第2話

 ・「15」 〈2020年9月11日更新〉


  「来週末、妹が子ども連れてうちに泊まりに来るから会えないわ」

 日曜、スマホを見ながら望実が言った。

 近頃、夏芽は金曜夜から月曜朝まで望実の家に泊まっていたから、会わない週末は久しぶりだった。

「うん、わかった。私は適当にしてるから、楽しんでね」

「ありがとう。姪の雫も1歳になってようやく出歩けるようになってきたから、ホテルとかの前にうちでお泊まりの練習したいんだって」

「いいね。じゃあ準備しなきゃ」

「うん。おむつとかかさばるものは買っておいてあげるつもり。サイズ聞かないとね。一泊ならどれくらい使うのかな? 雫もお正月以来だから大きくなったろうな~!」

 望実はうきうきと妹とやり取りを再開し、夏芽もその様子を微笑ましく思いながら、望実の家に置きっぱなしの私物を片付けた。


 次の土曜日のお昼前。

 夏芽のスマホには、〈これから妹を駅に迎えに行きます〉という望実からのメッセージが届いた。

〈気をつけてね! 行ってらっしゃい〉

と送信すると、すぐに〈はーい!〉と目をキラキラさせて手を挙げたコアラのスタンプが返ってきた。


 画面を見てふふ、と微笑む夏芽は――駅にいた。

 もう一時間も前から人混みに紛れ、改札が見えるベンチに座っていた。


 別に望実が本当に妹と会うのか疑ったわけではない。

 これじゃストーカーじゃないか、とか。

 望実以外に会いたい友達もいないのか、とか。

たくさん自分を責め、自己嫌悪になりながらも、夏芽はここまで来て望実を待っていた。


 メッセージから30分ほどで望実が駅に入ってきたのが見えた。

 どんなに人がたくさんいても、望実の姿は目に飛び込んでくる。

 見つからないようにキャップを目深に被り直す。

 望実は改札上の電光掲示板とスマホに交互に視線を送りながら、妹と姪の到着を待っていた。

 やがて望実が弾けるような笑顔になって伸びをするように手をぶんぶんと振りだした。妹が改札の向こうに現れたのだろう。

 望実とよく似たボブカットの女性がベビーカーを押しながら改札を抜け、望実が駆け寄った。そしてベビーカーから赤ちゃんを抱き上げると、嬉しそうに頬ずりした。


 愛おしい人の姿がぐらりと揺れて霞んだ。

 夏芽は涙を溢れさせていた。

 望実のあんな笑顔は見たことがなかった。

 ――あれが、望実が何より望むもの。

 そしてどうしたって夏芽が望実にあげられないもの。


人混みの中で夏芽は身体を震わせながら嗚咽をこらえた。

 私は望実の側にいてもいいのだろうか。

 私といることで、望実に心から望むものを諦めさせてしまうのではないか。

 定職にも就かず、将来の約束もできない私なんて、望実の負担になるばかりではないのか――。

 夏芽は立ち上がり、望実たちに背を向けて駅を出て行った。


◆◆◆


 約一ヶ月ぶりの更新となった「15」を読んで、私はあの時のことを思い出していた。

 あの時――もしかして聖も夏芽のように私のことを見ていたのだろうか。

 

 もう秋も深まる頃だった。

 週末、私の家で久しぶりに同期女子会が開かれることになり、聖に自宅に帰ってもらうことにした。

 もともと同期女子は仲が良く、若い頃は月に一度は集まり、飲んだりカラオケをしたり、たまに泊まりがけで温泉にも行ったりしていた。ここ数年は結婚したり出産する子たちがいて全員で集まるのは難しくなったけれど、入社以来苦楽を共にしてきた彼女たちの子どもは姪か甥のように思えてみんな可愛い。

 育休中の二人の香苗と奈美が子どもを連れて来て、総勢7人でお好み焼きを作って食べ、夕方にママ組が帰るのを駅まで見送った。


 子どもたちとのお別れが寂しくて、特に私に懐いている香苗の息子くんを抱きながら駅までの道を歩いた。

「かがり、そんなに子ども好きなら早く結婚して産まないと」

「一人で簡単に産めるものなら産むけど」

「かがりなんて美人だし一番に結婚すると思ったら、なかなかしないものだね」

「でもうちの夫なんて長男みたいでさ、この子と二人分のお世話でてんてこまいだよ。つまんない男と結婚しちゃだめだよ」

「斉藤と結婚しなかったのは正解」

 真里が言うと、全員が笑いながら頷いた。

「そうそう。ここまで来たらちゃんと選ばないと。今は出産可能年齢も上がってるし」


 うんうんと頷く彼女たちに、思い切って私は言った。

「私、もはや男との結婚にこだわらなくてもいい気もしてきてるんだ。去年の彼との別れでちょっと懲りたよ。別に彼だけに私の人生の責任取らせようなんて思ってないのにさ。家事だってなんだって女同士のほうが自然に分担してストレスなく過ごせそう」

 同期たちがそっと目を合わせているのがわかる。

「確かにね。さっきもみんなでお好み焼き作って後片付けまでスムーズだったよね」

「男女がわかり合うのは難しいよ」 

「子どもだってさ、何なら奥の手もあるよね」


 同期たちはあの時何かを感じたのだろうか。

 私はそれ以上は語らずに赤ちゃんに頬ずりした。


 もしかしてその時の様子を、聖は夏芽のように見ていたかもしれない。

 だから突然あんな話になったのではないか――。


 週明け、仕事から帰ると聖がドアを開けてくれた。スパイシーな香りがマンションの廊下に流れていく。

 二日ぶりに会うのが嬉しくて玄関に入るなり抱きつくと、聖は私の額に優しくキスをした。

「カレーができているよ。ご飯も炊けたところ」

「いい匂い。お腹空いてたの、嬉しい」

 聖も食べずに私を待っていてくれたので、小さなテーブルを囲み、二人でカレーを食べた。

 聖は料理が上手で、じっくり煮込んだチキンのカレーはお店のものかと思うほど美味しかった。


「女子会、楽しかった?」

「うん、集まるの久しぶりだからね。もう子どもたちが可愛すぎたよ、見て」

 私はスマホで撮影した子どもたちの写真を見せた。

「ほんと、みんな可愛いね。……かがりも赤ちゃん欲しくなったんじゃない?」

 私はそっと聖の様子を窺った。

 聖はにこにこしながら画面をスクロールして子どもたちの画像を見ている。

 瞳がよく見えないけれど、楽しい思いで聞いているのではないとわかる。


「うん、抱っこすると甘い匂いがして、あー可愛いってなった」

 言いながらスマホを持ったままの聖を後ろからぎゅっと抱き締める。

「でも私にはこの大きな赤ちゃんがいるからいいの」

「もう、赤ちゃん扱いしないでよお」

 聖はひとしきり笑ったあと、真顔になってこう言った。

「――私、また自分の家で暮らすことにする」


 私は息が止まりそうになった。

「なんで? 急にどうしたの?」

 不安になった私を諭すような顔で聖は微笑んだ。

「私もそろそろちゃんとしないと。ダメもとで私立学校の教員試験も受けてみようと思ってるんだ。週末家にいたら集中して勉強できたから」

「私が邪魔なの?」

 声を荒らげながら、勝手なものだ――とも思った。

 家にずっといる聖を見ている時は、今後自分が養うのかと心配になった時もあったのに、いざこうして聖が出て行こうとすると不安でたまらないなんて。

「そんなことはないよ。今頑張って勉強して試験とか受けて、来年私がちゃんと働く方がかがりだって安心でしょ? 二人のためだよ」

 そう言う聖の表情は穏やかなのに、瞳は冬の湖のように冷たくしんとしていた。


「私、ずっとかがりに甘えすぎだった。生活費も負担になってたでしょ。それに、家でずっとだらだらしているよりちゃんと時間決めてデートしたほうが新鮮でいられるよ。もちろん気が向いたらお互いの家に泊まり合ったりもしてさ」

「――私のこと好き?」

 言い知れない不安を感じて聞くと、聖は苦笑した。

「またその質問。かがりって時々年下なのかなって思う時あるよ」

「ちゃんと答えて。嫌いになったわけじゃない?」

「もちろん好きに決まってる」


 そう言いながら聖は私にキスした。

 そのまま優しく体重がかけられ、床に倒されていく。

激しくなっていくキスとはうらはらに、私の身体にはなかなか火が付かなかった。


 シャワーを浴び、私たちは並んでベッドに横になった。

 こうして当たり前のように暮らしの中で一緒に眠るのも最後かと思うと、私の心は沈んだ。

「教職諦めたって言っていたのに、なんでまた挑戦する気になったの?」

 私の元から離れていくため? ――と警戒しながら聞いたが、聖の答えは違った。


「あ……この話、してなかったんだっけね。私ね、もともと、自分みたいなセクマイの子どもの力になりたいと思って教職を目指したの」

 私から視線を外し、考えをまとめるように聖は静かに話した。

「保育園の時、初恋で一つ年上の女の子のことを好きになったの。ある日、みんなで誰を好きなのか内緒話していた時、私がその女の子の名前を言ったら、みんなに女の子は男の子を好きになるんだよ、女の子を好きなのはおかしいって言われて、自分が他の子たちと違うことに気づいたの。でもどうして違うのかわからなかったし、それからも好きになるのは女の子ばかりだった。両親は忙しくしていて、いつも私に『何か変わったことはない?』とだけ聞いていたから、まさか何より自分が変わってる、なんて言えなくて。心配もかけたくなかったし」

 聖はため息をついた。

「誰かたった一人でいいから自分のことをわかってくれて、女の子が好きでもいいんだよ、変じゃないよって言ってくれる大人がいたらなって思ってた。じゃあ私がそんな先生になれば、私みたいな子どもの力になれるかなって思ったの」


「そうだったんだ……すごく真面目に考えていたんだね」

「そりゃそうだよ。私って実は真面目さが取り柄なの」

 ふふっと笑う聖を見つめながら、私は内心愕然としていた。


 ――私、今まで聖のことをちゃんと知ろうとしていなかった。

 自分の感情やこれからの二人についての心配で手一杯で、聖がどんな思いでここまで来たのか、将来を考えていたのか、理解しようとしていなかった。


「ゼミの教授も私の志望動機を理解して応援してくれていたの。でも、今年の春に教育実習について手続きを進めていたら、教授に『教育実習ではきみのセクシュアル的な問題については明かさない方がいい』と言われたの。子どもたちへの性の多様性の指導は始まっているけれど、まだまだ教師としては理解は得られにくい。当事者として出て行くことがきみにとって有利とは思えない、って。

 私だって、最初からバーンと、セクマイです! レズビアンです! なんて教壇で宣言するつもりはなかったよ。悩んでいる子どもがもしいたら、そっと寄り添えたらいいなって考えていたの。でも信頼していた教授に私の特性が不利だと思われていたんだとわかったら、もう心が折れてしまって、教育実習に行くのを辞めたの。情けない話だけれど」


 聖は泣いていた。

「ごめんね……ちゃんと話を聞いていたらよかった……」

 いつもより小さく見える聖を抱き締めて私も泣いた。

「ううん、こんな話、ちゃんと社会で働いているかがりから見たら甘いって言われるかと思って言えなかった。でも、色々考えてみたけれど、教授の一言で夢を諦めるなんておかしいよね。教授のために先生になりたいわけじゃなくて、私みたいな子どものためになりたいのに。だからもう一度頑張ってみようと思って。もう来年は間に合わないかもしれないけれど」

「一人で抱えさせてごめんね。そこまで考えられる聖なら、必ずいい先生になれる」

「ありがとう。だからまた自分の家で気合い入れて勉強するから」


 聖の心の痛みや、そこから一人で立ち上がったことに感動すると同時に、何も力になれなかった自分の不甲斐なさを後悔した。

 打ち明けて欲しかったと思うし、自分のことを信頼してくれていなかったのかとも思う。

 

「ねえ、かがりも小さい頃、悩んだ?」

「私……? ああ、男性にも女性にも惹かれるってこと?」

「そう」

「私は小さい頃は男の子だけが恋愛対象だったから悩むとかはなくって。高校の頃に初めて仲良しの友達から告白されて、その子と離れたくない一心で付き合ってみたら友情が発展したみたいに楽しかった。その後もその時々で惹かれる相手と付き合ってみたら、結果として男性とも女性とも恋愛したって感じだから」

「そうなんだ……」

 聖の思いをわかりきれない自分を恥ずかしく感じた。

「私はまだ自分が何者かわからないの。だからちゃんと自覚している聖から見るとそれこそ甘く見えるかもしれないよね」

「そんなことない。みんなそれぞれのグラデーションの中にいるものだから」

 聖は目をこすった。

「泣いたから眠くなっちゃった……」

 呟くようにそう言うと、聖はやがて寝息をたて始めた。

眠たくなると、聖の体温は上がっていく。

 いつもその温かさに包まれて私も眠りに誘われるのだけれど、その夜はなかなか眠れず、私はいつまでも聖の寝顔を眺めていた。


翌朝、私の出勤と同時に聖はまとめた荷物を持って自宅へと戻った。



 ・「15」 〈2020年9月20日更新〉


    次の週末、夏芽は望実とお弁当を持って大きな公園に行った。

 たくさんの家族連れがボール遊びをしたり、犬を散歩させたりしている。ビニールシートを広げ、夏芽が作ったおにぎり、望実が作った唐揚げと卵焼き、ポテトサラダをのんびりと食べた。

 1歳半くらいの女の子がよちよちと芝生を歩いて行く様子を見て望実は歓声を上げて喜び、また姪を思い出してスマホのアルバムを眺めた。

 姪の写真のいくつかは夏芽にも送られている。望実にも似ているかわいい女の子だった。


「ああ、また雫ちゃんに会いたくなっちゃう。帰りに子ども服を見に行ってもいい?」

「いいよ」

「伯母ちゃん雫ちゃんに全力で貢いじゃうわ」

「……望実さんは自分の子、欲しくないの?」

 上機嫌だった望実は驚いた顔で夏芽を見つめたまま固まった。

「いや、そんなに子ども好きだったら自分の子も欲しいだろうなって思っただけ」

「そりゃ……でも、もう年だし諦めてるよ」

「すごく欲しい時もあった?」

「うん。35、36くらいかな。周りもみんな子どもできていたし、産める年が終わっちゃう……て感じで」

「今からじゃもう遅い?」

 望実は夏芽の顔を覗き込んだ。

「夏芽ちゃん、どうしたの? 私、夏芽ちゃんと付き合ってるんだよ?」


 望実がはっとする。

 夏芽の目から涙がこぼれていた。


「私といることで望実さんの可能性を潰してしまっているんじゃないかって――」

「そんなことないよ」

「望実さんはもともと男の人が恋愛対象でしょ。私と出会ってなければ今頃男の人と結婚しているかもしれないのに、私が強引に告白したから……」


 ああ、言ってしまった。

 夏芽は思った。

 あの改札での望実の姿を見てから、何度振り払おうとしても湧き上がる思いはどんどん夏芽の中で増殖していった。

 こうして声に出すことでより現実味を増し、今度は外から夏芽を、そして望実をむしばんでいく。

 

「違うよ、あの時言ったでしょう? 夏芽ちゃんを好きになったって。自分で選択して夏芽ちゃんと付き合ったの。今も気持ちは変わらない。ううん、あの時よりもっと好きだよ」

 望実は必死に言ったが、夏芽はただしゃくり上げながら涙を流し続けた。

「私があまりに雫に夢中になっていたから夏芽ちゃんを不安にさせちゃったのね? ごめんね、ごめんね……」

 望実はハンカチを取り出すと、夏芽の涙をぬぐったが、涙はなかなか止まらなかった。


◆◆◆

 

 読んでいて夏芽の苦しさが伝わってきて、私は泣いてしまった。

 聖も同じようなことを言った。


「かがりは男の人を好きになれる。結婚できる。子どもだって産める」

「去年付き合っていた人と結婚したかったんでしょ?」

「私がいないほうがかがりは自由になれる」


 聖も苦しかったのだと今ならわかる。

 一度取り憑かれたその思いから逃げることができず、そう言わずにいられなかった聖の辛さを、私はどれほどわかってあげられていたのだろう。



 11月、聖は必死で勉強して試験に臨んだけれど、受験した私立中学の採用試験には全て落ちてしまった。

「そりゃそうだよね。だってしばらくサボっていたし……そんなうまいこといかないよ」

 落ち込む聖を私は慰めた。

「残念だったけど、こうしてまた頑張っていたらきっと可能性は出てくるよ。いっそのこと来年またチャレンジしたら?」

「そうだね……なかなかかがりのこと安心させられないね」

「私はほらもう働いているし、聖をサポートするから」

「ありがとう。教職課程の単位は大丈夫そうだし、あとは1月末までに卒論まとめるくらいだから、バイト増やそうかな」


 やがて聖は、朝から昼過ぎまでのコーヒーショップでのバイトに加え、夕方からは忘年会シーズンを迎えた居酒屋でバイトを始めた。

 私が残業の時や飲み会があった帰りには、居酒屋近くで待って、バイトが終わった聖と一緒に彼女の家に帰ったりもした。

 週末は聖が土曜のバイト後に泊まりに来たけれど、日曜は私の家で卒論を書いている時もあったし、調べ物があると大学の図書館に行ってしまう時もあったのでなかなかゆっくりできる時間がなかったのだ。

 私は寂しかったのだと思う。

 でも、頑張っている聖にそんなことは言えなかった。

 少しずつ私の心に寂しさが雪のように降り積もっていった。


 同期女子の忘年会は例年会社関係の忘年会が始まる前の11月末の金曜に開催される。私が幹事に立候補し、聖のバイト先の居酒屋を設定した。いつかの聖と逆転するようだけれど、バイトモードの聖を見たかったのだ。

〈ご予約ありがとう。かがりのグループの担当になるようにするわ。張り切って接客するからね〉

と聖からはメッセージが届いていた。


 同期たちと一緒に居酒屋に入ると、いらっしゃいませー! という声が響く中、すぐに聖が飛んできた。

 紺色の作務衣姿が凜々しい。よく似合っている。

 頬が緩みそうになるのをなんとかこらえ、私は告げた。

「予約した宮原です」

「宮原様、ご来店ありがとうございます! お席へご案内します!」

 今日はママ組と本社異動組以外の5人が集まった。

「かがりのチョイスでチェーンの居酒屋って珍しい」

「ほんと。割と学生さんも来そうな感じの。なんか懐かしいね」

 同期たちのさりげないチェックに私は慌てる。

「そう、こんな感じもたまにいいかな~って! コスパもいいし、久しぶりにラーメンサラダとか食べたくなっちゃって」

「ほんとだ懐かしい~」

 きゃっきゃとメニューを見る彼女たちに私はほっとした。

「ラーメンサラダは忘年会コースに入ってるけど、他にも食べたいものがあったら頼んでね。じゃあまず飲み物決めて」

「見て! クーニャンとか懐かしすぎる。私クーニャン」

「学生時代飲んだよね~! 私も」

「最初はビールじゃないの?」

「いいじゃん、仕事の飲み会でもないし。好きなの飲もう」


 全員が決めたタイミングで手を挙げると聖がオーダーを取りに来た。無事に私たちの担当になったようだ。

 みんなが気づかないように目配せし合う。

 ドリンクや料理を運んでくるたびにきびきびと働く聖の姿に、コーヒーショップで意識し合った頃を思いだし、ドキドキした。

 チェーン店の割に料理は美味しく、同期たちも満足していたので私はほっとした。


コース料理も終わりまで出て、ラストオーダーのアルコールを飲みながら時折聖の様子を窺っていると、大学生らしき集団が来店し、聖を取り囲んだ。

 その中に聖と同じくらいの身長のくっきりした顔立ちの美人がいて、はっとした。

 聖の前の彼女、明日香だった。

 初めてのデートの時、メッセージアプリの明日香の写真を使ったアイコンを見たから覚えている。

 聖がちらっと私を見て、あわあわしたのが決定的だった。

 彼女の視線に気づいた明日香が私を見た。目が合う。ドキッとしていると、明日香が先に微笑んで会釈した。私も慌てて顔を作り直し、会釈する。

 明日香は私と聖の関係に気づいたのだろうか。

 やがて大学生たちのグループは奥の小上がりに案内されていった。

 

 私たちもそろそろお開きの時間が迫っていた。トイレに行き、個室から出てくると明日香が化粧を直していた。

 気づかないふりをして一つ開けた洗面ボウルで手を洗っていると、明日香は私に近づいてきた。

「こんにちは。聖の彼女さんですよね?」

 質問には答えずに、こんにちは、とだけ言うと、明日香は真っ赤に塗った唇をきゅっと上げて微笑んだ。

「ご存じだと思いますが、あなたの前に聖と付き合っていた岡本明日香です。聖から年上の彼女ができたって聞いてます。さっき聖が慌てていたのですぐあなただってわかりました。聖のタイプってはっきりしているから」

 私が黙ったままなのに構わず、明日香は快活に話した。

 商社に内定したらしく、臆せずに物を言うタイプだと思った。

 確かに背の高さ、髪の毛の長さ、顔立ちもどことなく私と明日香は似ていた。もちろん弾けるような若さはもう私にはなかったけれど。


「あ、でも今日ここに来たのは偶然ですよ。近くで一次会やって、二次会は聖のお店に行こうかって他の子が言ったから来ただけです」

「そうですか。それじゃ……」

 そのまま話していると不安になりそうだったので受け流して出ようとすると、明日香が私を呼び止めた。

「よかったですよね、聖がまた教職目指す気になって」

 その言葉に反応して立ち止まってしまう。

「もうあのまま教職は諦めるのかなと思っていたけれど、頭が固いおじさん教授の一言でそれまでの努力を捨てるなんてもったいないですもんね。教授のために教師になるわけじゃないんだし」

 明日香の言葉が強制的に記憶を巻き戻していく。


 ――でも、色々考えてみたけれど、教授の一言で夢を諦めるなんておかしいよね。教授のために先生になりたいわけじゃなくて、私みたいな子どものためになりたいのに。


 あの夜、聖がそう言った時、私は聖が一人で悩み、考えて立ち直ったのだと思っていた。

 そうではなくて、明日香のアドバイスで聖は考え直したのだろうか。


「聖にアドバイスしてくれたのはあなた?」

 明日香に向き直ると、明日香はにっこり微笑んだ。綺麗な子だ、と改めて思った。

「はい。私は就職決まってもう社内研修も始まっているからか、ゼミで会う時に相談乗って、って言われて話したりしていました。社会人経験が長い今カノさんに比べたら、私なんて参考にならないと思ったんですけどね。あ、お互い次の相手がいるから逆にざっくばらんに話せるようになった感じです」

 手が震えた。

 私には打ち明けなかった悩みを、明日香には話していたんだ。

「そう。同じ学生の立場だから聖も話しやすかったみたい。ありがとう」

 なんとか平静を装ってそう言うと、私は足早にトイレを出た。


 席に戻ると、すでに同期たちは会計を済ませて待っていてくれた。

 自分の分を立て替えてくれていた真里に支払うと、

「かがり、次も行くよね?」

と誘われたけれど、私は首を振った。

「ごめん、なんだか気持ち悪くなって来ちゃったから、今日は帰る」

「え、大丈夫?」

 私のコートを持って来てくれた聖が心配そうな顔で私に近づいた。

「お客様、タクシー呼びましょうか?」

「いえ、大丈夫です。外の空気を吸えばなんとかなると思います」

 私はコートを受け取ると、真里に付き添われながら聖の顔を見ずに店を出た。



 ・「15」 〈2020年10月11日更新〉

  

 冬が始まるころ、夏芽は美大同期に誘われた2月の三人展に向けてアクリル画を描いていた。

 ギャラリーに就職した先輩が、空いている日程があるからと夏芽と同じように就職をせずに創作活動を続けていた仲間に声を掛けてくれたのだ。

 三人で五枚ずつ制作することになった。あまり日程に余裕はなかったので急ぐ必要があった。

 夏芽は版画学科でシルクスクリーンを専攻したが、版を作るためには感光製版機、刷るためには大量のインクやスキージーなどの道具が必要だったから、自宅で制作することはできない。今回はキャンバスにアクリル画を描くことにした。

 三人展のテーマは「希望」に決まった。スケジュールから逆算し、一番大きなもので50号サイズを1枚、次に30号サイズを1枚、あとの三枚は10号サイズに決めた。一番大きなものには望実を描いて驚かせよう、と密かに夏芽は思った。


 絵画教室の講師のパートはしているけれど、卒業後は本格的な自分の作品を描いていなかったので腕がなまっていたから、週末は望実の家に行かずに自分のアパートで描き続けた。

 望実はそんな夏芽を応援し、食事を作ってきてくれた。だいたいそのまま泊まっていくのだけれど、夢中で描いているうちにほとんど構えないまま、気づいたら望実がベッドで寝ていたこともあった。

 それでも望実は文句も言わずに夏芽を励まし、出来上がっていく作品を褒めてくれた。


 久しぶりに集中し、全力で描いていると楽しくて時間を忘れたけれど、うまく描けない苛立ちや、なかなか完成しない焦りも生まれてくる。

 望実に話しても創作の悩みは伝わらないし、以前美大に連れて行ったあとに望実が塞ぎ込んだから、望実から隠れるようにして美大の仲間と連絡を取り合った。

 描いていて行き詰まると、どんな深夜でも誰かは起きていて話を聞いてくれて、ふざけあって気分転換できたり、アドバイスをくれたりした。

 学生時代の頃に戻ったように感じられ、そんな瞬間は今の不安を忘れることができた。


 夏芽は実際にあるものを抽象的にアレンジして描くことが好きだった。

 心の中のフィルターを通して自分にしか見えないものを、自らの手でこの世に生み出す。

 思い通りに描けるなんてことは少ない。

 テクニックが理想に追いつかないこともあるし、どうしても描きたいものをうまく掴みきれない時もある。悩みながら描いているうちに最初に浮かんだものと違うものになることも多い。出来上がったものを見て、自分はこんなことを考えていたのかと他人事のように驚くこともある。

 そして完成した作品を見てくれた人が、また何かをその人の心に映す。

 その人はきっと夏芽が最初に心に浮かべたものとは別のものを見ているのだろう。

 創作を通して繋がれていく、そんな過程が好きだった。

 途中どんなに苦しくても、完成に向かっていくと心が躍り、このために生きていると思えた。


 ◆◆◆


 同期と別れ、自宅に戻った私はすぐにシャワーを浴びた。

 その間にバイトが終わった聖からは何度もメッセージが届いていた。

〈体調悪そうだったけれど大丈夫?〉

〈バイト終わったけど何か買って行こうか?〉

〈今から行ってもいい?〉

 それと着信の記録。

 こんなに聞くなら、そのまま来てくれたらよかったのに。

 それよりも、聖から明日香について触れないことに私は苛立った。


〈もう大丈夫。シャワーしてた。今どこ?〉

〈既読にならなかったから家に戻ったところ〉

 結局ここに寄らないで帰ったんだと思うと、がっかりした。

〈お疲れさま〉

〈今日は来てくれてありがとう。嬉しかった〉

〈私も聖が働いているところ見られてよかったよ。でも……〉

〈でも、なに?〉

〈わからないの? 私が気になっていること〉

 聖がとぼけているのか、本気でわからないのかわからない。自分から言わないといけないことにイライラしてそう入力すると、少し間があって聖からの吹き出しが画面に現れた。

〈明日香のこと?〉

〈そう〉

〈やっぱり気づいたんだね。私も知らなかったんだ、明日香たちが来るなんて〉


 やっぱりって。私が言わなかったら流すつもりだったの? 苛立ちが募り、私は挑発するように文字を打った。

〈偶然だって彼女も言ってたよ〉

〈言ってた? 明日香と話したの?〉

〈トイレで話しかけられたの〉

〈え……なんて?〉

〈年上と付き合っているって聖から聞いていたし、聖のタイプってはっきりしているから私が彼女だってすぐにわかったんだって。確かに私と明日香ちゃん、背格好も似ていたよね。年齢は全然違うけれどさ〉

 落ち着かないと、と思っても止まらない。

〈明日香ったらそんなこと言ってたの?〉

〈それだけじゃない。聖に教職を諦めないようにアドバイスしたのは明日香ちゃんなんだってね? 聖から相談受けていたって言ってた〉

〈ねえ、説明させて。電話していい?〉


 すでに私は泣いていた。

 それを知られたくなかった。


〈嫌。話したくない。私がその時どんな気持ちだったと思う? 私には打ち明けてくれなかったことを元カノに相談していたって、元カノから聞かされたんだよ。しかも社会人経験が長い今カノさんに比べたら私なんて参考にならないのに、なんて嫌味も言われて〉

〈ごめんね。相談っていうか、ちょっと話してみただけだよ〉

〈前に聖が悩んでいたって打ち明けてくれた時、私にはなんで相談してくれなかったんだろうって思った。私ってそんなに信頼できないのかなって寂しかった。でも、一人で立ち直った聖のことは素直にすごいって思ってたよ。だけど本当は違ったんだね、明日香ちゃんに相談して、明日香ちゃんからのアドバイスで立ち直っていたんだよね〉

〈あの時言ったでしょ、かがりに相談しても甘いってがっかりされるかと思って言えなかったの〉

〈私はもし相談してくれていたら、その内容がどんなだってがっかりなんてしないよ。私じゃなく元カノに相談したってことに、元カノのおかげで聖が立ち直ったってことに今とてもがっかりしている〉

 画面が聖からの着信に切り替わって震えたけれど、私はスマホをサイレントにしてテーブルに投げ出すと、濡れた髪のままベッドに潜り込んだ。



 ・「15」 〈2020年10月24日更新〉


 クリスマスが近づいたその週末も望実が泊まりに来ていた。

夏芽は五枚のうち10号サイズの三枚目までをほとんど仕上げ、四枚目の30号に取りかかっていたけれど、それまでの疲れもあってなかなか筆が乗らなかった。一番の大作にはまだ取りかかってもいない。


「望実さん、ほっといてごめんね。ちょっとスランプで」

 先にシャワーを浴び、スウェット姿になった望実はスマホから顔を上げた。

「私は時間なんてどうでも潰せるよ、本も持ってきたし。でも私がいないほうが集中できるなら帰るけれど」

「ううん、いてほしい」

 夏芽は望実に近づくと、後ろからぎゅっとハグをした。

 望実のうなじに鼻を寄せ、真新しい石けんのような望実の香りを嗅いでいると落ち着くのに、頭の中はどう描けばいいかと絵のことばかり考えてしまう。

「ごめんね、ギャラリー利用料金やキャンバスとか絵の具を買って結構お金使っちゃってて、クリスマスに何も用意できていない」

 望実は夏芽の腕にそっと手を添えた。

「夏芽ちゃん、私は大丈夫だから。作品が出来上がるのが何よりのプレゼントだよ」

「ありがとう」

「さ、また頑張って描いてね」

「うん」


キャンバスに向かい、再びため息をつきつつ筆を動かしていると、スマホからメッセージの着信を告げる音が響いた。

 望実の視線を感じ、ごめんねと言ってバイブに切り替える。

 三人展のグループメッセージ内での会話が始まっていた。


〈今バイト終わったんだけど、めっちゃ疲れてる。なんか俺、間に合う気がしないんだけど〉

 現れた尚哉からのメッセージにちょっとほっとする。

〈今、何枚目? 私四枚目〉

〈すごいじゃん、夏芽。私、今日気づいたらあつ山やっててこの時間です〉

 マイペースな美樹の様子に夏芽は吹き出した。

〈ウケる。でも50は全然手を付けてない〉

〈俺、三枚目で詰まってる。この方向性でいいのか迷うし〉

〈ちょっと見せてよ〉

 送られてきた作品の画像を見て、また会話が続いた。


 夏芽も四枚目の30号の画像を送る。

 文化祭の準備をしている美大の後輩たちを描いたものだ。

〈私も悩んでるの。感じることを思う通り言って欲しい〉

〈悪くないよ。もっと光のコントラストをつけてみたらいいんじゃない?〉

〈ちょっとその中心の赤が浮いてる気がする〉

「なるほど」と夏芽は独り言を言った。

 気を遣うことなく、単刀直入にズバッと言ってくれる二人からのアドバイスがありがたかった。


〈私はだめだ。やる気出ない。ねえ、思い切って今日は集まって飲まない? 私今日ポテチしか食べてない。お腹空いた。私をあつ山地獄から救って〉

〈ダメ人間すぎるだろ。俺も腹が減ったわ。ファミレスがいいな〉

 夏芽は望実の様子をそっと窺った。行きたかったけれど、シャワー後の望実を一人置いて行けるわけがない。

〈私はちょっと無理だな〉

〈え~夏芽、珍しくノリ悪いね。もしかして誰かいるんじゃ? 瑠奈のあとの新カノ?〉

 相変わらず美樹は鋭いな、と思って夏芽は苦笑した。

〈いや、せっかくアドバイスもらったしがんばりたいじゃん〉

〈でた、意外と真面目な夏芽〉

〈真面目なところが私の取り柄なの〉

〈そこまで言うところが夏芽だよねえ。それじゃ尚哉、うちの近くのゲストに集合〉

〈おっけー〉

 夏芽は少しつまらなく思いながら〈じゃあ、楽しんでね〉と入力していると、ふっと画面に影が差した。


 はっと顔を上げると、すぐ側に望実が立ってスマホを覗き込んでいた。

「お友達? これから集まるの?」

 望実が真顔で言う。

 夏芽は慌てた。望実が怒っているのがわかった。

 望実に構わずに絵を描くと思いきや、スマホに夢中になっていたからだろう。スマホ画面を覗き込むのはよっぽどのことだった。


「あ、うん、三人展のグループメッセージだよ。あとの二人が気分が乗らないから集まらないかって」

「夏芽ちゃんも行きたいの?」

「ううん、二人にこの絵のアドバイスももらったし、今日は行かないで頑張るって言ったところ」

「私がいるから我慢してるんじゃなくて?」

「違うよ」

「そう。アドバイスもらってよかったね。私じゃ力になれないし」

「そんなことないよ。いつも望実さんが励ましてくれるから頑張れているよ」

「私には具体的なことは何もわからないもの。素敵とか、前より進んでるとか、誰でもわかるようなことしか言えない」

「そういうシンプルな感想もすごく参考になるんだよ。見る人のほとんどがそんなに考え込まずに見るんだし」


 望実は不機嫌な表情を変えずにくるりと背を向けると、スウェットのパンツを脱ぎ、家から履いてきたデニムに着替えた。

「望実さん?」

「今日は帰るね。こんなイライラした私がいても邪魔になるし。せっかくアドバイスもらったんだから思う存分描いて。それか、二人に合流してもいいんじゃない?」

「……じゃあせめて送るよ」

 望実は夏芽を見てため息をついた。

「夏芽ちゃん。こういう時は、送るね、なんて言って欲しくないよ。行かないでって引き留めて欲しいよ」

「ごめん……」

「でもまあ、夏芽ちゃんは嘘つけないもんね。全部顔に出るもん。私は平気だから絵に集中していて。じゃ、頑張ってね」

 望実はバッグを持つと足早に玄関へ行き、スニーカーを引っかけるようにして出て行った。

 一人になった部屋で夏芽はため息をついた。

 けれど、望実が帰って少しほっとする自分がいた。

 もちろん、だからといって美樹たちに合流する気はなかったけれど。


 ◆◆◆


 夏芽と望実も私たちと同じようなことで喧嘩していた。

 望実の気持ちがよくわかる。

 誰より近くにいて力になりたいのに、好きな人の力になれない。一番辛いのは、真に力になれる存在が自分とは別にいるということ。


 忘年会の夜、髪の毛を乾かさずに寝た私は、土曜の朝方寒気と共に目覚めた。頭がズキズキし、身体の節々も痛い。体温計で測ってみると38度の熱があった。

 残業や飲み会、聖の家への訪問が続いていたから疲れも溜まっていたと思う。

 スマホを見ると、聖からの着信記録とメッセージが並んでいた。


〈なんで電話出てくれないの?〉

〈既読にもならない〉

〈明日香は一緒に教職課程とってきたし、その上で彼女は別業界に志望を変えたから、その視点から私が別業界にすべきか、教職行くべきか、アドバイスもらいたかったの。別に明日香じゃなくてもよかったけれど、たまたま明日香とゼミで会っていたから。それだけだよ〉

〈明日香がわざとかがりに話しかけたのは良くなかったよね。またやきもち妬かせてごめん。もうそんなことしないように明日香に言っとくから〉


 ――そうやってまた明日香と関わりを持つってこと? 聖は何もわかってない。

 鼻がつまっているのにまた涙が出てきて、苦しかった。


〈おーい、もう寝たの?〉

〈そこまで怒ること? こういうところ、かがりって子どもっぽいよね〉

〈だってそもそもかがりだって、私が教職挫折したって話しても興味なかったじゃない〉

〈いいや、もう。寝る〉


 そこでメッセージは終わっていた。

 確かにそうだった。私がもっとちゃんと聖の教職への思いを聞こうとしていたら、聖は私に打ち明けてくれただろうし、明日香に相談する必要はなかったかもしれない。

 後悔と自己嫌悪と、聖と明日香への苛立ちと。

 感情がぐちゃぐちゃになり、返信せずに私は置き薬を飲むとまた寝た。


 昼頃に再び起きると、熱は少し下がって37.8度になったものの、喉の痛みと共に咳も始まっていた。

 弱気になり、聖にメッセージを打った。この時間はバイトもないはずだった。

〈熱出ちゃった。しんどい〉

 そのまま画面を見ていると、間もなく既読が付き、聖からの返信が現れた。

〈今から行くから待ってて〉


40分ほどしてスーパーのビニール袋を手にやってきた聖は、私を見て目を丸くした。

「大丈夫? ってかかがり、頭爆発してる」

 マスクをして出迎えた私は力なく頷いた。髪を乾かさなかったから風邪を引いたとは言いたくなかった。言ったところでまた子どもっぽいと呆れられるだけだ。

 家に上がった聖は買ってきたビタミンC飲料を私に飲ませ、冷凍うどんとネギ、油揚げ、卵で鍋焼きうどんを手早く作ってくれた。

「もう、いつもながら冷蔵庫空っぽだよね。私がいなかったらどうするつもりだったの?」

 うどんは空腹だった身体に染みわたるように美味しかった。

「食欲があってよかった」

 無言で食べる私を見ながら、聖はぽつりと言った。

「かがりに言わなかったくせに、明日香に相談したってことはごめんね。しかも最悪な形で知ることになっちゃって、かがりを傷つけてごめんなさい」

 ぶわ、と涙が溢れた。

「私も……ちゃんと聖の話を聞かなかったくせに一方的に怒ってごめんなさい」

「やっと喋ったと思ったら、ひどい声」

 聖はほっとしたように笑い、ティッシュで私の涙をぬぐった。


「食べたらまた薬飲んで寝てね」

「全然聖の力になれてない私だけど、好き?」

 聖は目を細めて微笑んだ。

「好きに決まってる。年上のくせに、私がいなかったらダメなかがりが好き」

「じゃあ、私のどこが好き?」

「顔」

と言いながら聖は吹き出した。

「でも今日の顔はちょっとひどいね。髪も爆発してるし、クマできてるし」

「もう、誰のせいだと思ってるの」

「正直、熱出したってメッセージ来てもむかついてたけれど、この顔見たら全部どうでも良くなって許せた。だから顔が好きって最強なんだよ」


 私たちはそうやってまた仲直りした。

 きっと聖も、自分が私といる意味を一生懸命探していたのだと思う。

 でも、本当の別れはすぐそこまで近づいていた。



 ・「15」 〈2020年11月20日更新〉


「私たち、別れたほうがいいと思う」

 望実がそう切り出したのは年明けのことだった。

 実家で年越しをした望実は、実家から戻ったその足で絵を描き続けて新年を迎えた夏芽のアパートに来てお土産を渡すと、そう言ったのだった。


「夏芽ちゃんがまた絵を描くこと、嬉しいと思った。だからご飯持ってきたり励ましたり、私なりに応援してきたつもり。でも私は芸術を見る目がないから、夏芽ちゃんの力になれない。それどころか夏芽ちゃんの仲間に嫉妬して邪魔までしちゃう。それで喧嘩になる。私が側にいないほうがいいよ」

「ちょっと待ってよ。急すぎるよ」

「最近は喧嘩ばかりだったよね。夏芽ちゃんも色々考えるところはあったんじゃない?」

「それは……」

 夏芽はうつむいた。


 クリスマスは予告通り、金銭的にも時間的にも余裕がない夏芽は何も用意できなかったけれど、イブに望実がケーキとプレゼントにパーカーを持ってきてくれた。

 それから会えないまま、望実は年末に実家に帰った。望実を気にせず創作に集中できるかと思った一方、また妹や雫と再会することを思うと心がざわめき、メッセージでもピリピリしたやり取りになりがちだった。

「私、また実家で雫を抱っこしてきた。可愛かった。でもそういうこと、夏芽ちゃんに言ったらまた子ども欲しいんだろうって思っちゃうんじゃないかって思うと言えなかった」

 確かに夏芽が雫のことを聞いても、望実からは〈大きくなったよ〉程度のあっさりした返事しか返ってきていなかった。

 それがまた夏芽には苛立ちの原因になっていたけれど。

「雫ちゃんのことを話す時の望実さんは特別な顔をしているもん。そんな顔見たら、子どもが欲しいんだろうなって思っちゃうよ」

 駅で雫を抱き上げた時の望実の笑顔が夏芽は忘れられなかった。

「雫のことはそりゃ可愛いよ、姪っ子だもの。でもだからって自分で産みたいかどうかは別。子育てって自分が産むことが全てじゃないと思う。私がどう思っているかを決めつけないで」

 強い口調で望実に言われ、夏芽は息を飲んだ。


「それに、夏芽ちゃんだって私がいないほうがのびのびと絵が描けるでしょ。集まりたい時にお友達と集まってやりとりできる。今回私がいなかった間も、みんなで遊んでいたんじゃない?」

「年越しは美樹と一緒にいたけれど、ちょっとゲームしてたぐらいであとは真面目に制作していたよ」

 望実はため息をついた。

「ほら、そういうことも言わなかったじゃない。私には大好きだよ、寂しいよ、早く会いたいとか送っておきながら、自分は別の女の子と一緒にいた」

「別の女の子って――、美樹は昔からの仲間だよ。変なことはないよ」

「だったらそういえばよかったじゃない。美樹と一緒だよって。でも夏芽ちゃんは言わなかった。お互いに起こってることも思ってることも言えないってことだよ。それなら別れたほうがいいと思う」


 確かに望実の言うとおり、夏芽は望実に対して言葉を飲み込むことも増えていた。

 でもそれは望実が余計なやきもちを妬かないためだ。

 

「ずっとそう考えていたの? 急に言われても私だって戸惑うよ」

「もう私も苦しいの。年齢差を感じてなんだか申し訳なかったり恥ずかしくなったり、夏芽ちゃんに気を遣ってもらったり、本当は結婚したいんでしょって責められたり、誰より理解したいのに他の人のほうが夏芽ちゃんを理解できて、私がお荷物になっているっていうことが」

 早口で言いながら望実はぽろぽろと涙をこぼした。

「お荷物なんかじゃ……」

 夏芽はそう言ったけれど、掠れた声しか出なかった。望実の言葉を正面から否定することができない。

 離れたほうがいいのかも、と思う自分がいた。

 その方がお互い楽になれるんじゃないか。


「こんな年になったのにまた恋愛に夢見ちゃったのが間違いだった。さよなら、私から自由になって思う存分頑張ってね」

 望実は立ち上がると、夏芽の家を出て行った。


   ◆◆◆


 「15」のコメント欄には見ている間にどんどん感想が増えていった。

〈別れちゃだめ! でも年上でしんどい望実さんの気持ちもわかる〉

〈別れないでほしいけれど、私が夏芽でも引き留められなかったわ〉

〈無理して付き合っていてもお互い辛いだけ。これで正解。でも別れも辛い〉

〈とりあえず夏芽は望実さんを追いかけて〉


 私たちの別れを思い出し、読んでいて胸が苦しかった。

 別れというものは不思議だ。

 一度別れの予感が二人の間に生じると、どんなに目に見えないような細かな霧雨だとしても、何度も降るうちに次第に集まって流れとなり、二人が押し止めようとしても抗おうとしても、ゆっくりとでも確実に別れという海へ向かって押し流されていく。


 風邪から回復した私は、以前にも増して寂しがるようになった。

 まるで心の底に穴が空いたように満たされることがなく、聖と離れた途端にすぐに不安になった。

 聖は大学には通っていたから、明日香と会うことに私は神経をとがらせた。

「もう大学でも明日香とは話さないようにするから」

と言って聖は明日香のメッセージIDを私の前で消去し、聖の家の合鍵をくれた。

「かがりは寂しくなったらダメだもんね。これでいつでも私の家にいていいからね」

 私の家の合鍵は付き合ってすぐに同棲状態になったから渡していたけれど、聖の家は大学近くの、働く私には少し不便な場所にあったこともあり、ほとんど行かなかったのでもらっていなかったのだ。

「合鍵なんてあげたの、かがりが初めて」

と照れくさそうに言われて嬉しかった。


 11月末の寒い朝のことだった。

 会社へ向かう私と、コーヒーショップの朝シフトに向かう聖は早めにアパートを出た。

 寒さが苦手な聖が身を縮ませて歩いているので、私は彼女の手を握った。

 聖がはっとして私を見る。人の視線を恐れ、外で私からスキンシップをすることは珍しいのだ。

「誰も見ていないから大丈夫だよ」

「うん」

 聖は私の手を握ってコートのポケットに入れてくれた。


 そのまま駅に向かって歩いていると、道沿いにある小さな公園を聖が覗き込み、あった! と言って手をほどいて走って入っていった。

 見ていると、少し盛り上がった土の部分を踊るように踏みしめている。

 聖の足元からシャリシャリとかすかな音がした。

「霜柱だよ! かがりも来て踏んでみて。気持ちいいよ」

聖は嬉しそうに私を誘った。吐き出す息が白く聖の顔を覆う。

「霜柱なんて久しぶりに見たわ。そんなに踏んじゃったら、せっかく生まれてきたのにかわいそうだよ」

 道から動かずに言うと、聖は笑った。

「かがりったら、霜柱を擬人化するなんて。いいから来て」

 そう言いながら私の元へ走ってくると、私の手を引っ張り、霜柱が現れている土の近くに立たせた。

 促されてそうっとブーツを霜柱に下ろすと、シャリッという音と共に薄氷が砕ける感触がした。

「あ、気持ちいい」

と言うと聖は「そうでしょう?」と得意そうに言った。

 私も微笑んだけれど、霜柱はあまりに繊細で、儚げだったから私はすぐに足をどけた。

 踏んだ部分が折れ、土にまみれてしまっていた。

「やっぱりかわいそう。聖も早くこっちに来て」

 聖の手を引っ張ると、仕方ないなあと呟いて彼女は私に従い、道へと戻った。

 私が、ん、と手を伸ばすと、聖はにこっと笑って握り、またポケットに入れてくれた。

 あの何気ないひとときが本物の幸せだった。


 会社へ向かう地下鉄の中、一年前のあの朝をありありと思い出し、涙があふれ出した。慌ててマスクを付け、ハンカチで目元を抑えながら嗚咽をこらえた。


 私がずっと忘れていた足元の季節の移ろいにも目を留める聖が好きだった。

 霜柱というささやかなものに子どものようにはしゃぐ聖が好きだった。

 ずいぶん年下なのに、私を守るように見つめる視線。

 今まで一緒にいた誰よりも、聖の側にいる時自分らしくいられた。

 それなのに私は聖からの愛情の確証ばかり求め、少しでも自分とのズレを感じると責め立てた。


 何より大切な存在を、私は自ら手放してしまったのだ。


 地下鉄がターミナル駅に到着した。

 会社の最寄り駅は二つ先なのに私は吸い寄せられるように降りると、聖のアパート最寄り駅に向かう地下鉄に乗り換えた。

 まだ朝早い。

 アパートには聖がいるかもしれない。

 もう一度会いたい。


聖のアパート最寄り駅で降りると、通勤途中で気分が悪くなったので会社を休ませて欲しいと上司に電話した。

 地上に出てアパートに向かって走って行くとあの公園が見えてくる。今もまた霜柱が出ているかもしれない。

 アパートはその先だった。

 道からは部屋に面した窓が見える。私の足が止まった。

 激しい息づかいが白いもやのようになって、あの朝の聖のように私の顔の周りに漂った。

 ――窓にかかっていたカーテンがなかった。


 思い直して外階段を駆け上がり、聖の部屋の前に立つ。

 ドアの横の小さな窓の磨りガラスに目を凝らした。去年は、歯磨き用のコップと歯ブラシが置かれているのが外から見えた。

 やはりそこには何もなく、暗い空間が覗えるだけだ。

 チャイムを鳴らしても物音はしない。

 部屋は空室になっていた。

 

遅かった。

 もっと早く素直になって来てみたら良かった。

 メッセージIDは別れた時に消去しているし、聖はコーヒーショップも居酒屋のバイトも辞め、大学も卒業している。

 私は会社も家もそのままなのに、聖からは連絡がない。

 私からはもうどうしようもない。

  

 しばらく泣いた後、とぼとぼと道を引き返し、あの公園に入った。

 盛り上がった土から霜柱が覗いていたけれど、子どもたちなのか、踏みつけられて砕けた針のような氷の残骸が冬の淡い太陽光にきらめきながら溶けていた。

 私たちの思い出もこうして溶けて消えていく。

 聖の心からはもはや消え去っていることだろう。

 来年の今頃は私の心からもすっかり消えているといい、と思った。



 ・「15」 〈2020年11月29日更新〉


 望実と別れてからも夏芽はカフェのバイトを続けていたけれど、望実がカフェに来ることはなくなった。

「望実ちゃん来なくなっちゃったね。夏芽ちゃん、何か聞いてる?」

 オーナーの向井さんに聞かれたが、夏芽は首を横に振ることしかできなかった。


 確かに夏芽は自由になった。

 望実が自分の元を去って男性の元へ行くかもという恐れももうなくなったし、望実に気を遣わずに存分に制作できるようにもなった。

 だけど眠りに落ちる瞬間、目覚めた瞬間、鏡に映る自分を見た瞬間、何かの小さな音を聞いた瞬間、そして作品が完成した瞬間、心に浮かぶのは望実だった。


 自分たちが負けたのは15歳の年齢差ではない、と夏芽は思った。

 自分の弱い心が負けた。

 何も手にできていない焦燥感を望実にぶつけ、望実を信じられず、追い詰める一方で自分は自由になりたいとも思った。

 こんなに愛しているのに、ただ振り回して傷つけた。

 望実の会社も家もわかるし、アプリには望実とのメッセージトークも残してあるけれど、拒否やブロックをされたらと思うと怖くて何もできなかった。

 

 胸の痛みを忘れるように三人展のための制作に没頭し、宣伝はがきやチラシも作り、実家に送ったり、絵画教室やカフェで配らせてもらった。

 写真学科出身の友達に頼み、完成した絵を一眼レフで撮影してもらった。ポストカードにして会場で売るのだ。

 芳名帳も用意し、三人展「希望」の開催日を迎えた。


 望実がクリスマスに送ってくれたパーカーを着た夏芽は、ギャラリーに展示した自分の絵を改めて見た。

 10号サイズの3作は、霜柱、ふたつのみかん、実家の棗(なつめ)の木を描いた。

 30号サイズは美大の後輩たち。

 最後に手がけた一番の大作は望実の後ろ姿を描いた。ぴんと伸ばした背中。ひとつにまとめた長い髪。振り向きそうで振り向かない。手を伸ばせば触れられそうな、でも触れられない愛しい人。

 もう一度会いたいという願いを込めて、タイトルは「望」とした。

 普段は実際にあるものをデフォルメして描くことが多かったけれど、記憶に鮮やかに残る望実の姿を刻み込むように写実的に描いた。


「夏芽ってこんな絵も描くんだね。ありきたりな言い方になるけれど、気持ちが込められていて、好きだよ、この絵」

 美樹にそう言われて嬉しかったけれど、誰よりも望実に見てもらいたかった。

「すごいね」「素敵」そんな単純な、でも心からの望実の言葉をもらいたかった。


 美大を卒業しただけの無名の三人の展覧会に足を運ぶ客は少ない。

 それでも、両親や美大の恩師、同期や後輩たち、カフェの向井さんや常連さん、絵画教室の講師たちや生徒さんが来てくれた。

 絵は向井さんがカフェに飾ると言ってみかんの絵を買ってくれた。あとはポストカードがちまちまと売れた。

 ギャラリー使用料金は特別料金にしてくれたとはいえバイト暮らしの夏芽たちには高かったし、道具代、はがきやチラシ制作費を考えると完全な赤字だったけれど、達成感があった。またバイトして費用を貯めて開催しようと三人で誓い合い、三人展を終えた。


◆◆◆

 

 11月末になり、今年もまた同期女子の忘年会が開催された。

 今年の幹事を務めた彩織から、

「昨年のかがりチョイスの居酒屋が楽しかったから、またそこにしました~」

とお知らせメールが来た時は倒れそうになり、欠席も考えたけれど、もう聖も辞めているしまさか明日香と会うこともないだろうと思い直した。


 当日、同期たちと入店すると、昨年聖が着ていたものと同じ作務衣を着た若い子が「いらっしゃいませ~!」と笑顔で出迎えてくれた。

 思わず聖の姿を探してしまう。

 聖と別れた今年の2月、勢いで連絡先を全て消去したけれど、一ヶ月ほど後、もう一度話し合いたくてバイト先のコーヒーショップとこの居酒屋にも来てみた。開店前、看板を出しに出てきた子に聖について聞いてみると、「生田さんなら2月いっぱいで辞めました」と告げられた。


 一年ぶりに入った店内は、聖がいないこと以外はほとんど変わりがなかった。

「かがり~こっち!」 

 昨年欠席だったママ組の香苗と奈美が小上がりから手を振った。

 彼女たちは今年4月から仕事に時短勤務で復帰した。保育園に子どもを預けているのでなかなか夜の飲み会は出られないけれど、この忘年会だけはと一度戻って保育園にお迎えに行き、夫や親に子どもを任せてからまた出て来てくれたのだ。


「去年、やたらイケメン美人な店員さんいたよね。また会えるかと密かに期待してたんだけれど」

「覚えてる。今日はいないのかな? 休みかな?」

「えっ、見たい見たい」

 きょろきょろと店内を見渡している彼女たちの声に汗が出る。

「飲み物は? やっぱり今年もクーニャンスタート?」

 みんなが頷き、授乳中の二人以外は全員クーニャンをオーダーした。

「もうこの会、クーニャン会にしよう。それで毎年ここで忘年会。決まり」

 真里が言い出し、笑いながらみんなで乾杯した。


「今年も私たち男性社会の中でよく頑張って働いたよね。香苗と奈美は育休からの復帰、お疲れさま」

「ありがとう~! 子どもの熱と胃腸炎が続いて心が折れそうだったけれど、なんとか周りの皆さんに助けられてここまで来ました」

「これからインフルエンザが怖いね」

「ほんと。いつ突発的に休むことになるかわからないから、マニュアル作成と情報共有のスキルだけは上がったかな……」

 ママの二人がウーロン茶でグラスを合わせていると、真里がそっと手を挙げた。

「一応報告だけど、私もう今年で不妊治療卒業します」

 4年前に結婚した真里は、ここ2年間不妊治療に励んでいた。

「そうなんだ……ずっと頑張ってきたもんね」

「うん。病院からはどんどんステップアップを求められるけれど、毎月何日も有給申請して遠い病院に行くのも、幸太くんをせっつくのも、もう正直疲れたんだ」

「私も不妊治療の末になんとか妊娠したから、しんどさはわかるよ。お医者さんに言われたとおりに正しいことをしているはずなのに結果が出ないって、本当に辛いもんね」

 涙目になって頷いた真里の背中を、香苗がさすった。

「ママになりたくて頑張ってきたけれど、まあ縁がなかったのかな。これからは治療のために今まで我慢してきた海外旅行に行ったり、動物も飼ってみたいなって幸太君と話しているの」

「うん。結婚しなきゃ、子ども産まなきゃ幸せになれないってことはないよ。人と違ってもこれが自分が幸せだって思えたらそれでいい。あ、違ったと思ったらやり直してもいい」

「ふみちゃんが言うと重みが違うよね」

 昨年同期の立花と離婚したふみの言葉にみんなが頷く。


「……私もね、大好きだった人がいたんだけれど私のせいで2月に別れちゃったんだ。どうにかもう一度会いたくて頑張ったけれど、だめだった。この先もう誰のことも好きになれないかもなんて思うけれど、私も自分の幸せを見つけていくよ」

 思わずそう打ち明けた。

「かがりっていつも、みんなのことは気遣ってくれるけれど自分のことは割とはぐらかしちゃって抱え込むから、そうやって話してくれて嬉しいよ」

 真里が言い、みんなが頷く。

「ねえかがり、この先もずーっとお互いに一人だったら、引退後は同じマンションの別部屋に住もうか? それで時折飲んだりごはん食べたりさ」

 ふみがいたずらっぽい表情で提案してきた。

「いいね。メゾン・ド・クーニャンだ」

「えー、私もそこに住みたい」

「私も」

みんなが口々に賛同し、私たちは笑いながら乾杯した。


 こうして一年が終わっていく。

 死にたいほど辛く悲しい日々も少しずつ時が追いやり、今私は笑っていられる。

 「15」の中で夏芽が悟ったように、私たちが負けたのも15歳という年齢差ではなかったのだろう。

 年齢差、そして聖のせいにしていたけれど、聖を信じることができなかったのは私ではないだろうか。

 聖が嘘をついていたのだと思い込み、恨むことで心から切り捨てようとしてきたけれど、素直になれずに嘘をついていたのは私のほうだったのではないか。


 もう一度会えたなら、謝りたい。

 そしてどれほど好きだったか――今もこんなにも好きだと伝えたい。

 でも聖が完全に姿を消した以上、それは望めそうにもなかった。



 ・「15」 〈2020年12月13日更新〉


 絵画教室のパートに行くと、夏芽の先輩、作山の隣に絵画教室統括の大野先生が立っていた。

 いくつかの文化センターで開催している教室はすべて分教室で、大野先生が自宅で三十年前に始めた絵画教室が元になっている。先生も夏芽と同じ美大の油絵科の出身だった。

「大野先生が加藤先生に話があるからっていらしてくださったんだよ」

 普段は夏芽と呼ぶ作山が、大野先生の前では講師らしくきちんとした調子で言う。

 大野先生はサブ講師にすぎない夏芽にも気を配ってくれる優しい先生で、三人展にもわざわざ足を運んでくれた。

 そのことについてお礼を言うと、大野先生は笑顔で夏芽にチラシを見せた。

まだラフの段階で、文字だけが配置されているものだった。


〈おおの絵画教室 北野文化センターにて新教室開講! 4歳から何歳の方でも楽しめます〉


「新教室、開講するんですね」

 チラシを読んだ夏芽が顔を上げると、大野先生が頷いた。

「うん。加藤先生、この新教室のうち二つを、メインで担当してみないかい? 私としては子ども教室とシニアの教室を担当してもらいたいと思っているんだ」

「え、私が……光栄ですが、私なんかに務められるんでしょうか」

「約一年間、サブ講師としての仕事ぶりを見てきたし、生徒さんたちからも話しやすくポイントを押さえて教えてくれると評判がいいんだよ。忙しい中でもいつも手本の作画も頑張ってくれているね。それに、こないだの展覧会でも実力を確認できたし。作山先生も加藤先生ならきっとできるって言ってくれたよ」

 作山が大野先生に隠れて、そっとウインクして見せた。

 感激のあまり夏芽の目は潤んだ。

「ただごめんね、正直、二つの教室担当の給料だけでは生活していくことはまだ無理だと思うから、他のアルバイトはまだ続けないといけないけれど」

「ありがとうございます。是非やってみたいですが、不安は多いです」

 大野先生は優しく微笑んだ。

「そりゃそうだ。逆に経験もないのに自信満々にされるより安心だよ。4月開講だから、カリキュラムなどは二ヶ月かけてこれから私や作山先生と相談しながら決めていこう。もしよければ、このチラシに三人展で加藤先生が出していた一番大きな絵、『望』っていったね、あのビジュアルを使わせてもらえないかな。荒削りだけどインパクトがあったし、切々と訴えるものがあって目を引いたから。それに、若くてもこれだけの作品を描ける講師なんだって宣伝にもなるだろうしね」

「はい、是非使ってください」


 帰り道、夏芽は空までも飛びそうな気持ちで喜びを味わっていた。

 もちろんまだスタート地点に立ったばかりだけれど、必死で描いた絵や仕事ぶりが認めてもらえ、メイン講師になれたことが嬉しかった。

 今すぐ望実に連絡して報告したい。

 しかし、画面に望実の電話番号を表示したところで、夏芽の指は止まってしまった。

 どうしても勇気が出なかった。


◆◆◆


 12月になると街はイルミネーションが点灯し、行き交う人も華やいでいく。

 昨年の今頃、クリスマスの計画を立てていた。

 勉強にバイトにいつも頑張っている聖を労いたくて、どこか素敵なレストランにでも行こうかと言うと、聖は首を横に振った。

「かがりばっかりにお金を使わせて申し訳ないよ。私が料理作るから、家でゆっくり過ごそうよ」

「だって、聖のお疲れさま会だもん。それなら私が料理を作る」

 そう宣言すると、聖は不安そうな顔をした。


 もともと私は食事に無頓着で、普段は湯豆腐やゆで卵を作るくらいで、あとは惣菜を買ってくる。二人でいる時はいつも料理上手な聖が用意してくれていた。

 だからたまには聖に手料理を食べさせたかったのだけれど、そもそも得意ではないのでレパートリーもない。

 思案した挙げ句に私が用意したクリスマスディナーは、テイクアウトしたグリルチキン、ベーカリーで買ってきたバゲット、湯煎で温めるだけのコーンスープ、ベビーリーフにプチトマトを散らしてドレッシングをかけただけのサラダ、あとなぜか思いついてしまい前夜から仕込んでいたおでんだった。

「なんで突然おでんなの?」

 聖は笑いながら鍋を覗き込んだ。

「最近寒いなあって思ったところから、冬になると母が作ってくれたっけと思い出して……おでんだけは私がちゃんと一から作ったよ。とは言っても大根とゆで卵とこんにゃくくらいであとは練り物だけど……味は母に聞きながら調整したから美味しいはずだよ」

「そっか。いただきます!」

 聖は嬉しそうに食べてくれた。


「かがりはご両親と仲がいいの?」

「連絡はちょこちょこ来るかな。すぐ結婚の催促になるのが嫌なんだけどね。でも急に私がおでんの作り方を聞いたから、誰か作ってあげたい相手がいるのねって母は勝手に喜んでいたよ」

「その相手は私です……。女性とも付き合ったことは言ってる?」

「言えないよ、私の親の世代はまだまだ理解は難しいわ」

「私もカムアウトはしていないけど、なんとなく他の子とは違うって気づいているかもな。まあでも、そもそもそんなに私に関心がないけれど」


 寂しそうに笑う聖を見て、私は以前、聖が教師を目指した理由について話してくれた時の言葉を思い出していた。


 ――両親は忙しくしていて、いつも私に『何か変わったことはない?』とだけ聞いていたから、まさか何より自分が変わってる、なんて言えなくて。心配もかけたくなかったし。


 せめて私はいつも聖の思いをわかっていたい、改めてそう思った。

 でも私は結局、聖の心の底に沈んだ不安に気づけなかった。


 食後には聖が買ってきてくれた小さなケーキを二人で食べ、プレゼントとして聖にマフラーを贈った。

「聖は寒いの苦手だから」

「嬉しい。もっこもこだね、あったかそう」

と聖は嬉しそうに言って早速巻いて見せた。

 緑と黄色がまざった太い毛糸で編まれたマフラーは聖にとてもよく似合っていた。

「とってもあったかい。ありがとう」

 聖からはボディクリームをもらった。

「かがりはこういう匂い、好きだと思って」

 蓋を開けてみると、聖の匂いにも似た柑橘類のさっぱりしたいい香りがした。

「聖の匂いと似てる。これを塗れば聖と会えない時にも寂しくないかも」

「じゃあ今日は塗らなくてもいいか」

 聖の腕にからめ取られ、抱き寄せられる。

「私の匂いを直接嗅いでよ」

 私は笑いながらくんくんと聖の首筋の匂いを嗅いだ。


「ねえかがり。誰も私たちのことなんて祝福しないだろうね」

 抱き締められたままだったので、そう言った聖の顔は見えなかった。

「どうしたの、急に」

 私が身じろぎして聖の顔を見ようとするのを押しとどめるように、聖はさらに私を抱き締める腕に力を込めた。

「かがりはそれでいいのかなって思って」

「……いいよ、誰にも祝福されなくても、誰にも認められなくても。聖といたい」

「ありがとう」


 あの時、聖はどんな表情で言っていたのだろう。

 もう別れを覚悟していたのだろうか。

 私と離れる準備を始めていたのだろうか。

 満ち潮のように音もなくひたひたと近づく別れを見ないようにして私たちは愛し合った。

 

 ボディクリームは翌日から毎日使い、別れるまでに使い切ってしまっていたのでもう手元にはない。

 あのマフラーはどうなっただろう。

 聖が持っていった私に関係するものはあのマフラーくらいだ。

 今も使っていてくれているといい。

 そしてたまには私を思い出していてくれたらいいのに。



 ・「15」 〈2020年12月27日更新〉


   3月、夏芽の作品「望」と、講師陣の一人として夏芽の顔写真が掲載された絵画教室のパンフレットが出来上がった。

 作山に手伝ってもらって作成したカリキュラムを大野先生に提出し、何度かやり取りをして合格ももらった。

 カリキュラムに沿って、手本となる絵も何枚も作成した。


 興奮していたのか、眠れずに明け方までずっと描き続けた日のことだった。

 空腹を覚えたけれど、冷蔵庫には何もない。

 夏芽はジャンパーを羽織って外に出た。

 誰もいない朝5時。ポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら歩いていると、ふと道ばたの雪が溶けて土が覗く場所に、ぽこぽこと盛り上がっている部分を見つけた。

 ――霜柱だ。

冬が始まった頃の朝を思い出した。


 それは夏芽が三人展に向けて制作を始め、望実が初めて夏芽の部屋に泊まった週明けだった。本当は望実は日曜日の夜に帰る予定だったけれど、珍しく帰りたくないと言い出して日曜の夜も泊まり、月曜の朝に一旦自宅に戻って着替えてから会社に行くために早くに出発した。

 夏芽は朝が弱い。一人で行けると望実は言ったけれど、駅まで送ると言って夏芽が起きて準備すると嬉しそうな顔をした。

 きっとあの頃から望実は夏芽を応援しながらも、寂しさを我慢していたのだろう。


 二人で駅に向かって歩いていく途中の道ばた、霜柱を見つけた。

「霜柱だ! 一緒に踏もうよ」

 夏芽は望実の手を引っ張って霜柱の上に立たせると、ステップを刻むように踏んで見せた。スニーカーの底でシャリシャリと音がした。

 しかし、望実は眉を寄せて立つだけだった。

「どうしたの?」

「踏んだら霜柱がかわいそうだよ」

「望実さんったら。霜柱はただの氷だよ」

 夏芽が笑うと、望実は口をとがらせた。

「そうだけど、だってせっかくキレイに生まれたのに。ね、踏まないで」

「わかったよ」

 夏芽は頷いて望実の手を握り直し、足をどけた。

 まだ暗い朝の中、外灯の明かりを反射させて霜柱がきらめくのを見ながらその場を離れた。


「霜柱ではしゃいだりして子どもっぽいって呆れた?」

 歩きながらふと心配になって夏芽が聞くと、望実は笑顔で首を振った。

「ううん。見つけてくれてありがとう、私だけだったら気づかなかった。夏芽ちゃんといると、何でもないことでも楽しめちゃう」

「……霜柱のことまで大切に思える望実さんの優しいところが好き」

「霜柱ではしゃげる夏芽ちゃんが好きだよ」

「そういう風に言ってくれる優しい望実さんが好き」

「あはは、きりがないね」

 そう言って望実が嬉しそうに笑い、夏芽の手をぎゅっと握った。


 誰もいない寒い初冬の朝。

「こうして外で望実さんと手を繋いで歩けるなんて。早起きして得しちゃった」

 夏芽が言うと、望実が夏芽を無言で見上げた。

 二人は顔を寄せ合い、キスをした。 


 ――そうだった。

 きりがないほど望実のことが好きだった。

 望実といるだけで幸せだった。

 いろんなことを望実と話したけれど、肝心なことを伝えてこなかった。

 もっともっと言葉にして伝えればよかった。

 彼女のことも、彼女との関係ももっと大切にすればよかった。

 

 

「望」の絵だけでも、望実に見てもらいたい――。

 夏芽は心を決めた。 


 ◆◆◆


 スマホを持つ手が震え、心臓が激しく鳴っていた。

 ――なぜ、霜柱の思い出が「15」に出てくるの?

 ――「15」は聖が書いているの?

 15歳という年齢差のほかにも、いくつか私たちと重なる部分がある。

 でも、小説の中の夏芽は美大出身の絵画教室講師だったり、望実と同棲していなかったり、私たちと異なるところはたくさんある。それに付き合っていた頃、聖は隣で私がブログや小説を読んでいてもほとんど興味を示さなかった。書くことなんてなおさらで、卒業論文を書くのも苦労していた。


 でも、もしかしたら。

 作者「夏芽」に連絡を取ってみようか。

 しかし夏芽のプロフィールページを見てみると、DMを受け付けない設定になっていた。

 読者たちが考察を繰り広げるコメント欄で、〈聖なの?〉なんて聞けるはずもない。

 私は歯がゆい思いをするしかなかった。

 


 ・「15」 〈2021年1月9日更新〉


 その日の夜7時過ぎ、絵画教室のパートが終わった後に夏芽は望実の会社に向かった。

 会社がどこにあるかは知っていたけれど、バイトをしているカフェからも近く、人目につくのを望実が恐れていたので付き合っていた時も迎えに行ったことはない。

 望実が誰かと出てくることも考え、広い道を渡った向かいでガードレールに腰掛けて待った。

 望実の会社が入居しているビルの正面玄関はすでに施錠され、社員たちはビル  の脇の裏口に通じる道から出てくる。心臓がずっと高鳴っていた。


 9時近くになって望実が同僚らしき男性と出てくる姿が見えた。

 ずっとこの目で見たかった姿をようやく認め、夏芽は弾かれたように身体を起こした。道路を挟んで追いかけたが、望実は男性と談笑しながらまっすぐ駅へ向かっていき、なかなか一人にならない。

 そのまま望実が男性と地下鉄の駅入口に入っていきそうになり、とっさに夏芽は大声で

「望実さん!」

と叫んだ。


 望実は驚いた顔をして振り向き、目を細めて夏芽に気づくと、同僚に夏芽のほうを指差しながら何事か言った。彼も夏芽を見て、頷きながら礼をして地下鉄駅の階段を下りていった。

 いざ望実を呼び止めたことで夏芽の緊張はピークになり、その場に根が生えたように固まってしまった。

 望実は車の往来が途切れた隙間を縫って道路を走って渡って来た。


「夏芽ちゃん……どうしたの」

 望実は息を切らしていた。

 別れてから2ヶ月半ほど。長い髪もキレイな笑顔も若々しい姿も変わらない。

 どんなに会いたかったかを突然自覚し、夏芽は言葉が出てこなかった。

「あ……元気ですか」

 なんとか声を絞り出した夏芽を見て望実は微笑んだ。

「うん、元気だよ。三人展、無事に開催できたんだってね。向井さんに偶然会った時に聞いたよ」

 夏芽は驚いた。

 向井さんは望実に会ったことなど一言も言っていなかったから。

 展覧会で黙って「望」の絵を見つめていた向井さんの姿を思い出す。彼は何かを感じ取っていたのかもしれない。


「最近なんでランチに来ないのって言われちゃったから、社内食堂で食べる決まりになったって適当に言っちゃった」

 言いながら望実は笑った。その明るい様子に、思いを募らせていたのは自分だけかと夏芽は心がしぼみそうになる。

「三人展で出した『みかん』の絵、今カフェに飾っているんだってね。私、あの絵好きだった」

「うん、ありがたいことに向井さんが買ってくれて」

 夏芽はようやくきっかけを見つけ、リュックサックからクリアファイルを出すと、挟めていた絵画教室のチラシと「望」のポストカードを望実に渡した。


「これね、別れてから描いた望実さんだよ。五枚の絵の中で一番大きいの。別れる前から望実さんを描くことは決めていたんだけれど、描き始めたのが別れた後だから、もう一度会いたい、振り向いて欲しいって思いながら描いた。だからタイトルは『望』ってつけた」

 望実はポストカードに目を凝らした。

「望……」

「私はいつも対象をデフォルメして描くのが好きだけれど、望実さんのことはもう会えないかも知れないから記憶に残ったそのまま描きたかった」

 夏芽は望実に新教室のチラシを見せた。

「そしたらね、この絵を見た絵画教室総括の大野先生が、4月に開講する新教室で私に二つの教室を任せたいって言ってくれて、『望』も使ってくれたんだ」

「夏芽ちゃん、すごいじゃない……」

 見上げた望実の目が潤んでいた。

「まだまだ、これからだよ。カフェのバイトも続けないと生活できないし、一年契約だから来年度更新してもらえるかは今年度の結果を見るって。でも、望実さんのことを全力で描いた絵がきっかけで一歩進めたから、どうしてももう一度会って話したかった」


 夏芽は深呼吸した。

「私の弱さとかずるさ、自分勝手さで傷つけてごめんなさい。子どものことを勝手に思い込んで責めてごめんなさい。私、望実さんのこと忘れられない。本当に会いたかった」

 言いながら泣き出した夏芽を望実が抱き締めた。

「望実さん……人に見られちゃう」

「もういいよ。いいんだよ誰にどう思われても。私こそ弱くてずるかった」

 望実も泣いていた。

「離れてからも、夏芽ちゃんと一緒にいる時のわくわくした楽しさが忘れられなかった。でも私がいないほうが夏芽ちゃんにはいいと思ってカフェにも行かなかった」

「私は望実さんと見たもの、望実さんと食べたもの、そして望実さん自身を描いていきたい。望実さんが必要なの」

 泣きながら望実が頷いた。

「……夏芽ちゃんが好き。私と一緒にいてくれる?」

「本当に?」

「本当に」

 

人々が通り過ぎていく中、二人は寄せていた顔を少し離すと、微笑みあった。

「私も望実さんが好き。望実さんに見せたい絵がいっぱいあるよ」

「うん、見せて」

 夏芽が望実の手をぎゅっと握る。

 今度からは、時間をかけてでもちゃんとひとつひとつ伝えよう。

 不安に思うことも、幸せに思うことも全て。


 ――もうこの手を二度と離さないために。


 二人は手を繋いだまま、歩き出した。


             (終)


 ◆◆◆

 

 1月末の週末のことだった。その日、聖は居酒屋のバイトの後に私の家へ来た。

「今年、もう一度教採に挑戦しようかと思って」

 そう聖が切り出した。

 私は聖の伸びてきた髪を触った。数ヶ月前に染めるのを止めた聖の髪は、すっかり黒い。「そのつもりだろうと思っていたよ。頑張ってね」

「そっか」

と聖は言い、少し困ったような顔をした。

「だからまだかがりを安心させられないし、バイトもそんなにできないからたいして稼げないし、もっと勉強するために会える時間も減って寂しくさせると思うけれど。5月には教育実習で一ヶ月くらい会えないと思うし」

「うん、わかった。私も頑張るよ」

 そう言うしかない。不安が胸に広がり、私は目を伏せた。


 もうずっと些細なきっかけで喧嘩と仲直りが繰り返されていた。

 仲良くしていたいのに、聖のちょっとした言葉や行動が私の神経に障ってしまう。

 会っている時はまだどんな表情で話しているかを見ることができるし、疑問に思えば聞くこともできる。

 でも、会えずにメッセージや声だけのやりとりだと、どれだけ気持ちを込めても込めなくても、表示される文字に変わりはない。

 私の入力する「愛しているよ」と聖から送られる「愛しているよ」にどうしても差があるように感じられ、もやが晴れなかった。


 こう書けばかがりは安心するんでしょ? 

 こう書かないと話が終わらないでしょ?


 そう聖が考えているように思えた。

 会わない時間が増えたらどうなるかわからなかった。


「聖は寂しくないの?」

「んー、自分で決めたことだしね」

「そりゃそうだけれど……頑張って欲しい、応援しているって気持ちの他に、やっぱり寂しいって気持ちが私にはあるから」

「だって、かがりと一緒にいるために頑張るんだよ」

 諭すような口ぶりで聖は言った。


 そういうことじゃない。

 私は聖と気持ちをわかちあいたい。

 私の気持ちを理解できるのは聖しかいないのに。

 いつもこんなズレが私と聖の間にはある。私はため息をついた。


「……でも、頑張るけれど、合格する確証もないんだよね。だから待っていてっていうのも虫がいい話だと思うから、もし、かがりに他のいい人が現れたら、遠慮しないでその人のところに行ってね」

 耳を疑った。

「なんでそんなことを言うの?」

「だってそうでしょう? 15歳年下の、試験に受かるかも就職できるかもわからない女より、働いている男の人と一緒になるほうがかがりのためになるんじゃないの?」

「なんでそこで男の人が出てくるの? 私は聖が好きなのに」

「かがりは私と違って男の人のことを好きになれる。その人との子どもだって産める。前に付き合っていた人と結婚したかったんでしょう? なんならその人とまた連絡とってもいいんじゃない」

 言いながら聖は興奮してきているようだった。


「意味わからないよ、なんでそんなこと言われないといけないのか。彼は私と結婚する気もなかったし、私は彼に愛想を尽かしたんだし。別れた後も元カノに相談とかする聖のほうがよほど信用できないよ」

 売り言葉に買い言葉だ。

 お互いに入ってはいけない領域に歩みを進めていることに気づきながらも止められない。

「それは悪かったってば。でも、明日香だって男の人を選んだ。明日香の前に付き合ってた子たちでも私と別れて男の人と付き合った子がいる。結局私と付き合うのって一瞬のお遊びみたいなものなんだよ。かがりだってきっとそうなる」

「それぞれの子の選択なんて知らないし。勝手に決めつけないでよ」


 強い口調で言い放つと、聖は一筋涙を流した。

「私はかがりに何をしてあげられるのかな。ねえ、私の何がいいの? 私に比べたら、あの相田って人でも何万倍もかがりにふさわしいと思う」

「そんなこと言わないでよ。聖に何かしてもらうために付き合っているわけじゃない。好きだから一緒にいたいの」

 聖は私の目を見ずにしゃくりあげながら言い放った。

「なんでかがりは男の人のことも好きになれるの? 私ずっと不安だった。私と同じく女の人しかだめならまだ安心できたのに――」


 ああ、聖はずっとこんな不安を溜め込んできたのか。

 私――聖のこと、何もわかってなかった。

 

 でもこの言葉はどうしても看過できなかった。

 私だって男性にも女性にも惹かれるという自分の特性について悩むこともあった。

 けれどそれが私だ。

 こんな私自身を少なくとも聖は受け入れ、愛してくれていると思っていたのに。

 絶望にも似た怒りが湧き上がる。


「信じられない。聖にだけはそんなこと言われたくなかった。セクマイの子のために教職を目指したって言ってたくせに。だから教授に注意されたんじゃないの?」

 泣いて言う私の言葉に、聖は目を見開いた。

 言ってしまったことに自分で呆然としているようだった。 

「ごめん……ひどいことを言った」

「確かに私は結婚して子どもが欲しいと思っていたよ。でもそれは聖と会う前に別の人と付き合っていた時だよ。聖と付き合ってからは、聖との子どもが欲しいって思ったりもした。簡単なことじゃないから軽々しく言えなかったけれど、一人で調べて考えていた私がバカみたい」

「かがり……」

「私のこと好きだっていいながら、ずっとそうやって私のことを信じずに疑っていたんだね。好きだなんて嘘をついてきたんだね!」

 聖は否定せずに私から目を逸らせた。

「――ごめん、今日はもう帰る」

 私は止めなかった。

 先ほど脱いだばかりのコートを着ると、聖は足早に外に出て行った。


 そして2月4日。立春の日。

 私たちは別れた。

 気まずいまま数日を過ごし、聖が仲直りするために家に来てくれたけれど、結局私たちは別れを選んだ。


「私といるのが辛いんでしょう? 私から逃げたいんでしょう? 自分だけ楽になりたいんでしょう? それなら私を捨てて行けばいい」


私の顔を見れば何でも許せると言っていた聖は、その日私の顔を見なかった。

 もう、〈かがりが好きだよ〉と嘘をつかなかった。

「私はかがりにふさわしくない。私がいないほうがかがりは自由になれる。かがりには幸せになってほしい」

 そう疲れたような表情で言うと、薬指から抜いた指輪と、ポケットから出した合鍵をテーブルに置き、立ち上がってドアを開けて出て行った。

「私の幸せが何かも知らないくせに、決めつけないでよ」

 私の言葉は聖に聞こえなかっただろう。


 泣いて、泣いて、泣いて、私も指輪を外した。

 二個とも投げ捨てようとしたけれど、どうしてもできなかった。

 引き出しの奥から箱を見つけ出し、並べて収納するとまたしまいこんだ。

 聖が置いていった鍵は私がもらった合鍵と一緒にキーリングに付けた。


 一緒に過ごした8ヶ月、240日。

 毎日、好きと言えば好きと言われ、愛していると入力すれば愛していると返事が送られてきた。

 聖の言葉を許せなかった私は、聖の何を理解して、好きだと、愛していると言っていたのだろう。

 聖は私への疑いを心に漂わせたまま、どんな顔で好きだと、愛していると言っていたのだろうか。

 そうやって私たちが重ねた嘘は1000にもなっただろう。

 

 「15」の夏芽のように、いつか聖も私に会いに来てくれるだろうか。

 また向き合える日がやってくるだろうか。

 それとも、いつしか時の流れの中で記憶も薄れ、互いに別の幸せを見つけるのだろうか。


 ぐるぐると考えを巡らせていると、スマホの通知音が鳴った。

 見てみると、「15」の更新の通知だった。

 完結したのでもう更新がないと思っていた私は慌ててタップする。

       


・「15」 〈2021年1月12日更新〉


〈あとがき〉


 こんにちは。作者の夏芽です。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 今までコメントをいただいても、返信もせずすみませんでした。

 私は初めて小説を書くので、感想について会話すると書きたいことがずれていくかもしれないと思い、返信できませんでした。

 申し訳ありませんでした。

 あとがきに代えて、今までいただいた質問で一番多かった「作者に実際にあったことを書いているのか」について書きたいと思います。


 だいぶフィクションにしていますが、「15」は実際に私が経験したことを元に書きました。でも、最後の夏芽と望実の再会部分は完全な創作です。


 一昨年、私はある女性に出会い、恋をしました。

 しかし私の心の弱さ、未熟さのため彼女を信じ切れず、一年も経たずに別れることになってしまいました。


 文章を書くことはどちらかといえば苦手で、もちろん小説なんて書いたことはなかったのですが、別れてから彼女にこうすればよかった、こんなことを言えばよかったという後悔と謝罪の気持ちがどうしても消えず、小説の形なら思った通りに書けて心が整理できるかもと思い、書き始めました。

 彼女がたまにここのサイトでブログを読んでいたので、もしかして見てくれるかもしれないとも思いましたし、完結したら彼女に見せて、謝って、これが本当の私の気持ちだと伝えられたらいいなと思っていました。


 でも、書き終えた今はやはり見せられないと思っています。文章も下手だし、書きながら彼女を傷つけたのは自分だという事実を改めて認識しました。辛くて書けなかったこともたくさんあります。謝罪を受け入れて欲しいなんて虫がいい話です。 むしろ、許可なく勝手に書いたことで気分を害するのではないかと思います。


 だから、彼女には会えていません。

 連絡も取っていないので、今彼女がどうしているかもわかりません。

 彼女が住んでいる場所も、働いている会社もわかっているから、夏芽が望実に会いに会いに行ったようにその気になったら会えると思います。夏芽のように報告したいこともあります。

 でももし実際に会いに行って、ストーカーだと思われて決定的に嫌われたり、彼女がもう誰かと幸せになっているかも知れないと思うと、怖くてたまりません。

 彼女に幸せになって欲しいと思う一方で、心が狭い自分はその事実を受け入れられず、さらにダメージを負ってしまったらもう立ち直れないだろうと思うのです。

 会わないでいれば、またいつかどこかで偶然笑って会えるかな、なんてぼんやり考えていられますから。


 次の作品についての質問もいただきましたが、私が書きたかったのはこの話だけですし、完全な創作をするほどの才能はありません。自分を見つめ直しながら書くことは辛いことも多かったので、もう書くことはないと思います。

 このまま放置しておきたくもないので、近いうちにこのアカウントごと消す予定です。


 今まで読んでいただき、ありがとうございました。


 ◆◆◆  


「聖……」

 何度拭っても、涙でスマホの画面が歪んでしまう。


 やっぱり聖だったんだね。

 たくさんの幸せな思い出と後悔、私たちが行き着けなかった未来を、夏芽と望実を通して書いてくれたんだね。

 そしてまた私の前から消えようとしている。

 どうしたら。どうしたらいいの。


 またスマホから通知音がして見てみると、夏芽がコメントの質問に返信をしていた。

    

〈実際にあったことだからこそリアルな表現で心を揺さぶられました。ちなみに、主人公も夏芽さんと同じ名前ですが、「夏芽」にどんな意味を込めているのか気になっています〉


〈「夏芽」は、実家に棗(なつめ)の木があり、昔、夏に芽吹くことから和名が「ナツメ」になったと母から教えてもらったことを思い出し、調べてみると同じような種類の木の中で、棗は一番冬の寒さに強いと書かれていました。

 私たちの恋も夏に始まりましたが、私の弱さのせいで冬を越せませんでした。書くことを通して冬の寒さ(現実)に強くなりたいという思いを込めて夏芽というペンネームと、主人公の名前にしました〉


 また涙が溢れる。

 聖――。

 このまま何もしなければ、聖がアカウントを消し、今度こそ本当に絶たれてしまうかもしれない。

 私は必死で指を動かした。

 「15」を読んできたのだと、また会いたいのだと聖に伝えなくては。


〈『15』は夏芽さんが強い覚悟で書いたものなのですから、夏芽が望実に絵を見せに行ったように、本物の望実にも届けてください。望実もたくさんの後悔をしていますが、連絡先も消してしまい夏芽さんに連絡を取る手段がありません。望実はまだ指輪を二つとも持って待っています〉


 その私のコメントが表示された後、夏芽はどのコメントにも返信をしなかった。

 代わりに〈指輪のエピソードなんてあった?〉〈まさか、望実さんのモデルになったご本人?〉〈夏芽さん返信して〉などの憶測のコメントが増えていった。

 それでも夏芽は沈黙したままだった。


 いたたまれずに閉じて翌朝見てみると、夏芽のアカウントは削除されていた。

 6月に偶然「15」を見つけてから、いつの間にか夢中になって更新を心待ちにするようになった。読むことで当時の聖の気持ちがわかるように思えて、荒んでいた心が慰められ、聖にもう一度会いたいという思いが募っていった。

 こうして全く別の形で出会ってもなお、私は聖に惹かれていっていた。

 どんな形でも、私の心を揺らすのは聖だけだ。

 その聖を私は再び失ってしまった。


 一年前に聖と別れた時のように虚無感に襲われた。

 ロボットのように朝起きて出勤し、会社で仕事をしている間は何もかも忘れて没頭し、また終わると身体を引きずるようにして家に帰る。

 残業を積極的にしてできるだけ退社時間を遅くした。

 その一方で、夏芽のアカウントが消えた翌日、翌々日はもしかしたら夏芽のように聖が会社前で待っていてくれるのかもしれないと期待してビルを出る自分がいた。

 しかし、聖の姿はなかった。


 三日目の夜もビルから出ると、しばし辺りを見渡し、聖を探した。音もなく雪がしんしんと降る中、どこにもいないことを確認して諦めて帰ると、マンションエントランスの郵便受けに大きな封筒が入っていた。

 切手などは貼っておらず、私の住所は記載されていない。

 ただ表に〈宮原かがり様〉と書かれ、差出人の情報は何もなかったが、見間違えようがない。懐かしい聖の筆跡だった。

 エレベーターに乗って自宅まで行くのももどかしくその場で封を破ると、中には「15」を全て印刷した紙の束と、一枚の手紙が入っていた。

 

 全身に心臓を散らしたかのように動悸を感じながら手紙に目を通す。

 こんな緊張は久しぶりだった。

 一昨年の6月、あのコーヒーショップで聖にメッセージIDを書いたメモを渡した時のようだった。


〈かがりへ


 「15」をかがりが読んでいてくれたなんて思いもしなくて、せっかく悩みながらコメントを書いてくれただろうに、驚いたのと恥ずかしさで返信もせずにとっさにアカウントを消してしまってごめんなさい。


 ずっとかがりのことを忘れる努力をしたけれど、忘れられなかった。

 会いたくて会いたくてたまらなかった。

 謝りたかった。

 でもひどいことを言ってしまってかがりを傷つけた私のことなんて嫌いだろうと思ったし、もしも会えるとしたならば、きちんと成長して一人前になった時だろうと思いました。


 目標だった教員採用試験にはなんとか合格しました。

 これでようやくかがりと向き合えると思っていたのに、そしてかがりが私を見つけ出してくれたのに、相変わらず私は弱くて浅はかな子どもでした。

 「15」では夏芽はちゃんと自分で決意して望実に絵を見せに行ったのに、書いた私ときたらまたかがりから逃げようとしてしまいました。


 でも、今ここでまた逃げれば、別れてからの苦しかった一年間が無駄になってしまう。

 私がかがりにまた会える資格があるのか悩んだけれど、もしまだ私を受け入れてくれるなら、外に出てきてください。

 今夜、何時まででも待っています。 

                                   聖〉


「聖っ――」

 封筒と「15」を抱えたままガラスのドアを開け、私は外に飛び出した。

 マンション前の道路には人影はない。

「聖!」

 叫ぶと、道の向かいの物陰から聖が姿を現した。

 伸びた髪ごとプレゼントしたマフラーで巻いている。その頭に肩にうっすらと雪が積もっていた。以前よりも少し痩せたようだった。

「かがり……」

 その声が白いもやとなって消えないうちに、私は聖に抱きついていた。

 どれほど待っていたのだろう、聖の身体は冷え切っていた。

「寒いの苦手なくせに」

 体温を少しでも分け与えたくてぎゅっと抱き締めると、聖の腕もおずおずと私の背中に回り、抱き締めてくれた。懐かしい柑橘類のような匂いが私を包む。


「あ――会いたかった。すごくすごく会いたかった。会いたかった……」

 聖はそれだけを涙声で繰り返した。

「私も会いたかった」

 そう告げると涙がわっと溢れた。

「かがり、ひどいことを言ってごめんなさい。ずっと謝りたかった」

「言わせたのは私だよ。いつも責めて追い詰めてごめんなさい。別れてから私、コーヒーショップにも居酒屋にも行ったし、秋には出勤途中で急に会いたくて仕方がなくなってアパートにも行ってみたんだよ。でも聖は引っ越した後だった。公園で霜柱見つけて一人で泣いちゃった」

「私に会いに来てくれていたんだね。私も11月末頃、教採合格の報告と書類を受け取りに大学に行った朝、懐かしくてあの公園に寄って霜柱を踏んだことあるよ。その時もかがりに会いに行くか悩んでいたけれど、結局勇気がなくて」


 私が見たのは誰かに踏まれた後の砕けた霜柱だった。

 もしかして、私たちは同じ日に時間差であの公園に行っていたのかも知れなかった。


私は少し身体を離し、懐かしく愛おしい聖の顔を見つめた。

「採用試験合格、本当におめでとう」

「ありがとう。例の教授もすごく喜んでくれたよ。アパートは、もう一年挑戦するなら実家に戻って集中しなさいって親に言われて引き払っていたんだ」

「ご両親がサポートしてくれたんだね。よかったね」

 聖は照れくさそうに頷く。

「『15』も見つけてくれてありがとう」

「たまたま見かけて読み始めたら、私たちに重なるところが多くて夢中になったよ。でもまさか聖が書いているなんて思わなかった。霜柱の思い出を読んで、もしかして聖が書いているのかもって思って、あとがきで確信した」

「初めて会った時は私がかがりを見つけたと思ったけれど、今回はかがりが私を見つけてくれたね」

「聖はずっと私に嘘をついていた、聖は私を捨てたって思って恨んで忘れようとしたけれど、忘れられなかった」

「かがりを好きだったことに嘘はないよ。好きだからかがりの過去の恋愛やうまくいかない就活の不安をかがりにぶつけてしまってた。本当にごめんね」


 月明かりと外灯の淡い光の中、私たちの言葉は次々と白い霞に変わって、周りの世界から切り離すように私たちを包んだ。


聖がそっと私の手を握った。初めてデートしたあのバーでそうしたように。


「かがりのことが好きです」


 あの日見下ろしていた夜景の隅で、私たちが今向き合っている。

 幸せな予感しかしなかったあの時から、どれほどのすれ違いと回り道をしたことだろう。

 

「聖のことが好きです」

 

 やっと言えたしやっと聞けた、そう呟きながら聖が私を抱き寄せた。

「……聖にお願いがあるの」

「何?」

 聖が私の顔を覗き込む。

「また書いて欲しい。私たちのことだから、またきっとたくさん不安にもなるし、喧嘩もすると思う。それでもひとつひとつ乗り越えて、二度と離れずに一緒にいました、っていう私たちの物語を書いていって欲しい」

 聖は驚いた顔をした後、みかんの笑顔を見せた。

「わかった。かがりのためにずっと書いていくよ」


 15に、私たちは勝てないかもしれない。

 年齢も性格も考え方も違うから、きっとまた衝突し、傷つけ合う時もあるだろう。

 でも、違うからこそ――15があるからこそ、私たちは何度もお互いに恋をする。

 二度と離れずに、ずっと。

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