15-あるいは1000回の嘘

おおきたつぐみ

第1話

 ――その小説は「15」という題名だった。


 15に負けたのは私? それとも彼女?

 私たちは、私は、どうすべきだったの?

 どこまで過去に遡れば、

 どこまで未来に飛べば、

 また笑い合えるの?


たまたまスマホで目にした小説に息が止まりそうになる。

 私と聖(ひじり)もそうだった。

 私と彼女の間の15というものに、結局私たちは負けたのだ。

 彼女を好きになったのは私だ。

 彼女も私のことを好きだと何度も言った。

 でも彼女は本心から私を好きになることはなかったのだ。

 一緒にいたたった8ヶ月、毎日好きと言い合って――重ねられたのは1000回の嘘。


 聖が私の元を去ったのは今年の立春の日のことだった。

 冬の寒さが苦手な聖が、もうすぐ暖かくなるねと喜んでいたのに。

 春はそこまで来ていたのに、私たちは冬を越すことはできなかった。


 あの時、聖に決定的な言葉を投げつけたのは事実だ。

「私といるのが辛いんでしょう? 私から逃げたいんでしょう? 自分だけ楽になりたいんでしょう? それなら私を捨てて行けばいい」

 黙って聞いていた聖はもう、〈かがりが好きだよ〉と嘘をつかなかった。

 ただ疲れたような表情で口の端でちょっと笑って、薬指から指輪を抜いてテーブルに置き、立ち上がってドアを開けて出て行った。

 だけど、私も疲れていたのだ。

 聖が私を信じてくれないことに。

 

 それから聖とは会っていない。連絡もない。

 それが聖の答えなのだろう。

 一度、彼女のバイト先を訪ねたが、二つとも私と別れた頃に辞めたと聞いた。

 私から自由になった彼女は、今どこで何をしているのだろう。――誰と過ごしているのだろう。

 普段は考えないようにしているけれど、ふとしたことで思い出してしまう。

 そのたび心は痛み、まだ彼女のことを忘れていないと私に訴える。

 捨てられたのに、なぜ私は聖を忘れられないのだろう。


 WEB小説「15」を見つけたのは偶然だった。

 昔から使っていたブログサイトのトップページで「女性向け小説」の新着小説としてピックアップされているのをたまたま見かけたのだ。

 作者は「夏芽(なつめ)」。プロフィールには「初めて小説を書きます。15歳差の女性同士の恋愛です。更新は不定期です」とだけあり、性別、年代などそのほかの情報はなかったけれど、文章の雰囲気からおそらく女性なのだろうと思った。小説の主人公も同じ名前だった。

 私はふだんWEB小説は読まない。けれど、15は私と聖の年の差でもあったから、気になってとうとう読み始めた。

 私と聖が付き合った日から1年が経つ、6月の週末のことだった。



 ・『15』 〈2020年4月5日更新〉


   15に負けたのは私? それとも彼女?

 私たちは、私は、どうすべきだったの?

 どこまで過去に遡れば、

 どこまで未来に飛べば、

 また笑い合えるの?


 二人が出会ったのは、夏芽が24歳、望実が39歳の初夏だった。

 望実は夏芽がバイトとして入ったカフェの常連で、近くのセキュリティシステム販売会社に勤め、ほぼ毎日ランチを食べに来ていた。来るたびにオーナーとよく話していたことから夏芽も挨拶を交わすようになった。

 実は夏芽がバイト初日に一目惚れをしたと後で告げたら、望実は驚いていた。

 長い髪をまとめ、パンツスーツにスニーカーできびきびと動く姿に夏芽は一目で恋に落ちた。

 美術大学を卒業したけれど、先輩のツテで週2回、子ども絵画教室のサブ講師のパートをするくらいしか美術系の仕事はなく、空き時間はカフェでバイトしている夏芽には、スーツ姿で昼食を食べる間にもタブレットで仕事をする望実の姿は眩しかった。

 まだその時は、15歳の年の差があるなんて思いもしなかったけれど。


  ◆◆◆


 一話あたりは数百字で短い。更新は二週間に一度程度。

 初めての小説と書かれている通りにまだこなれていない文章ながら、若い女性の一人称で年上の女性との恋愛の思い出が綴られているので、自然と聖に重ねて読んだ。

 あの頃も今も、聖が考えていたことを私は知りたかったから。

 日常の中でふと彼女のことを思い出すと胸が痛むのに、「15」を読んでいるとどこかドラマを見ているかのように客観的に考えることができた。


 私が聖と初めて話したのは、昨年の4月のことだった。

 聖は私の会社最寄り駅近くのコーヒーチェーン店で3月からバイトをしていた。そのショップでコーヒーを買って会社に持ち込むのが、私の毎朝のルーティーンだった。

 私は普段他人を見ないので気づかなかったけれど、聖はいつもその時間、オーダーされた飲み物の仕上げをして渡す担当になっており、平日朝の同じような時間に来る私の顔を覚えていたらしい。

 聖が書いたとは知らず、紙コップに書かれた「いつもありがとうございます」「またどうぞ」などの短いメッセージを見ては、一瞬頬を緩ませていたくらいだった。


 ある日「いつもこの時間にいらっしゃいますね。会社がこの近くなんですか?」と話しかけられ、私は初めて彼女をまじまじと見た。

 背は165センチの私より少し高くて、髪はオリーブアッシュに染め、センターパートの長い前髪が小さなフープのピアスをしている耳もとにかかり、襟足は刈り上げられている。日焼けしたような肌はほとんど化粧っ気がなかったけれど、若々しく張りがあり、光る瞳とまっすぐな眉、鼻筋が通った綺麗な女の子だった。年齢は20歳そこそこだろう。まだ学生か。

 ざっと見て自分に害はなさそうだと判断し、私はお愛想程度に微笑んだ。

「ええ、コーヒーが冷めない位のところで」

 聖はみかんをぱかっと割ったような笑顔を見せた。

「そうなんですね。お待たせしました、今日もお仕事頑張ってください」

 クールな印象なのに、笑うと途端に幼く見えて可愛い、と私は思った。

 渡された紙コップには、「いってらっしゃい」と書かれていた。

 胸元の名札に「HIJIRI」と書かれているのを目に留めて、私は店を後にした。


 それからコーヒーショップに入る時はいつもなんとなく聖を目で探すようになった。彼女も私を見つけると笑顔で会釈をするようになり、コーヒーの出来上がりを待つ間、短い会話を交わすようになった。

 ある日、彼女はマジックで紙コップに書こうとしてふと私を見ると、「お名前、伺ってもいいですか」と聞いた。

 私は少し迷ったものの、こちらはもう彼女の名前はわかっているのだと思い当たり、「かがり」と伝えた。

 聖はきょとんとした顔をした。

「かがり? どう書くんです?」

「ひらがなで」

「ひらがな。わかりました」

 そして渡されたカフェラテ入りの紙コップには、〈かがりさん今日もキレイです!〉と書かれていた。

 頬が熱くなるのを感じながら、私は受け取った。

 もうその頃には私の中で聖へと向かう何かが始まっていたのだろう。 

 それから毎回、彼女が書くメッセージには私の名前が入るようになった。


 少しずつ気温が上がってきた頃のことだった。

 いつも通り、コーヒーショップのカウンターを挟み、カップにストローを差しながら聖がちょっと得意そうな顔をして私に言った。

「私たち、名前が似ているんですよ」

「かがりとひじりが? どこが?」

「えっ、なんで私の名前を知ってるんですか?」

 驚く彼女の名札を私は指さした。

「あっ。ああ、これか」

 聖はまたみかんを割ったように破顔した。

「あなたのひじりは聖って書くの?」

「当たりです」

 鼻の頭にしわを寄せ、聖は照れくさそうに笑って続けた。

「私たちの名前、三文字なのと、最後が"り"のところが似ていますよね」

 なんだそんな些細なことか、とおかしくなると同時に、可愛いなと思い、私は調子を合わせることにした。

「そうね。あと、二文字目が濁音なところ」

「抱く女!?」

 聖がすっとんきょうな声を上げ、私は慌てた。

「濁音、濁った音のこと……」

 みるみる聖は真っ赤になり、「申し訳ございません」と消え入りそうな声で言ってアイスコーヒー入りのプラスチックカップを渡してくれた。

 カップには〈かがりさん〉としか書かれていなかった。焦って途中になってしまったのだろう。

(本当は何て書こうとしたのかな)

 聖が書いた自分の名前を眺めながら、彼女は女性のことが好きなのかもと思った。



 ・『15』 〈2020年4月20日更新〉


 夏芽は幼い頃から同性にだけ惹かれてきた。周囲にはおおっぴらに打ち明けられなかったけれど、中学の時に初めての恋人が出来てからそれなりに恋はしてきた。

 美大在学中、卒業まで一番長く付き合っていたのは同じ版画学科の瑠奈だった。なんとか美術系で活動したい夏芽の気持ちを理解し、応援すると言ってくれていた彼女は、卒業後メーカーの広報部に就職するとすぐに現実的な社会人になった。

 給料が出るたびに新しくきらびやかなアイテムが増えていき、いつも同じようなダメージデニムを履いている夏芽に、いつまで夢を見ているんだ、いい加減仕事しなよとうるさく言った。夏芽もうんざりして連絡を返さないでいるうち、音信が途絶えた。

 同級生から聞いた噂では、同じ会社の男と付き合い、近いうちに結婚するらしい。

 そうと知っても夏芽が傷つくことはなかった。

 もう頭は望実のことでいっぱいだったから。


 オーナーにそれとなく聞いてみたところ、望実は以前は彼がいたようだが、最近はフリーらしかった。

 もちろん、同性と恋愛できるかどうかはまた別問題だったけれど。

 少しでも距離を縮めたくて、夏芽はランチを運ぶたび、望実に話しかけた。

 天気のことでも、望実の服装でも、ランチの内容でも、とにかく何かしら話の糸口を見つけて会話した。

 ある日、「夏芽ちゃんは学生さん?」と聞かれ、恥ずかしいと思いつつ現状を答えると、望実は「夢を持つことは大切だよ」と言ってくれた。

「それに、バイトだってパートだって立派な仕事だよ。食べていけるならそれでいいじゃない」

 夏芽はその言葉を聞いて涙が出るほど嬉しかった。

 望実は、久しぶりに現れた自分を肯定してくれる存在だった。


 ◆◆◆

 

 聖はやはり女性が好きな子だった。

 それがはっきりわかったのは、メッセージアプリで繋がってからのことだ。


 季節が初夏に差しかかる頃、私は2年勤務していた法人営業専用のロケーションから支店の企画部門に異動することになった。

 最寄り駅が異なるので、もう出勤前に聖がいるコーヒーショップに寄ることはなくなる。

 異動を告げると、聖の表情はすぐに曇った。

 寂しそうな顔を見て、私は少し満足した。聖も残念に思ってくれているとわかって。

 その日渡されたプラスチックカップには、しょんぼりした顔文字が描かれていた。

 

 異動前日の朝、私は自分のメッセージサービスのIDを書いたメモをカップと引き換えにそっと聖に渡した。

 これっきりで途切れさせたくなくて。あくまでも友達として。

 誰に聞かれてもいないのに、心の中でたくさんの言い訳をしていた。

 こんなこと初めてではないのに、渡す時は全身が心臓になったようにドキドキした。

 メモにさっと目を走らせた聖はまたみかんのような笑顔を見せた。

お昼前には彼女からの友達申請がスマホに届き、私たちはメッセージのやり取りを始めたのだった。


 恋の始まりはお互いへの興味しかないから、なんでも聞きたいし聞かれたことには話したくなる。

 私たちは始まりこそどこまで明かしていいものか探り合っていたけれど、お互いへの好奇心が勝って夢中で会話を重ねるうちに、距離はどんどん近くなっていった。

 その頃に交わした会話が後で自分たちを縛ることになるなんて思いもせずに。


 聖は大学4年、4月に誕生日を迎えた22歳だった。なんと14歳も年下。しかも8月に私が誕生日を迎えれば15歳年下になる。あまりに若すぎて私は芽生えかけていた思いがちょっと引いたけれど、聖は私が36歳と知っても気にならないと言った。確かにバリバリ働くお姉さんだろうと思ったけれど、話していると親近感が増していくし、年齢差は感じない、と。


 思い返せばあれが聖の最初の嘘だったのかもしれない。

 私たちの間には確かに15年という隔たりはあった。見ないようにもできたし忘れているふりもできたけれど、ただお互い気をつけてその溝に落ちないようにしていただけだ。

 今思えば、それ以上の――埋めようがない深い不信も、その頃に生まれた。

 でもその時はただお互いを知っていくのが純粋に楽しくてたまらなかった。


〈かがりさんの仕事はどんなの?〉

〈オフィス機器の法人営業。担当の企業に定期的に訪問したり新規開拓もしてたけれど、今は営業企画で契約書作成とか事務作業中心なの〉

〈大変そう〉

〈もうベテランだし生活のためだから。聖ちゃんは四年てことは、就職活動中?〉

 私は聖の就活用とは思えないオリーブアッシュの髪を思い浮かべつつ、聞いた。

〈進んでないですー。もうほぼあきらめてます〉 

 続いて涙をこぼすコアラのスタンプ。

〈まだ6月だよ。あきらめるには早いんじゃない?〉

〈本当は小学校の先生を目指していたんですけど、勉強も大変だったし、ちょっと挫折して……今は目標もないです〉


 例えばこの言葉を結婚を考える男が言ったなら、甘いよ、生活のためにもまずは就職はしなきゃ、などと私は説教しただろう。

 でも、聖はそうではない。

 ずいぶん年下の可愛い女の子の、友達。……少なくとも今は。

 だから私は、〈そっか、教職も大変そうだしね。何か他に目標が見つかるといいね〉と返しておいた。

 聖にうるさいおばさんだと思われたくなかったから。

 理解者なのだと思って欲しかったから。

 聖がどんな思いで教師を目指し、挫折したのかも知ろうとせずに、安易なルートを取ろうとしてしまったのだ。


〈かがりさんは今付き合っている人はいますか?〉

 その質問が来たのはメッセージでやり取りをして二日目くらいだったか。

 正直、あ、来たと思った。

 嬉しいような、迷うような。

 聖が「彼」という言葉を使わなかったことに気づきながら私はこう返信した。

〈昨年まで彼がいたけれど別れちゃってね。年齢も年齢だし、もう出会いもないし婚活でもしようかなと思っていたところ〉


 事実を隠すことでもないと思うし、あえて「彼」「婚活」と言うことで聖がどう答えてくるか試したい気持ちもあった。

 それに、まだ私から全てを説明しなくてもいいだろうとも思った。

 ――私は女性にも惹かれるということを。


〈そうなんですか〉とだけ聖が返信してきて、私は失敗したと思ったが、続けて聖はこう書いた。

〈でも、彼氏と別れて、婚活もうまくいっていないから私と仲良くなってくれたのかもしれませんね〉

〈どういう意味?〉

〈だって恋愛が充実していたら、関係ない人に興味を持たないでしょう〉

〈そういうものかな〉


 私は恋愛とは別に、面白そうな人とは知り合いたいものだけれど。

 でも、聖がそれ以上に深い意味で言っているとしたなら。

 ――私も踏み込みたい。


〈聖ちゃんの恋愛はどうなの?〉

〈付き合っていた子がいたんですけど、今は自然消滅って感じです〉

 ちゃんと別れた訳じゃないんだ――と思い、胸が疼く。

〈そうなった理由はあるの?〉

〈就活ですかね。相手は意識高くてちゃんと就活してるから話も合わなくなったし、セミナーとか忙しくて会えなくなって〉

〈なるほど〉


 相手は同性なのか異性なのか。聞きたかったけれど、別れてはいない相手がいるという事実に私の勇気はしぼんでいった。

 そこにまた聖からの返信が届いた。

〈私、女の子としか付き合ったことがないんです。引きますか?〉

 その言葉は、聖が心を開いてくれた証しだと思った。

 後で、あれは賭けだったんだ、と聖は言っていた。

 きっとかがりさんも「そう」だと思ったけれど、彼とか婚活とか言うから萎えた。でも、まだ希望を捨てきれなかったんだ、言ってだめになったらそれまでだと思ったんだ、と。


〈引かないよ〉とすぐに送った後で、私はこう付け足した。

〈私も女の子と付き合ったことあるもの〉

 


 ・『15』 〈2020年5月3日更新〉


 もっと望実と仲良くなりたい。

 そう思っていた夏芽は、望実の会計を終えて見送った後、オーナーに聞こえるように「あっ、大変。望実さんに前の人のレシートを渡しちゃったみたい」と言った。

 もちろん、わざとだ。

 オーナーの向井さんは、別に……と言いかけていたけれど、夏芽は聞こえないふりをして走り出した。

「追いかけて取り替えてきますね!」

 そう言って日射しがまぶしい外へ飛び出す。

 望実はすぐ先の交差点で信号待ちをしており、呼び止めると驚いた顔をして振り向いた。

「すみません、レシート間違えてお渡ししてしまいました」

 そう言いながらレシートを見せると、望実はきょとんとした顔をして受け取り、夏芽に視線を移した。

「確かにそうみたいだけど……わざわざこのために? いいのに」

「あの、本当はこれを渡したくて。私の連絡先です」

 ポケットから用意していた紙片を出す。

「今度、お休みの日にランチとかお茶とか、どうですか」

 望実はまたびっくりした表情になり、やがて微笑んだ。

「うん。喜んで」

 望実はその場でメッセージアプリを起動して夏芽と繋げてくれた。

 別れた後もやりとりをして、次の金曜夜、夏芽の絵画教室のパート帰りに飲みに行く約束をした。


 短時間しか会えないかもと思っていた夏芽は、望実と一緒に飲みに行けると決まって有頂天になっていた。

 当日の絵画教室のパートは地に足がつかない気持ちであっという間に終わり、夏芽は待ち合わせの駅前へと急いだ。

 人混みの中、壁際に立っている望実の姿が目に飛び込んできた。細身のデニムに袖がふわっとした白いTシャツ。髪はおだんごにまとめ、大きなフープのピアスとサンダルが涼しげだった。

 スマホをいじりながら、夏芽を待っている。

 足を止めてスマホを確認すると、

〈到着してます。でも、焦らないでいいからね〉

というメッセージと共に、ペンギンがにっこり笑ったスタンプが送られていた。

 夏芽の胸に喜びが広がった。

 あんなにキレイな人が、他の誰でもなく自分を待ってくれているのだ。

 抑えきれないほどの思いが夏芽を満たしていた。



 ・『15』 〈2020年5月31日更新〉


 二人で駅から少し歩き、夏芽が予約したイタリアンバルへ入った。

 飲み始めてすぐに望実から年齢について聞かれた。

 ふたりが15歳差だとわかった望実は真顔になっていたけれど、夏芽には何も気にならなかった。年齢なんて関係ない。ただ目の前の望実に心臓は激しく高鳴っている。

 楽しくて、望実もにこにこしていて、アルコールと料理はどんどん消費され、時間があっという間に過ぎていった。


 終電間際まで過ごし、駅へと歩きながら、夏芽は機会を窺った。

 もうこのまま気持ちを伝えないでいたら、身体が爆発してしまうのではないかと思うのに、道には人がいっぱいいて、駅までの間に落ち着いて話せるような場所もない。

 とうとう立ち止まると、数歩先を歩いていた望実は振り返った。

「どうしたの? 忘れ物?」

 夏芽は無言で望実の手を取ると、大通から横道に入り、小さな公園に入った。

「飲み過ぎた? 休みたい?」

 心配そうな顔でついてきた望実に向き合うと、夏芽は意を決して言った。

「このまま言わないで帰れません。望実さんが好きです。私と付き合ってください」

 望実はしばらく呆然として夏芽を見つめていた。

「……本気?」

「こんなこと冗談じゃ言えません」

「夏芽ちゃんって……」

 そう言って望実は口ごもった。

「私、ビアンです。女性だけが恋愛対象なんです」

「そうなんだ……私は男性としか付き合ったことがなくて……ごめんね、ちょっと戸惑ってる」

 夏芽は何度も頷いた。

「突然言い出してごめんなさい。でも、望実さんが好きなんです。一目惚れでした。定職にもつかずに絵を描いている私のこと、理解して励ましてくれて、話すたびにどんどん好きになりました」

「それは……ありがとう。嬉しい。でも私たち、15歳差も離れているんだよ? 私は来年40歳になるんだよ? 正直、私はもう恋愛なんてしなくてもいいと思っていたの」

「年齢のことは私は気になりません。きちんと働いている望実さんから見たら、私なんてこれからどうなるかわからないし、頼りないと思うけれど……」

「そんなことないけれど……でも……」

 困り果てた望実を見て、夏芽は泣きたくなった。

「私じゃだめですか? 私のこと、嫌いですか?」

「そういうことじゃなくて――ちょっと考えさせて。今日は帰る、また連絡するわ」

 望実は夏芽にかすかに微笑みかけると、公園を出て大通の方向へと歩いて行った。


   ◆◆◆


スマホをおいて私はため息をついた。

 年下からはっきり告白するのはいいな、と思った。

 年上からはなんだか罪悪感があって強気に出られないものだから。

 望実は驚きながらも嬉しさもあったのではないか、と私は思った。


 私と聖の場合は――。


〈朝、ついお店にかがりさんいつ来るかなって思っちゃって。あーもう来ないんだと思うと寂しいです〉

〈今度の駅前にもコーヒーショップはいくつかあるけれど、聖ちゃんみたいな可愛い店員さんもいないし、なんだか物足りない〉

〈かがりさんも私に会えなくて寂しい?〉

〈うん、そうだね〉

〈ほんとに? 私、かがりさんに会いたいです〉

〈私も……〉


 女の子としか付き合ったことがないと聖が言い、女の子とも付き合ったことがあると私が答えてから、聖はあからさまに好意を示すようになっていった。

 くすぐったくもあり、本当に14歳も年下の大学生が自分を恋愛対象として考えているのかどうか確信が持てない不安もあった。


〈じゃあ、都合がいい時にご飯でも食べに行きませんか?〉

〈いいよ。週末ならいつでも〉


 だから、メッセージを始めて数日後にようやく聖から誘ってくれて嬉しかった。

 私たちは早速、その週末に会って飲むことになった。6月の半ばのことだった。


 久しぶりに――とはいっても10日ぶりに会った聖は、ギンガムチェックのシャツの胸元から白いタンクトップを覗かせ、ブルーデニムに白いナイキを合わせていた。何気ない格好なのにすらりとした外見が誰よりも目立つ。ショップのエプロン姿以外を見たのは初めてで、胸がときめいた。

私は黒のノースリーブプルオーバーにさらりとした布地の水色のロングスカートを合わせ、ヒールのサンダルを履いてきた。肩までの髪も緩く巻いて、それなりにオシャレしたつもりだ。

 私に気づいた聖は目を見張り、「スーツじゃないかがりさん新鮮! 今日も綺麗です!」と言った。


「前もカップにそう書いてくれたよね」

 聖が予約してくれた店へと向かいながら私は言った。

「かがりさんが来るたびに美人だなって思って見ていたんですよ」

「えー? 私なんて聖ちゃんよりずいぶん年上で……おばさんなのに」

 照れもあって自虐的にそう言うと、聖はぱっと私の前に飛び出た。

「それ禁止。少なくとも私の前では二度と言わないでくださいね。かがりさんは若々しい綺麗なんだから。かがりさんを傷つける言葉はいくらかがりさんからでも聞きたくないです」

「なによそれ……」

 そう言いながらも、聖が真っ正面から〈おばさん〉を否定してくれたことに悪い気はしなかった。

「約束してください。もう言わないって」

「じゃあ、聖ちゃんは私をどう思っているの? お姉さん?」

 聖は、んー、と顎に指を当てた。

「お姉さんでもない……かがりさんはかがりさんです。年齢とかじゃなくて」

「……ありがとう」

 私はその後、二度と自分について自虐的には表現していない。

 聖が消えた今でも。

 

 聖が予約したのは水産会社が経営しているという魚料理のお店だった。日本酒も珍しいものが揃っている。聖は飲めないのに、日本酒と魚が好きな私に合わせて選んでくれたのだ。

 まぐろとさばのコースと秋田の日本酒、聖のための炭酸水を注文し終わると、聖がにこにこして私を見ていた。

「なあに?」

「今の注文の仕方、すごく丁寧だったなって思って。私も接客してるからそういうの嬉しい。かがりさん、私にもとっても丁寧だった」

「そうかな? でも私、知らない人の顔は見ないから聖ちゃんのことも話しかけられるまで認識してなかったよ」

「ひどーい。私はずっとかがりさんを見ていたのに」

「……聖ちゃんってそういうことさらっと言うよね」

「誰にでも言うわけじゃないですよ。本当に思ったことだから言っています」

 頬が熱くなった。

 お酒も飲んでいないうちから私の顔は赤くなっていたことだろう。


 店の雰囲気もスタッフの対応もとても良く、料理はどれも美味しかった。聖は気持ちよく食べていくので、私は時折自分の分をあげた。何度も乾杯しながら私たちはいろいろな話をし続けた。

 最後のデザートを食べ終え、私は伝票を手に取った。

「ここは私のおごり。素敵なお店を見つけてくれてありがとう」と言うと、聖は「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

 会計を済ませ、店から出ると「まだ帰らないでしょう?」と聖は私の手を取った。

 薄暗いビルの階段を下りながら自然に二人の手が繋がれる。

「うん、まだ帰りたくない」

「じゃあ二軒目は私のおごりで、数少ない知ってるバーに行きましょう」


 少し歩いて連れて行かれたのは、交差点に面した古いビルの最上階にあるバーだった。

 店内は暗く、男女の囁き声がさざ波のように漂っていた。大きな窓に面したカウンター席に通され、並んで座る。目の前に広がる夜景が幻想的にきらめき、他にも客はいるのに私と聖だけ夜空の上に浮かんでいるかのように思えた。

 聖は唯一飲めるというファジーネーブル、私はキールを選んだ。

 カウンターの下で聖はまた私の手を握った。

「素敵なバーね。ここは誰と来たの?」

 少し牽制したくてそう言うと、聖は頭を掻いた。

「えっと……、前カノ?」

 私は手を離した。やっぱりね。でもそこはごまかしてよ。

「別れてない子?」

 わざと言い直すと、聖からまた手を繋いできた。

「実質別れてます。もう三ヶ月くらい連絡取ってないし」

「でもちゃんと別れてないなら、こういうことしちゃだめでしょ」

「じゃあ、ちゃんと別れます」

「ほんとに?」

 聖はため息をつくと、スマホを取り出して私に見せながら操作した。メッセージアプリを起動し、トーク画面をスクロールして下の方にあった〈あすか〉と表示された女の子の写真のアイコンを見つけると、タップしてトークルームに入った。

 目ざとい私は、〈あすか〉との最後のやり取りの日付に目を走らせる。

 確かに3ヶ月ほど前の日付になっており、内容も素っ気ないものだったのでほっとした。


 聖は長い指で軽やかに入力していく。

〈久しぶり、元気? 就活うまくいってる? 突然だけど、私好きな人できたからお別れするね。もう別れているようなものだけど、一応けじめで。今までありがとー〉

 画面を一緒に見ていた私は、〈好きな人〉という単語から目が離せなくなった。

「はい、できた」

 そう言うと聖は私の手を取り、人差し指に自分の指を添え「送信」ボタンを押した。

 すぐに吹き出しが画面に現れる。

「これでいい?」

 聖は私を見つめたまま、ぎゅっと手を握った。

「えっとつまり……」

 私が言いかけると、聖のスマホからメッセージ着信音がした。

「明日香からだ、はや」

 二人で画面を見ると、〈わざわざありがとう。私は先月千代崎商事から内定をいただき、OB訪問した先輩と付き合い始めたところ〉と表示されていた。

 聖が苦笑する。

「ほら! だから言ったでしょ、実質別れてるって。なーんだ、今度は男なんだ……内定アピールもしてるし……」

 なんだか申し訳ない気持ちになり何も言えないでいると、聖は私の顔を覗き込み、またあのみかんを割ったような笑顔を見せた。


「でもこれでかがりさんが安心したならいいや。だから、ね、そういうことです」

「そういうことって……?」

 あざといとは思いながらも、その先を促す。私はちゃんと言葉にして言って欲しかった。

 聖はまた頭を掻くと、ふーっとため息をついた後で両手で私の手を握った。

「んもう。こういうの照れるから苦手なんだけれど……かがりさんのことが、好きです。付き合ってもらえませんか?」

 無理に言わせたかな、と思いつつも私は確認せずにはいられなかった。

「ほんとに私が好きなの? こんな年上なのにどこがいいの?」

「私はショップで見ていた頃からもうずっとかがりさんのことを意識していたんです。仲良くなってみたら、話しやすいし一緒にいて楽しくてもっともっと好きになりました。逆に私こそ、まだ学生だし、就活すらろくにしてないし、年下で頼りないですよね。それに……結婚もできない。だからかがりさんが選んでください。私と付き合うかどうか」


 確かに聖の言うとおりだった。

 前の彼と別れたのは、結婚して子どもが欲しい私と、責任を取らずに自由にしていたい一歳年上の彼とのすれ違いが原因だった。

 もう二年付き合っていたのに彼は結婚を「そのうちね」「落ち着いたら」「考えてはいるよ」とはぐらかし続けた。信じて待っていようという思いと、待っていてもいいのかという不安の中、私は高齢出産の年齢を超え焦っていた。

 昨年の私の36歳の誕生日に彼は素敵なレストランを予約してくれていた。大切に思ってくれていると嬉しかったけれど、結婚についてどう考えているかきちんと教えて欲しいと言うと、彼は観念したようにこう言った。

「かがりといると楽しいけれど、結婚すると俺不幸になる気がする」

 そんなことを言う彼の人間性が信じられなかったが、実際そうだったのだろう。

 後から思えば無理矢理結婚しなくてよかったのだ。したところで私こそが不幸になっていただろう。

 その場で私は泣きながら別れを決意した。

 落ち着いて考えてみると、私は彼が好きというよりは、結婚し子どもを産むチャンスに執着していたのかも知れない。

 恋愛というものがよくわからなくなり、私はしばらく無気力になって過ごした。しびれを切らした親にうるさく言われてたまに婚活サイトを眺めるようになった頃、聖と出会ったのだ。


 もうすぐ37歳になるという時に15歳年下の女の子と付き合うということは、私にとって結婚や子どもという可能性に自ら幕を引くようなものだった。だから何度も躊躇した。

 それでも聖の笑顔に、私にくれる言葉に、わくわくするような楽しさに、どうしようもなく惹かれていく。

 いつかこの選択を後悔する時が来たとしても、今彼女から離れれば、明日の私が後悔する。そして結局彼女を求めてしまうだろう。


「私も聖ちゃんが好き。だから……よろしくお願いします」

 そう言うと、聖ははあーっと大きく息を吐いた。ずっと息を止めていたらしい。

 そして握っていたままだった私の手の甲にちゅっと口づけした。


 最初のキスはバーから降りる狭いエレベーターの中だった。

 聖の首筋からは瑞々しい柑橘類に似た香りがした。

 そしてそのまま私たちはタクシーで私の家へ行き、朝まで一緒に過ごした。



 ・『15』 〈2020年6月15日更新〉


  (フラれた。もう終わりだ)

   とぼとぼと夏芽は駅に向かい、終電で家へと帰った。初めてのデートで告白するなんて、がっついていると引かれたのだろう。

   それに、望実は男性としか付き合ったことがないのだ。戸惑うのも当たり前だった。

   明日、カフェでどんな顔で接客すればいいのだろう――夏芽は頭を抱えた。

〈今日はごちそうさまでした。驚かせてごめんなさい。おやすみなさい〉

   メッセージを送信したけれど、何度スマホを確認しても既読にはなったものの、望実からの返信はなかった。


   翌日、望実はいつも通りにランチタイムにカフェへやってきた。

   夏芽を見てにこっと微笑み、日替わり定食を注文する。

   ランチを運んでいくと、望実はありがとうと受け取り、続いて囁いた。

  「私、わざと忘れ物するから会計のあと追いかけてきてね」

   夏芽の心臓が跳ね上がった。


   予告通り、望実が立ったあとのテーブルには手帳が残されていた。

   会計時に望実は夏芽に目配せすると、ドアを開けて出て行った。

   夏芽は急ぎ足で片付けるふりをしてテーブルに近づくと、「あっ手帳忘れていってる」と声を上げた。

  「ちょっと追いかけてきます!」とオーナーに声を掛け、夏芽はドアを開けて外へ飛び出した。

   望実は先日呼び止めた交差点の手前のビル影で夏芽を待っていた。

  「はい、これ……」

  と息を切らせながら手帳を渡すと、望実は意を決したように夏芽を見上げた。

  「夏芽ちゃんは私のどこが好きなの?」

  「顔です」

   即答すると、望実の表情が明らかにがっかりしたものになった。

「顔……? 顔なんて、これからどんどん年取って崩れていっちゃうじゃない……」

   夏芽は慌てて付け足した。

  「望実さんはいつも口角が上がっていて、幸せそうな顔をしているんです。愛されてきた人なんだなってわかります。顔には生き方が出ているというでしょう。それに、望実さんの顔は望実さんにしかない。他の誰でもダメなんです。望実さんだから好きになったんです」

 影になっているとはいえ、何人かはエプロン姿の夏芽とスーツ姿の望実に目を留めながら通り過ぎていく。

 望実に恥をかかせてしまうと夏芽が更に慌てていると、望実は指で目尻を拭った。

「望実さん……泣いてるんですか?」

「こんなまっすぐな告白されたの初めてだったから。やだなあ、午後から仕事にならないな」

 顔を上げた望実の目が潤んでいた。

「昨日あれから眠れなかった。私は女性と付き合うってことがどんな風なのかよくわからないけれど、私も夏芽ちゃんが好きってことはわかった」

 信じられなかった。夏芽の胸に一瞬で歓喜が広がった。

「じゃ、じゃあ付き合ってくれるんですか?」

 望実は恥ずかしそうに無言で頷いたのだった。

   

◆◆◆


 スマホで「15」を読みながら私は動悸が速まるのを感じていた。

 私もよく、聖に「私のどこが好き?」と聞いた。何度も何度も。聖に愛されていると確かめたかったのだ。

 そしてそのたび、聖は夏芽のように「顔」と答えた。理由を聞くと、だって綺麗だからとか、顔見たら何でも許せるからとか、明確なものではなかった。

 私だってもちろん聖の外見も愛していたけれど、一番は聖の性格や言葉遣いなどの内面だったから、常に聖が「顔が好き」と答えるたび、どこか失望した。


 これから人生で最も美しい時期を迎える聖と、下り坂に差しかかっている私。今の顔を愛してくれたとしても、努力したとしても衰えてしまうのは確実なのだ。

 来年、再来年と年を取った私のことを聖は変わらず愛して求めてくれるのか、私には最後まで自信が持てなかった。

 だから結局、聖は私のことを本心から好きになった訳ではないと思っていた。


 もしあの頃、聖が夏芽のように答えていてくれたなら。

 かがりの顔にはかがりの生き方が現れている、他の誰かではダメなのだと言ってくれていたなら、どれだけ安心できただろう。


 ドラマのセリフのような言葉はさらさらと言うのに、肝心なことは余り話さない聖と、照れや恐れがあって素直になれないくせに聖には確証をたくさん求める私と。

 私たちは常にどこかずれていた。

 でもそのずれすら、愛せると思っていた。――その時は。


 初めて結ばれた明くる朝、カーテンから差し込む柔らかな日射しの中でタオルケットにくるまりながら、聖はずっと私の頬を優しく撫でていた。

「聖は私のどこが好きなの?」

「顔。かがりさんはメイクしているとすごく綺麗だけれど、すっぴんは可愛いね」

 36歳のすっぴんなんてそんなにまじまじと見られたくない。私は照れくささもあってうつむきながら、「顔かあ」と答えた。

「え、不満ですか? だってかがりさんの顔って正直タイプなんだもの。私の彼女になってくれて嬉しい」

 タイプというなら、前の彼女も私のような顔だったのだろうか。何人もの私みたいな女の子と付き合ってきたのだろうか――。


 胸に沁みだしたもやを打ち消すように私は話を変えた。

「ねえ、もう付き合ったんだしさん付けは辞めて」

「そう? じゃあなんて呼べばいい? かがりちゃん?」

「呼び捨てにして」

 そうしたら年の差も少しは縮まるような気がしたから。

「いいよ。じゃあ私のことも聖って呼んで」

「わかった」

 微笑んだ聖が私の額に口づけして、かがり、と囁いた。

 胸の内側が羽根でそっと撫でられたようにくすぐったく、幸せだった。

「かがりって名前はどういう由来なの?」

「父が付けたんだけれど、かがり火から。どんな暗い中でも見つけられるように。そして周囲の人を照らせるようにって言ってた」

「素敵な名前。ちゃんと私、かがりのこと見つけられたね」


 聖がそう言ってくれるなら、ここまでこうして生きてきた意味がある。

 昨年の痛い別れもすべて聖に会うためだったんだね。

 嬉しくて愛しくてたまらないのに、伝える代わりにまた私は目を伏せた。

 14歳年下の女の子に夢中になっていく怖さもあった。

 

「聖の由来は?」

「うちの父母がオリンピック好きで、聖火ランナーになって欲しかったみたい。残念ながら私は運動音痴なんだけど」

「ねえ、私たち、どっちも火に関係する名前だね」

「ほんとだ。運命だね」

 聖は目を細めて笑った。


 あの時、私は聖と出会ったのは幸せな運命だと信じて疑わなかった。

 でも、別れるところまで含めた運命だったのだ。



 ・『15』 〈2020年7月11日更新〉


 夏芽と望実は幸せな日々を過ごした。

 季節は盛夏を迎え、望実の一週間の夏休みに合わせて二人は海辺へ短い旅行に出かけ、そこで初めて肌を重ねた。

 そのまま二人は翌日、ずっとベッドで過ごした。

「夏芽ちゃんから告白された時、びっくりして頭の中がぐちゃぐちゃになったけれど、今とても幸せ。もう恋なんてしないと思っていたのに、まさか女の子と付き合うなんて」

 満たされたような顔で言う望実の言葉に少し引っかかるものを感じ、夏芽は眉を寄せた。

「私は女の子としか付き合ってきたことないけれど……男の人との恋愛と違う?」

「外で手を繋ぎにくいとかはあるよね。まあ、私は年齢もあって相手が男の人でもそんなの照れちゃうけれど。でも二人の時は恋愛という点では何も変わらないよ」

 そう聞いても夏芽の中ではまだもやもやしたものが消えなかった。


 男の人と同じ、じゃ嫌だ。

 もっと幸せだと思って欲しい。

 まだ私では足りないものがあるのか。


「望実さんはどんな人と付き合ってきたの? 年上とか年下とか。前の人とは長く付き合ったんだよね?」

 夏芽の性急な口調に望実は目を丸くした。

「どうしたの、急に」

「ん……ちょっと気になって」

「何か不安にさせちゃった?」

「そんなことないけれど、教えてくれたら嬉しい」

 望実は、そう……と呟き、夏芽の腕の中で体勢を変え、考えをまとめるように天井を見上げた。


◆◆◆


 「15」の掲載分を週末のうちに全て読んでしまい、私は次の更新を待ちわびるようになった。

 6月15日の更新の後、気になる展開のままずいぶん間が開いていたから、作者の体調を心配したり、次回の更新について尋ねるコメントも増えていた。

 しかし、どのコメントにも作者の「夏芽」は返信をせずに続きを更新した。

〈主人公の名前が作者さんと同じですが、夏芽さんの実話ですか?〉と書かれたものもあり、私も同じように感じたが、もちろんそれにも返信はない。

 作者「夏芽」は交流を求めるタイプではなく、ただ自分の書きたいものを綴りたいらしい。

 それがわかったのか、読者どうしで勝手に考察を繰り広げる人たちも増えていった。

 「15」が更新されると通知が届くように設定していたものの、結局気になって毎日覗きに行っては、そんな考察を眺めたりもした。

 何年もずっとほったらかしだった読書や鑑賞した映画の記録を綴るブログでも、「15」についてリンク付きで少し触れたりした。

 もしかして作者から反応があるかもしれないと淡い期待を抱いたが、やはり何もなかった。



 ・『15』 〈2020年7月26日更新〉


「前に付き合ってた人は会社の同期でね。入社の頃から妙に気が合ってグループでスキーに行ったり夏はキャンプしたり……でもお互い恋愛感情は無くて、私も彼も別の人と付き合ったりしてるうちに、彼は本社に異動になってね。何年かして戻ってきた時には結構周りも結婚したり子どもができて遊ぶ仲間もいなくなっていたから、二人でドライブとかするようになって付き合ったの。

 そして今度は私が本社に異動して、戻ってきて一年したら彼が本社に異動。その時、結婚しようかって言われた。仕事辞めて一緒に来て欲しいって。私は辞めたくなかった。でもそのまま働きながら結婚しても、ずっと数年ごとにすれ違いで遠距離婚になるんだなって思ったらなんだか難しい気がして。四年付き合ったけど、一旦リセットしようかって別れることになったの」


 遠い目をしてそう話す望実は夏芽の腕の中にいるのに、まるで付き合う前にカフェで話していた頃のように思えた。

「じゃあ、その彼のこと嫌いになって別れたわけじゃないんだね」

「まあそうだけれど、だからといって恋愛感情が残ってるわけでもないよ。向こうはもう誰かと付き合って結婚間近らしいし。女と違って男性は結婚適齢期が長くて得だよね」

「でも私は望実さんに一目惚れしたよ。そんな言い方しないで」

 夏芽が怒ったように言うと、望実ははっとしたような顔をして夏芽を見つめた。

「そうだね。夏芽ちゃんと出会えた」

 望実は背伸びするように夏芽の頬にキスした。

「久しぶりの恋愛だから戸惑うこともあるけれど、夏芽ちゃんのことを好きなのは本当だから、心配しないでね」

「じゃあ、私のどこが好き?」

「好きってまっすぐに言ってくれるところ。ごまかしたりしないでいつも自分の気持ちをきちんと伝えてくれるところ。考えていることが顔に出て嘘がつけないところ」


 夏芽は望実をぎゅっと抱き締めた。

 絶対に離さないと思いながら。


 ◆◆◆


 私たちも付き合っていくうちに、夏芽のように互いの今までの恋愛が次第に気になっていった。

 結局はそれが私たちの別れへと繋がったのだと思う。

 私はかつてないほど嫉妬して聖を追い込んでしまった一方、聖は多くを語らなかったけれど、実は常にこんな思いに囚われていたようだった。――私がいつか男性の元へと行くのではないかと。

 私たちは結局、お互いの思いにも、自分の思いにも自信を持てなかったのかも知れない。


 夏になる頃には聖はほとんど私の家に住むようになっていた。

 私は、聖が前の彼女と大学で会うことがとても嫌だった。

 就職活動を終えた前の彼女――〈明日香〉はゼミのために大学に来るくらいでほとんど顔を合わせないと聖は言っていたけれど、そのゼミが聖と同じだったのだ。

 聖のゼミの前夜から私はいつも不機嫌になった。

 子どもの頃の思い出話をしていても、当たり前だけれどいつも話が合わない。好きだった歌もタレントも違う。

 今現在だって、興味を引かれるコンテンツも微妙に違うし、食べたいものや体力にもやはり差は出てしまう。それを自分でも感じるし、聖が少しでもいじるような言い方をすれば私は機嫌が悪くなった。

 だからいつからか、うっかりと年齢差を感じるようなことを言わないよう、聖はとても気を遣うようになっていった。

 大学へ行き、同世代と話をしている時は気楽に思うまま話せるのだから、私といるより楽しいのではないだろうか。

 自分から聞いたくせに、明日香とは2年付き合ったと聞かされ、まだ始まったばかりの自分と聖の思い出の少なさにまた落ち込んでしまう。

 最初はよしよしとなだめられたけれど、さすがに毎週のことなので呆れられることも増えていった。


 生理前の情緒不安定な時期は特に不安スイッチが入りやすくなった。

 年上として落ち着いて聖を包み込めたらと思うのに、聖の前ではコントロールが効かず、出会ってもいなかった過去までも独占したくなってしまう。

 聖には「かがりだっていろんな人と付き合ってきたでしょ」と言われた。もちろん私のほうが長く生きている分、経験してきた恋愛の数は多い。でもそのどれもが聖の前ではつまらないものに思え、聖が好きになった女の子たちが気になってしまう。


 なぜその女の子たちのことを好きになったの?

 その子たちと私はどう似ているの?

 その子たちと私はどう違うの?

 なぜ私のことを好きになったの? 

 同じような質問を何度も聖にぶつけてしまう。


「かがりはかがり。今まで近い年の子としか付き合ってこなかったけれど、大人として誇り持って仕事して自立して生きているところがとってもカッコイイし、何より顔が好き」

と言われ、抱かれるとようやく不安が溶けていく。

 それほど私は聖に夢中になっていた。 

 夏になり、聖の大学が長い休みに入ってバイトくらいしか出かけなくなると、私はだいぶ落ち着いていった。


 代わりに今度は、時間が余るようになった聖が私の過去を聞きたがった。

 朝、化粧をしていると、聖は後ろから私を抱き締めて鏡を覗き込んだ。

「いいなあ、かがりの会社の人たち。いつもこんなに綺麗にしていくかがりを見られるんだから」

「聖もいつも見てるじゃない」

「でも私のことは置いて行くでしょ」

「生活のためだもん」

 聖ももちろんアルバイトのお金から生活費としていくらか毎月出してくれていたけれど、生活費のほとんどを私が担っているのは事実だった。


 ふと、聖は卒業後どうするつもりなのだろうかと思う。

 教職は諦めたと言いながらも、卒業のためにも単位は取らなきゃと勉強は続けていた。それなら教職採用試験を受けてみたらと勧めたけれど、もう間に合わないと言う。かといって就職セミナーに行くわけでもない。

 このまま私が養うような関係が続いていくのだろうか。

 それは不安要素ではあったけれど、しつこく聞いても聖は不機嫌そうに黙り込むだけだ。考えないようにして私は化粧を続けた。

聖は何も気づかず、鏡越しに変わっていく私をじっと見つめている。


「ねえ、前の彼って会社の人?」

「違うよ。後輩が設定した合コンで会った人」

「合コン? かがり、そんなの行くの? もう行かないでよね」

「聖もいるし行かないよ。ていうか、もう年だから誘われもしないし」

「行ったら絶対にかがりモテるから」

「そんなことないよ」

 いつもと逆にやきもちを妬く聖の様子が嬉しかった。

「もう前の彼とは会うことはない?」

「うん、聖と違って会社も違うし連絡先も消したし」

 わざとそうやって聖をいじめると、聖は苦笑した。

「もう、意地悪。でもゼミは年内には終わるから、そうしたらもう明日香に会うこともないよ。向こうも彼氏と順調そうだしね」

「そっか、それならよかった」

 安心して私は鏡の中の聖に微笑みかけたが、聖は考えを巡らせているような顔をしていた。


「ねえ、今日かがりの会社まで迎えに行ってもいい?」

 ドキリとした。

 会社の人たちには私が聖と付き合っていることはもちろん、今まで女性と付き合ったことがあることも隠している。

 とっさに「いいよ」と言えない私に聖は何かを悟ったようだったが、それでも引くことはなかった。

「大丈夫、目立たないようにして待ってるから。会社ってどんなところか私知らないし、オフィスモードのかがりをちょっと見てみたいだけ」

「うん、それなら……いいよ」

「ありがとう」

 聖は嬉しそうに笑った。


 私が大学に行く聖に不安になるように、聖もまた私が会社に行き、自分が知らない人間関係の中で過ごすことに不安を抱くのだろう。その気持ちはよくわかったから、退勤までに私は聖が喜びそうな案を考えた。

 それが聖を悩ませることになるとも知らずに。



 ・「15」 〈2020年8月2日更新〉


 夏芽は再び美大へ通うようになった。

 秋の文化祭を前に、準備に手こずる後輩たちが「どうせ夏芽さん働いていないんだから手伝ってくださいよ」と連絡してきたのだ。

 望実は付き合ってからもバイト先のカフェにランチを食べに来たけれど、忙しくて帰りは遅い。待っているだけだと時間を持て余し、余計なことまで考えてしまうので夏芽は喜んで手伝いに出かけた。

 文化祭では科ごとにモニュメントを制作し、披露する。版画学科では毎年シルクスクリーンをつなぎ合わせた壁画を制作することが伝統になっており、今年は日本の四季を題材にしていた。

 夏芽は全く手が回っていないという出店の屋台作りを手伝った。文化祭には学生の家族のほか、地域の住民も多く来校して賑わう。


 昨年の壁画制作は「世界旅行」と題し、有名な観光地を題材として制作した。夏芽は瑠奈を含めた数人でエジプトのピラミッドやスフィンクスをイメージした部分を担当し、毎日夜まで夢中になって取り組んだ。門が閉められて、こっそりとフェンスを乗り越えたこともあった。

 作業用のエプロン姿できゃっきゃと楽しそうにしている後輩たちの姿を見て、一年の時の速さを思った。あの時は同じようなエプロンを着て、何も疑問を持たず、恐れもなく、自分の未来は明るくて、ずっと瑠奈と付き合っていくと思っていた。


 でも、今の自分には仕事もない。瑠奈も去って行った。

 代わりに望実と出会い、幸せに過ごしている。

 だけど、一年後はどうなっているのだろう?

 瑠奈のように望実もまた現実を見て、自分に愛想を尽かしていなくなってしまうのではないか?

 このまま望実に甘えているだけではだめだ。望実のことは失いたくない。

 夏芽は焦りを感じていた。


文化祭当日、夏芽は望実を連れて母校へ向かった。

 望実は校門の前に立ってもまだ逡巡していた。

「ねえ、私みたいなおばさん浮いちゃうわよ」

「望実さんはおばさんなんかじゃない。それ禁止ね。それに、文化祭は家族とか一般の人もたくさん来るから大丈夫だよ」

「でも、夏芽ちゃんがなんでこの人連れているのって思われない? 私たち似てないし、明らかにずいぶん年上だし」

「そうかなあ? それに私は何て思われても構わないよ。望実さんがしたいようにするよ」

 望実は不安そうに指を噛んだ。

「もし何か聞かれたら叔母ですって言って」

「わかった。それで望実さんが安心するなら」

 ようやく頷いた望実を促し、二人は門をくぐった。


 大学はすごい賑わいだった。

 ここは講義を受ける本館、そっちは食堂とか売店が入っていて、版画学科はデザイン美術棟に入っていて……など説明しながら二人はキャンパスを歩いた。

 夏芽は中学の時も、高校の時も、大学時代も同じ校舎内にいる相手と付き合ってきたから、恋人を案内するのが新鮮だった。

 あんなに躊躇していた望実は何度もスマホで撮影しながら見て回っている。

「なんでそんなに撮影するの? 珍しい?」

「夏芽ちゃんが去年まで過ごした場所なんだなあと思うと、感慨深いもの」

 夏芽の胸に望実への愛しさが広がった。


 デザイン美術棟に向かい、後輩たちが作り上げた壁画を一緒に眺めた。

 望実は手元のパンフレットと見比べながらため息をついた。

「すごい! 日本の四季か……春夏秋冬を版画で表現してるのね。夏芽ちゃんもこんなに大きなものを作ったの?」

「うん、去年は世界旅行というテーマだったよ」

「……前の彼女も一緒に作ったの?」

「その時は、そうだね」

 屋台にいた後輩たちが夏芽に気づき、夏芽さーーん、と手を振ったので夏芽は内心ほっとしつつ望実と一緒に屋台に近づいた。

 屋台では、壁画に合わせて春の花見団子、夏のアイスキャンデー、秋のおはぎ、冬のおしること四季の甘味を販売している。

「わあ、かわいい。私、花見団子にする。夏芽ちゃんは?」

「私はアイスがいいな」

「夏芽さん、お疲れさまです……」

 数人の後輩たちが物問いたげな顔で夏芽と望実を見比べている。

「瑠奈さんと一緒じゃないね」

という囁き声も聞こえ、望実は落ち着かない顔で夏芽を見つめた。

「この人は私の彼女だよ!」と大声で言いたい気持ちを抑えながら、夏芽は望実を叔母だと後輩たちに紹介したのだった。


 ◆◆◆


 仕事が終わって会社から出ると、聖は言った通りに向かいの雑居ビルの一階で目立たぬように待っていた。

 走って道を渡ってビルに入ると、聖は眩しそうに私を見た。

「そんなに急いで来たら、会社の人にどうしたのって思われちゃうよ」

「ふふ、大丈夫。ねえ、これから会社の人行きつけの居酒屋に行かない?」


 今までの彼女とは会社の人が行くようなところで会ったりはしなかった。

 でも聖がここまで来たのなら、その気持ちを大切にしてあげたかった。


 聖はぱっと顔を輝かせた後、すぐに眉を寄せた。

「でも行きつけなら、誰か会社の人がいるんじゃない?」

「いいよ、さすがにイチャイチャしたり、彼女だとは言えないけれど、大学の後輩っていうことにするから。こういうところで飲んだりしてるって聖に見せたいの。ご飯も美味しいところだから、行こう」

「うん、嬉しい」

 またみかんを割ったような笑顔を見せる聖と並び、会社近くを案内しながら歩いた。

 同僚とお昼を食べる中華屋や定食屋。よく行くコンビニ、聖にお土産に買ったこともあるスイーツショップ。同期の誰かが異動する時に壮行会をするお寿司屋さん。

 私の言葉に聖は何度も頷き、にこにこしながら見ていた。


 こんなことを通して、働くということにも興味を持ってくれたらな、なんて打算も働いていた。仕事は何もオフィスで缶詰になったり、営業先で怒られることだけではない。同じ目標に向かって仲間と協力したり競い合ったりする一方、ランチを一緒に食べ、仕事帰りには飲んで愚痴を晴らし、たくさんの人と出会い、人間として成長していける場でもある、と。


 行きつけの居酒屋はその日も近隣のサラリーマンたちで混んでいた。

 ぱっと見たところ、社内の人間はいなかったのでちょっとほっとする。

 四人がけの席に案内されて向かい合って座り、聖にメニューを説明していると、「あれっミヤ、誰その子」と声がした。顔を上げて、ああ面倒だなと思った。

 また一回り体格が大きくなったような同期の斉藤が部下を連れて立っていた。

 他の誰に会ってもいいけれど、斉藤はカンもいいし、過去に言い寄られたこともあったので正直ここでは会いたくなかった。

 そうはいってもすでに彼は結婚し子どもも生まれているから、もうすっかり私に対してはただの同期として接しているけれど。


 目をぱちぱちさせている聖にごめんねと目配せしつつ、私は斉藤に聖を紹介した。

「どうも。こちら大学四年の生田さん。OG訪問なの」

 予め決めていた通りにそう言うと、聖もこんにちは、と二人に会釈した。

「えーっ大学生! こんな年取った人に訪問なんてしても今どきの情報なんて得られないんじゃない? ちょうどいいや、うちの相田のほうが役立つだろうし、相席いい?」

 私が許可しないうちに斉藤は私の横に座り、相田を聖の横に座らせた。

 斉藤の言い方が嫌だったのだろう、聖は真顔になっている。

「生田さん、ごめんねうるさいのが来ちゃって」

 聖は眉間にかすかに苛立ちを走らせながらも、「全然大丈夫です」とバイト先で見せていたような接客用の笑顔を作って言った。


「相田、こいつは俺の同期で法人営業部のドン、宮原主任」

「誰がドンよ。相田くん、斉藤にパワハラされていない? 私に言いつけていいのよ」

 斉藤の部下、相田は二年目の大人しい男子で、いえいえ、と笑っている。

「生田さんは何学部なの? うちの会社志望なの?」

「えっと、教育学部です。元々小学校の教師になりたかったんですけれど、今はいろんな業界も見てみたいなって思っていて、宮原さんにお話を伺いに来ました」

「へえ、先生志望だったにしちゃ髪も派手だね」

 斉藤の質問にそつなく答えた聖に感心しつつ、あまり突っ込まれないうちにと話を変える。

「ねえ、経営企画部はどうなの? 経企ってシュッとした頭良さげな人しかいないイメージから、全身筋肉みたいな斉藤は浮いてるんじゃない? 相田くんはいかにも経企って感じだけど」

 斉藤は本社法人営業部で3年勤務後、4月に支店に戻ってきて経営企画部に課長として着任した。入社以来ずっと法人営業で外を走り回っていたから、社内相手の仕事は慣れないと同期会でこぼしていた。

「今までお客様第一主義でとにかく汗をかけばなんとかなったけれど、社内相手だと全体最適を目指しても、どっかで必ず文句を言われるんだよな。数字で成果が出るわけじゃないから難しいよ。空回ってる気もするし。な、相田」

 すでに顔が赤くなっている相田は首を横に振った。

「いや、斉藤課長が来てこの仕事は無駄とかこの会議は長すぎるとか、今まで凝り固まっていたところに色々手を入れてくれて、僕たち若手はやりやすくなったって感謝してるんですよ」

「……だって。聞いた、ミヤ? 俺だって成長したわけだよ」

「うん、偉い偉い」


 斉藤は黙ってウーロン茶を飲んでいる聖に視線を移した。

「こんな内輪の話なんてしていても生田さんにはつまんないよな。相田、お前の就活の思い出でも話してみろよ。どうやってうちの会社に入ったんだ」

「えー、僕ですか……うちの会社については名前は聞いたことがあるけどってくらいで、正直具体的にはよく知らなかったんですけど、就活セミナーで……」


 斉藤は少し乱暴な言い方をするところはあるけれど、面倒見はいい。

 聖も相田の話を真剣に聞いているのを見ながら料理を食べていると、斉藤が私に「それで最近はどうなんだよ、いいやつできたか?」と聞いてきた。

 聖がチラリとこちらを見る。

「うーん、どうですかね。まあ、不足はしていません」

「なんだよそれ」

 斉藤が苦笑しながらジョッキを空け、店員にお代わりの合図をした。


「だって去年大失恋したもん。そんな次から次へとなんてできないでしょ」

「そりゃそうだけどさ。俺はね、ミヤにはちゃんと幸せになってほしいの」

「心配しなくても幸せに生きてます」

「わかってないなあ。一人でふらふらしててどこがちゃんと、なんだよ」

「斉藤にはわからないかも知れないけれど、ちゃんと幸せだよ。誰かとセットじゃないと不幸せなんて偏見すごいよ。ねえもう酔ってる? お酒弱くなったんじゃない?」

「だってお前もう37になるだろ? 早川も小林もみんなママになったのに、お前だけ結婚もしなくてどうすんだよ。年取ったら子ども欲しくなってもできなくなるぞ。……それとも男と結婚したくない理由でもあるのか」


 裏を含むようなその言葉に引っかかるものを感じた。

 聖の視線が突き刺さる。

 早く話を逸らさなくてはと思うのに、私も酔っているからか反論したくなった。

「でも立花とふみちゃんは離婚したでしょ。結婚したらイコール幸せとは限らないの。斉藤だって小さい子いて奥さんにワンオペさせておきながら、こんなところで飲みながら女相手に偉そうにくだを巻いてる場合なの? 奥さん、ちゃんと幸せなのかねえ?」

「……ほんとお前はそういうところが生意気な」

「同期で生意気もくそもあるか。ちょっとお手洗い」

 私はハイボールを飲み干すと席を立った。


 斉藤は悪いやつではない。

 大学でラグビー部の主将をやっていただけあって、ひとりぼっちだったり取り残されている人がチームにいないかいつも気を配っている。

 きっと今日も大人しい相田を力づけるために二人で飲みに来たのだろう。

 私のことを心配しているのも本心だとわかる。

 ただ問題なのは全て彼の基準でしか判断しないというところだ。


 個室から出て冷たい水で手を洗い、化粧を直しながら冷静さを取り戻していく。

 同期として付き合う分には頼りになるし、この先も彼は出世していくのだろうけれど、やっぱりプライベートで話すと疲れる相手だな、と思いつつ私はトイレを出た。

 

 あの時、私は自分のことばかりを考えていた。

 聖を一人にしてはいけなかったのに。


 席に戻ると、相田がテーブルにほぼ突っ伏し、聖が背中をさすっていた。

「ちょっ、もう相田くん潰れたの? 斉藤、ちゃんと飲むペース考えてやらないと」

「生田さんに男らしいところ見せたくてガンガン飲んだのかもなあ」

「男らしいとか今時もう古いよ。それじゃ、私たちもうお先します。斉藤はちゃんと相田くんを送ってあげなよ」

 斉藤が何か言う前に私は五千円札をテーブルに置いた。

 聖はウーロン茶一杯でそんなに食べてもいないし、私もビールとハイボール一杯ずつだ。多すぎるくらいだけれど斉藤に貸しを作りたくないので、私は聖を連れてさっさと居酒屋を出た。


「なんだか狙っていたのと違う展開になっちゃった。ごめんね」

 歩きながら謝ったけれど、聖の表情は固かった。

「かがり、斉藤さんと付き合ってたの?」

「えっ、まさか」

とごまかしながらも、ドキリとした。

「それじゃあ、斉藤さんがかがりのこと好きだったんだ。そうでしょ?」

「あ、うん……告白されたことはあるよ。でもなんでそう思った?」

 聖は頷きながら顎に指をかけた。

「やっぱりね。なんだか私のこと警戒してるみたいだった。本当に大学の後輩? とか、ミヤのこと見る目が怪しいとか」


 ああ、聖をあの店に連れて行ったのは失敗だった、と私は思った。

 会社にいる私の周囲に嫉妬していたから、思い切って会社のフィールドに入れたら安心するかと思ったけれど、妙に鋭い斉藤と会ってしまったことでかえって聖を不安にさせてしまった。

「いつ頃告白されたの?」

 そう聞いてくる聖の目が沈んでいたので、私は落ち着いて話そうと駅前にある大きな公園に誘った。

 自販機でボトルタイプのコーヒーを二本買ってきて一本聖に渡し、ベンチに並んで座って話した。


 ――入社して数年間の私は斉藤にとって守るべき相手に思えたようだった。

 男性と付き合っている時は公言しているけれど、女性と付き合っている時は息を潜めるようにして恋を育むから、単純明快な彼には「数年に一度しか彼氏ができず、基本的に一人で寂しい女」のように見えたのかもしれない。

 たまたまフリーの時期になんやかんやと誘われるようになり、同期数人や法人営業部の若手で集まって遊んだりしていたが、みんなでラグビーの日本選手権を応援しに行った帰り、結婚前提で付き合いたいと告白された。


「俺と結婚したらミヤは仕事辞めていいから。いつもしんどいって愚痴言ってるだろ。ミヤは家庭と子育てに集中してくれたらいい。趣味だって楽しめばいい。その分俺が仕事頑張るから。そうやってミヤを女として幸せにしたいんだ」

 ドライブの帰り、夕暮れが綺麗に見える見晴らしのいい公園に立ち寄り、斉藤はそう言った。

 彼の気持ちは薄々気づいてはいたけれど、いきなり結婚かと私は驚いた。

「ありがたいけれどごめんね、私とは考え方が違うみたい。私は、仕事は男女関係なく社会の一員として当然するべきことだと思ってる。そりゃ楽なことじゃないし、愚痴だって言うけれど、それがお給料もらうってことだし、私は自立して生きていきたいの」

「仕事がしたいなら子どもができるまでしたらいいさ。子どもが大きくなったらパートとかもいいだろうし」

「そういうことじゃないの。私は誰かの許可ではなく、自分で決めたいの。斉藤はいい仲間だとは思っているけれど、恋人とか夫としては考えられない。だからごめんなさい」


 それからもしばらく斉藤からはアプローチを受けたけれど、ばっさり切り捨てていくうちにまた元のようなただの同期関係になり、やがて彼は本社へ異動し、派遣社員と結婚して専業主婦としてこの地に連れて帰った。思い通りの妻を手に入れたという訳だ。

「斉藤が本社に異動したのが四年前で、もうその時にはもう彼からも何も言ってこなくなってた。だからさっきのはただの同期として心配してるんだと思う。女子で結婚してないのって私とあと一人くらいだから」

 聖は足元の小石を蹴った。

「それだけかな? かがりが男と結婚できない理由があるのかとか、私のこと本当にただの後輩かなんて聞いてきたってことは、私とかがりが付き合っているんじゃないかって疑っているんじゃない?」

「そんな――」

 私は絶句した。暑い夏の夜なのに、不意に背中がひゅっと寒くなる。

 斉藤が私たちのことを疑っているとしたら。

 尾ひれの付いた噂を流されたら――。


 そんな私を見て聖は悲しげに言った。

「私のこと、隠したいよね。女で、しかも大学生の私と付き合ってるって会社の人にばれたらまずいよね。迎えになんて来なきゃよかったね、ごめん」


 あの時。嘘でもいいから「そんなことない」と言っていればよかった。

 迷惑なんかじゃない。

 誰に知られたっていい。

 私は聖が好きなんだから、と。

 でも、一番必要なあの時、嘘はこの口から出なかった。

 

「今日は私、自分の家に帰る。また連絡するね、おやすみ」

 無言のままの私にそう言うと、聖は立ち上がって去って行った。

 私は小さくなってやがて消えた聖の後ろ姿をただ見つめていた。



 ・「15」 〈2020年8月13日更新〉


   大学祭から帰った後、望実は塞ぎこんだ。

   大学では楽しそうにしていたのに、なぜなのだろうと夏芽はいぶかった。

「望実さん、元気ない? どうしたの?」

 そう聞いても望実はうつむくばかりだったが、夏芽が後ろから抱き締めると、やがてぽつりと言った。

「……ああいう世界が本来夏芽ちゃんがいる場所なんだなって思って」

「美大?」

「うん。個性的な若い子がいっぱいいて、アーティスティックで、刺激が一杯で……ああいうところで夏芽ちゃんは学んで、恋をしてきたんだなって思ったら、私みたいな芸術もわからない平凡な年上女が横にいていいのかなって」

 夏芽は望実の頬に手を添え、自分に向けるとキスをした。

「ねえ、私から望実さんを好きになったんだよ。他の誰でもなくて望実さんが好きなの」

 望実の瞳が揺れて、涙がこぼれた。

「でもこんな年上の私のこと、お友達にも紹介しにくいでしょ」

「望実さんさえ良ければ、私はこの人が大好きな彼女だって紹介したかったよ。こんなにキレイな人が私と付き合ってるんだよって自慢したいぐらいだよ」

「みんながおかしいって思うよ。私は……私は自信がないよ」


 もどかしかった。

 夏芽自身は誰にどう思われても構わない。

 瑠奈とも周囲には特に隠さず付き合った。

 でも、初めて女性と付き合う望実の立場を思いやったことで逆に望実を不安にさせてしまうとは。

 今すぐこの胸を切り開いてどれほど好きなのか、望実に直接見せられたらいいのに。

 夏芽はただ好きだよと囁き、キスを繰り返した。

 そのまま夢中で抱けば、望実は肌で応えてくれる。

 でも二人の間に透明なバリアーのようなものがあって、肝心なものが伝わっていかない。

 そして望実の恐れは夏芽にも跳ね返るのだった。 

 

◆◆◆


 8月13日、今日は私の誕生日だった。

 一年前には聖がケーキを買ってきてくれて、ハッピーバースデーと歌ってくれた。

 一年経った今日、私は一人で38歳になった。

 母からはおめでとうという言葉に続けて、いつも通りに結婚の催促が続いていたから、「ありがとう」のスタンプだけ返してあとは通知オフにした。どうせ気が滅入る内容だ。

 楽しみにしていた小説「15」が更新されたのが、唯一の私へのプレゼントのように思えた。――苦しい展開ではあったけれど。


 あの夜、公園から聖が去ったあと、しばらくして私は重い身体を引きずるようにして自宅に戻った。スマホを眺め続けても聖からは連絡がないままで、諦めてシャワーを浴びて出てくると、

〈ちゃんと自宅に戻っているので心配しないでください〉

というメッセージが届いていた。


 それを見ると堰を切ったように涙が出てしまい、そのまま聖に電話した。

「あんなことになってごめんなさい。私は聖のことが好き。不安にさせてごめんね」

「かがり……泣かないで」

 そう言う聖の声も震えていた。

「わ、私だって聖と付き合ってるって堂々と言えたら……でも聖のことは隠したいとかではなくて……だけど会社ではまだ……」

 しゃくり上げてしまい、言葉がうまく続かない。

「わかるよ……責めるようなこと言ってごめんね。社会に出ているかがりのほうがしんどいこと多いよね」

「聖のことが大好きなの……」

「私もかがりのことが大好きだよ」

「聖……」

「かがりに会いたい。今から行ってもいい?」

 

 30分ほどして聖はやってくると、激しい息づかいのまま無言で私を抱き締めた。私はまた涙が止まらなくなった。

 愛していると思った。

 愛されていると思った。

 衝動のまま、私たちは激しく抱き合った。

 聖は刻みつけるように私の身体中をきつく吸い、噛み、痕をつけていった。

 私も同じように聖の身体へ赤紫のいびつな花びらを散らした。

 一生消えなければいいと思った。

 しかし花びらに見えたあざは、数日で雪のように淡く消えていった。


 あの夜、私たちの関係は決定的に何かが変わり、別れへ向かって進み出した。

 見ないように、行かないようにしながらも時限爆弾のように別れは私たちの側にいて、終わりまでの時間を耳元で囁き、私たちの背をそっと押した。

 私たちは激しい喧嘩と仲直りを繰り返すようになっていった。

 それでも私が聖を愛していたのは確かだ。

 でも聖が私を愛していたかはわからない。


 私の誕生日の夜、聖は小さなホールケーキにろうそくを3本三角形の形に立て、火を付けるとバースデーソングを歌った。

「なんでろうそくが3本なの? 37本も立てる場所がないから?」

 ちょっと嫌味を言うと、聖は微笑んだ。


「年齢じゃなくてね、3って縁起がいい数字で、みっつって読むでしょ。望みや願いが叶う〈満つ〉って意味もあるんだって。あとね、ちょっとキザだけど、かがりの過去も現在も未来も愛していますって思いも込めました」

 それを聞いて、また私は泣き出してしまった。


「頼りない私でいつも泣かせてごめんね、でも誰よりかがりを愛してる」

 そう言いながらバイトのお金を貯めて買ってくれたという指輪を箱から出して私の右手の薬指にはめてくれた。

 金の細いシンプルな指輪だった。

 嬉しかった。


 聖は自分のためにもお揃いの指輪を用意していたので、私はそれを彼女の細い指にはめた。

「出会った時には聖の誕生日が終わってしまっていたものね。来年4月のお誕生日は思いっきりお祝いするからね」

 私がそう言うと、聖はみかんの笑顔を見せた。

 そして私たちはお揃いの指輪をはめたまま、翌日には一泊で高原への小旅行を楽しんだ。


 結局、今年の聖の誕生日を祝うという約束は叶うことはなかった。

 そして、聖が私の過去と現在を愛してくれることもなかった。――もちろん未来も。


 引き出しの奥にしまったままの小さな箱を久しぶりに開け、並んでいるふたつの指輪を見た。聖にもらった指輪と、別れた日に聖が指から抜いて置いていった聖の指輪。

 何度か捨てようとしたけれど結局捨てられず、プレゼントされた時に入っていた箱に二個ともしまっていた。

 放置している間に少しくすんだようだった。

 再び私は箱の蓋を閉め、引き出しの奥へ押し込んだ。

 

 誕生日から数日後、昼休みの終わりにエレベーターで斉藤と一緒になった。

「ミヤ、こないだ誕生日だったよな? おめでとう」

「よく覚えていたね。めでたい年でもないけど、ありがとう」

「38だもんな。お前もいい加減結婚……って言ったらセクハラになるな」

「もう言ってますよ、斉藤課長」

 斉藤はすまんすまんと詫びる仕草をした。

「そういえば去年のあの子って結局どこに就職したの?」

「あの子?」

 聖のことを言っているのだとピンと来たが、とぼけた。

「ほら、去年今頃に〈こてんや〉で会った大学生の……何ていったっけ、髪短い女の子」

「ああ、OG訪問しに来た子ね。さあ、今はどうしているのか知らない」

「そうなんだ? 仲良さそうに見えたけど」

「あの頃相談に乗っていたけど、その後途切れたよ」

 斉藤は大げさにため息をついた。

「今どきの若い子は、相談に乗ってもらった先輩にお世話になりました、どこで働くことになりましたとか挨拶もないのかね。俺たちの頃は……」

「あっ、それ言い始めたらおじさんだよ」

「はいはい」

 経営企画部のフロアにエレベーターが止まり、斉藤は手を挙げて降りていった。


 聖、あなたは今どこで何をしているのだろうね。

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