2 推理 (現在)

 

 

 橋田は十二社池ノ下の交差点近くにある、ブラジルという喫茶店へ向かっていた。西参道沿いに建つマンション管理の仕事を、十七時で終えると、森小夜子に電話をしてみたのだ。丁度そこで仕事をしていたらしい彼女は、快く会うことを約束してくれた。

 友人の森小夜子は「月光」という季刊誌のライターをしている。「月光」は日本の伝統美に特化した雑誌で、刊行以来中高年に根強い人気があった。彼女の仕事はそればかりではなく、Y造形美術大学の修陀羅典弘教授の手伝いとして出入りしていて、古代庭園の遺構調査も請け負っている。橋田は去年、あるきっかけで彼女と出会い、親しくなった。

 小夜子は店内奥の一段下がった窓際の席にいた。癖である喉仏を撫でる仕草をしながらラップトップ・パソコンを睨みつけている。相変わらず整った横顔だった。親子ほど歳は離れているが、たまに見惚れてしまう程だ。

 彼女はこちらに気づくと、はにかむように笑い、手を挙げた。

「また、奇妙な話を持ってきましたね」

 酷く嗄れた低い声で言う。彼女は、白い肌と、端正な目鼻立ちに思わず振り返ってしまうような女性なのだが、その生まれついての低い声が人生の負い目となってしまっていた。初めて会った人は、例外に洩れず、驚くだろう。可愛らしい顔をしているが、思春期の頃、「おかま女」と呼ばれ、衝動的にコンパスで自分の喉を掻き切った、という激しい一面もあり、外見との反比例が甚だしい。今も喉元に一文字の切り傷が、生々しく残っている。

 いつだったか、彼女が言っていた。自分は期待外れで、残念な女である、と。

 橋田は席に着くと、開口一番、「また、知恵を貸してもらいに来ました」と言った。

 先程の電話で、軽く藤堂志乃の話をしておいた。おしぼりで汗を拭きながら、ブレンドコーヒーを注文すると、改めて不可解な消失事件の顛末を話した。茶道の師の心にある、積年の疑念を軽くしてあげたかった。その為には、小夜子の力が不可欠だった。

 小夜子は橋田の話を聞きながらも、パソコンを操作していた。暫く食い入るように画面を覗いていたが、橋田の話が落ち着くと、画面から目を離し、低い声で言った。

「今、月光のデータベースにアクセスしてみたら、ありましたよ。練馬の藤堂邸の庭が」

「何をしているかと思ったら、もう探し当てたんですか。さすがですな」

「小沼喜助ときいてピンときたんです。造園業界の大立者として有名ですからね」

「ほう、大立者ですか、それは、また」

「戦後の造園界の復興に尽力した人です。自然な庭作りという理念を掲げ、彼の作った庭は百人が百人、最良と認めると言われてます。庭作りは荒びである、とも言っていますね」

「荒びですか・・・。どういう意味なんでしょうかね。うーん。手荒びとかいいますから、遊びのことなのかな?」

 小夜子は小さく首肯する。

「遊び、慰み、といった意味ですね。小沼喜助という人はちょっとした遊び心を庭に用います。この藤堂邸にもそれが見え隠れしていますね。河原を喚起させるゴロタ石を敷き詰めた前庭、穴のない飾りだけの井戸構え、茶室へと続く露地。飛石が川の流れのようにも見える。雑木を用いた自然風で水のない庭で枯山水でもないのに、水を連想させるおもしろい庭に仕上がっていますよ」

「水のない水の庭というわけですか」

「その通りです。これを見てください。黒い石がまだ無いときのものですが、特集の記事が組まれてました。写真と簡単な図も載ってます。(図参照)ところで、黒い石は、どの辺にあったのでしょうか?」

 パソコンを橋田に向けた。志乃から聞いた情報を思い浮かべ、母家から見て庭の中央にある芝生から少し右側、赤松の木立と芝の境辺りを指差した。

「前庭から随分と距離がありますね」

「そうですね、広いですからな」

「あ、ちょっと待ってください。この写真にある、赤玉石は本物ですか? 色つやを見ても上物のような感じがしますが」

 小夜子は、パソコンの画面を覗き込んだ。

「ああ、玄関前にあるやつですな。本物のようですよ。藤堂家に代々伝わっているといいます。この赤玉石っていうのは、それほどの石なんですかね?」

「それほどの石ですよ」小夜子は薄く笑った。「たとえば、日本橋にある某有名和菓子の本店なんかにも、この石が玄関前に鎮座してありますよ。由来の立て札なんか立てちゃって、佐渡の赤玉石といったらうんぬんかんぬんって、もう、とにかく子供みたいに自慢したくなっちゃうような石なんですよ。ホテル・ニューオータニも随分と自慢してましたね」

 橋田は、吹き出してしまった。

「なるほどね」

「《朱貴石》といって、豊臣秀吉への献上品としても有名です」

「そういえば、ちょっと派手な感じが秀吉好みですな」

「秀吉は石好きで有名でした。京都妙蓮寺にある臥牛石なんかも秀吉由来の名石ですね」

「名のある石ですか・・。だけど、ただの石ですよね?」

「石は石でも、昔は権力の象徴として、庭石が使われたりしていたんですよ」

「ふむ、織田信長あたりの人物が、石を自分だと思って拝め、と強制した逸話を今思い出しましたよ」

「藤戸石という天下の名石です」小夜子は嬉しそうに口を開く。「権力者の証のような石です。今は京都の醍醐寺にありますね。古くは源平合戦の頃、《源氏の勝利石》として京都に運ばれ、室町時代最後の管領、細川氏綱の邸宅にあったんです。その後、信長の手に渡り、自らの権威の象徴として崇めさせた。それが天下人になった秀吉へと渡る訳です。秀吉は聚楽第にその石を据え、権威の喧伝をした。つまり、ただの石が覇者の証となったんですね。時の権力者を夢中にさせた石です。中世では九山八海石なんていう、須弥山の別名の石なども珍重していたらしく・・」

 いい歳をして、大学で講義を聞いている学生のような、妙な気分になってきた。

「あの・・、須弥山とは一体何ですか?」

 質問がよかったのか、小夜子の弁舌が一層滑らかになる。

「古代インドの宇宙観に現れる聖山のことです。理想の山岳だといわれています。その別名が九山八海石です。仏教儀の最高峰である山に見立てたんでしょうね。織田信長が東山殿にあったものをわざわざ二条御所に移していますね。名石を禁裡に献上するのが当時のステータスだったみたいですね。あの頃の武将たちは庭石を特に重要視していたらしくて、鶴亀に見立てた石なんかもよく使ったらしいんです。主従関係が長く続くように、という気持ちを庭に投影させたんでしょう。庭園史だけでみても、桃山時代は希有な石文化を築きました。石の魅力は尽きないですよ。北海道の神居潭石や、伊予の青石は幻の名石と呼ばれていますし、京都の西芳寺や、奈良の春日大社には、影向石という神仏来臨の有り難い石もあります。昔は信仰の対象として石が使われていたんですよ」

 さすがに大学教授の助手を務めているだけのことはある。が、少し対抗心が芽生えた。

「石ときいて有名なところでは、君が代の、さざれ石とか、あと、夜泣き石、那須の殺生石なんかは、おくのほそ道や旅行記などでもよくみかけますな」

「芭蕉の有名な句がありますね」

「どんな句でしたかな。忘れてしまいましたが・・」

「石の香や 夏草赤く 露あつく」

「俳句にも詳しいんですね。感服します」

「ネットで調べただけですよ」

「いやあ、それにしても素早い。さざれ石の意味も分かりますか?」

「もちろんです。さざれ石は、元々小さな石という意味なんです。長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したものをいうんですよ。君が代に出てくるあのフレーズは、長い年月を表す比喩なんですよ」

「なるほど。さざれ石の巌となりて・・か」

「素敵な比喩ですよね」

「本当ですな、面白いもんだ。夜泣き石や殺生石にもやっぱり意味というか、それなりの伝説があるんでしょう?」

「夜泣き石は全国各地に逸話がありました。中でも一番有名なのが、静岡県掛川市小夜の中山峠にある石でしょうね。遠州七不思議の一つに数えられている有名な伝説です。読み物としても面白い話ですよ」小夜子の目が光り、嗄れた声をさらに絞るように語り始めた。「昔昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。ある日、お石が麓の菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で、陣痛に見舞われ苦しんでいたそうです。そこを通りがかった轟業右衛門という男が、暫く介抱していたのですが、お石がお金を持っていることを知ると、斬り殺して、お金を奪い逃げ去ったそうです」

「酷いお話だ」

「その時、お石の傷口から子供が生まれました。側にあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を夜泣き石と呼んでおそれたそうです。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、飴で育てられたそうですよ。その飴は、子育て飴といって今や中山の名物になっています」

「飴のくだりは土地の名物を作り出すための、後日談の匂いがしますな」

 戯言に小夜子はひっそりと笑った。

「この物語は、まだ続きがあります。その子は音八と名付けられ、すくすくと成長し、大和の国の刀研師の弟子となりました。すぐに頭角を表し、評判の刀研師になったそうです。そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見ると(いい刀だが、刃こぼれしているのが、実に残念だ)と言いました。すると客は(去る十数年前、小夜の中山の丸石の近くで妊婦を斬り捨てた時に、石にあたったのだ)と言ったため、音八はこの客が母の仇だと知り、名乗り上げて恨みを果たしたそうです。後日、この話を聞いた弘法大師が、同情して石に仏号を刻んだというお話です」

「全国にこういう昔話があるというのが不思議ですね」

「そうですね。他にも面白い伝承はたくさんあります。思い付くだけでも、三重県の神明神社にある石神さんなんかが出てきます。女性の願いならひとつは叶えてくれるといいますよね。あと、香川県のオマンノ岩。これは近くを人が通りかかると、中から老婆があらわれて(おまんの母でございます)と名乗ったというんですからちょっと怖いですよね」

「それは想像しただけでも怖い」二人でひとしきり笑いあった。「怖いといえば、先に出た那須の殺生石という名前は、かなり恐ろしい感じがしますよね」

「殺生石の場合は、もっと科学的な昔話だと思うんです。端的に言えば、九尾の狐が殺されて石になったのですが、玄翁という和尚が《鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石》と称し、忌石となってしまったのです。実際に、不可解な事が相次ぎました。その石の上空を飛んでいた多くの鳥が墜落死し、虫の屍が横たわり、近づくだけで眩暈や気分を悪くする人が続出していたらしいです」

「ほう。それはまた恐ろしい」

「原因は分からず、九尾の狐の呪いだと恐れられていました。しかし、これは謎でも何でもなかったんですよ」

「狐の怨霊ではなく、科学的に証明されたということですか?」

「そうです。昔からあの辺り一帯は、硫化水素や亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出していたのですよ。当時、玄翁という和尚はそれを知っていたんじゃないかと思うんです」

「ほう・・・。所謂、方便を使った、と?」

「昔のお坊さんは、学者でもあった訳ですから、わかっていたと思うんです。怖い逸話を作って村人たちを近づかせないようにしたのが、殺生石伝説だったと思います。だって、殺生石なんて石に近づきたくないでしょ?」

「確かに。呪われそうで嫌ですな。畏怖の念さえ覚えますね」

「ただの石に名前をつけた瞬間、その石に命が吹き込まれるんじゃないでしょうか」

 船石が真夜中に宙を浮いて、ふわふわと飛び立つ様子が脳裏に浮かんだ。

「例えば」小夜子が喉仏を摩る。「三尊石、蓬莱石、守護石なんて称された石は、何となく敬ってしまいますもんね。倉敷の楯築神社には、磐座と呼ばれる椅子のような石があるんですが、磐座って神が座る石という意味があるんですよ。神が座る石。名前がついていて、泰然自若とした趣でそこにある石を見てしまったら、自然と姿勢が正しくなってしまうし、ずっと眺めていたら、神様が座ってるようにみえてくるんだから、先人の想像力って何かすごいと思いません?」

「注連縄なんかされていたら、思わず手を合わせてしまいそうですな」

「日本人て大昔から、霊的なものとして石や岩を崇めてきたんですよ。だから全国各地に夜泣き石のような伝承が分布しているのだと思います。山梨県には丸石信仰というのがあって球体の石を神に見立てますし、霊石といえば横浜市弘明寺の七つ石だとか、葛飾区には《立石様》と尊称で呼ばれる石まであるんです。諏訪大社も、元々の神様は石ですからね。なかでも、一番霊験がありそうなのは、伊勢神宮の領内にある興玉神という三個の立石ですね。新宮のゴトビキ岩なんかも凄い迫力ですしね。日本人は飛鳥時代以前から巨岩や古木に敬虔の念をもって、注連縄を張り、御幣をめぐらし、礼拝していたのです。それは云わば、常世と現世の境や、各々を隔てる結界の意味もあったんですね。自然というものを敬っていたのでしょうね」

「日本がアニミズムの国だから、石にも魂が宿るのかもしれないですな」

「何しろ八百万もの神がいる国ですからね。石信仰は自然崇拝の国に見られる特徴でもあります。外国だと、メンヒル(立石)や新石器時代のストーンヘンジ、ストーンサークルなど、先史以前の遺構や、ケルトの思想などが近いですね。奈良の石舞台なんて、ストーンヘンジにしか見えないですよ。だけどそれらは、それが何を示すか謎に包まれています。何らかの儀式に使われたかもしれないし、墓であるとか、太陽崇拝だとか、天文台だったとか、様々な説がありますが、真実はわかりません。もしかしたら殺生石のように、何らかの警告だったかもしれないですし、藤戸石のように覇者の証だったかもしれない。その石にどう想いを託したかなんだと思います」

「藤堂家の船石も、想いを託され、名前までつけてもらったから、命が吹き込まれたのかもしれないですね」

「何らかの霊力が働いて、消えてしまった?」小夜子が不敵に目を細めた。「この難問解いてみたくなりました」

「その意気でよろしくお願いしますよ」

「じゃあ、まずは、赤玉石という魅力的な石が残り、筑波が消えた訳は何だ・・・?」小夜子は喉仏を撫でると、目を瞑った。「犯人にとって筑波石の方が、魅力があったのでしょうね。盗むにたりる需要があった。まあ、筑波石も立派な石ではありますが・・・」

 小夜子の思考が回転しはじめたようだ。自分の出番かもしれない。

「水を差すようですが、一応、私の方でも、軽く調べてみたんですがね。聞いてもらえますか?」

「すごい。是非聞かせてください」

 橋田は麻のジャケットの内ポケットから、革の手帳を取り出した。

「では、石を運んだという造園会社からいきますか」

「え? 小沼喜助事務所ではなかったのですか?」

「そうなんですよ。まったく違う会社です」

「まるで、元刑事さんみたい」小夜子は、くすりと笑った。「あ、元刑事さんでしたね」

「これでも二十年やっていたんですよ」昇進試験に受かったのは、四十歳を過ぎていた。橋田は何となく吐息をついて、頁を捲った。「この造園会社の地所が藤堂邸の近くにありましてね、石神井川沿いにあったらしいんですが、すでに廃業していましてね、当時、地所があった場所はマンションが建っていました。中村園という会社でして、ちょっと周辺を洗ってみたんですが、宅地開発が進んでしまって四十四年前の話を知っている人は皆無でした」

「地所ということは、事務所があった訳ではなかった?」

「はい、植木畑だったようですね。燈籠や庭石なども置いてあったらしい」

「ふーん。素朴な疑問なんですが、藤堂氏と中村園との間で、何か諍いなど起きなかったのでしょうか? 設置してすぐに盗まれて無くなってしまったのですからね。相談に行って、何とかしてもらうことはしなかったのでしょうか」

「その藤堂さんなんですが、被害届は出していないみたいですな。ご自分で何とかなさろうとしたみたいですね。しかし、うまくいかなかったみたいです。志乃さんの話だと、とうの中村園も否定していたらしいんですよ。うちも被害者だと言っていたらしい。そもそも、藤堂氏と契約した覚えがない、と言い張る始末でしてね」

「それは図々しいというか、何というか」

「それが、詳しく調べた結果、従業員に、それらしき人間がいなかったそうです」

「藤堂氏が確認したんですね?」

「そうだと思います。中村園は石に関しても、曖昧な供述をしていたみたいなのです。筑波石があったかどうかも怪しい、と。そんなことが有り得ますかね、自分のところなのに」

「大いに有り得ますね」小夜子は身を乗り出して力強い声で言った。「多分、その地所は普段あまり使われてはいなかったのだと思います。一種の税金対策として持っていただけなのでしょう。植木畑といっても、年に数回、いらなくなったものを置きに来ていた程度だったのではないでしょうか。植木畑というのは、往々にして柵などはなく、あっても簡単なものです。常時人がいることもなく、無防備であったと推測されます。そういう畑は都内にも多く存在します。手つかずの雑木林のようになってしまっているところも多いんですよ」

「ほう、そういうものですか」

「この中村園の事務所はどこにあったのでしょうか。練馬ですか?」

「府中のようですね。練馬区の辺りは先代が買い占めた土地だそうですよ」

「そうですか」小夜子は俄かに遠い目をする。「これは私の推測なんですが、今までの話を聞いていると、新手の詐欺窃盗団が関わっているような気がしてならないんですよ」

 橋田は大きく頷いた。有り得る話ではあるが、方法がわからない。

 小夜子の流麗な目は自信を深めていた。

「犯人は、中村園の畑を物色していたのではないでしょうか。作業着を着ていれば怪しまれることもなく、出入りできるし、殆ど捨てられた畑だということも調査済みだったとしたら、白昼堂々としてられます。むしろ、日が高いほうが、夜間にこそこそやるより、目立ちません。作業にきた人だな、としか思われないでしょう。犯人グループは目をつけていた筑波石の前で、いざ運び出そうとしていた。そこにたまたま散歩中の藤堂氏が通り掛かって・・」

「中村園の人間と誤解した?」

 小夜子は穏やかに微笑む。

「その場で即購入したというのですから、気の早い人だったんでしょうね、藤堂さんは。ですが、それが裏目にでた。一方、犯人は咄嗟に機転をきかせた。大胆にも中村園の人間を装い、金と石の両方をせしめようと考えたんじゃないでしょうか」

 橋田は考え込んでしまった。小夜子の大胆な推測は、藤堂側と中村側の証言の食い違いを解消できうるものだったからだ。

「なるほど。しかし、最大の難問が残っていますよ」

「どうやって、総重量三トンを超える大石を、こっそり、それこそ消すように運んだか、ですね」

「しかも、時間を掛けず、重機を使わず、ですよ」

 庭は荒れていなかった。木戸と垣根が倒されているだけだった

「そこが問題です」小夜子は喉元の一文字にのびた傷跡を、忙しなく撫で続けている。「小型のクレーンは乗り入れが不可能。当初のように大型のクレーンで吊るすのはもっと論外だ。丸太を組み、チェーンブロックで引っ張り上げたとしても、丸太の跡は残るし、第一、チェーンの音が意外とうるさい。移動時間もかなり掛かる。空から、ヘリコプターで吊り上げたとも考えられるが、足音は聞こえたのに、ホバリングの音が聞こえないのはおかしい。まず論外だろう。ユニックの乗り入れも不可能。レールを敷いて運んだ跡もない。丸太を敷いて転がした跡もない。ましてや、引きずった跡も無かった。石をワイヤーで結び、車で引っ張るという手もあるが、いかにも目立ち過ぎる。エンジンの吹かす音が耳につくだろうし、芝が傷つかないように頑丈な板のようなものを敷く手間もある。それを回収する時間も無い。何よりも乗り入れが不可能だ。張りぼての石でもない。それは藤堂志乃さん自身が直に触れている。加工されたものは一見すると見わけがつかないが、石特有の質感、肌触りというものは再現できない。残されていたのは、数人の足跡のみか・・」潰れた声で、呪詛のように呟き続けている。「第一に時間がまったくない。足音に気付き、静かになるまでの時間が、たった二分。戸締りに要した時間と、ラジオで少し音楽を聴いていた時間を逆算すると、石に触れた時刻が大きく見て一時十五分頃と仮定できる。犯行はその後すぐに行われたと思っていい。犯行終了時刻が、静かになった一時二十三分。正味たったの八分。この短時間で、何が出来るんだろう。前庭から芝生の張ってある主庭までだって近くはない。何も出来やしないのではないか。重機を使って半日以上は絶対にかかる作業なのだ。人力ではまず相当な時間が掛る。二日三日掛るんじゃないか。三トンを超える巨石なのだ。普通に考えたらまず不可能だ。一体どういうトリックを使ったのか。普通ではない何かがある筈だ。何か見落としている筈だ」

「あ、あの。先程から心の声が表に出ていますよ」

 橋田は恐る恐る声をかけた。小夜子は憑きものが落ちたように、目玉をぐるりと回し、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「心の声出ちゃってました?」

 小夜子は、そう言うと、端正な顔を歪めた。

「石の消失ばかりではないんじゃないですか?」

 橋田は肯定の代わりに提言した。

「家屋侵入騒ぎですね? 完璧に施錠した屋敷にどうやって入り込むことが出来たのか。そして、何を目的として家の中を徘徊したのか、ですね」

「そうです。その問題も解決できていないですよ。ま、やはり、石泥棒が家屋まで侵入したんでしょうな。そう考えるのが自然だ。しかし、目的も分からなければ、どうやって中に入り込んだのかも、皆目見当がつかない。志乃さんの話だと、鍵を壊されたような跡もなかったようなのですよ。合鍵があったとしても、補助錠をどうやって解錠したか・・」

 窓の外は、忙しなく車や人が行き交っていた。車道の騒音が僅かに、耳に入ってくる。

「石泥棒は関係無いと思います」

 小夜子は嗄れた声で、ぽつりと呟く。喉元を、まるでそれが仕事のように丹念に摩っている。

「何故です?」

「まだ、わからない・・・。少し時間をください」

 小夜子は湯気の消えたコーヒーを啜った。橋田も思い出したようにブレンドを啜る。コーヒーの香りは無くなっていたが、喉越しが良く、気分が落ち着いてくる。

 小夜子の推理が切れを増しはじめていた。心の声が表面化してきたのは、いい兆候だった。彼女はおそらく核心に近づいている。

「もしかすると、錯覚が生じていたのかもしれない・・」

 小夜子の手が止まっていた。

「どんな錯覚ですか?」

「エビングハウス錯視といわれるものなんですが、目の錯覚ですよ。例えばですね・・」視線を宙に這わす。「巨大なビル群の谷間に、二階建ての一軒家が建ってるとしますよね。すると、その家はとても小さく見える筈です」

「そうでしょうな」

「ところが同じ家でも、平屋ばかりのところに建っていたら、大きく見えるでしょう? この原理を当てはめてみます。造園会社の地所にあった船石の周りに、小さい石が囲むようにして置いてあったら、実際のサイズより、大きく見えると思うんですよね」

「つまり、本当は小さかったと言いたい訳ですな。うーん、しかしそれはどうでしょう、メジャーで測ってみたと言っていましたからね」

「そうですよね、ちょっと現実的ではなかったかな。まあ、劇的に変わる訳でもないし・・」

 あえて言葉にすることで、自らの考えを打ち消しているのだろう。

「最初の疑問に戻りましょうか」小夜子がドスの利いた声を出した。「何故、赤玉石が残ったか、これこそが最大の疑問です。この疑問さえ解ければ、かなり前進する筈なんです」

 橋田は彼女の瞳に気圧されていた。

「確かに」

「何らかの方法を使って、三トンを超す巨石を数分で運べたのですから、重いとはいえ、赤玉石も簡単に運べた筈なんです。だけど、天下の赤玉石は残っていた。何故なのでしょう。一緒に運んでしまえばよかったのに。何故だと思いますか? 橋田さん」

 そんなことを言われても、何も思い浮かばない。一方の小夜子は、目を細めている。

「気になるのは藤堂さんが、赤玉石には無警戒だったことです。花崗岩の倍はある重たい石だと知っていたから、安心していたのかしら?」

「石のことは頭に無かったんでしょうな。だけど、あれですな、石泥棒のくせに、赤玉石を盗んでいかなかったのは、確かにおかしい」 

「盗めなかったんでしょうね」

「そりゃあ、そうでしょう。いきなり当たり前のことを言いますな。でもまあ、そうでしょうな。時間が無かったのかな」

「それだったら、まず先に赤玉石を盗むんじゃないですか?」    

「うーん」唸ることしかできない自分がもどかしい。

「筑波石でなくてはならなかった」小夜子は宙を眺める。「犯人は筑波石の方が欲しかった・・・。何故だろう・・・」

 堂々巡りの話し合いになっているが、小夜子の目は鋭い。喉元を摩る速さが尋常ではない。先程から橋田は必死に尿意を我慢していたが、中座する気にはなれなかった。頻尿気味なのが最近の悩みであったが、悪いことは全て齢のせいにして片づけていた。そう割りきることによって人生が円滑にいくような気がする。静かに齢を重ねていきたかった。

「トイレ我慢しないでください」

 小夜子がたしなめるように言う。

「ばれてましたか」

「体に障りますよ、はやく行ってきてください」

 年寄り扱いされて、橋田は悄然と席を立った。


 すっきりして帰ってくると、驚くことに、小夜子も晴れ晴れとした表情になっていた。

「この住所に、明日にでも電話してみてください」

 白く細い指先に、大学ノートの切れ端が挟まっていた。

 シャイン化粧品研修センター。横浜市中区山手町。

 幾分右上がりの綺麗な字で、電話番号も書かれている。

 これには、さすがに目を瞠った。

「なんと、見当がついたんですか、この短時間で。あなたの頭脳には毎回驚かされます」

「まだ、わからないことが多いですが。一応写真もありますよ、プリントアウトしますか?」

「いえ、必要ないです。早速、明日にでも横浜に行ってきますよ。実物を見てきます」

 明日は非番だった。だから、今日会おうと思ったのだ。常に期待に答えてくれる女性だった。期待外れとは程遠い。

「電話じゃ、ダメなんですよね」小夜子が微笑をむける。

「現場に行ってみないと落ち着かない性分でしてね」

「それじゃあ、そのビルに屋上庭園がありますから、それだけを見に行ってください。そこにある筈ですから」

 橋田は一言、「わかりました」とだけ言った。何故、とは聞かない。小夜子のことだ、行けばわかるだろう、とだけ思った。

「それと」喉仏を撫でる手が、ぴたりと止まった。「藤堂志乃さんの耳なんですが、難聴だったりしませんよね?」

 小夜子の懸念は分かった。難聴であれば、音の問題が解消される。しかし、耳に問題があったとしても、根本的に時間が足りない。そして、志乃の耳は正常である。

「志乃さんは当夜ラジオを聴いていたんですよ。それに目と耳も鼻も健康ですよ。最近は膝がちょっと悪いみたいですが」

「夜は耳栓をする習慣があったのかも」

「だから、ラジオや足音を聴いているじゃないですか」

「そうですが、何か気になるんですよ。彼女が嘘をついているかもしれないでしょ?」

「何の為に?」

「それはわかりません。ただ、引っ掛かるというか。確認しときたいんです。今、高性能の補聴器をつけていませんか? 目立たない小さいものもありますから」

 小夜子はあくまでも懐疑的に、一つ一つ潰していくようだ。

「志乃さんはお琴の免状も持っているんです。耳は昔から健全ですよ。それに当時は三十代ですよ。今だって補聴器なんかつけてませんよ。私が証人になります」

「まあ、そうでしょうね。わかりました」意外にも、あっさりと引き下がったが、突然、目の焦点を橋田へと合わせた。「当時、あの家で犬か猫か猿を飼っていました?」

「猿ですか? とんでもない。志乃さんは獣毛アレルギーがあって、動物は飼っていませんよ。まさか、ふふふ、動物が勝手にドアを開けたと思ったんですか?」

 橋田の問いに小夜子は片頬を歪めた。




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タイサンボク 長谷川野地 @0660

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