石は不変の象徴とされてきました。とくに奇岩や巨石、形の良い石は、神が宿るか、もしくは降臨する神聖なものでありました。人間はそのような石に畏敬の念を抱くのです。庭には石がつきものです。とくに古来の人は石を神か仏に見立て、自宅の庭に据えることで自己の安泰や権威を誇示したかったのかもしれません。

                                                                       森小夜子



                 ※

          《筑波石》

 その名の通り筑波山の山麓地方が集散地である。黒雲母花崗岩に属し、閃緑岩を含むので、山サビが強く出て表面はガマガエルの皮にあるイボの如く風化が著しく黒色に近い色を呈している。石質は緻密で硬質である。野面は一見して他の石と区別しやすい特徴をもっている。形に好悪があるので、良質良形のものは相当の価格になる。

                           農学博士 修陀羅典弘

                 


                    

 老友が一カ月ぶりに訪ねてきた。

 手には赤ちゃんの頭部ほどはある苔むした黒い石を持っている。

「これは?」

 藤堂志乃は挨拶もそこそこに尋ねてしまった。早急に過ぎたかもしれないが、脳裏に掠めるものがあった。遠い過去の記憶だ。

 玄関脇に大きな影をつくる泰山木の枝葉が、潮騒のようにさざめいている。その影に溶け込むようにして佇む、老友の橋田茂。彼は、口もとを引きつらせ、笑っていた。

 おや、と思った。いつもの明るい雰囲気がない。笑っているのに、ひどく困っているようにもみえた。

 ここ一カ月、橋田は教室にも顔を出していない。気にはなっていた。彼の顔を、じっと見つめるが、依然、薄笑いのようなものが顔に張りついていた。

(一体、どうしたのだろう。お教室の時とは、少し感じが違う)

 志乃は若い頃親しんだ茶道を、渋谷区の福祉会館で教えている。橋田は二年前にふらりとやってきて、受講するようになった。歳が十も違うが、師弟の関係というより、老境の友といった付き合いをしている。

 彼は元刑事だというが、物腰は柔らかく、福福しい印象さえある。そのせいだろうか、つい饒舌になり、様々なことを吐露してしまう。

 一カ月前に自宅の茶室で昔話をした。

 それと何か関係があるのかもしれない。

「四十四年前・・・」橋田は手にした石を見つめ、重々しい口調で言った。「志乃さんの前から忽然と消えてしまった、例の石なんですよ」

「やっぱり・・・。しかし、あの石は・・」

「もっと大きかった、と?」

 志乃は首肯した。木漏れ日がゆれている。

「以前にも言いましたが、我が家にあった船石は、とても大きな石だったのですよ」

「三トンを超える大石でしたね」

「その通りです。あの石は、私が数分間、目を離した隙に、煙のように消えて無くなってしまって・・。橋田さんは、お分かりの筈ですよ」

「はい。それがその・・、見つかったんですよ。これが、あの消えた船石なんです」

 橋田は、片手で持っていた石を、両手で包むようにして差し出した。

 差し出された石は、思ったより重たかった。ずしりとした手ごたえがある。緑色の苔が、四十四年の歳月の長さを物語っているようにもみえた。

「でも、これは・・」

 志乃は首を振った。船石の訳がない。第一、大きさがまるで違う。黒色であるだけなのだ。が、このざらざらとした肌触りと苔。何かが脳裏をちくりと刺す。懐かしいような感覚。蘇っては消える苦い思い。行方不明の黒い石。志乃は無意識に首を振っていた。

「疑問に思うのは無理もないですな。詳しくお話します」

 橋田は耳の裏を掻くと、朴訥とした調子で言った。

 泰山木の花の匂いが首筋にねっとりと絡みつき、重厚感のある葉が紙ひこうきのように志乃の目の前を過ぎていった。

 志乃は束の間、過去へ想いを巡らせた。



1 過去 (四十四年前 昭和四十二年 五月某日 練馬区早宮)


       《赤玉石》

 佐渡の名石である。石とはいいながらも、玉の代用となるくらい貴重で高価なものである。石質はとても硬質で、無水酸化鉄を含む為、赤色を帯び、光沢は美しい。花崗岩の倍近い重量がある。玄関前や内庭、前庭など目につく場所に据えて眺める、飾り石に最適な最高級品である。

                            農学博士 修陀羅典弘                         



「オーライ、オーライ。そのままだ、そのままそのまま、慎重に降ろせよ」

 親方の怒鳴り声が、青空の下で響いていた。

 藤堂志乃は半ば圧倒され、ただ見入った。

 一カ月前、父に無理やり予定を入れられた。有無を言わせない感じに、少しだけ倦んだ感情が芽生えていたのだが、滅多にみられない光景を目の当たりにして、素直に来てよかった、と思い始めていた。

「入石式だからな」

 傍らの父が嬉しそうに呟く。

「入籍? にゅうせき・・? ああ、石のね」

 あきれながらも、父の朗らかな横顔を見つめた。

 大型クレーンの黄色いアームが唸りをあげながら、ゆっくりと動く。吊り上げられているのは、黒く大きな庭石。屋根よりも遥かに高く、垣根、前庭を越え、芝生と木々の境界あたりに吊らされて、浮いた状態になっている。指示を出す親方のえらの張った頑健そうな顎が、しきりに動き、操縦者は眉間に皺を寄せて微調節を繰り返す。少しずつ、少しずつ、石が降りていく。親方を含めた四人の作業員が取り囲み、誘導する。アームが動くたびにエンジン音が響きわたり、普段は閑静な場所を、騒然とした空気に一変させていた。

 半日掛けて、石は地上へ降ろされ、元からそこにあったかのような顔をして置かれていた。

 しかし、この石は志乃の前から忽然と姿を消すことになる。



【数日後・・・】


 玄関脇の泰山木の花が、微風で揺れていた。

 志乃はこの花の匂いが好きだった。柑橘系を想起させ、癒される。

 五月晴れの陽光が心地よかったので、志乃は庭から母屋へいくことにした。網代に編まれた沼津垣から木戸をぬけ、清涼感のある小路の先に、青々とした芝が広がる。向かって右側は清浄な雰囲気の井戸構えや、赤松、椎などの雑木が繁っている。正面奥へいくと露地があり、質素な茶室が設えてある。眼下には石神井川。昔ながらの裏山を生かした庭だった。(家屋は庭を引き立てる点景にすぎない)と豪語した庭師、小沼喜助の作である。飛石には最高といわれている赤錆の浮いた本鞍馬の飛石を、軽やかな足取りで母屋へ向かった。

 縁側に父がいる。

 佇んでいた。目を細くして芝生の先を眺めている。志乃も思わず、そちらへ視線を向けた。視線の先には、黒々と大きな石があった。

「よう、志乃、来たか」

 父が珍しく快活な声を出した。パーキンソン病を患い、元気がなかった父ではあったが、今日は幾分調子がいいようだった。まだ軽度の手の震えで済んでいたが、遠くない未来に体がいうことをきかなくなるだろう。薬で進行を遅らすことしかできない不治の病と、生涯付き合わなければならない。そんな父が不憫で、週に二回は早宮を訪れていた。

「あの石な・・」

 父の唇が、ゆっくりと動く。

「こうやって眺めると、やっぱりいいものね」

「そうだろう、立派だろう。測ってみたら、高さが一、二mもあった。大変なもんだ。こいつに名前をつけたくてなってなあ。船石と命名しようと思うんだが、どう思う?」

「船石? 私には棺のようにも見えるけど。石の棺桶・・」

「なるほど、石の棺か・・。それもいいな」父の口角が少しだけ曲がった。「でも、もう決めたんだ。初めて見た時から、これは俺にとって夢の船なんだよ。方角だって東の方へ舳先を向けて据えてもらったんだ。東方浄瑠璃世界へ向かってね」

「東方浄瑠璃世界? 西方浄土とかじゃなくて?」

「薬師如来の世界だよ」

 志乃は大きく頷いた。病気の父らしいお願い事だと思った。

「そこまでイメージがあったんだ。ふうん、いいと思うよ。船石か、言い得て妙だと思う」

 父が満足そうに頷く。

「庭ってのは、小宇宙なんだよ。見る人が見れば、その空間は浄瑠璃世界にも見える訳だ。理想空間を創造する場所なんだと思う。見る人の主観で様々な見え方をするから面白い。庭は墓だという人もいてね。そう言われてみれば、石や燈籠、蹲踞、手水鉢なんかの庭道具は浮世離れしているから、そう見えなくもない。それがまた面白い」

「そうだね。十人十色だよね。私なんか龍安寺の枯山水なんて見ても、まったく何も感じないもの。あ、でも、苔寺は素敵だったかなあ」

「ああ、西芳寺ね。夢窓疎石ゆかりの寺院だ。あそこは素晴らしいね。だが、禅宗の庭には見えない。平安期に藤原親秀が住んでいたらしいから、その影響があったのかもしれないね」

 今日の父は本当に機嫌がいい。いつになく饒舌だ。

「京都の龍安寺もいいもんだよ。草木が一本もない石だけの庭。謎に包まれていていいね。だがね、うちの船石もいいだろう。謎めいていて」

「ちょっとよく見てこよう」

 志乃は匂い立つ芝の上を駆けるようにして、船石へ近づく。

 間近で見る船石は、何とも気味の悪い形をしていた。大きくて黒い石の棺。

(これはやっぱり棺桶だよなあ。小さな子供ならそのまま入れそうだし)

 そう思いながら、船石を仔細に観察する。黒々として、ぼつぼつと穴があいている。ところどころに苔がのっていて、黒に緑の絵の具を意識して垂らしたような、絵画的な味わいがある。さわるとざらざらした感触が手のひらに残る。

 石の船。

 父は何故、舟形の石が欲しかったのだろう。

 志乃は小首を傾げ、無意識に豊かな黒髪を撫でた。

 多くは語らないが、父は若い頃シャーロキアンだったのだと思う。

 つい最近まで、家の玄関に「ベイカー・ストリートW1」という小さなプレートが掛けられていたから。さらに、照れ屋で、謎かけが好きときている。だからいつも何となく試されているような気分になった。

 この謎が見抜けるかな? 

 暗にそう言っているのだ。父の高い鼻が犬のように微動した。

「それはそうと去年、お前たち夫婦が、連れて行ってくれただろう。あそこの、ほら・・」

 懐かしむような、柔らかな視線を庭へ落とす。

「札幌グランドホテルね」

「そうだ。あそこの屋上庭園も良かったが、やはり、地上にどしりと根を張った庭がいいもんだよな。そう思わないかね、志乃。うちが一番だ」

「よっぽど気にいったみたいね。その石はたしか、筑波石って種類だっけ?」

「らしいな。形がよかったみたいで結構払ったぞ。でもいい買い物をした。体にガタがきたからといって、家の中に閉じこもっていたら、見えるものも見えなくなるもんだ」

 父の気に入りようは半端ではないようだ。近所にある造園会社の地所の前を通り掛かった時、運命を感じたらしい。庭園鑑賞が今の生きがいである父にとっては、それはまさしく運命だったのだろう。その場に居合わせた従業員とすぐに交渉し、即購入に至った。

 高さ一、二m、幅一、五m、奥行き一mの大石である。搬入、設置作業は大型のクレーンも出動し、半日掛った。花崗岩である筑波石は一?あたり二、六三トンから三、六一トンと言われているから、数mの移動すら容易ではなかった。その為、船に見立てていることもあり、庭造りの常道である根入れはせず、自然な姿のままで置かれることになった。

 船石。父の夢や、思いをのせた石の船。

 改めて、眺めてみる。

 すると、気のせいか、少しだけ浮いているように見えた。


 二日後、父の様子を伺いにいくと、縁側で浮かない顔をしていた。

「何かあったの?」

 志乃が問いかけても、まだ苦虫を噛み下したような顔をしている。

「最近、何か妙なんだよな・・」痰が絡んだ声で言う。「俺が耄碌したのかもしれんが。昨夜、寝る前にしっかり戸締りした勝手口のドアが、今朝見てみたら開いてたんだよ」

「やだ」自分の声がやけに大きかった。「まさか、また忍び込み?」

「わからん」

「何か盗まれた物はなかったの?」

「何も。俺もこのとおり大丈夫だ。だけどな、少し気持ち悪い気はするな」

「警察には?」

「いや、まあ・・何も盗られていないしな」悄然とした顔で言う。「なあ、志乃、今夜泊っていってくれないかな。一人じゃ何となしに心配でな」

 父の顔に不安の色が滲んでいた。

 手のひらが、汗で濡れているのを感じた。過去に三度、盗難の被害にあったことがある。いずれも居空きであった。松濤にある本宅の方である。広い家だったのが災いしたのだろう。家族が揃って居間にいる時を狙われた。そういう時は安心感からか、何となく防犯意識が薄くなることがある。その時間帯専門の賊にやられたのだ。

 志乃の実家である藤堂家は建設会社「藤堂組」の創業一族であり、父の文太郎は先年度まで、子会社の藤堂不動産、藤堂開発、藤工ホールディングスを含む「藤堂グループ」の会長を務めていた。裕福な生活が、憂き目となってしまった。

 家族の中で誰よりも敏感に反応したのは父だった。ここ最近の父の防犯意識は病的なまでに高く、そのせいでもあるのか、他人を家に入れたがらなくなった。以前は家政婦さんが入っていたのだが、しめ出してしまったのだ。

 父が耄碌した訳でもない。相変わらず物覚えが良く、多少の物忘れはあるが、それでも志乃よりは遥かに頭が働く。病気のせいでもないだろう。パーキンソン病には大別して運動症状と非運動症状がある。非運動症状のなかには、精神症状、自律神経症状などが含まれるが、父の症状は軽度の運動症状で、思考や精神は正常であった。しかし、歳も歳だ。痴呆が始まったとしても、何らおかしくない。パーキンソン病が痴呆を誘発するという話もあるから、志乃としては心配だった。

 父の話が本当だとしたら、もっともっと恐ろしい。泥棒は家の中を徘徊しただけで、何も盗らなかったということになる。目的がわからないことほど、恐ろしいものはない。

「私、泊っていくよ」

 嫌な予感が藪蚊のようにまとわりついて離れなかった。


 父は二十二時に就寝した。志乃は洗い物や、やることをすべて終え、二十畳のリビングに座していた。庭を一望できるからだ。何ができる訳でもない。ただ不安だった。見張ることで、不安を解消したかっただけなのかもしれない。深夜一時頃まで、本を読んだり、ラジオを聴いたりして過ごした。その間まったく異常はなかった。

 井戸の底にいるみたいに、静かな夜だった。

 神経が過敏になっていただけかもしれない・・・。

 志乃はそう括りをつけると、いつものように雨戸を閉めに窓へ向かった。外灯に船石がぼんやりと照らされ、日中見るより妖しく大きくみえた。ふらふらと外へ出たくなった。サンダルを突っかけ、妖しい夜に誘われるように、船石へと吸い寄せられていく。大きな石だ。ずんぐりと存在感がある。手を触れると、ざらざらとした肌触りが心地良かった。悪いことなんて起こりそうにない。そう思えてくる。志乃は母屋へ戻るとすぐに、玄関、勝手口、窓という窓を点検し、雨戸を閉めた。すべての戸には、補助錠がついている。補助錠は外側に鍵穴がないので外からは開けられない。もちろん、トイレ、浴室にも防犯用の柵が取り付けられている。格子型の引き戸である玄関も、欅を使ったもので特別頑丈な作りにしてある。鍵を掛ければ、持ち上げたり、押したり、引いたりしても、びくともしない構造になっている。父がこだわり、特に気を掛けたところだった。二階も含め、すべての施錠を確認し、リビングに戻った。ラジオからは石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」が流れている。一節だけ聴くと、ラジオを消した。静寂が辺りに漂う。テレビの上の時計が、一時二十分を一分過ぎていた。

 その時。

 一瞬だった。

 小さな物音が耳に触れた。不思議なもので、途端に耳が鋭敏になる。

 微かだが、足音のような、地を踏みしめる音。

 一人ではない。数人いるような気がする。

 体が一挙に硬直した。胸が痺れるような感覚。全神経を耳に集中させ、聞き耳をたてる。

 空耳ではなかった。足音に間違いなかった。

「誰・・・、誰なのよ。泥棒?」

 孤独な自問が不安を煽った。息が詰まる。じわりと汗が滲みでる。

 雨戸の先には、明らかに闖入者がいる。

 走り去る足音。遠ざかるエンジン音。そしてまた静けさが戻ってきた。

 時計に目がいった。一時二十三分。まだ二分しか経っていない。信じられなかった。息苦しい時間はもっと長く感じられた。

 息を大きく吐く。

 志乃は意を決し、そろりと玄関へ向かった。慎重に補助錠を外し、音をたてないように、サムターンを回した。それでも、やはり音がした。心臓が縮みあがった。

「大丈夫、大丈夫」

 志乃はあえて口に出すことによって、自分を勇気づけた。少しずつ少しずつ、格子戸を開ける。涼やかな風が入り込む。花粉を含んだ風は少しだけ甘い匂いがした。

 顔だけ出して、辺りを窺う。玄関前の赤玉石は無事だった。ひとつ安心した。

 前庭はゴロタ石が敷き詰められ、道路との境にはモチノキが整然と並ぶ。玄関脇の泰山木の影が、漆黒の闇をより濃厚に塗り潰している。外は静謐としていた。開放的な前庭には、車が二台停められる広さがある。その奥には屋根つきのガレージがあるが、今は空だ。

 網代の垣根が、傾いていた。やはり、誰かが入り込んだのだ。

 嫌悪感で胸がしめつけられる。志乃は無意識に駆け出していた。不審者の気配は感じられなかったが、異様な空気が残滓として沈殿している。

 垣根の支柱が腐っていたのか、根元から折れていた。木戸もろとも傾いて、倒れ損ねていたが、中庭に抜ける小路は荒らされてはいない。芝生に足を踏み入れる。草の匂いが、夜気に混じり、肩に入っていた力が、すっと抜けた。所々に設置された外灯が、相変わらず幽玄な雰囲気を醸していた。

 一瞬だが、妙な違和感があった。

 すぐに合点がいった。あるべきものが、あるべき所に無かったからだ。

 船石の大きな姿が、影も形も無く、消え失せていたのだ。外灯の明かりだけでは分かりづらいが、芝生も荒らされていないように見えた。数人の踏みしめたような跡はあるが、車が乗り入れた跡はない。轍などの跡は皆無であった。引きずった跡も確認できなかった。そもそも、小路からは重機や車などが乗り入れるのは不可能だ。

 石の船が、空を飛んだ?

 まさか・・・、そんな馬鹿な。

 志乃は呆けたように、「なんでなんで」と、言い続けることしかできなかった。


 翌朝、父が怒鳴り込んできた。ろくに眠ることが出来なかった志乃にとっては、そのヒステリックな声は頭に響いた。胃が予想以上にもたれている。

「朝っぱらから何なのよ」

 不機嫌を露わに、怒鳴り返してしまった。

 昨夜はすぐに警察を呼んだのだが、三十分後に現れた二人組の警官は、眠そうに対応するだけで、まともに捜査する気はないようにみえた。それにまた腹がたった。不眠気味の父はお酒の力を借りてぐっすり眠っていたので、まだ事情を知らない。時計を一瞥すると、六時五十分分だった。あれから少しは眠ったようだ。

「まただよ、またやられた」

 興奮と憔悴が入り混じった声だった。

「またって、何よ?」

「勝手口だよ、また開いていた。あと、庭が・・」

 父の顔色が悪い。

「まさか、昨日の」

 志乃は、ふらつく足取りで勝手口に向かった。

 昨夜の賊が、家の中まで入り込んだ、というのか。ひんやりとした台所が、いつもと違う冷たい場所にみえる。場違いに珈琲のいい香りがする。勝手口。サンダルが散らばっている。散らばっている筈がなかった。昨夜、サンダルをきちんと整えたのは、志乃自身だったからだ。

 勝手口のドアは半開きの状態だった。上がり框に砂埃が散っている。何者かが土足で上がり込んだ跡だろうか。ドアからの隙間風に、全身が総毛立った。

「有り得ない。ちゃんと施錠したのに。綺麗に掃除もしたのよ」

「今度も何も盗られてはいないようだ。鍵が壊された跡もない」

 父は悄然と頭を掻いた。

「これ、どういうこと?」

「どういうこともなにも、朝起きて珈琲を淹れに台所へ行ったら、この状態だ。最初は分からなかったんだよ。何か隙間風がするな、と思って勝手口を覗いたら、この様だ」

「父さん、ここ散らかした?」

 乱れたサンダルを指差した。

「いや、何だか気味が悪いようでな、近づいてもいない」

「じゃあ、何でこうなってんのよ。何で鍵が開いてんのよ。あたしちゃんと確認したのよ」

 父の皺だらけの顔を覗き込む。病気のせいで瞬きを忘れた瞳をしばらく眺めていると、自分の高ぶっていた神経が沈静してきた。

 冷静にならなくては。

 志乃は、大きく息を吐いた。昨夜、闖入者がこの家に来たことは間違いない。だが、船石を盗って、家の中に侵入したものの、家の中のものは何も盗らず帰ったというのか。何が目的だったのか。

 はっ、と息を?んだ。急いで自分の身を確認した。異常はない。浅い眠りの間に変なことはされていないようだ。安堵の息をついたが、不可解なことばかりで、気分がまた乱れてくる。背後から誰かにじっと見られているような気がしてならなかった。

「志乃、庭を見てみろよ」

「知ってる。無くなってるでしょ。もう警察にも言っといたから」

 父が深い溜息をついた。冷たく言い放ったことに、少し後悔した。

「ごめん」

「いや、いいんだ、しょうがない。しかし、どうやって持っていったんだろうな。庭が思いのほか綺麗なんだよ。荒らされてない。気持ち悪い足跡はあったがな。だが、クレーン車が来た形跡も、櫓を立てて、引っ張りあげた形跡もない。引きずったような跡すらなかった。ふん。宙を浮いていったか?」自嘲気味に笑った。「壊されたのは、あの古い垣根だけだったしな。キツネかタヌキにでも化かされてる気分だよ、まったく」

 半開きだった勝手口のドアが、急に閉まって、酷い音がした。風が強くなっている。

 父が微かに震える手を見つめ、そっと摩った。

「一体、何が目的なんだ。嫌がらせにも程がある。家にまで入り込むなんて。俺へのあてつけか?」父の突出した喉仏が上下している。「俺が何をしたっていうんだ。病気して、引退した年寄りに、こんなことをして楽しいのか。楽しいんだろうな。楽しいから、こんなことするんだろうな。俺は恨まれているのかなあ、志乃」

「そんなことないよ。父さんは誠実な人だよ。あたしがよく知ってる」

 言葉は虚しい。だけど、言わないよりはいい。死んだ母の口癖だった。

「絶対に犯人を見つけてやる」

 志乃は呟いていた。

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