ストーカー
葛
ストーカー
小学校の独特の喧噪の中、
彼は隣の席の
よく言うだろう、恋は片想いをしている間が一番楽しいと。
そして今、彼は最大限に片想いを満喫しているのだ。
例えば、水海さんから助けを求められるシチュエーションはどうだろう。
放課後の教室で彼女が佇んでいる。
彼女はシックな紫色のランドセルを前に動かない。物憂げに伏せられた瞳が艶やかな睫毛を強調した。
小林が見惚れていると、不意に水海さんが彼を視界に映す。
「……小林君。あのね、わたし……最近、誰かに、見られてる、気がするの」
「ストーカーってこと……?」
こくんと怯えた顔で首肯する水海さん。
そして、彼女が上目遣いで小林に迫るのだ。
「お願い。頼りになるのは小林君だけなのっ……!」
こうして彼女とお近づきになる。
暫く彼女のボディーガードをしていれば後は周囲が勝手に「あの二人、付き合ってるんじゃない⁉」と騒ぎ出すだろう。
あらかた外堀が埋まったところで水海さんにこう切り出すのだ。
「……水海さん、ごめん。実は……ストーカーは俺なんだ」
「…………は?」
小林に笑い掛けていたはずの水海さんがピタリと固まる。
それからわなわなと震え出し、その瞳も徐々に絶望に染まっていった。
彼女は一番頼りにしていた男と、彼女を恐怖させていたストーカーの影を結び付けることを懸命に拒んでいるのだ。
ああ、可哀想に……。
小林は踵を返した。これ以上、水海さんを傷つける前に彼女の側を離れよう。これでいいんだ。
彼女が笑って過ごせるなら、この片想いを砕いても……!
「待って、小林君……!」
一、二、三の合図でくるり、回れ右をする。
彼女から引き留められたことに内心歓喜しているが、この場ではまだ罪悪感に駆られた顔で押し黙っているのが正解だ。
「わたし、ボディーガードをしてもらっているうちに、小林君のことを好きになってしまったの。小林君がストーカーでも構わない! 側に居て……!」
水海さんの柔らかい指が縋るように小林の手を包んだ。
…………。
にやにやして頬杖をつく小林。今日の妄想はかなり出来が良かったように思う。
と、その足元に消しゴムが転がってきた。
水玉のカバーのついた消しゴムは水海さんのお気に入りのものだとすぐにピンとくる。
彼女は消しゴムに気付かず友達と談笑しているようだ。
机と机の距離は五十センチしかないにも関わらず小林は立ち上がって、背後から隣の席の彼女に声を掛けた。
「あのぉ、これ、落としたみたいだよ。あ、大丈夫、俺が埃を払っといたから」
「…………。あ、ありがと……」
よし! 掴みはまずまずだ。
テレビでは五秒以上目があった相手に一目惚れすると言っていた。
たっぷり十秒は目を合わせたんだからこれは確実に彼女は惚れただろう。惚れただろうと確信しつつ当分両想いになる気はない。
水海さんには悪いが、片想いをさらに充実させるのが小林の思惑だ。
小林がトイレに立って帰って来ると、ゴミ箱に水海さんの消しゴムが捨てられていた。
腕を組んで仁王立ちになる。
まさか細部は違えど自分の妄想が現実になったのだろうか。おそらく今このクラスに水海さんを狙うストーカーがいる。
ストーカーの彼もしくは彼女は水海さんと親しくする小林に嫉妬し、こんな仕打ちを……。
ゴミ箱の前に神妙な顔で突っ立って動かなくなった小林。
彼は水海さんが自分で消しゴムを捨てたとは考えない。
ましてや水海さんが小林を嫌っているとは露ほども気付かずにいるのであった……。
*
水海はぽいっと何の未練もなく消しゴムをゴミ箱に納めた。
水玉模様のカバーが気に入っていたのだが、それも小林君が触れたものだ。
小林君はどこがと聞かれれば答えられないのに、どことなく気味が悪いのだ。
偶に水海は彼からじっと観察されている気がして、でもその目は何も映していないようでもあって、気のせいかもしれず……。
小林君が掃除時間にゴミ箱の前で悟りを開いているのを見かけた(違うかもしれない)。
その時、彼の正体を掴みたい好奇心が気味の悪さに勝った。
放課後、水海は小林君の黒いランドセルの後をつける。
彼は一人だ。体操服の袋でドリブルしながらのらりくらりと歩いている。
彼の家を見つけて得るものは、と言うと何もないのに尾行している……。
その不毛さがひしひしと身に沁みてきた頃。
ピタリと小林君が足を止めた。
視線の先には金網で仕切られた鶏小屋がある。
フェンスの網目にねこじゃらしを通してくるくる回す。
何やってるの? いやいや、突っ込んではいけない。小学生は意味不明の行動を往々にしてするものだ、特に男子は。
唐突に小林君が振り返った。
ぴたっと目が合った。
「うわ、」
驚いて数歩後退した水海は側溝に左足を踏み外してしまった。
泥水がフリルのスカートに飛び散る。
小林君が駆けてきて手を貸そうとする。
恥ずかしさから差し出された手を見ずに、水海は自力で立ち上がった。スカートの泥を払い落とせば余計に汚れが広がる気がする。
小林君が泥撥ね具合を確認して、水海の前に膝をついた。テッシュで摘まむように大真面目に泥の滴を取ってくれる。
それが終わるとしゃがんだまま顔を上げた。
「靴下、俺のと取り換える?」
水海はスカートの中が見えないように小林君から素早く距離を取る。
彼への返事としてぶんぶん首を振った。
小林君の靴下を履くくらいなら、泥水に浸かってた方がまし。
さて……。ここで漸く気まずさに焦りが追いついてくる。
ここからどうしよう、何を言おう……。
水海は俯く。小林君が手を微妙な位置に翳した。
「えっとぉ、水海さんは家、こっちの方……?」
「ううん、」
もう誤魔化してもしょうがない、という気がしてきた。だって、水海は小林君に嫌われようが構わないのだ。元々、水海が小林君を嫌っているのだし。
「小林君の後をつけてきたの」
「俺の?」
目を丸くして小林君が自分を指差す。何故嬉しそうなのだろう。彼はちょっと頭を前後に揺らして、
「あ、じゃあさ俺も今度水海さんの後つけてもいい?」
「…………は?」
虫唾が走るとはこのことを言うのだ。
「絶対、嫌っ!」
思わず小林君の肩を押し退けて、その場から逃げ出していた。
家に帰り着いてから、水海は自分の態度が良くなかったと落ち込んだ。
小林君は親切にしてくれようとしていたのだ。
彼の落ち度と言えば気持ち悪さを隠せなかったことくらいなのに、「嫌!」と叫んでしまった。
だが、水海は知らない。
水海が走り去った後、小林君はぽかんとして、やがて頬を緩ませた。彼は新たな片想い妄想のネタが集まったことにご満悦であったのだった。
ストーカー 葛 @kazura1441
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