タイサンボク

長谷川野地



 男は泰山木を見上げると、あることを思いついた。

 殺人である。

 しかしそれは犯罪と呼ぶには実に消極的な計画だった。

 若い頃に読んだ谷崎潤一郎の「途上」、もしくは石沢英太郎の「視線」や、江戸川乱歩が「プロバビリティの犯罪」と呼ぶあの手法とまったく同じ、運命にまかせる殺人計画だ。

 手垢のついた狡い手法だが、自分の手を汚さず、朗報を待つ喜びがある。

 確率の犯罪。山中で原始的な罠を仕掛けるのと一緒だ。

 死んでくれたら、嬉しいが、別に、罠に掛からなくてもいい。やつは高齢だから殺すまでもなく、死をただ待てばいいだけだ。実に消極的な殺人。これを殺人といえるだろうか。罪深いことではあるが・・。

 有毒植物で殺すのはどうかと考えたこともある。夏目漱石の「それから」のようにスズランの活けてあった花瓶の水を使って。スズランの毒は少量でも死に至らしめる。居間や台所に水差しか湯呑を置いておくだけで、プロバビリティの犯罪になる。小心者の自分に相応しい犯罪だ。

 

 トリカブト

 キョウチクトウ

 ドクニンジン

 ジギタリス

 バイケイソウ

 

 野山で採れる毒草を摘んで、水に浸して毒水を作ってみるのも一考である。山の中に入れば足もつかない。一石二鳥だ。

 どれも致死率が高そうだった。飲む確率も高い。朗報を待つ喜びはすぐにでもやって来るだろう。だが、それでは駄目だ。男は否定する。毒水を作るという過程は、自らの手を汚していることにならないか。

 男は泰山木の葉を熱心に見つめた。

 大柄な葉である。厚みがあり、ある程度の強度があり、面は光沢である。ようは滑りやすく丈夫な素材であるということだ。

 さりげなく庭に置いても違和感なく風景に溶け込んでしまう。だが、すぐさまそれは見えない凶器となる。木の葉で人が死ぬものだろうか。男は首を振る。別に死ななくてもいい。足を滑らせて、頭でも打って死んでくれれば、儲けもの。

 いたずら程度の軽い罠を仕掛けるだけだ。葉を一枚落としてくるだけ。

 何度も自分に言い聞かせると、やがて、男は決心した。



 一章 人間消失と池泉式庭園


 池泉式庭園とは、池の中に泉池、滝、細流などをつくり、水景を楽しむものです。舟遊式、回遊式、観賞式と様々な呼び名がありますが、美しく華麗なものばかりではありません。その構造ゆえに不可能を可能にした謎深き事件の舞台になってしまったこともあるのです。                       

                                 森小夜子

                


 あれは奇妙な事件だった。

 昭和五十二年、四月十日の午後三時過ぎに発生した、「神池村の神隠し事件」のことである。事件発生当初、折からの冷たい雨のため、集落を歩く者は皆無であったが、雨に煙る畦道の木陰に、目だし帽を被った異様な風体の人間が一人、身を隠していた。その人物は閑寂な集落の「死角」を熟知していたのだろう、違和感なく周囲に溶け込んでいた。自分の存在を消し去り、濡れそぼつ身も、肌寒さも忘れ、ある一点を凝視していた。視線の先には、厳めしく巨大な門があった。

 表札には「宮代」とある。

 不審者の目の前を赤い小さな傘が通り過ぎた。忍び寄る影に気づきもしない。楽しそうに傘を揺らしている。少女は一人だ。名前は宮代祥子。少女の姿を視認した影の目が鈍く光った。影は赤い傘に近寄ると、突然少女の首元に、刃渡り二十センチの包丁を突きつけ、村の名家「宮代」邸内に押し入ったのだ。怯える家族の者に「出ていかなければ、この子を殺す」と脅し、巨大な門を閉めて立て篭もった。この時、家族の一人が、犯人の声に微かな違和感を覚えていた。聞き覚えのある声だったのだ。小柄な体躯にも見覚えがあったのだが、どうしても思い出せなかった。と、いうより、瞬時には結びつかなかったのである。霞を掴むような想像のため、証言はしていなかった。

 このことは、後々事件に禍根を残すことになる。

 宮代家十四代当主宮代基は、事件発生後すぐに、大学生で帰省していた長男を駐在まで走らせた。自身は門前にある石積みされた台地へ上がり、中の様子を窺っていた。三方の丈高い塀の天頂部が何とか見渡せるところである。使用人と奥方、健在であった父母、先に帰っていた中学生の長女が、近隣に異変を告げに行った。

 当時、関係者は、ある程度楽観視していた。立て篭もったはいいが、犯人に逃げ場はなかったからだ。問題があるとすれば、閉塞した状況に逆上し、自暴自棄になった犯人が少女に乱暴することだ。それだけは防がなくてはならない最優先事項だった。細心の交渉が不可欠であった。山奥の集落ということもあり、警察本隊の到着は遅れたが、近くで農作業に従事していた村民などが協力して、宮代邸を取り囲んだ。五分もしないうちに噂好きの村民がどこからともなく集まりだした。蟻の這い出る隙間もないうえに、宮代邸を囲む土塀は高い。四メートルはある。塀の上は錐状の泥棒避けが施され、越えるのは容易ではない。宮代邸の裏側は山に面しているが、切り立った崖になっている。崖上は鉄柵、有刺鉄線が張り巡り、登攀は不可能である。たとえ登攀に成功したとしても、外から丸見えである。当初から三方の塀の天頂部と崖を監視していた宮代基の目にも、不審な影は見えなかった。村民が「城」「要塞」と呼ぶ邸内から、犯人が逃げ出すことはできなかったのである。

 発生から一時間後、拡声器での交渉に見切りをつけた警察は、門塀に梯子を掛け、内部の様子を窺い、一方では宮代邸の裏山から望遠鏡で俯瞰していたが、異常は見られない。静かなのである。捜査責任者は気味の悪い静けさに、何か異様ものを鋭敏に感じ取っていたようだが、異様なものの正体が何であるかは確信に至っていなかった。その間も続々と警察官が集まり、百五十人態勢で宮代家周辺を埋めた。

 二時間が経過し、雨が止んだ。

 それが合図のように、警視庁の突入班がそろそろと邸内へ入っていく。塀に梯子を掛け、足場の悪い天頂部位を避けるように、ロープを垂らし、粛々と中へ入ったのである。

 暫くして、あっけなく少女は保護された。目立った外傷もなく、暴行もうけていなかった。縛られたところが少し内出血している程度だった。犯人は門を閉め切ると、すぐさま少女に目隠しと猿轡をし、体を麻の紐でぐるぐる巻きに縛り、そのまま少女を放置したというのだ。後日少女が証言した犯人の印象も、事件を混迷させた。少女によると、犯人の体から柑橘系の甘い香りがしたという。犯人の背格好からして、女の犯行の可能性も出てきたのだ。

 邸内はまったく荒らされていなかったが、現金五百万円が入っていた手提げ金庫が一つだけ無くなっていた。持ち運びが容易な金庫を狙った計画的な犯行とされた。

 そして、犯人はというと、邸内のどこを探してもいなかったのである。警察は最終的に総勢三百人を動員し、邸内はもちろん、茶室や蔵、庭園の隅々、池の中まで入念に捜索したが、犯人の姿は結局見つからなかった。犯人が履いていた長靴の跡が残っているだけであった。足のサイズは二十三センチ。男性としては小さい。これも犯行が女である可能性を示唆している。長靴は量販店で売られている一般的なものだった。そこから犯人を割り出すのは、難しいと思われた。降りしきる雨で、庭内の痕跡は洗い流され、裏の崖からも登攀した跡はなく、村の消防団や有志ら総出の山狩りも、成果は得られなかった。

 犯人は、衆人環視の中、忽然と姿を消したのだ。

「神池村の神隠し事件」は、未だ解決に至らず、三十年目を迎える。

                神池村 元村長のブログ 2007/4/10



 少年の名前は木之下修一という。閉ざされた空間から忽然と姿を消し、一キロ離れた西ノ川の下流で、死体となって発見された少年の名である。

 私の数少ない友人でもあった。

 彼はなぜ死んだのか。なぜ急に姿を消したのか。考えれば考えるほど、正解は遠のき、袋小路に迷い込んでしまう。あれは事件などではない。一種の現象だ。

 神隠し・・? 不吉な言葉が脳裏を掠める。

 インターネット百科事典wikipediaには、こう掲載されていた。

 

 「神隠し」

 人間がある日忽然と消え失せる現象。神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れもなく失踪することを神の仕業としてとらえた概念。古来用いられていたが、現代でも唐突な失踪のことをこの名称で呼ぶことがある。天狗隠しともいう。

 

 私が以前住んでいた村では、神隠し伝説が色濃く残っていた。山で行方不明(迷子)になる子がでると、村民総出で、山を練り歩く。皆が口々に「かやせ。もどせ」と叫び、山に住むといわれている「隠し神」に子供も返してもらうのだ。集落のはずれにある善保寺の「縛られ地蔵尊」は、江戸時代、神隠しにあった子供が、麻紐で縛られた状態で無事発見されたことにあやかり、奉納されたものだという伝説がある。

 奇妙な迷信が色濃く残る村だった。

 私は小学六年生まで、そんな村に住んでいた。東京都の西のはずれに位置する神池村というところだ。村の九割が山林の小さな村。実家は西ノ川上流で、シクラメンの栽培を生業にしていた。山の涼しい気候を生かしたシクラメン栽培は、ワサビやキノコの栽培と同じく、数少ない山の産業の一つであった。生活は楽ではなかったとは思う。だからなのか、兄の中学入学にともない、村を去ってしまった。

 そのせいで村の記憶は少年期のままで止まっている。あの頃の学校生活はうまく思い出せないが、木之下修一が姿を消した当時の状況はよく覚えていた。鮮明に。空気が冷たくなりはじめ、楓が紅く色づきだした頃だ。山が夕焼け色に染まり、落ち葉がふかふかの絨毯みたいに積もっていた。 

 

 

「なあ、悟の家行ったことある?」

 木之下修一が鼻水を啜りながら言った。彼は、お気に入りの青いパーカーの袖で、鼻を勢いよくごしごし擦った。

 学校帰り。その日は五時間目で終わり、三時頃には帰路についていた。山間の空気はめっきり秋になっている。どこかで吠える犬の声が、山に反響している。ハゼノキが母親の口紅のように鮮やかに染まっていた。川沿いの通学路は、怜悧な空気が漂い、思わず深呼吸してしまう。毎年この感じになるのが好きだった。山の空気が変わり始めるのを実感できるのが、嬉しかったのかもしれない。

 私は彼の質問にかぶりを振った。

「これ届けに行くんだ。一緒に行く?」

 修一はノートを、翳して笑った。

 私は頷いたが、宮代悟のことをよく知らなかった。過疎化したこの地域では全校生徒合わせても十人しかいなかったが、悟とはあまり面識がなかった。学校をよく休んでいる奴、という印象しかなかった。この日も、彼は学校にきていない。そうなると、私自身も子供の頃は引っ込み思案の性格だったから、お互い遠慮しあって、自然と疎遠になっていった。山は変化するが、私と悟の心は最後まで変化しなかった。

「あの木って、面白い」

 修一が一本の木を指差した。紅く熟した小さな果実が幾重にも垂れ下っている。

「ツリバナっていうんだよ」

 私は呟くように言った。

「ふうん。お前よく知ってるな」

 修一の目が輝くのを見た。私はかぶり振ることしか出来なかった。ツリバナはその名の通り、種子を吊り上げているような可愛らしい枝の樹木だったので、簡単に見分けがつく。家業が植物を栽培しているからなのか、自分でいうのも何だが、植物の名前だけは覚えがよかった。修一は目に映った植物の名前を不意に聞いてくることがある。それに答えられた時、何とも言えない達成感のようなものがあり、密かに勉強しては植物の名前を覚えていたものだった。

「あとで、うちでファミコンしよーよ」

 私は嬉しくなって誘った。すると、

「新しいソフトあるんだ。持ってくよ」

 修一が得意気に目をしばしばさせる。

「え? また新しいのがあるの? 修ちゃんちってすごいなー」

「小遣い貯めてるんだ」

「えらいなー、修ちゃんは」

 修一の家はワサビ農家をやっている。しかし、ワサビ田を営むのは大変みたいだった。山の豊富で清冽な水は、時に大きな災害を引き起こす。西ノ川の支流である神池川の水源を利用している木之下家のワサビ田は、集中豪雨で壊滅することが多かった。その為に放水路をあちこちに設け、西ノ川渓谷へと流しているのだが、台風のような時はどうしようもない。それでも水路は重要な治水と生活用水を支えていた。神池村は水路の村といっていい。先日も神池川が氾濫した。

 張り巡らされた放水路のお陰で被害は最小限で留まったが、木之下家のワサビ田だけが一部を損壊してしまい、復旧に忙しいようだった。周囲一は家の手伝いをして、こまめに、いじらしくも、少ない小遣いをせっせと貯めて、新しいゲームソフトを買い、私に提供してくれていた。しかしながら、そもそも修一の家にはファミコン本体が無かったから、私の家でゲームをするのが殆ど習慣になっていた。

「宮代って、どんな奴?」

 道すがら、聞いた。宮代家は集落の高台にある。宮代家の歴史は江戸時代まで遡るらしく、林業の元締めだった家と聞いている。元締めという言葉は馴染みがなかったが、厳めしいイメージがあった。

「金持ち・・」

 修一がぽつりと呟くように言った。

「ふうん。じゃあ、修ちゃんと一緒だね」

 修一が目を見開いて、私を凝視した。

「何で?」

「だって、いつも新しいゲーム持ってるじゃん」

「ばか、お前んちはファミコンあるじゃん。うちには無いだろ? だから、お前の方が金持ちだ」

「うちはマリオとドラクエしかないけど、修ちゃんはいっぱい持ってるよ」

 そう言うと、修一はくすりと笑った。

 風が出てきた。真っ赤なハゼノキが揺れていた。


 三時半頃、宮代家に着いた。子供は遊びながら歩くので、時間が掛るのである。

 宮代家は噂に違わぬ豪邸だった。古く厳めしい門は固く閉ざされ、屋敷をとり囲む土塀もかなりの高さがあった。てっぺんには有刺鉄線のようなものさえ見える。周囲は、高木に覆われ、薄暗い。椎茸の収穫をしている人が、ちらほらと見え、何となく賑やかな雰囲気がする。お祭りみたいだった。闇の城を囲む祭典。ゲームや漫画の世界。

「なんか、怖いね、お城みたい」

 豪壮な門を見上げると、つい本音が出た。

 丈高いケヤキが防風林としての存在感を示し、空から枯葉が舞い落ちていた。

「ボスキャラがいそう」

 修一が薄く笑った。私は圧倒されていたが、修一は慣れたもので、門の脇にある呼び鈴を押して、何事か告げている。しばらくすると、鍵が解除される大袈裟な金属音がした。

 髪を栗色に染めた女の人が出てきた。

「木之下君ね、いつも悟のためにありがとう」

 女の人は優しげな笑顔を浮かべて、招き入れてくれた時、不意に私と目があった。

「君は初めてね」

「はい」私は緊張していた。「の、野平真といいます」

「まことちゃんかあ、可愛い名前ね」栗色の髪の毛がふわふわ揺れていた。「私は悟の叔母で、祥子といいます。よろしくね」

 私は曖昧に頷くことしか出来なかった。祥子さんは重そうな門の扉をぴたりと閉める。ゲームに出てくる牢屋の鍵のような真鍮の鍵で、しっかりと施錠した。鍵はもうひとつあった。番号錠だ。女の人は素早くボタンを押す。金属と金属が嵌る重厚な音がした。巨大な城門が閉められたような威圧感がある。ふと、修一の方を見た。彼は勝手知ったる感じで、すたすたと石畳の道を歩いている。中は別世界のように長閑だ。年季のいった石の塔や、燃えるように紅いモミジや、マツ、シラカシ、シイ、イヌシデなどの大きな樹木が優美で壮大に映る。庭が広大でなければ栄えないかもしれない。

 水が流れている。西側には池がある。それも大きい。とても澄んだ水面だった。池の真ん中には大きな石が浮いている。池泉式回遊庭園という言葉は大人になって知った。

「あっちには何があるの?」

 私は反対の東側を見ながら、修一に訊ねた。飛石が木々の間を縫うように点々と続いていた。

「あっちはねえ」祥子さんが答えてくれた。「茶室っていって、お茶を飲むところがあるのよ」

「そ、そうなんですか」

 またしても、しどろもどろである。そのうちに格子扉が立派な玄関が見えてきた。

「それじゃあ、俺渡してきます。マコはちょっと待ってて」

 修一はもう玄関に入っていた。まるで自分の家に帰ってきたような自然な動作だった。

「よろしくね」

 祥子さんも当たり前のように言う。

「さて、君はどうする? そうだ、茶室見てみる?」

「あ、はい」反射的に答えていた。この人は一体何をしている人なんだろう。そんなことを思っていた。後ろについて歩いていると、ふわりと薔薇の匂いがした。

 玄関へと続く石畳と並行して、水の流れがあり、玄関脇には木戸が設けられている。祥子さんはその木戸を開け、飛石を軽やかな足取りで歩み始めた。丈の低い石の塔が見える。燈籠というらしい。傍らの水鉢に綺麗な水が張っていた。モミジの葉が一枚浮いている。水鉢の周りは泉が湧いているように見えた。水の流れの源泉なのかもしれない。

 私が水鉢に見入っていると、祥子さんが優しく声を掛けてくれた。

「これはねえ、蹲踞っていうんだよ」

「つくばい・・?」

「そう。茶室に入る前に、ここで手を洗うのよ。茶室は神聖なところなの。だから、こうやって蹲るようにして手を清めるの」

「何か・・お祈りをしてるみたい・・・」

「へえ」祥子さんは顔をくしゃくしゃにした。「君、素敵なことに気づく子だね」

 私はぶるぶるとかぶりを振ることしかできなかった。

 目の前に木造の小さな建物があった。これが茶室というものだろうか。自分の家よりも小さな家があることに、まず驚いた。私は何か喋ろうとした。勇気を出して口を開こうとした。その時、何かが破裂したような音が聞こえた。

 その音は今でも忘れない。

 例えて言えば紙風船を勢いよく踏みつけたような、小さいがよく響く音だった。

「何? 今の音」

 祥子さんが訝しげに眉をひそめた。「池の方だったね。最近悪戯が多くて困ってるの。また何か投げ込まれたのかしら」

 そう言うと舌打ちした。厭な音だった。

「ちょっと見てくる。君はここにいて」

 祥子さんは走り出していた。急に一人ぼっちになった。木々が揺れ、葉擦れの音が妙に耳についた。怖くなって祥子さんの後を追った。走った。薔薇の匂いが漂っていた。

 池の畔に栗色の髪が踊っている。ずんぐりと巨大な石が池の縁に置いてあり、存在感があった。私の背丈をゆうに超えて、護岸の白い石に大きな影を落としていた。傍らにある石で組まれた井戸囲いは、穴が開いていない飾り井戸なのだが、そこから手が出てきそうで気味が悪かった。

「誰かいるの?」

 祥子さんが恐れを振り切るように金属的な声で叫んだ。母家と石と池の狭間で立ち止まっている。鬱蒼とした木立とツツジの植え込みの先で、何やら黒い影が動いたような気がした。

「誰?」祥子さんの声が少し震えていた。「警察呼ぶわよ」

 影は木立の向こうへ消えた。祥子さんは追おうとするが、敷石にサンダルをとられ、前につんのめってしまった。

「祥子、どうしたの?」

 いきなり声がした。ずんぐりとした巨石の向こう側に女性が立っていた。池に掛る石橋を渡って、こちらへ近づいてくる。しきりに手を気にしているように見えた。

「あ、姉さん、また悪戯みたいなんだよ」

 祥子さんの声が切羽詰まっている。

「やっぱり? 今、変な音がしたもの・・、ふん、ホントいやね」

「ねえ、誰か見なかった? 誰かがいたのよ」

「え、誰も見なかったよ。動物じゃないの。イタチとかハクビシン・・、テンかも」

「そんなんじゃないよ。人の影みたいだった」

「そう・・、気持ち悪いわね。すぐに駐在さんを呼びましょう」

 姉らしき人が吐き捨てるように言って、また掌を摩った。眉に険のある女の人だった。

「あら?」私の方に鋭い視線を向けた。「どなた? 悟の友達?」

「そうよ」祥子さんが答えてくれた。「木之下君の友達。小学校の仲間よね?」

 私は頷く。すると、思いのほか柔和に破顔した。ほんの少し祥子さんの笑顔に似ていた。

「とりあえず中へ入ったら。変な奴が庭をうろついてるんでしょ」

「そうね」祥子さんの目が血走っている。「この家から出られないと思うからね。早く入ろう。警察呼ばなくちゃ」

 だが、祥子さんはツツジの植え込みに目を向けていた。先程の影が蠢いていた木立の辺りだ。

「やっぱり・・・。やっぱり誰かいたんだ」

 声が強張っていた。私も視線をツツジの方へ向けた。

 そこには、真っ赤な実のようなものが、ぐちゃぐちゃに踏みつけられていた。

「カラスウリが踏みつけられて、破裂した音だったのね・・」


 黒光りする縁側を成り行きで上がった。怖かったのもある。一刻も早く中へ入りたかった。池が見える二十畳ほどの居間に座らされ、苦いお茶を飲まされた。先程の女の人が電話をしている。伸代さんといって祥子さんのお姉さんで、悟のお母さんだという。

 こんな異様な事態に修一は何をしているのだろうか。

 ふと、不安になった。

「そうだ、木之下君は?」

 祥子さんが私の思いを代弁してくれた。

「悟の部屋じゃない?」

 伸代さんは間延びした声で言う。その声音に祥子さんは顔を顰めた。

「私、ちょっと見てくるよ。外にいたら大変だもん」

「もうすぐ駐在さんが来てくれるから大丈夫よ」

「でも、最近何か怖いのよ。石とか投げ込まれたりして、何か物騒じゃない。それに、不審者がいるかもしれないんだから」

 祥子さんは急ぎ足で出ていった。祥子さんがいなくなると、急に心細くなった。

「騒がしいな、どうした」 

 祥子さんと入れ替わりに白髪頭の男の人が入ってきた。私を一瞥すると、祥子さんに似た柔和な笑顔を向けてくれた。

「悟のお友達かね?」

 私がぎこちなく頷くと、満足そうに微笑んだ。

「悟は体が弱いけど、仲良くしてやってな」  

「あの・・」白髪の人の後ろから、顔色の悪い男が現れた。「私はそろそろ」

「あ、藤井さん、大丈夫ですから、二階でお待ちください」

「そうですよ」伸代さんが言う。「今、出ていかない方がいいです」

 白髪の人も、頷く。

「そうですか、それではそうさせて頂きます」

 藤井という男は陰気な声で言うと出ていった。その前に気のせいか、じっと伸代さんを見ていた。子供ながらに、厭らしい目つきに見えた。

 廊下から荒い息遣いが聞こえたと思ったら、勢いよく祥子さんが戻ってきた。

「いないよ、いない。木之下君がいない」

 祥子の顔は幽鬼のように蒼白で、目が充血していた。

「悟は?」

 伸代さんの声も揺れている。

「悟はいたよ。横になってた」

「よかった」

「よくないよ」祥子さんが大きな声を出した。「悟の友達がいないのよ。どこ探しても」

「木之下くんも来ていたのか。そうかそうか。納戸は見たか? どこかで隠れんぼでもしてるんじゃないか?」白髪の人はそう言い、「どれ、私も探そう」と居間を出ていった。

「この家で探検でもしてるんじゃないの?」

 伸代さんも、不自然にのんびりとした口調で言う。

「姉さんも探して」

 祥子さんはぴしゃりと言うと、伸代さんを連行していく。そして私を一瞥すると、

「君はここにいて。いい? 動いちゃ駄目だからね」

 恐ろしい形相で言った。

 また一人取り残されてしまった。

 だだっ広い居間は少し暗かった。お香とイグサの匂いがする。私は異世界へ迷い込んだような違和感を覚えつつも、おとなしく待った。漆黒の机の、美しい木目をなぞってみたり、一輪挿しに活けてあるコムラサキの見事な紫の実に見入ったり、精緻な透かし彫りの欄間を見上げていたりしていたが、居心地は悪かった。居間に入った時から、誰かに見られているような感覚がずっと続いていたから。

 不意に強烈な視線を感じ、振り返ると、鴨居に白い仮面が掛けられていた。無表情に私を見下ろしている。虚ろな目。何か物言いたそうな顔をしていた。

 早く帰りたい。

 修一はもう家に帰っているんじゃないかと思いはじめていた。

 私をからかっているんだと思っていた。それなら自分も早く帰りたい。こんな薄気味悪いところに一人残すなんて、修一やここの人たちは何て意地悪なんだ、と本気で思った。

 お尻を浮かしかけた時。突然、けたたましいチャイムの音が鳴った。

 

「いやあ、大変なことになりましてねえ」

 玄関の方で大きな声が聞こえる。急に騒々しくなり、日常が戻ってきたようで気分がちょっと落ち着いた。

「こっちも大変なんですよ。子供がいなくなるし、不審者もいるんですから」

 祥子さんの声だ。

「なんかの悪戯じゃないんですか?」

「悪戯ではありません。それにまだ、いるんですよ賊が。この庭に。閉じ込めたんですから」

「確かにお宅は要塞みたいですからね。そういえば番号錠もつけたんですね」

「最近、悪戯が多いから昨日取り付けたんです。自衛しないといけないですからね」

 最後の言葉には皮肉が隠されているような気がした。

「しかしね、一回入ったら出られない訳ですから、不審者が変な気を起こすかもしれないですよ。逆上して家の中へ入られたり、色々と危険が・・」

「そうなっても、駐在さんがすぐに飛んで来ていただければ、いいじゃないですか。袋の鼠になった賊を捕まえるだけなんだし」

「そう簡単にいいましてもねえ」

「頼りにしていますよ」

「はあ」頭を掻きながら駐在さんが居間へ入ってきた。私を見つけるなり、目を丸くした。「あれ? 君はたしか・・野平さんのところの」

「はい。野平真です」

「そうか、君はここの子と同級生だったね。そうかそうか。よかったよかった」

 色白の若い駐在さんは頼りない笑顔を浮かべている。何がよかったのか、分からないが、小さな集落の駐在さんは大体のことは知っているし、こっちだって駐在さんがまだ独身なのも知っている。

「それで、みんな無事なんですね?」

 駐在さんは襟を正しながら言う。

「はい。祖母も悟も、家の者は大丈夫です」祥子さんが張りのある声で言った。

「賊が家の中に入り込んだ形跡は?」

「いいえ」

「そうですか、ところで急でなんですが、悟くんに会わせてもらえないでしょうか」

「何故です?」

 伸代さんが怪訝そうな声で尋ねる。

「一応、無事を確認したいんです。野平くんも確認できたことだし」駐在さんは私の方へ目をやった。「君もすぐに家へ電話しなさい。ご家族は心配されてると思う」

「一体、どういうことなんです?」

 白髪の人の声が大きくなった。

「今さっき、事故があったようなのです」

 駐在さんの顔が引き締まった。「西ノ川渓谷の下流で、子供が流されているという通報がありましてね」

「子供が?」

 場の空気が一瞬変わった。

「まことくん」祥子さんが怖い顔で受話器を掴んでいる。「すぐにおうちへ電話して」

「う、うん。あ、はい」

 電話するとすぐに母親が出た。その声は少し上擦っていた。困惑している私に代わって駐在さんが何やら話し、やがて電話を切った。

 事故の一報を受け取った駐在さんは、集落の子供がいる全世帯に電話確認したらしい。

「宮代さんは通報があったので、私が確認に来ました」

「そうですか。そういうことでしたら悟を呼んできます」

 伸代さんはそう言うと、すぐに悟を連れてきた。

 久しぶりに見る同級生だった。

 悟は白いパジャマを着ていた。腫れぼったい目は充血している。悟は私を見ているが、どこかおかしい。宙に浮いた飛行船を見るような目でこちらを見ていた。

「それで、その事故とは何なんです?」

 祥子さんが勢い込んで聞いた。

「ちょうどお宅から通報があった時間です。だから、そうですね、三十分位前ですから、三時四十分くらいですね。渓谷で渓流釣りをしている人が、駐在に飛び込んできたんですよ。この辺は公衆電話がありませんからね」

「西ノ川の下流というと・・まさか」

 白髪の人が呟く。

「その釣り人は(仏岩)の近くにいたらしいんですよ」

「やはり(仏岩)か・・、ここから一キロ以上ある」

 白髪の人が顔を歪めた。

「仏岩の窪みに打ち上げられていたようです」

「川の真ん中に根をおろしているからね、あの岩は。昔から水死体がよく上がる場所だ」

 西ノ川の象徴。仏岩。絶対に近づいてはいけない、と親に言われている場所だ。

「それで、その子は保護されたの?」

 祥子さんが心配そうに声を震わせた。

 私の体中に嫌な予感がどす黒く渦巻いていた。口にすることも憚られる、不吉で恐ろしいこと。口に出せば現実になってしまいそうなこと。

「保護しましたが、すでに息はありませんでした」

「可哀想に・・」

 伸代さんが吐息も漏らす。

「あ、あの・・・」祥子さんが怖々とした感じで口を開いた。「その・・その子の身元はわかったんですか?」

「いえ、まだです。下流の霜池村付近で引き上げられたので。わかっているのは、男の子ということだけです」

 男の子・・・。どきんと心臓が高鳴る。

「あとは? その子の特徴とか、色々あるでしょ」

 祥子さんが前のめりになった。

「小学校低学年か中学年くらいで、えーとですね」駐在さんはメモ帳を取り出した。「着衣は、青いフードの付いた上着と、茶色のズボンを着用」

 はっ、と息を?む音がした。自分が漏らした音かもしれない。祥子さんと目が合った。

 青のパーカー。茶色のズボン。そんな馬鹿なことがあるだろうか。ついさっきまで元気な顔をしていた修一。信じないし、信じられない。

「駐在さん」祥子さんが金属的な声で言った。「すぐに木之下くんのお宅に電話して。こんなところでお茶を濁してないで、早く身元を確認してきてよ」

「どうしたんですか、急に」駐在さんの眼が見開いた。「木之下くんの家なら先程電話しましたよ。留守でしたがね。まさか木之下修一くんがその流された子だって言うんですか?」

「わからないけど、その可能性があるんです」

 祥子さんに気圧されたのか、駐在さんは腰を浮かしかける。

「しかし、まだこの庭に不審者がいるんでしょ。ここは巨大な密室になっているんですよ。木之下君だってここから抜け出せない筈だ。だから、大丈夫ですよ」

「それはそうだけど」

「わかりました。今から木之下さんのところへ電話します。それから庭を捜索して、現地へ向かいましょう」

 駐在さんが頼もしくみえた。祥子さんは充血した瞳で、「お願いします」と言って、深く頭を下げた。

 駐在さんは木之下家に電話を掛けたが、まだ留守だったらしく、すぐに庭の捜索を始めた。膝の悪いお婆さんも出てきたが、病弱の悟と家の中で待機してもらうことにしたようだ。藤井という陰気そうな男も出てきた。この男の人は何をする人なのだろう。白髪の人と同じくらいにも見える。この人の伸江さんを見る厭らしい目つきが気になった。

 皆でぞろぞろと、物音がしたところまでやってきた。巨大な石が影をおとしている。

「不審な影を見たのはこの辺りですね?」

 駐在さんがツツジの植え込みを指差す。紅い実が潰れた跡が生々しい。池の水面が陽を反射してきらきらと光っていた。

「確かに、誰かがいたようですね」

「絶対に出られっこないんだから、どこかに潜んでると思う」

 祥子さんが言う。「充分気をつけないと・・・」

「それではここからは私一人で行きます。危険があるかもしれないので、皆さんはおうちで待機してください」

「いやです。わたしも行きます」祥子さんが凄い剣幕で言った。「自分の身は自分で守れます」

「さっちゃんは合気道の黒帯だから」

 伸江さんが誇らしげに言った。

「それに、私がいた方が庭の隅々まで案内できます」

「はあ、わかりました。まあ、さっちゃんは僕より強いもんね」駐在さんがくだけた口調になって言った。「だけど、くれぐれも僕の側を離れないでください」

「はい」

「それでは、皆さんは中に入っていてください」

「あ、あの、木之下くんを・・」思わず発した私の声は震えていた。「修ちゃんを見つけて」

 駐在さんと祥子さんは、力強く頷いてくれた。


 一時間ほど経った頃、憔悴しきった顔の二人が戻ってきた。

「どうだった?」

 伸江さんが勢い込んで聞く。駐在さんと祥子さんの二人は顔を見合わせて、残念そうにかぶりを振った。

「いなかったのかね?」白髪の人が言った。「しかしなあ、ここから、どうやって出たというのかね」

「ですから、さっちゃんにも言ったんですよ」駐在さんは困惑気味だ。「門が施錠されてなかったんじゃないかって」

「だから言ったでしょ。ちゃんと閉めたって。旧式の鍵と新しい番号錠よ。万全な筈だわ。それに、番号錠は一昨日取り付けたばかりだから、青江くんだって、番号は知らないはずよ。だから、出られっこないのよ。あ、まことちゃん」

 私に矛先が向けられた。

「私さあ、ちゃんと閉めてたよね? 見てたでしょ?」

 私はしっかりと頷いた。

「ほら」祥子さんは胸を張った。「駐在さんが来た時、ロックが解除された音がしてたでしょ?」

「はあ、まあ、そうなんですがね。だけど、それじゃあ、おかしいじゃないですか。賊や青江くんは一体どうやって抜け出したんです?」

「わからないわよ、そんなこと。だけど、どこにもいなかったんだから」

「奥の観音堂は見たかい?」

 白髪の人が口を挿んだ。

「崖をくり抜いたお堂ね。もちろん見たわよ。誰もいなかったし、いた形跡もなかった。蔵は閉まっていたし、駐在さんに上がって見てもらったけど、猫すらいなかった。茶室も、軒下だって見たよ。だけど、どこもかしこも埃が溜まってた」

「母家の屋上にも上がりました。もしかすると、防風林として植わっている南側の外のシラカシに細工をして塀を越したのかもしれませんね。ちょっと無理があるかもしれませんが」

「そうだねえ、無理があるかもな」白髪の人が言った。「よしんば、塀沿いに植わっているシラカシにロープを渡して、ターザンのように滑車を使って外へ出たとしても、無理があるな」

「え? その方法いいじゃないですか」

 駐在さんが色めき立つ。

「残念ながら、今日はずっと二階にいたんだよ、藤井さんと私が。骨董の話で盛り上がっていてね。天気もよかったし窓も開けていたから、そんな小細工してたら、私がすぐに気づく筈だよ。どうだね、藤井さん、何か気づいたかね?」

「いえ、私も何も気づきませんでしたな」

 藤井という人が低い声で言った。そして、またちらりと伸江さんを見た。

「そうですか、宮代さんたちが証人なら間違いないですね」駐在さんは一人で納得顔だ。首から下げた双眼鏡を掴み、「まあ、崖の上の有刺鉄線も異常なかったし、塀に巡らせた頑丈な有刺鉄線も異常なかったんです。あの鉄条網のような鉄線を乗り越えるには、壊すか何かしないかぎり無理ですからね」

「と、いうことは、どういうこと?」

 伸江さんは顔を曇らせた。

「まだここにいるってことじゃない?」

 祥子さんが怖い声で言う。

「しかしねえ、全部見て回ったじゃないですか」

「逃げ回ってるかも。いたちごっこみたいに」

「それもないな」白髪の人が力を込める。「君たちが探している間中、私らが二階と一階で監視してたからね。君らの滑稽な姿は見えたが、怪しげな人物は誰も見ていないんだよ。それを最初に言えばよかったかな」

 そう言うと、穏やかな笑みを浮かべた。私も縁側で目を皿のようにしていた。前のめりになってうろうろする駐在さんと祥子さんの姿は何度か見たが、それ以外は誰も見なかった。

「池の西側は調べたかい?」

 白髪の人が問う。

「大きな石が衝立みたいになっているところでしょ」

「そうだ」

「もちろん。私が調べた。異常はなかったよ。それに気配ってあると思うのよ」祥子さんが駐在さんに向けて言う。「でも人の気配は全くしなかったよね」

「うん。誰かがいる気配はなかったですね」

「ねえ」伸江さんが素っ頓狂な声を出した。「さっちゃんさあ、木之下くんが来たときさ、玄関の鍵閉めた?」

「え? あ、多分、閉めてない」

「いつから閉めてないの?」

「んんと・・、いつだったっけ。えーとねえ」栗色の髪がくしゃくしゃになった。「あああ、まずい。閉めた覚えがないよ」

 一瞬しんとなった。居間にいた皆が顔を見合わせた。

「と、いうことは・・」伸代さんの声が震えている。「家の中にいるかもしれないってこと?」

 誰かの息を?む音が聞こえた。突然、祥子さんが立ち上がった。

「悟、お婆ちゃん」

 祥子さんが絶叫しながら飛び出した。

「ちょっと、一人にならない方がいい」

 駐在さんが慌てて後を追った。

 私の目には、すべてが絵空事のように見え、現実味がまったくなかった。


 宮代家の家族が居間に全員集まった。いや、悟のお父さんがいない。役場勤めをしているらしい。だから、ここにいるのは、

 白髪のおじさん。膝の悪いお婆さん。伸代さん。祥子さん。悟。藤井という人。あとは、駐在さんと私。一応皆無事だ。本当は修一がいる筈だった。彼はどこへ行ってしまったのだろう。まさか、川を流れていたという子供は、やっぱり修一なの?

 そんな筈はない。

 だって、修一は、悟と会って、ん? 会って、それからどうしたんだろう?

「ねえ」考えの答えが出ないうちに言っていた。「悟くん」

 悟はびっくりした顔をした。私は構わず続ける。

「修ちゃんと会ったんだよね。ノートはもらった?」

 悟は無言で頷く。

「その後、修ちゃんはどこに行った?」

「帰った」

 初めて声を聞いたかもしれない。覇気のない掠れた声。大人たちは黙って私たち二人を見守っていたが、やがて、

「木之下くんが帰るところを誰か見ませんでしたか?」

 駐在さんが皆を見渡しながら言った。皆、弱々しくかぶりを振った。

「悟くんの部屋はちゃんと探しましたか?」

 駐在さんがやんわりと聞く。

「その必要があります?」

 伸代さんが険のある声で言った。

「ありますね」駐在さんが真剣な眼差しで言った。「木之下くんは出てこられなくなっているのかもしれない」

「どういうことかな?」

 白髪の人が静かな口調で言う。

「こういうことって、経験があると思うんですが・・・」駐在さんが宙を見つめる。「子供の遊びでかくれんぼなどをやっている最中に、わざといなくなって心配させるんですよ、大人たちを困らせて、からかってやろうとしたんじゃないですか? 皆さんが賊だと思っていたものも、全部木之下君の悪戯だと考えれば、納得がいく」

「なるほどね」白髪の人が微笑む。「それがこんなに大ごとになってしまい、出るに出られなくなってしまったって訳だね」

 皆の視線が何となく悟の方へ向いた。

「どうなの? 悟」

 伸江さんが悟の方を見た。

「僕知らないよ」

 悟は肩を竦める。

「まあ、いいさ、子供の遊びなら一向に構わない」白髪の人が言う。「バツが悪くて出られないのなら、探しだしてあげようじゃないか。なあ、祥子」

 祥子さんは、いきなり振られてびっくりしたような顔をしたが、神妙に頷いた。


 そう、あの時、皆で行列を作り、家の中を捜し歩いた。

 宮代家は広く、薄暗かった。一階の間取りは大体、十部屋。使われていない部屋が殆どだった。南側には和室があり、そこは足の悪いお婆さんの部屋になっていた。西側は悟と祥子さんの部屋がある。東側には、悟のお父さんの書斎と、北側寄りにお風呂などがあった。すべての部屋をくまなく見て回ったが、一階に修一の姿はなかった。隠し扉や、隠し部屋、隠し棚等のカラクリも無いそうで、二年前に大改装した時、そういうものがないか、全部調べたらしい。

 二階へは白髪の人と祥子さんが案内してくれた。私はこっそりついていった。

「やあ、これはすごい数の骨董ですなあ」

 駐在さんが感嘆の声をあげた。三十畳はある和室には、ところ狭しと壺やら掛軸やら、木の箱やらが整然と陳列されていた。まるで美術館の倉庫のようだった。あとは六畳ほどの書斎と、浴室、便所、小さな台所が備えられているだけだった。

 しかし、ここにも木之下修一の姿は、どこにもなかったのだ。


 数時間後、川を流れていた死体が、木之下修一のものだと断定された。要塞のように閉ざされた空間から忽然と消え、死体となって川に浮かんでいたのだ。

 事件はそれだけでは終わらなかった。

 木之下修一の死から一週間後、八王子市に住む骨董商の藤井徳次(69)が仏岩に打ち上げられているのを、釣りにきていた近所の若者が発見した。すでに死後三日が経っており、目立った外傷などがないことから、自殺か事故の両面で捜査された。が、亡くなる前日に思いつめた顔をして西ノ川渓谷に架かる神池橋に佇む藤井の姿が目撃されていた。骨董店の経営が芳しくないと知人にもらしていたこともあって、経営難による自殺と判断された。

 さらにその翌日、村に一人しかいない植木屋、池端保(74)が作業中、黒松の木から転落し、死亡するという不幸な事故も起こった。

 時期を同じくして人の死が頻発した。これは「隠し神様」の呪いだと騒ぎたてる者も出て、村は一時騒然となった。この騒ぎを鎮静するために、善保寺で大々的な麻縄供養が行われた。檀家が一軒一軒麻縄を持ちより「縛られ地蔵尊」に奉納するのである。地蔵堂には溢れんばかりの麻縄が納められ、村の不幸は鎮静化するものと思われた。



 二十五年も経ってしまったのか・・・。

 広々とした宮代邸の庭を眺めていると、駐在の佐々木は、感慨に耽ってしまった。

 彼も今年で四十七歳になる。一人息子は二十歳になると早々に村を出ていき、妻と年老いた父母との静かな生活は幸せではあったが、流れ去った月日を思うと、深い溜息が漏れてしまう。

 今日、旧宮代邸公園がオープンする。市長や市議会議員になった宮代悟も訪れるらしい。

 佐々木は開園式典の二時間前に着き、現地を視察していた。

 庭はあの時と大きく変わっていた。

 清冽な水を湛えた池が無くなっている。池は埋められ、枯山水様式の庭に生まれ変わっていた。白い砂を敷き、石を配置し、松などが植わっている。一幅の絵画のような庭だ。

 随分と人工的な庭になってしまった・・・

 以前の、しっとりとした水の庭を思い出す。水面に木漏れ日が反射していたのが美しかった。一人の少年が姿を消したのも、この邸内だ。

 あの事件は不可思議だけを残し、終結した。そのことに強い違和感があったが、一介の駐在が意見を言える訳もない。

 宮代家の狂言。

 佐々木は何度もこの可能性を疑った。しかし、第三者である野平真という小学生を懐柔できただろうか。あの少年の事件に対する反応は自然だった。演技とは思えない。

 それでは、どうやったのだろうか。

 脳裏に浮かぶのは、水路だ。

 この辺りは、神池川の氾濫を防ぐために、昔から石張りの放水路が幾つも設けられている。その水はすべて西ノ川へ流れる仕組みになっていた。宮代家の近くにも、もちろん水路がある。

 しかし、宮代邸の近くに流れる水路は、あの巨大な門の前を流れている。門は祥子曰く、しっかりと施錠されていた。さらに周りには四メートル強の塀が聳え立っている。小さな子供が抜け出すには無理がある。かりに、施錠されてなかったとしても、門前五十メートルのところには、その日、一日中農作業をしている夫婦がいた。その二人の証言によると、不審な車や、人の出入りはなかった。木之下修一がいなくなった時間は三時半頃。この夫婦はちょうどその時間、門前の林で椎茸の収穫に勤しんでいた。彼らは四時半頃までその場を動かなかったという。この日は各所でそのような光景があった。

 二重の密室。抜け出すのは不可能だ。

 ふと、三十七年前の「神池村の神隠し事件」を思い出した。二つの事件は状況が酷似しているからだ。当時、駐在だった佐々木の父は、池の中へ入って消えた犯人を捜した一人だった。100㎡規模の池に、三機の水中ポンプを沈め、池の水をすべて汲みあげたが、怪しい箇所は何も見つからなかった。捜査に従事した父はそんなことを言っていた。

 宮代邸の裏には崖をくり抜いた横穴がある。観音堂だ。学生の頃、佐々木は最も怪しい場所だと思っていた。外へ通ずる抜け穴などが存在していなかったか、人が隠れるスペースはなかったのか、などと、現役だった父に詰問したことがあるのだが、父は笑って首を横に振った。 

 それでは、あの事件は一体何だったのだろう。

 狂言だとすれば、ふと浮かんだ可能性がある。大学生の長男、宮代明憲の犯行だ。彼が小遣いほしさに、一人で計画したとしたらどうだろうか。仲間に妹を襲わせ、犯行直前に頃合いを見計らって金庫を隠しておく。駐在を呼びに走った際に、どさくさに紛れ金庫を隠したのかもしれない。これは長男に限らず、使用人や姉の伸代にも当て嵌まる。誰でも犯行可能なのである。だが、これには実行犯が、あの要塞から脱出することが大前提だ。

 一体どうやって抜け出したのか。宮代基の監視の目をくぐり抜け、四メートルの塀を乗り越え、村民に怪しまれず逃げることなど、どうやって出来たのだろうか。

 そもそも、三十七年前の事件と、二十五年前の事件は何か関係があるのだろうか。村の神隠し伝説などは信じないが、不可解な事件が起こると否応なしに思い浮かべてしまう。

 不意に山から吹き下りてくる土の匂いや花粉を含んだ風が、佐々木を目覚めさせた。

 記念式典にはお誂え向きの晴天である。紅白のテントが揺れていた。

「あら、駐在さん」

 突然、声を掛けられた。振り返ると、そこには宮代祥子の笑顔があった

「おお、さっちゃん。さっちゃんも早いね」

「だって、宮代家一世一代の式典だもの。家でじっとなんてしてられないよ」

「素晴らしい式典になりそうじゃないですか。しかし、悟くんは立派になられましたね」

「お陰さまで。あの子が働きかけてくれたお陰で、きれいな状態で残ることになりました」

「旧宮代邸保存会だね。基さんが亡くなって、さっちゃんも色々大変でしたね」

「ええ、相続税なんて、国の搾取そのものよ」

「でも、取り壊されなくてよかった。ああいう歴史的なものは残さないといけない」

「そう言ってもらえると嬉しい」

 口元を綻ばせ、柔らかい笑みを浮かべた。

 宮代祥子は今も若々しく魅力的だが、独身を通していた。三十七年前の人質事件の影響が、男性を寄せ付けないのだ。事件当時十歳だった彼女の傷ついた心は、三十七年経っても、まだ澱のように残っているのかもしれない。

「家の中も入ってみてください。中は昔のままですが記念館みたいにしたんですよ。昔の写真なんかも展示しています」

「ほう。じゃあ、さっちゃんの作品も置いてあるのかな?」

 祥子は目尻を照れ臭そうに下げた。

「ええ。愚作ですけどね」

 祥子は村のはずれにある善保寺の隣に、住居兼アトリエをもっている。彼女は村の伝統工芸品である竹工芸の職人だった。

 竹工芸は縄文時代にすでに存在していたといわれ、中世の茶の湯の流行とともに独特の作風を示していた。近代以降は、高い芸術性をめざす作家が多く現れた。彼女もその一人で、繊細な作風が評判を得ていた。ついこの間も日本の美を追及した季刊誌「月光」に、作品が紹介されたばかりだった。

 佐々木も村の伝統工芸には少しばかり興味があった。というより、祥子の作品に興味がある。個展があれば毎回足を運んでいた。

「月光拝見しましたよ。あの竹籠は綺麗でした」

「双重亀甲編堤梁花籠ですね。ありがとうございます。あの作品も一応展示してるんです」

「それはいい。それじゃあ、早速見に行きましょう」

 連れだって、旧宮代家の母家へ向かう。昔のままの石畳の道、家屋も威厳ある風格を当時のまま残していた。

 玄関に入ろうとした時だ。場違いに凛とした女性が出てきた。危うく見惚れてしまいそうだったが、何となく目礼して、三和土に足を踏み入れる。

「あの・・」

 背後から恐ろしく嗄れた声が聞こえた。振り返えると、先程の凛とした女性が、こちらの顔色を窺うように見つめていた。佐々木と祥子は、思わず顔を見合わせた。彼女は、「この美人あなたの知り合い?」というような顔をし、佐々木は「とんでもない」と、かぶりを振った。

「宮代さんですよね? 竹籠作家の宮代祥子さん」

 女性はその容姿と相反する渋い声で聞いてきた。

「はい」祥子は、よそいきの声を出して頷いた。「そうですが・・」

「私、月光の記者をやっています、森といいます。宮代さんの作品は編集を手伝った時に拝見しまして、素敵だなあ、って思っていたんです。お会いできて嬉しいです」

「まあ、ありがとございます。月光の森さんって、もしかして、謎庭探訪の森小夜子さんですか?」

「はい。読んでくださっているんですか?」

「もちろんです。あの連載楽しみにしているんですよ」

 祥子がそう言うと、森小夜子は嬉しそうに笑った。音声機能が破損した白磁のサイボーグが、血の通った人間に戻ったような愛嬌があった。

 月光の謎庭探訪は、庭に潜む謎を庭園探偵こと森小夜子が独自の視点で解明していく人気エッセイだ。毎回魅力ある謎が提示され、推理小説を読んでいるような趣があった。佐々木も楽しみしている連載だった。それが、このような魅惑の女性が書いているとは、かなり意外だった。

「以前取材にきた同僚の井口という者が、ここの庭で起こった不可思議な事件の話をしてくれたので、見てみたくなりまして・・。その・・・調べてみたら古いお庭のようだったので居てもたってもいられなくなってしまって。宮代さんに当時のことをお聞きしたいのです。あの・・お話伺えますか?」

 端正な容姿と渋い声にも係わらず、恥ずかしそうに、もじもじとしている。

「もちろんいいですよ、なんなりと聞いてください」

 祥子が軽やかに言うと、彼女は愛嬌のある顔で笑い、形の良い口を開いた。

「なぜ、あの庭を改修したのですか?」

 嗄れた果てた声でそう言ったのだ。

 この浮世離れした女性が、三十七年前と二十五年前の二つの事件の真相を見抜くことになるのだが、今は、その端正な容姿の奥深くに隠されていた。

 

 神池村は時間が止まっている。どこもかしこも、あの時のままだった。バス停前の村役場、赤い屋根の小さな郵便局、いつも薄暗い農協、お酒も売っている篠田商店。鼻水を垂らした修一が、ひょっこり顔を出してくるような気がして、くらくらと眩暈がした。

 私は以前住んでいた場所を巡り、当時のことを思い出していた。溢れてくるのは、修一が消失して、死んでしまったことばかりだった。

 旧宮代邸へ向かう坂道を上る。神池川の清らかな流れを横目に、昔歩いた通学路をとぼとぼ歩く。途中、ツリバナが青々と繁っていた。懐かしい光景に目が細くなる。幼い顔のままの勝気な青江の顔がまた蘇る。西ノ川に架かる橋を渡った時から、もう時間は逆回転を始めていたのだ。修一の幻影が私に纏わりつき、何かを伝えたがっているようだった。

 懐旧の情を胸に、坂をようやく上がりきったところで、私は目を瞠った。

 宮代家があった場所だけが、あの時のままではなかったからだ。目の前には広々とした空間が広がっていた。丈高い塀も、城門のように厳めしい門も取り払われ、替わりに丈の低いドウダンツツジの生け垣が周わりを囲っていた。

 本当に公園になってしまったんだ・・。

 母が言った通りだ。母は集落を去った今も、ここの住人と交流が続いている。今回の宮代邸一般公開も母から聞いたものだった。いい機会だと思った。修一の墓参りも兼ねて、もう一度あの屋敷を目に焼き付けてみたいと思ったのだ。小振りだが立派な?葺門に『史跡名勝旧宮代邸公園』と書かれた額が飾られている。人影も多く、嬌声なども聞こえ、華やいだ雰囲気がした。入り口で公園の管理費という名目の微々たる料金(50円)を払い、中へ入るなり、また唖然とした。池が無くなっていたからだ。水の替わりに入れられた白い砂が、まるでゴルフ場のバンカーのように見えた。人工的で趣を廃した絵空事の世界が、一面に広がっていたのだ。案内板にはこう記されている。

 

 宮代家は、旧神池郷(神池村、霜池村)に広大な山野を所有し、林業の元締めとして「神池のお大尽」と称されていました。豪奢な母家や庭園は、江戸時代当時の面影を色濃く残しており、その風情を多くの方々に親しんでもらおうと、地域住民による寄附団体「旧宮代邸保存会」が市民の浄財により補修改修を施し、西ノ川市に寄贈しました。

 とくに屋敷の南側に広がる池泉回遊式庭園は、心字池を中心に、築山と茶室、露地を設け、多数の庭石を組み、多数の飛石を打ち、添景として石燈籠や井戸囲いをほどよく配しています。池の西側には総重量五トンのチャートとよばれる山石が据えられ、庭園の地割、手法はいわゆる京都風だといわれています。作庭年代は明らかではないですが、茶室の棟木に明和五年造立の墨書があり、また同年没した宮代家四代目延行は作庭を愛好したと伝えられているので、この頃の作と推察できます。

 一部(西側の池護岸部分)、大谷石の古材を利用した改修がみられるものの、江戸時代中期の庭園構成をよく保存されています。改修工事は当時の名匠小沼喜助氏が執られ、昭和四十年に竣工しました。

 神池のごとき僻地に、かのような庭園が造られたことは、文化の地方への浸透を意味し、日本庭園史にとって貴重な事柄だと思われます。

 平成二十六年四月、東京ガーデナー協会監修のもと、老朽化した池の改修工事を行い、以降様々な年中行事など、一般にご利用、開放しています。

                                               旧宮代邸保存会


 読み終わって、私は首を傾げてしまった。宮代家が由緒ある家柄なのはよく分かった。しかし、せっかく保存状態がよかった庭園に、わざわざ手を入れたことが疑問だった。池が涸れてしまったのだろうか。往時、池の底はゴロタ石が満遍なく贅沢に敷き詰められ、水面は美しく、清涼感があった。

 あれを潰すということは、余程のことがあったのだろう・・・。

 腑に落ちない思いを抱きながら、細部に計算つくされた石畳を歩く。新緑の木々が清々しく、池泉式というより、林泉庭園の趣に溢れている。残念なのは、やはり白砂の池だ。中途半端な枯山水は落ち着かない。先程から、青江の幻が見えなくなり、初めて来たような戸惑いを覚えた。

 ふと、ある人が見えた。すぐに記憶の逆回転が始まる。忘れもしない。駐在さんと、祥子さんだ。傍らには、田圃の畦道に、すくっと背を伸ばすヤマユリのように魅力的な女性がいた。三人は深刻な表情をして、東屋の方角に向かっている。

 私の足は自然と三人の後を追っていた。


 なぜ、あの庭を改修したのか?

 森小夜子はそう言った。流麗な眼差しの奥底には、神隠しの謎の答えが映っているのかもしれない。佐々木は大いなる期待を自覚し、心の中で苦笑した。

 推理小説を読み過ぎたのかもしれん・・・。

 そんな感慨とともに、白砂を眺めた。望池亭と名付けられていた東屋は、茶室の一部を移築し、開放していた。先客は居らず、静かに話ができる環境が整っていた。

「庭を改修した理由ですか?」

 祥子が宙を睨んで言った。森小夜子は静かに頷く。

「それは、老朽化が原因だと思いますよ。かねてから池の護岸の一部が崩れてきたりしていたので、維持するのが大変になったからですよ。池の中の清掃などもあります。維持費、管理費、手間が掛りますもの」

「なるほど」森はうんうんと頷いた。「枯山水にすれば、維持はしやすくなります。ですが、先程、母家で昔の写真などを見させてもらいましたが、とても素敵なお庭でした。ここのお庭は池がメインです。しかも、江戸時代の庭園の姿を残しています。護岸を修繕すれば、往年の姿を損なわないで済んだ筈です。その為の保存会だと思うのですが」

「そうよねえ。でも、後々のことを考えれば、潰してしまった方がいいと、姉が言いまして、確かにそうかもなあ、って思ったんですよね」

「お姉さまがそう言ったんですか?」

「ええ。あと、悟かしら」

「市議会議員の宮代悟さんですね?」

「そうです。よく御存知で、あれ?」祥子の視線が上へ向いた。佐々木も釣られるように振り返った。「もしかして、野平くん? 野平真くん?」

 祥子が目を丸くして、なかば叫ぶように言った。

 新緑に輝くモミジの木陰に、三十代前半とおぼしき青年が佇んでいた。

「憶えてらっしゃるんですか、僕のことを・・」 

 僅かに上気した顔で、照れ臭そうに喋る姿に見覚えがあった。水色のシャツが似合う青年だった。野平真。忘れもしない名前だ。二十五年前、少年だった子は、あの頃の面影をほんの少しだけ纏い、立派に成長していた。

「もちろんよ」祥子が破顔する。「まことちゃん、大きくなったのね。見違えた」

 佐々木も懐かしさが込み上げてきた。

「はい。皆さんお変わりなく」野平真は眩しそうに目を細めて言った。「またお会いできて嬉しいです」

「私もよ」

 祥子はそう言うと、佐々木を一瞥した。佐々木も大きく頷いた。

 思わぬ再会に驚きを隠せなかったが、森小夜子を蚊帳の外にすることはできない。すぐに彼女を紹介した。

 野平真は如才なく自己紹介をした。彼は八王子で書店員の仕事をしているらしい。

「あの・・・。さっき、お話が耳に入って・・・」文学青年らしい思慮深い目に力が入った。「その・・、僕も交ぜてもらえないでしょうか」

「あなたも、当事者の一人ですものね。そうね、木之下修一君を悼み、あの時の話をしましょう。どうぞ、座って」

 祥子は真摯な眼差しで優しく言った。

 野平真は座に加わると、感情の堰が切れたかのように、滔々とあの頃の話を始めた。

「あまりにも不可解な状況だったので、今まで誰にも話していないんです」

 彼はそう言った。その気持ちは分かる。佐々木ですらも、木之下修一はあの現場にいなかったのではないかと、狂言の可能性を疑っていたからだ。その考えは今も頭の片隅にこびりついている。だが、情熱的に語る野平真を見ていると、彼が嘘の片棒を担いでいたとは、どうしても思えなかった。いつの間に、佐々木と祥子も話に加わっていた。森小夜子は難しい顔で、耳を傾けている。野平が一息ついた時、

「野平さん、ちょっと、いいですか」

 森小夜子が控えめに声を出した。喉元を撫でまわし、何事か思案しているようであった。

「何でしょう」

「木之下君はゲーム機を持っていなかったのに、ソフトだけは持っていたのですよね?」

「ええ、そうです。お小遣いをやりくりして、せっせと集めてました」

「ソフトを買うお金はあったのに、ゲーム機本体がなかったのは、ちょっとおかしくはありませんか?」

「いえ、僕はそうは思いません・・・。ゲーム機本体は僕が持っていたし、わざわざ買う必要はなかったんです。いつもうちで遊んでましたから。子供も少なかったので、同学年は僕と修一、宮代の三人だけでしたしね。あとは、低学年の子でしたから・・・」

「仲が良かった訳ですね」

「はい。僕は引っ込み思案な子でしたけどね」

「しかし・・、宮代悟氏とはあまり交流がなかった?」

「彼は病弱で、学校を休みがちだったもので」

「悟は喘息持ちだったのよ」祥子が口をはさむ。「小学生の時までね。今は健康になりました。だけど子供のころは弱かったわね。木之下君だけが、悟の面倒をよく見てくれました」

「そうでしたね。よくノートを届けていたりしてましたもんね」

 野平は懐かしむように顔を綻ばせた。一方、森小夜子は目を瞑り、喉元をまるで仕事のように擦っていたが、やがて目を見開いた。

「皆さんのお話を聞いて、二つの神隠し事件の真相が解ったような気がします。踏み込んで言えば、この二つの事件は微妙に繋がっています」

 小鳥の囀りと、新緑を抜ける風が鼻先を掠め、一瞬ぼんやりとしたが、佐々木を含め、残された三人は、一斉に驚愕の顔をし、同じく先を促したのだった。


「この二つの事件は神隠しとか言われていますが、極めて、泥臭い事件です」

 森小夜子が嗄れた声を出す。もう喉元を擦っていない。佐々木は固唾を飲んだ。

「まず、お庭を改修したことが引っ掛かりました。江戸時代の面影を評価されたにも関わらず、池を埋めてしまったことは、やはり疑問でした」

「しかし、それは、管理云々のことがあって・・」

 祥子が口をはさんだ。

「お姉さんの伸代と悟さんが進言したんですよね」

「そうですが。それが何か問題でも?」

「あんな立派な池を埋めたんです。何か隠したいものでもあったんじゃないかと、そんなことを思いました。事件の核となる部分を、隠したかったんじゃないでしょうか」

「それは、一体・・」

「問題は池の西側にあります」

「護岸を改修したところね?」

「はい」森小夜子は祥子を見つめる。「泥臭い事件の核心部分ですね。すべてはこの庭の構造にあります。そして、大谷石という、庭石、とくに景石にはあまり扱われない石を使ったことが、引っ掛かりました」

「あなたは何を仰りたいの?」

 祥子が困惑気味に問う。佐々木も首を傾げる。この魅惑の女性は、何が言いたいのか、皆目見当がつかないのだ。

「もしかすると・・」野平真が眉間に皺を寄せて呟いた。「池の水抜きに係わることでしょうか」

「その通りです」森小夜子は一層しわがれた声で言う。「ここの池は水底をさらう時、水中ポンプで水を汲み上げていましたよね」

「ええ」祥子が頷いた。「うちはそのやり方です。水中ポンプで、門前に流れる水路に排出していました」

「それでは、江戸時代はどうしていたのでしょうか。池の底はゴロタ石が敷き詰められていますから、透明な水で池の底を見せる演出が施されています。ここのお庭は明和五年に造られたものですよね。じゃあ、当時は一体どうやって池の清掃をしたのでしょうか」

「ああ・・そうか。分かった、あなたの言いたいことが」野平真の目が見開いた。「水を抜くための排水溝が存在していたという訳ですね」

「はい。神池村は水路を造る技術が発達しています。先程見て回りましたが、長野県の薬師沢石張水路群にも匹敵するものだと思いました。ということは、暗渠を造る技術も相当のものがあった筈です。ここのお庭の池の底には、立派な暗渠が存在していたのです」

「抜け穴が、存在していた・・?」佐々木は呟いた。長年騙されていたような気さえした。「しかしね、当時、警察は徹底して捜索したのに排水溝は見つからなかったんですよ」

「捜索の盲点になったのは、お庭の構造です」森小夜子は涼しい顔を崩さない。「ここの池の面積は大体100㎡ありますね。その大量な水を抜くには、一度堰止めて、溜め池のようなところに水を溜めておかなければいけません。所謂、二重構造にしないといけない訳です。宮代邸では、西側の石橋の奥がその場所です。ここのお庭の個性的なところは、その溜め池を母家から隠すように巨石を衝立代わりにしたところです。更にその後ろにも二石を据え、一組の石組に見立てたんです。ようは、溜め池部分を見せなくしたんです。そういう庭の意匠だったんですね。排水溝は護岸が崩れて、一時機能しなくなった訳ですが、そこを何故か、大谷石の古材を利用して改修したんですよね。石畳のようにして蓋をしたのですが、使われた石が大谷石だったことが、泥臭い犯行を可能にさせたんです」

 森小夜子が言うには、大谷石とは石質が柔らかく、加工がしやすい凝灰岩で、主に建築石材に用いられる。耐火性にすぐれ、重量が軽いというのも特徴であるらしい。

「まさか、石畳のように敷かれた下に排水溝が口を開けていたとは思いもよらなかったのでしょうね」彼女は口笛でも吹くように言う「犯人は大谷石の性質を知りつくした人物であり、家に手提げ金庫があるのを知っていた人物、そして小柄な人物、宮代邸に出入りしていた人物ということになります」

「そんな人は一人しかいない。植木屋の池端さんね」祥子の目が鈍く光った。「でも、私に接触した犯人は甘い香りがしたんです。女性のような」

 祥子が追憶の眼差しで言う。森小夜子は少し微笑むと、トートバッグからジップアップのビニール袋を取り出して、祥子に渡した。

「開けてみてください」

 森小夜子に促されて、祥子はビニールを開けた。その瞬間、顔が歪んだ。

「これは・・・」泣きだしそうな顔を懸命に抑え込んでいる。

「ここに来る前に池端氏の家に行ってみたんです。元村長さんのブログを読んだり、当時の記事を通読すると、犯人は彼以外にありえないと思ったので、役場で住所を聞きました」

「もう誰も住んでいない筈だ。あそこは廃屋ですよ」佐々木は体を乗り出した。

「ええ、その通りでした。でもまだ黒松はありましたし、隣には立派な泰山木が植わっていました。ちょうど花の時期でしたので、落ちていた花を拾ってきたんです。宮代さんに会ったら確認してもらおうと思いまして・・」

「この匂いに間違いない。忘れもしない。甘くて、なんか、レモンみたいな少し鼻に抜けるような甘い匂い」祥子は宙を見上げた。「そう・・。彼が犯人だったの・・・」

「池端氏は自宅の松の手入れをしていた時に、その花の木に触れて、上着についてしまったのでしょう。折からの雨も匂いを強くする要因になった訳です。女性だと思われてもおかしくありません。泰山木の花は柑橘に似た甘い芳香に特徴がありますから。マグノリアと呼ばれ、香水の原料に使われるほどです」森小夜子は一息つくと、声を落とした。「三十七年前の事件は、お金目当ての犯罪だったと思います。大谷石の石畳を少しずらし、小柄な体を暗渠に滑り込ませると、暗渠の中から軽い大谷石を持ち上げて元に戻した訳です。暗渠の中は、急激な水流の負荷を避ける為に、なだらかな斜面になっていたと考えられますから、中から大谷石で塞ぐ位充分に細工可能だった筈です。捜索する側は、石は重いという先入観と、石畳という形状がそれを助けたでしょうね」

「たった、それだけ・・。たったそれだけのことで、神隠しなんて大袈裟なことになってしまったの?」祥子がかぶりを振る。「じゃあ、木之下君の事件は・・・」

「野平さんのお話によれば、木之下君のおうちは生活が苦しかったのですよね? 彼はゲーム機も無かった訳ですから。お小遣いを貯めていたと言いますが、そんな余裕は無かったと思います。当時水害でそれどころではなかったんですから。それなのにソフトだけはたくさん持っていた。病弱な悟さんの面倒を見ていた唯一の人物でもある。そして、悟さんは小学校を卒業すると、病気が治ってしまった。それらを総括して考えると、悟さんは木之下君に恐喝されていたのではないかという疑惑が生じてきます。おうちに物が投げ込まれるという嫌がらせや、お金、ゲームソフトを取り上げるということを、面倒を見るという名目で常日頃していたのではないでしょうか。悟さんの病気は一種のストレスだったのでは? 現に小学校を卒業してからは元気になられたんですよね?」

「あなたは・・・」祥子の声が震えていた。「悟が木之下君を殺したとでも言いたいの?」

「彼が殺したかどうかは分かりません。何者かが木之下君を裏庭に呼び出し、危害を加えたのでしょう。あの時、伸代さんも石橋を渡って来たんですよね。彼女は何故そんなところにいたのか。しきりに手を擦っていたのは何故なのか。彼女と悟くん、お婆さんにはアリバイはありません。しかし、足の悪いお婆さんには一連の犯行は不可能だったでしょう。そこで私は一つの仮説を立ててみました。母親である伸代さんは、悟氏の犯行を目撃してしまったのではないでしょうか。それとも、息子を脅かす輩を自ら排除しようとしたのか。分かりませんが、ぐったりとした木之下君をそのままにしておけなかった。とにかくどこかへ隠そうと思った。咄嗟に思い浮かんだのが衝立のように聳える巨石です。三方の石組の中に一時的に隠そうとした。その下は大谷石の石畳です。しかし、石質の柔らかい大谷石は風化が早く、その分脆い石でもあります。木之下君を担いで降ろした衝撃で大谷石が割れてしまったとしたら、どうでしょう。閉ざされていた暗渠が口を開けてしまったとしたら。そのまま暗渠に吸い込まれてしまったとしたら。中は苔に覆われて滑りやすかっただろうし、暗渠は西ノ川に放水するように設計されていたでしょうから、滑り落ちた彼は数分後川に浮いていたのです。伸代さんが手を擦りながら現れたのは、割れて無くなった部分を補う為、並べ直し、穴を塞いだ際、凝灰岩である大谷石の粉が手についたのを払う為だったとも考えられます。穴さえ塞げれば、形はどうでもよかったんです。風化したとでもいえば何とかなると思っていたのでしょうね・・」不自然な沈黙の後、小夜子は祥子を見つめた。「しかも、事件当時、西側の護岸を調べたのは、あなただったのですよね?」

 濁りのない真っ直ぐな目だった。

「そ、そうだけど、それが何だって言うの?」

 祥子は明らかに動揺していた。目が泳ぎ、そっぽを向くと、そのまま俯いてしまった。佐々木は思わず疑惑の目を祥子へ向けた。確かにあの時、西側の探索は祥子が行っていた。

「あなたは知っていたんですよ」小夜子の声が地を這う。「だけど、石畳に異常はないと嘘を言ったんです。咄嗟にお姉さんを庇ったんですね」

「いいえ。私は・・・ただ・・」

 小夜子は祥子の呟きを無視して先を続けた。

「ですが、当時二階にいた骨董商の藤井氏に一部始終を見られていた。後日、何者かが彼と取引する為に呼び出し、橋から突き落とした。石畳の形状が変わっていることに気づいた者が、三十七年前の犯行の真相を見抜けたのです。その人間は伸代さん一人ではなかった筈です。もちろん、祥子さんも気づいていた。宮代家の人間は気づいていたと思うんです。立て続けに起きた藤井氏と池端氏の死は、連動しています。木之下君の事件で宮代家の誰かが気づき、犯行を企てた。庭の改修を命じた人間が、真相を知っている可能性があります。池を砂で潰したのは、排水溝と犯罪を隠す為だった訳です。真相を知っていた人物は何も一人とは限りませんしね。さらに言うと、真相が見抜けたのは、庭の構造を知り得た宮代家の人間以外は考えられないということです」

 重苦しい沈黙が場を支配していた。暫くすると、その空気に耐えられなくなったのか、祥子は魂が抜け出るかと思うほどの深い溜息を漏らした。

 母家の方が急に騒がしくなった。皆が救いを求めるように、騒がしい音の方へ視線を巡らせた。

「本日はお忙しい中お集まり頂き真にありがとうございます。宮代家を代表しまして厚く御礼を申し上げます。わたくし宮代悟は・・・・・・」

 どうやら、式典が始まったようである。





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