で切り盛りしている小さな店。美味しいという噂が徐々に広まり、今では知る人ぞ知る隠れた名店だ。


 中心街の商人には、自分がパトロンになるから、2号店を出さないかと持ちかけられるが、頑固なオーナーが、人に任せるのは嫌だと断っており、小さい店でこだわりのパンを焼き続けること30年。


 嫁に行った娘が手伝いに来てはくれるものの、年を取り、二人だけで営業するのも大変になってきたところに、三年前初めて雇った従業員が、今店番をしているクロエ。


「クロエが店番なんて珍しいな」

「おばさんが腰を痛めちゃってね、しばらくお休み。代わりに私が店番よ」


 クロエは王都から少し離れた寒村の農家の子。

 三年前に疫病で両親を亡くし、生活のためにと職を求めて王都へやってきた。


 だが、貧しい暮らしのため、血色が悪く痩せ細った女を雇う店など無く、途方に暮れた彼女がたどり着いたのが、この麦畑の店先。


 中から香る焼きたてパンの匂いに、フラフラと誘われた彼女は店先でとうとう力尽き、倒れてしまったところをオーナー夫妻に保護されたのだ。


「私は運が良かったよね。おかげで仕事も見つかったんだからね」

「だけどさあ……何でパン作りの方を選んだんだ?」

「自分の作ったパンを、美味しそうに食べてくれる人がいたら嬉しいじゃない」

 

 そう。クロエは夫妻の好意で、保護された後、そのまま麦畑で働くことになったのだ。パン職人として……


「店先はおばさんと娘さんがいるのに、パン作りはおじさん一人だもん。そっちを手伝うのが自然じゃない?」

「しかしなぁ……弟子入りを悉く断ってきたあの親父さんが、初めて採った弟子がクロエだもんなぁ……年は取っても親父さんも男だってことだな」

「ジャン、てめえ俺が若い娘に鼻の下伸ばしてるとでも言いてえのか?」

 

 裏からオーナーが鬼の形相で現れ、ジャンに噛みつく。


「親父さん、そういうわけじゃないが、適材適所って言葉知らねえか? クロエが店先に立てば、たちまち人気の看板娘だぞ」


 クロエは現在21歳。

 王都に来た頃は栄養も足りなく、みすぼらしい姿であったが、この3年でみるみるうちに美しい娘へと変貌し、今や下町一の美女と評判になっている。


「ジャン、そんな事してみろ。味の違いも分からねえ有象無象が、クロエ目当てにうじゃうじゃ来ちまうじゃねえか。そんな奴らは黒獅子亭のパンでも齧ってろってんだ」


 黒獅子亭とは、同じく王都ある高級パンの店。

 とある子爵家がオーナーで、かつては麦畑同様、じっくりと仕込んだ手作りパンが人気の店だったが、現子爵になってからは、機械化と流れ作業による大量生産に舵を切った。


 さらには子爵のコネを使い、役人や騎士達が利用する王城内の食堂にパンを納入し、王室御用達の看板を手に入れたことで、競合するパン屋を次々に買収。

 今や王都のパン屋の8割以上が黒獅子亭の看板を掲げている。


「勘弁してくれ。ここのパンを食べたら、申し訳ないが黒獅子亭のパンなんざ食べられたもんじゃねえよ」


 うんざりとした表情で頭を振るジャン。彼は伯爵家の三男で、王都警備隊の副隊長を務めている。


 王城の食堂は、福利厚生の意味を込めて費用の半分を王室が負担し、格安で食事が出来るのだが、パンが美味しくない。


 黒獅子亭は高級パンと謳うくらいなので、材料は一級品だから、美味しくないというのは言い過ぎだが、大量生産に舵を切った結果、何の感動も与えられない普通のパンに成り下がってしまい、かつての味を知る者からは、味が落ちたなと評されているのだ。


 とはいえ王都のパン屋のほとんどが黒獅子亭のチェーン店になってしまったので、他の選択肢が少なく、仕方なく食べているというのが現状である。


 ジャンも仕方なく王城の食堂を利用していたが、ある日外回りで帰りが遅くなったときに、飯を外で調達しようと、たまたま麦畑に寄ったときのこと……


「あの時間にはほとんどの商品が売り切れてるからねえ」


 初めて店内に入ったあの日、残っていたのは「鋼のバゲット」というパンだけ。


 とにかくクッソ堅い。これを食べるのは何かの修行ですか? と思うくらいクッソ堅い。あまりに売れないので黒獅子亭では生産を止めてしまった商品。


 参ったな~と頭を掻くジャンに、良かったらサンドイッチでも作りましょうか? と声をかけられたのが、クロエとの初めての出会い。

 

 今更別の店に行く時間もないと、ジャンはクロエの申し出を受け、購入したバゲットサンドを食べたとき……

  

「初めて食べたときの衝撃たるや……分かるかクロエ、あの鋼のバゲットがあんなに美味しいとは……」

「作り方さえ間違えなければ、美味しいパンなんだよ。まあ堅いのは好みが分かれるところだけどね」


 元々鋼のバゲットはポピュラーなパンだった。

 衰退した原因は、ひとえに黒獅子亭の質が落ちたからに他ならない。


 キチンと作れば美味しいパンなのだが、練り混みにも焼き上げにも技術を要するため、オートマティックな生産方法には不向きで、質が低下してただ堅いだけのパンになってしまった。

 質の低下に比例するように売り上げも落ち、いつしか黒獅子亭のラインナップから外されてしまったのである。


「あの子爵様は客の嗜好が変わったとうそぶいているが、何のことはない。アイツらの腕が落ちただけだってのにな」


 オーナーはいつになく辛口だ。

 人様のやることだから、黒獅子亭の経営方針に文句を言う筋ではないのは分かっているが、そのせいで美味しいパンが食卓から消えてしまったことが悔しいと言う。

 職人の腕がものを言う鋼のバゲットは、オーナーの中でも一番思い入れのあるパンなのだ。

 

「まあ麦畑があれば、俺は困らないからな」

「はいはい。今日もいつものバゲットサンド用意しておいたわよ」

「ジャン、クロエに感謝しろよ。店には出さないに用意する特注品だぞ」


 意味深な笑みを浮かべてからかうオーナーに、顔を赤らめて「誤解されるでしょ!」と抗議するクロエ。そしてそれを見て「俺は誤解されても構わないが」と微笑むジャン


 ジャンが麦畑に通う理由。それはひとえにクロエに会いたいから。

 彼女に頼んで特製のバゲットサンドを直接受け取るのが、今では楽しみで仕方ないのだ。もちろんパンが美味しいのは大前提である。


 クロエはクロエで、ジャンがいつも美味しそうに自分の作ったものを食べてくれ、いつも必ず「美味しいパンを作ってくれてありがとう」と言ってくれるのが嬉しいのだ。


 この国では、パン職人は男の仕事。女がやるものではないという風習が根強く残っており、クロエがパン職人であることに眉をひそめる者も少なくない。


 下町一の美女と評判の彼女は、これまでに何人もの男から交際だの結婚を申し込まれることはあったが、いずれパン職人は辞めて欲しいと言われるのがお約束のようになっているので、今まで付き合った男はいない。

 パン職人を辞めなきゃいけないなら、結婚なんかしないで一生パン焼いてるよと開き直っているのだ。


「クロエの腕は間違い無い。まだまだムラはあるが、いずれ俺より良い職人になるさ。女ってだけでパン職人にふさわしくないなんてのは、偏見でしかねえ。ジャンみたいに言ってくれる奴がクロエの励みになっているのさ」

「当たり前だよ。俺はクロエが焼いたこの店のパンが好きなんだから」

「え? 今日は店番だから、焼いたのはおじさんだよ」

「な、ん……だと……」

「おいコラ、そのリアクションはどういう意味じゃ!」

「二人ともケンカしないの!」


 クロエは最終的にサンドにしたのは私なんだからいいでしょと宥め、ジャンもそうだねー、と急に温和な表情に戻り、それを見ているオーナーは苦笑いを浮かべる。


「イチャつくなら外でやれっての、まったく……」


 オーナーが思わず呟いた言葉に反応するジャン。


「クロエ、親父さんもこう言ってるし、次の休みに一緒に女神祭にでも行くか?」

「ナンパ?」

「ナンパじゃねえよ。デートのお誘いだ」


 違いが分からないというクロエに、俺にも違いがよく分からないと笑うジャン。


「仲がよろしいことで……」


 そう呟くオーナーの目は、娘を彼氏に取られた寂しいお父さんのそれであった。 






 次の休みの日、ジャンとクロエは大通りを二人で歩いている。

 今日は女神祭。新年を迎えて最初に、この1年の国民の安寧とやがて来る春の訪れを、守護神である女神様に祈願する一大行事。


 とはいえ、街は露店が建ち並び、そこかしこで大道芸人や吟遊詩人が思い思いに芸を披露して賑やかな雰囲気なので、厳粛という感じは全くない。


「クロエはこういうところに一緒に来る相手はいなかったのかい?」

「王都に来てから3年間、ずっとパン作りの修行だったからね。仲のいい女の子は何人かいるけど、男性と来るのは初めてよ」

「おれが第一号か」

「そうね。もっともジャン以外の人に誘われても断っていたと思うけど」

「それは光栄。では今日はクロエ嬢に目一杯楽しんでもらおうかな」

「お願いします」


 伯爵の三男とは言え、やはり貴族である。普段の姿からは想像も付かないほど、ジャンは優雅にクロエをエスコートする。


 クロエも決して男が嫌いなわけではなく、感性の合う相手がいなかっただけで、いたってお年頃の普通の女の子だ。自分をお嬢様然として扱う彼の姿勢に、少なくない好意を持つのは自然であろう。


 そうして街を歩くことしばらく、時計はお昼時を回っていた。


「そろそろお昼にしようか。何か希望はある?」

「うーん、お店はどこも混んでいるし、屋台で手軽に食べられるものを買って、その辺で食事でもいいかしら?」

「そうだな。気楽でいいな。となれば、何を食べるかだが……」


 ジャンがあたりを見回すと、お昼時のせいか屋台はどこも賑わっている中、ガラガラの屋台が1つだけ。


「あれは……?」

「黒獅子亭が屋台を出しているのか……」


 売り子が盛んに呼び込みをしているが、買っていく人はまばら。それもそのはず、値段が高い。

 バゲットサンド1本の値段で、大衆食堂ならばお腹いっぱい食べられるような金額だ。

 庶民にとっては権威より値段と味が重要だから、王室御用達の看板を掲げていようとも、いらない物には見向きもしないのは当然だ。


「クロエ、気になるのか?」

「ええ。黒獅子亭のパンって食べたことないから、よそのお店の味を知るのも必要よね」

「やめとけ。何をどう逆立ちしても麦畑には敵わない。参考にもならないぞ」

「どうです? 王室御用達、黒獅子亭のバゲットサンドですよ。王族の皆様もお召し上がりの逸品ですよ」


 二人が屋台の方を見ながら何やら話している視線に気付いた売り子が、こちらに話しかけてくる。


 売り子の言う「王族もお召し上がり」という部分。何も知らない平民相手なら、王室御用達の看板で信じ込ませることもできたろうが、貴族のジャンには通用しない。


 嘘偽りありとして、不敬罪で捕まえようかとも思ったが、折角クロエと楽しい時間を過ごしているのだし、何より彼女が食べてみたいと言うので、何も聞かなかったことにした。


「じゃあ2人分ください」


 ホントは1人分だけでいいのだが、そう言うと面倒臭そうなので仕方なく2人分購入する。


「はいどうぞ。美味しいですよー」

「たしかに彩りはいいですね」


 購入したのは鴨のロースト肉と色とりどりの野菜が入ったバゲットサンド。見た目はたしかに美味しそうであるが、ジャンは食べた後にクロエがガッカリするのが目に浮かんでしまう。


「これはお買い上げありがとうございます」


 代金のやりとりをしていると、ふと後から声をかけられたので振り向いてみると、そこにはいかにもザ・成金のような格好をしたでっぷりハゲ、いや、ふくよかで(頭が)光り輝く貴族の男であった。


「オーナー……ご苦労様です」

「うむ。売上はどうかね?」

「ま、まあまあですね……」


 声の主は黒獅子亭のオーナー、アゲール子爵。


「貴女のような美しいお嬢さんに買って頂けるとは、嬉しい限りですな。さあ、是非召し上がってみてください」


 舐め回すような視線で、クロエに食べるよう勧めるアゲール。

 気持ち悪さが限界を超えそうだが、相手は貴族なので仕方なくその場で一口食べてみる。


「ああ、ロースト肉が美味しいですね」

「そうでしょう、そうでしょう。ウチで使用する食材はどれも高級品。本当ならこの値段では利益も出ないような商品です。平民でも味の違いが分かる方、嫌いではありません」


 そう言うとアゲールは、そんな美しい貴女を今夜ディナーに招待したいと言い出す。


(おいおい、男連れの女に粉かけるとか、コイツ正気か……)


 今日のジャンはクロエに合わせた格好なので、完全に平民にカップルだと思って舐めているのかもしれないと思い、彼女の前に割って入る。


「すまないが彼女は俺の連れなんでね。お貴族様でもさすがにそれは失礼じゃないですか?」

「ああ、これは失礼。こんな美しいお嬢様だ、男の一人や二人いてもおかしくはないか……いや失礼失礼」


 全く失礼と思っていない口調と、男の一人や二人という言い方が軽い女だと思われているようで、クロエは珍しくカチンときてアゲールを睨むと、彼に付いてきた者がクロエの顔を見て思い出したように叫んだ。


「お前、麦畑の店員じゃねーか! スパイにでも来たのか!」

「ほう、君は麦畑の店員なのか……堂々とウチの味を盗みに来るとは、随分と大胆なお嬢さんだね」


 さすがにこれはカチンどころではない。

 コッチは売り子に声をかけられて買っただけなのに、なぜスパイ呼ばわりされなければいけないのか。

 自分にだって職人としてのプライドがある。コソコソと他人の技術を盗み取るようなマネをするほど落ちぶれたつもりもない。


「スパイとか盗みだとか、随分と勝手なこと言ってくれますね。この国ではパン屋の人間はよそのパン屋で買い物をしてはいけないという法律でもありましたっけ?」

「何を!」

「そもそもこのパンから何を盗むというのですか? 残念ですが何の参考にもなりません」


 言外に不味いと言い切るクロエ。


「お前、さっきは美味しいと言っていたではないか!」

「ロースト肉は、と言ったはずです。具材はたしかに美味しいです。ですが……パンの味がしません。具材の味ばかりで、パンの、小麦の風味が全くしません。これならばパンに挟まずとも、具材だけで味わった方が美味しく食べられます」

 

 パンだけだったら食べられなくもないが、具材と一緒になってはパンの味が完全に負けており、サンドイッチの体を成していないと酷評します。


「営業妨害だ! 営業妨害で訴えてやる!」


 売り子がそう怒鳴ると、ケンカでも始まったのかと野次馬が周りを取り囲みだした。


「なんだなんだ、ケンカか?」

「パンが不味いって。それで営業妨害だって言ってるらしいよ」

「あ? さすがに不味いは言い過ぎじゃねーか」

「あの子、麦畑の店員だろ?」

「ああ、それなら納得だ。あそこのパンを毎日食べてれば、お世辞でも黒獅子亭のパンを美味いとは言わねーなw」

「違えねえw」


 どんどん増えていく野次馬に焦るアゲール。


「なあ子爵様、これ以上騒ぎが大きくなると、警備隊のご厄介になっちまうぜ。さすがにそっちもヤバいだろうから、この辺で手引いてくれないか」


 好機とばかりに事態の収拾を図るジャン。

 もっとも、警備隊の副隊長がすでに目の前にいるわけだが。


「ええい! 今日はもう店じまいだ! オマエら、見世物じゃない! 散れ! 散れ-!」


 今日はこれ以上商売にならないと判断したのか、アゲールが売り子に指示して店を畳み出す。


「クロエ、今のうちに行こうか」

「いいの?」

「いいよいいよ、もらい事故みたいなもんだ。それに本当に警備隊が来ちまったら、立場上俺がマズい」

「あー、そうだね」


 そう言ってその場を後にする二人を遠目で追うアゲール。


「小娘……覚えていろよ!」






 それから1ヶ月ほど後、事件は起こった。


「立ち退けだと!」


 アゲールが店に現われ、オーナーに店舗一帯の土地を買い占めたことを告げる。


「そうだよ。この一帯の土地は私が買い取った。ついてはこの店にも立ち退きを要求する」

「なんの理由があってこんなことを!」

「庶民向けに黒獅子亭の大型店をここに造るのさ。だから土地を買い取った。分かる?」


 そう言うと土地の譲渡に関する書類を見せ、契約が正当であることを証明する。


「どうしても店を残したいんだったら、私が買った土地の代金を支払ってくれれば所有権をお渡ししますよ」


 アゲールが提示した金額は、一般庶民にはとても支払えるような額ではない。

 

「そんな……横暴じゃねーか」

「横暴? 私は法律に従って土地を買い取ったのだ。代金さえ支払えば、所有権を譲ると言っておる。何の問題があるのだ?」


 条件を提示しておきながら、ハナから計画を改める気などないのだ。

 立ち退きは2ヶ月後、それまでに綺麗さっぱり撤収するよう告げ、アゲールは高笑いして去って行った。




 クロエがそれを知ったのは翌日のこと。


「おじさん……どうするの?」

「どうもこうも……クソッ! 汚ねえマネしやがって!」


 憂鬱な気分でその日の営業を終え、帰宅の途に就いた途上……


「おや、お嬢さん。こんなところで会うとは奇遇ですねえ」

「何のご用ですか」


 待ち構えていたのはアゲール。

 奇遇などと言っているが、クロエを待っていたのは明らかだ。


「いやー残念ですねえ。麦畑のような名店、私も潰すのは惜しいが、新しい店を建てられる土地があそこにしかなくてねえ。私も心苦しいよ」


 相変わらず嫌悪感満載の口ぶり。どの辺が心苦しいのか理解できないといった表情のクロエ。


「だが……私も悪魔ではない。条件を飲んでくれれば出店計画は白紙に戻そう……」

「ホントですか!」

「ああ、それが出来るかは君次第だ」


 私に何が出来るのかと訝しむクロエに、アゲールが提示した条件は1つ。


 それは……クロエがアゲールの元へ行くということ。


「つまり……私に黒獅子亭へ移籍しろと?」

「ハハハ、その必要はない。黒獅子亭は職人の技量を必要とはしていないからね」

「ではどういうことですか」

「君は私の妾になればいいんだよ」


 そういうことか……

 男性経験の無いクロエでもその意味はよく分かった。


 店を残すための人身御供としてアゲールの妾となる。それはつまり、自分にこのハゲデブの玩具になれということだ。


「時代遅れのパン職人など、君のような美しい娘が続ける必要があるか? 私の元へ来れば、今までよりずっと贅沢な暮らしをさせてやる。それで店も残る。どうだい、悪い話ではないだろう」

「ふざけないで! 私は、私は……パン職人に、おじさんが教えてくれたパン作りの技術に誇りを持っています! 私の人生を勝手に決めつけるとか、何様のつもりですか!」

「今は突然のことで混乱しているのはよく分かる。だが……何がみんなの、あの店の幸せになるか、時間をかけて考えた方がいい。幸い立ち退きまでは時間がある。すぐに結論を出せとは言わん。よーく考えることだな」

「よく考えたって答えは変わりません!」

「おーおー、気の強いこと……ま、強気な女を抵抗できなくなるまで、これでもかと痛めつけるのも悪くないな……」

 

 ゲスな笑みを浮かべながら、最後にもう一度よく考えろと言い残し、アゲールは馬車に乗り込んだ。


(私が……女神祭で……あんなことを言わなければ……)


 自責の念に駆られたクロエは、その日一睡も出来ずに朝を迎えるのであった……




 <翌日>


「クロエー! お客さんだよー!」


 店先からおばさんが呼ぶ声が聞こえ、裏から現われたクロエはジャンともう一人、連れの男がいるのを見つけるが、その顔は泣きはらしたように目が赤く、歩き方もフラフラと覚束ない。


「どうしたんだその顔!」


 その顔を見たジャンは、なにかとんでもないことが起こったのだと確信し、クロエに問いかける。


「ああ、ジャン……何でも無い……何でも無いから、大丈夫だから……」

「大丈夫って顔じゃなさそうだけど?」


 声をかけてきたのはジャンの連れの男。


「こちらの方は……?」

「ああ、おれの学生時代からの友人でドミニクってんだ。3年ばかり隣国で仕事していてね。久しぶりに帰ってきたから、ここのパンを食べさせようと思ってね」

「ドミニク……様、初めまして、クロエと申します……」

「初めましてクロエさん」


 ドミニクは服装こそ平民であるが、その顔立ちや纏うオーラ、ジャンの友人という話から、意識がボーッとしているクロエでも高貴な人物と見受けられたので、咄嗟に様付けをしたが、彼は不要だと伝える。


「それで……良かったら何があったのか話を聞かせてくれないか?」

「クロエ、俺も気になる。力になれるかもしれない。話してくれないか」


 二人の熱意に負け、クロエが昨日の出来事をポツリポツリと話し出すと、ジャンは頭に血が上ったのか顔がみるみる紅潮してゆく。


「あのクソハゲデブ! クロエを妾にだと! テメエの姿、鏡でよく見直せってんだ!」

「落ち着けジャン」

「これが落ち着いていられますか!」

 

 激怒するジャンを宥め、状況を整理するドミニク。


「合法的な土地買収であれば、覆すのは難しい。クロエさんが妾になれば、店を守れると言うが、正直怪しいな」


 クロエが去った後、オーナー夫妻に再び何か仕掛けてくる可能性は十分にある。


「俺達はクロエを犠牲にしてまで店を守る気はねえ」

「そうですよ。クロエは私達のもう1人の娘みたいなもんだ。あんな奴の妾にされるのを指をくわえてみてなんかいられないよ!」

「おじさん……おばさん……」

「なら徹底抗戦だ!」

「ジャン、そう言うが、どうやって?」


 相変わらず血が上ったままのジャンにドミニクは冷静にツッコむ。


「ドミニク、お前の力でどうにかならんか?」

「さすがに特定の個人に肩入れは難しい……でも待てよ、この店のパンが黒獅子亭よりずっと美味しいことを証明できれば、もしかしたら道はあるかもしれん」


 そう言うとドミニクは、再来月にある春祭りの会場で、パン職人によるコンクールを開いてはどうかと提案します。


「コンクール……ですか?」

「そうだ。そこでこの店のパンが一番を取れば、店が無くなることを惜しむ声が広がるし、もしかしたら誰かパトロンが付いて、新しい店をオープンできるかもしれない」

「そんなことが出来るんですか!」

「この店にだけ肩入れは出来ないけど、コンクールを開くくらいなら問題ない」


 事も無げに言い切るドミニクを、クロエやオーナーは不思議そうに見つめる。

 なぜならば、春祭りは王家の主催。その催し物を追加変更できるなど、貴族であってもそう簡単に出来るものではない。


「クロエ、親父さん、心配いらない。ドミニク殿下に任せていれば大丈夫だ」

「殿下……って?」

「まさか、王弟殿下!」


 そう、ドミニクは現国王の一番下の王弟。同盟国である隣国の駐在大使として3年間赴任しており、つい先日帰国の途に就いたばかりなのだ。


「殿下とは知らず、ご無礼を」

「オーナー、こちらも身分を明かしてなかったのですから畏まらないでください」

「ジャンって……本当に貴族だったんだね」

「おいおいクロエ、どういう意味だよ」

「だって! 王弟殿下と友人って……」

「ハハハ、クロエ嬢にしてみれば、平民姿のジャンしか知らないだろうからね」


 二人は学園時代の友人というか悪友。

 ドミニクはお忍びで城下に出向くことが多々あり、そのお付きというか、後で一緒に叱られる役としてジャンが巻き込まれていたのではあるが……


「そういうことでコンクールの開催は僕に任せてくれ。あとは君たち次第だよ」

「ありがとうございます!」

「それと……ジャンにも頼みたいことがある」

「へーへー、またロクなことじゃなさそうですね」

「そう言うな。これはクロエ嬢のためでもあるぞ」






 暫く後、春祭りでのコンクール開催が決定した。

 だが、参加するのは麦畑と黒獅子亭の2軒のみ。


 黒獅子亭に関しては、ドミニクが「王室御用達の看板を掲げていて参加しないわけ無いよね?」と、アゲールを挑発したことで、参加することになったが、他の店に関しては何故参加しないのか?


「黒獅子亭が圧力をかけて参加させないようにしたとしか考えられないな」

「でしょうね」


 ジャンとクロエはコンクールに向けてカフェで作戦会議中。

 パン作りは当然オーナーの仕事。クロエはその補助をする予定である。


「まあ、他の店はどうでもいい。目的は黒獅子亭に勝つことだからな」

「おじさんのパンが負けるわけ無いわ」


 しかし店に戻ると、楽観視した雰囲気を一変させる凶報に出くわすことになる。


「おじさんが!」

「暴漢に襲われただと!」


 店の裏で作業をしていたところに、突如暴漢が乱入しオーナーを暴行。

 警備隊が駆けつけたときには、すでに犯人は逃げ去っており、オーナーは腕を骨折するなどの重傷を負ってしまった。


「そんな……」

「黒獅子亭の奴らか……」


 コンクールに参加出来ないよう、黒獅子亭の息のかかった者が犯行に及んだ。状況からそうとしか考えられないが、逃げられて証拠の1つも残っていない現状では、罪を問うことも出来ない。


「そこまでしてアイツらは、この店を……潰したいの……」


 憤るクロエに、こうなっては他に手が無いと、君が出場しろと言うジャン。


「私一人で!」

「君なら大丈夫だ。君の焼いた鋼のバゲット、親父さんにも負けてない。君がこの店を救うんだ」

「でも……」

「クロエ、君はいつもどんな思いでパンを焼いているんだ?」

「それは……食べてくれる人が美味しいって思ってくれるように……」

「コンクールの場でも同じだよ。パンを食べてくれる人を想って、心を込めて焼くんだ」

 

 クロエは十分にパン職人としての技量を持っているが、今まではオーナーの指導の下で焼いており、一人で焼くことはほとんど無かった。


 だが、ここに至っては自分がやるしかない。そう覚悟したクロエは決意に満ちた目で、コンクールで勝利することを誓うのであった。







 <コンクール当日>


 城下の大通りに面した広場。ここがパン職人コンクールの会場である。


「おー、麦畑はお嬢さんが代表なんだねえ」


 クロエが会場に到着するやいなや、アゲールがニヤニヤしながら近づいてくる。


「いやー大変だったねえ。オーナーが怪我をなさったみたいで。だからと言って手加減する気はありませんがね」


 クロエはこめかみがピクピクしている。許されるものなら、誰のせいでこうなったと怒鳴りつけてやりたい気持ちを抑えて、冷静に言い返す。


「手加減など無用です。そちらが負けたときに『あれは手加減したからだ』と言い訳出来ないよう、本気でかかってきてください」

「相変わらず気の強いお嬢さんだ。その様子だと、私の申し出は受ける気はなさそうだね」

「貴男の妾なんか死んでもゴメンです」

「ふん、あとで吠え面かくなよ」




 そしてコンクールが始まる。

 参加者は黒獅子亭から3人、そしてクロエの計4人。


 黒獅子亭は参加者1人1人にサポートがついている。

 既に1次発酵を済ませた生地を店から持ってきて、その後の工程を進めているが、どうにも段取りが上手くない。


 一方のクロエは元々1人で全てをこなしており、生地を発酵させる間に具材の製作を淡々と進め、動きに無駄が無い。


 これは観覧している素人達も一目瞭然で、クロエの方が技術的には上であると言うことがハッキリと分かるレベルだ。


「黒獅子亭の奴ら、手つきから怪しくないか?」

「普段機械に任せっきりのせいじゃねーか?」

「それに比べて麦畑のお嬢さんの手つきを見ろよ」

「ああ、さすがはあのオーナーの一番弟子だ。動きに無駄が無い」


 壇上には審査員として、王城の料理人や貴族、そしてドミニクの姿。


(クロエ嬢、頑張ってるね。贔屓はしてあげられないけど、君なら大丈夫だよ!)




 そして焼き上げを経て、それぞれのパンが完成する。


「まずは黒獅子亭のパンからです」


 出てきたのは柔らかめのパンにふんだんに具材を詰め込んだ、見た目にも華やかなバゲットサンド。


「具材のメインは最高級の牛肉をじっくり蒸し焼きにしたローストビーフでございます。あふれる肉汁の旨味、是非ご堪能ください」


 アゲールが自信満々に説明を行うと、審査員が思い思いに試食を開始する。


(ふむ……これは……)


 試食が済むと黒獅子亭の2つ目、3つ目の品が次々と試食に入る。

 どれもメインの具材に高級食材を使用した、見た目の豪華なものである。


「それでは続いて、麦畑の作品です」

「はい。卵とベーコンのサンドと、クリームチーズとスモークサーモンのサンドの2品用意いたしました。パンは当店伝統の鋼のバゲットでございます」


 クロエが作ったのは、どちらもごくごくありふれた食材を使ったバゲットサンド。

 ジャンに言われた「食べてくれる人のことを想って心を込めて焼け」という言葉を胸に、精魂込めて焼いた自信のバゲットと、彼女がいつも彼に作ってあげているレパートリーの中から選んだ具材。


 そう、ジャンにいつも美味しいと言ってもらえたことを思い出して、パンを焼いていたのだ。


「は? 1人で2品とか反則だろ!」

「アゲール子爵、そのような規定は無いぞ。彼女はどちらも制限時間内に作り上げたのだから、何の問題も無かろう」


 アゲールが抗議するが、ドミニクは問題ないと訴えを退ける。


「まあ、2品あっても結果は変わりませんか……鋼のバゲットなどという時代遅れの不人気なパンを使っている時点でお察しですな」

「子爵様、試食の邪魔ですから黙っていてくださいませんか」


 オマエらの出番はもう終わりだろと、暗に下がるよう言うクロエに対し、アゲールは平民の分際でと怒りを露わにするが、観衆のブーイングを受けてすごすごと引き下がるしか無かった。


「では試食させて頂こう」


 再び試食が始まる。


(ああ、この堅さ、これぞ鋼のバゲットだ。堅いけど嫌じゃない、なるほど、ジャンが惚れ込むのも頷けるな……)




 暫くの時間があって、審査員の間で協議がまとまり、結果発表の時間となった。


「それでは、パン職人コンクールの優勝者を、ドミニク殿下から発表頂きます!」

「今回の優勝者は……麦畑のクロエ嬢! おめでとう!」


 その瞬間、会場が一番の盛り上がりを見せる。


「馬鹿な! おかしい! あんな不味いパンに、あんな陳腐な具材のパンに、負けるわけが無い!」

「アゲール子爵、文句を言うのは講評を聞いてからにしてもらおうか」


 そう言うとドミニクは、作品の講評を始める。


「今回の作品はどれも美味しいと言って過言ではない。とても良く出来ていると思う」

「そうでしょう!」

「黒獅子亭のバゲットサンド、具材が豪華で、なるほど高級食材を使っていると分かる一品だ」

「そうでしょう!」

「旨かったよ……具材はね」


 その言葉にアゲールは一瞬の間を置いて「はへ?」と変な声を発する。


「具材は確かに旨かった。だがそれは具材が旨かっただけだ。パンの味が一切しない、全部具材の味に持って行かれてしまっているんだよ」

「そ、それは……」

「私の舌がおかしいのかなと思い、パンの部分だけ囓ってみたが、残念ながら美味しいとは思えなかった。一方麦畑のパンは堅い鋼のバゲットを使用していたが、焼き上がりの匂いから違う。豊かな小麦の香りと、確かな食感、それでいて具材との調和も取れている。仮に黒獅子亭の高級食材を具材に挟んでいても、パンの味が負けることは無いであろう」


 他の審査員もウンウン頷いている。


「本日はパンのコンクール、パンの美味しさを競う大会だ。いかに具材が豪華でも、肝心のパンが美味しくなければな……」

「そんな……」

「子爵、僕は小さい頃、何回かお忍びで黒獅子亭のパンを買ったことがある。その時のパンは美味しかった。だが、今のパンは……残念だがあの時とは似て非なるものだ」

 

 ドミニクが寂しそうにそう言うと、アゲールはガックリとうなだれる。


「さて、優勝者のクロエ嬢には、賞金の授与、及び王城の料理人にパン作りを教えるため、王室公認のパン職人マスターとして、一代限りではあるが士爵の称号を与える!」

「え……? 爵位?」


 クロエが目をパチパチさせると、ドミニクがウインクしているのが見えた。


(そこまでやるのー! さすが王族!)


 こうしてコンクールは幕を閉じた。






「クロエ! やるじゃねーか! さすがは俺の弟子だ!」


 優勝報告をしに店へと戻ってきたクロエ。

 二階にある住居で、ベッドで休むオーナーに優勝を報告すると、我が事のように喜ぶ夫妻。


「それでね、王城でパン作りを教えることになりそうなんだけど……」

「おう、行ってこい。どうせ店は畳まなきゃいけないんだ。気にすることは無え」

「いや……あのね。お店を閉めるんなら、おじさんにも教えるの手伝って欲しいんだけど……」


 クロエの提案に一瞬迷った表情を見せるオーナー。

 最初は俺に教師役なんざ向かねえよと断っていたが、鋼のバゲットを後世に残すにはおじさんの協力が必要なの。自分を育てられたんだから大丈夫だよという、クロエの説得で教師役を引き受けることを了承してくれた。


「やれやれ、店を畳んでようやく気ままに生きられると思ったのによー。まさかこの年でお城に上がるとは思いもしねえわ」

「殿下がね、弟子達が育ったら、王城の近くで麦畑を再オープンしてもいいって言ってるのよ」

「はっ、その頃には俺は墓の下だ。新しい店はクロエや新しい弟子に任せるよ。ただなあ、言っておくが、俺が認めた鋼のバゲットを焼けねえうちは一人前とは認めねえからな」

「はいはい。分かってますよ」




「どちら様ですか?」


 夫妻と喜びを分かち合い、家に帰るクロエの通り道を塞ぐように、男達が待ち構えている。


(やっぱり来たか……)


 クロエにはそれが何者か分かっている。


「アゲール子爵、いらっしゃるんですよね。姿くらい見せたらどうですか?」

「この状況でも相変わらず強気だね、お嬢さん」


 そっちこそ相変わらず気持ち悪い面してますね。と身構えるクロエの前にアゲールが現われる。


「何ですか? 負けた腹いせにいらしたんですか?」

「そこまで分かっているならおとなしくしてもらおうか」


 コンクールの後、黒獅子亭は王城からパンの納入契約を解除されたらしい。

 アゲールは契約不履行だと訴えたが、王室御用達の看板を掲げておきながら、コンクールであれほどの失態を犯したパン屋から納品しては、王家の沽券に関わるとの理由であるらしい。


「そんなの自分のせいじゃないですか。人のせいにしないでください」

「黙れ黙れ黙れ! 貴様さえいなければ……あんな店さえ無ければ……こんなことならもっと早くあの店を潰しておくべきだった!」

「オーナーがいなければあの味が出せないと思ったんでしょ? 残念でしたね。オーナーの技術は全部私が継承していたんですよ」


 どこまでも勝手な奴であると、クロエは憐れみすら感じるほどだが、このままおとなしくしていては自分の身が危ない。


「殺そうって言うんですか? 私が突然いなくなったら、最初に怪しまれるのは貴男ですよ」

「殺しはしないさ。ただ、二度と街を歩けなくなるくらいの醜聞になるような傷を付けさせてもらうだけだよ」

「どこまでもクズですね……」

「ふん、俺は子爵だ。平民一人手込めにしたところで、何の罪に問われようか」


 子爵の手の者がジリジリと間を詰めてくるが、逃げたところで女の足ではすぐに追いつかれるだろう。

 やむを得ず、いざという時のために用意していた武器を手に持ち身構えるが、暴力を振るう事など人生で一度も無かったクロエは、足がが震え、鼓動も早くなる。


(ジャン! 早く!)


「そこまでだ!」

(来た!)


 クロエの危機一髪に助けに現われたのはジャン。

 

「何者だ!」

「王都警備隊の副隊長、ジャン・ラスペードだ。婦女暴行の現行犯で貴様らを逮捕する!」

「ハッ、1人で何が出来るというのだ」

「1人? 周りをよく見て見ろよ」


 促されてアゲールが周囲を見回すと、すでに何人かの警備隊員によって包囲されている。


「子爵、貴男がこうすることはすでに予測済みで、尾行させて頂いた。男どもを引き連れてこちらに向かったと連絡が入ったんで、ここに来たのさ。すでに王都内は手配が完了している。もう逃れられるとは思うなよ」

「婦女暴行? その程度で子爵である俺を捕まえられると思うのか!」

「ならばアゲール子爵には、脱税と王室を騙した詐欺罪の罪も加えよう」


 コンクールの開催が決まってから、ジャンはドミニクの指示で、黒獅子亭の経営について内偵を行っていた。


 すると不正の証拠が出るわ出るわ。


「殿下が隣国におられたとき、大量の小麦が我が国に輸出されることが何度かあったそうだ。聞けば行き先は貴殿のパン屋だと言うではないか。おかしいな、高級品しか扱わない貴殿のパン屋で何故必要なのだ? 二級品の小麦が」


 黒獅子亭は高級品使用と偽り、粗悪品を混ぜ込み偽装していた。


 さすがに王城に納入したものは正規品だったが、街で売っていた物は、偽装品を王城に納入した物と同じ商品だよと偽って暴利をむさぼっていたのだ。


 帳簿を改ざんし、粗悪品をさも高級品を購入した事にして必要経費を水増しした脱税の罪、並びに王室御用達の看板を用いて、偽装品を販売した詐欺罪である。


「知らん、俺は知らん!」

「言いたいことは取り調べの席で喋ってくれ」

「待って、ジャン!」


 アゲールを連行しようとするジャンを引き留め、一つコイツに言いたいことがあると言うクロエ。


「アゲール子爵」

「なんだ、小娘」

「食らえーっ!(ボカッ!)」

「ホゲッ!」


 クロエは手に持っていた武器でアゲールを力一杯殴りつける。


「パン職人を蔑ろにする奴にパン屋を名乗る資格なんて無いわ!」

「あの……クロエさん……それ……」

「ああこれ? 焼き加減間違えちゃってカチカチになっちゃんだよね。中々の破壊力でしょ?」


 持っていたのは鋼のバゲット。


「食べ物を粗末にしてはいけません!」

「大丈夫よ。後でラスクにするから」

「そう言う問題じゃねえっての……とにかく、殴ったのは見なかった事にしてやるから、早く家に帰るぞ。ほれ、俺が送ってやるよ」


 こうしてアゲール子爵は逮捕され、その罪状により爵位を失った。


 オーナーを失った黒獅子亭は、元々評判が悪かった上、今回の事件で完全に信用を失い、程なく倒産。多くの従業員が路頭に迷うこととなりかけたのだが……




「クロエ嬢、本当によかったのか?」

「彼らも被害者です。再起を図りたい者には救いの手を差し伸べてもいいと思います」


 黒獅子亭の従業員の多くは、薄給長時間労働の過酷な環境で仕事をしており、言われるままライン作業をしている、ある意味アゲール子爵の被害者と言うべき存在。


 クロエは彼らの中で、パン職人としてやり直す意志をはっきりと示した者を弟子として採用する事を、ドミニクに認めさせたのだ。


 こうして彼らを中心に、麦畑のオーナー直伝の伝統の技を習得していった者達は、一人前と認められると、王国各地で次々に暖簾分けされた店舗として独立し、その技と味を後世に伝えていった。


 そしてクロエは麦畑本店の店長として、後進の指導、新作パンの開発と精力的に活動。


 彼女の焼いたパンは、王城で他国の使節団を歓迎するレセプションでも振る舞われ、その評判は国外にまで伝わるに至り、国内外を問わず、弟子入りを希望する者が殺到した。




「いいのか、ジャン?」

「何がですか、殿下」

「まだプロポーズもしてないんだろ? あんまり放っていると、他の奴に取られちゃうぞ」 

「今は彼女のやりたいようにやらせるのが一番です。それに、あの子はバゲット並みに身持ちが堅いんで、心配には及びません」

「そんな事言ってると僕が食べちゃうぞ」

「殿下に食べられるくらいなら、その前に俺が食べます」

「ジャン、何を食べるって?」

「あークロエ……何でもないよ。男同士の話だ」

「??」


 この後、彼女の元から独立した弟子の数はゆうに千人を超え、それぞれが国内外の至る所でパン文化の発展に貢献。


 その礎となったクロエは、女神祭が発端となって起こった一連の逸話をもとに、「パン屋の女神様」として崇められるようになった。



 ◆



 そしていくつもの時は流れ、再び春がやってきて、今年も春祭りが盛大に開催されている。


 祭りの目玉、パン職人コンクールの会場の片隅で、大会の様子をそっと見る二人の老夫婦。


「今年も賑やかですねえ」

「まったくだ。最初は4人の参加者で始まったのに、今では参加者が多すぎて、予選会まであるんだからな」

「私も久々にパンが焼きたくなったわね」

「なら久しぶりにバゲットサンドが食べたいな」

「あら、作ってもいいけど、年寄りにあのパンはちょっと堅いわよ」

「心配いらねえよ。ウチの奥さんは、食べる相手のことを想って、心を込めて焼き上げてくれるからさ」

「ふふふ、鈍器みたいに堅くなっちゃったらゴメンなさいね」

「その時はラスクにしてくれ」

「はいはい」




 パン屋の女神様こと、クロエの偉業を讃える目的で毎年開かれるようになったこのコンクールは、祭りのメインイベントとなり、いつしか人々は祭り自体を「春祭り」ではなく、「春のパン祭り」と呼ぶようになったという。

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鋼のバゲット~パン屋の女神と呼ばれて~ 公社 @kousya-2007

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