痛かった? とよく聞かれるが、分からない、としか答えることができない。麻酔が効いていたため、本当に分からないのだ。

 それに、そんなの私にとってそもそも愚問だ。クラスで頭の良い子に「どうやって勉強してるの?」と訊くぐらいに矮小で、取るに足りない質問だと思う。

 要するに、意識や決意。うん、多分そう。根本的な何かが、アナタ方とは違うんですとしか答えることができないけれど、ぐっと喉の奥に言葉を押し込む。柔和な笑みを浮かべて、曖昧に返事をする。ちょっと困ったような表情をつくりながら。


 ✤ ✤ ✤


 別れ話を切り出されてから、私はただお金を稼ぐためだけに奔走した。

 資格、転職。そして、なりたい私を求めて、課金をする。たぶん若者がゲームに課金するノリと同じ感じ。それが現実世界に反映されるかどうか、というだけの違い。


 美容整形。私の求める、いや──別れる原因となった醜い私にサヨナラするために必要な──美を求めて、課金する。


 今日で、7回目の部分整形を終えた帰りだった。まばらな街灯を頼りに、エコバッグ片手に帰路を辿る。酔っている訳ではなく、単純にパンプスがきついせいで、フラフラと覚束無い足取りで歩を進める。でも、気持ちはかなり清々していて、これからやっと人生のレールに戻れる気がした。生きた心地がした。そして夜の空気は、澄んでいた。


 そんな時いつも思い出すのだ。アリとキリギリスの話を。小学生のころ、アリのように「汗水垂らして真面目に働くことが大事」だと物語を通して教わったが、私はそんなのは間違っていると思った。


 幼い頃から疑問を抱いていた。キリギリスの成虫は越冬することができない。だから、パートナーを見つけて子孫を残すためにバイオリンを弾いたり、歌を歌ったりするのだ。だから当然、短い人生の中で懸命に生きているキリギリスは、アリよりも評価されていい筈でしょう? って。


 ああ、私はキリギリスだなと感慨にふける。若さを取り戻そうと必死になる私。醜い自分の顔を見る度に打ちひしがれて、凍え死ぬだけの私。

 美しさを求めて必死になる私は、結局傍から見れば滑稽で、イタい奴なんだろう。そんなの、分かってる。私が決めたことなんだから。


 しゅっとした目。弾力のある潤った肌。小さな唇。整った鼻。


 家に帰り着いて、変わり果てた自分の顔を、改めて鏡を通して確認する。思わず笑みがこぼれてしまった。


 ✤ ✤ ✤


 痛覚が伴わずに手術できる時代はなんて楽なのだろうと改めて感謝する。と同時に。いっそのこと、感情さえもなくしてしまえば、どれだけ楽に生きられる人間が増えるのだろうか、と突飛な発想に至る。そんな考えを浮かべる私は、世間で云うところの「病んでる」奴なのだろうか。

 でも、一つ確かに言えることは。あの頃の私は、無鉄砲で自分に酔っていて、圧倒的に美しさに欠けていた。瞼をゆっくりと閉じて、回想する。


 ✤ ✤ ✤


「ねぇ、この香水どう? 秋谷サァン」


 甘ったるくて上滑りな声をつくって機嫌をとるだけの私は、とっくに彼にとって賞味期限の切れた若さで、はっきり言ってかわいくなかった。そんなことに気づかず、彼をおだてる私の馬鹿なことといったら。思い出すだけで鳥肌が立つぐらいに自己嫌悪に陥ってしまう。なんて馬鹿なんだろうって。それが消費期限じゃなかったからキープされてただけの、ありふれた同情を誘うほどにお粗末な存在。


「いーね、俺のすきなやつ。わかってんじゃん。てゆーか俺のどこが好きなわけ? お金? だったら、俺もってねぇし」


「は?そんなことナイヨ。一応、建設会社勤務でしょ?秋谷さんはぁ、カッコよくてクールで……って一緒か。なんか、すごい色気があるっていうか」


 鼻にかかった、でも不自然さの一切を拭ったような声をつくる。たどたどしく、上手くまとまってない小学生レベルの感想のように、のらりくらりと言葉を紡ぐことしかできなかった。なのに。


「あっ、いや、そんなコト言われるとー、照れるなあ、ハッ」


 子どもみたいに笑う秋谷さん。いたいけで、無邪気な声を上げながら。酒のせいなのか、自然な色みなのか。赤らめた頬が愛おしかった。


 付き合っていたとき、3回目のデートで、秋谷さんは指輪をくれた。結婚を見据えた、指輪だった筈だ。

 私のための指輪。12月の誕生石、トルコ石がちょこんと載った指輪だった。

 なのに。なのに、そんな矢先、彼との口論で。私は、彼にフラれたのだ。バカだなあ私って。


 自暴自棄っていうのかしら。それから、かなり私生活が荒れたような気がする。一時期は、飲んだくれみたいな日々を送っていた。


 心機一転、変わらなきゃ。そう思った時、また秋谷さんのことを思い出した。

 こんな私に今まで構ってくれてたのも、全部全部、偽りだとは思えないから。

 あなたを探す決意をした。そして、あなたに認められる私に、なりたかったから、整形することを決意した。


 ✤ ✤ ✤


 都会ではよく見る、ちょっとした探偵事務所みたいな所で、人探しの依頼をした。秋谷さんを探そうと、本格的に動き出した。


 もう、私の「原型」は残っていないのだから。バレないだろうし会ってもいいだろう、と美容整形を免罪符にして許しを乞うくらい、秋谷さんに会いたかった。


 その事務所を通じて、定期的に連絡が入り、彼がアイナナ通りにあるバー『月夜の太陽』の常連であることを知った。迷わず私はスタッフ募集がないかを調べ、そこに応募した。


 それと並行して私は、着々と準備を進めていた。新しい私へ、生まれ変わる準備を。

 まず、整形をしてから姓名は、母の旧姓である「三枝さえぐさ」と名乗り、名前に関しては改名手続きを行った。改名は簡単だった。


 。シャネル。


 そう、あの世界的に有名なブランドと同じ名前だったから。私は、改名手続きを受ける正当な理由を有していた。


 シャネルから、もっと、一般的な名前へ。

 そうね、「亜矢」なんてどうかしら。友人から提案された、名前を採用した。口笛を吹くように軽やかで、どうせ思いつきだろっていうぐらい深い思索を伴わない、投げやりな名前の決め方。それでも、私は気に入った。


 その後バーの採用通知を受けてから、数回、対人スキルを磨くためにセミナーに通った。


 ✤ ✤ ✤


 一つ、誤算があった。

 指輪だ。

 秋谷さんから貰った例の指輪を、肌身離さず着けていたこともあり、痕が残ってしまっていたのだ。はずすのにも一苦労だったのだから、当然といえば当然のことだが。


 どうやって指輪の痕跡を隠そうかと慌てて、カムフラージュになるかわからなかったが、別の指輪を買った。毒を毒で制す、というのと同じ具合で。

 指輪といっても高いものではない。自宅近くの商店街の一角を占める、貴金属買取店でセール品として売りに出されていたものだ。

 しかし、接客業と言うこともあって、仕事中は指輪は外しておかなければならなかったが、熱心に頼み込んで、特別にマスターに許可を貰ったのだった。


 母の形見、ということにしておいた。


 ✤ ✤ ✤


 長いこと、待ち詫びていた再会の日は。といっても、私のためだけに用意された再会の日は、計画通りにやってきた。


 一人の男が、私の立っている前のカウンター席に静かに腰を下ろす。何かに導かれるように、まっすぐ私のほうに向かってやってきた。


「俺、秋谷と言います」


思わず目を逸してしまった。恥じらいからというわけではなく、咄嗟の、本能的な反応だった。胃の腑が熱く、震えるのを感じる。


「ア……キヤ、さん?」


 ああ、秋谷さん。本当にいるんだ、いや、当たり前だけど。平静さを保ちながら、初めて聞いたかのように、己を騙すようにして、そして新鮮さをかみしめるように、復唱する。


 秋谷さんの「好み」のパーツを取り揃えたフルコース。この顔、この姿。どう思うのだろう。勿論、私──紗音瑠シャネルであると気付かないだろうが。


 心臓が大きく捻れるように、ぐんと胸に重みを感じる。落ち着け、という思いが全身をそっと撫でる。自分の中に眠る獰猛な獣を、起こさないようにするかのように。


 私と別れてからの空白を埋めたくて。秋谷さんの過去を知りたくて。探偵の方にねだって入手した『自白剤』なるものの粉末を、秋谷さんの注文したカクテルにサラサラと入れる。幸い、マスターは店の裏手に、煙草を吸いに行っている最中だった。


 そうして私は、必然を装うかのような運命的出会いを再現することに成功したのだった。勿論、私にとっての、一方的な邂逅にすぎない。


 ✤ ✤ ✤


 7回目の整形から帰った翌日。


 今日は、4回目の彼とのデートだ。

 夕方になって、最寄り駅から指定された場所へと足早に向かう。聞いたことのない店名だったので、携帯の画面上に示されているマップを何度も確認した。


 いざ目の前にすると、外観からして、すごく高そうなお店だと察する。私みたいな一介の庶民が普段訪れることのない、レストラン。


 店に入るとすぐに、落ち着いたジャズがBGMとして真っ先に耳に入った。入口の段差に気を付けながら足を踏み入れると、ツートンを基調とした大理石と思われる床のタイルが規則的に並んでいて、高級店の雰囲気を引き立てている。

 思わず萎縮してしまう。こんなお店に来るのは、初めてだった。

 それから、奥のテーブル席に座る彼が小さく手を振っているのが見えた。


「で、はなしって」


「うん、そのことなんだけど。良ければ。ああ、もうえっと──。結婚してくれないか。こんな俺でも、どうにかやっていくから」


 ためらいがちに。でもそれはあなたの決意の表明でしょう、自信を持って言いなさいよと、諭すように内心で嬉々とした祝福に浸る。

 待っていたよ、と。

 いつの間にか遠のいて、三人称になってしまった「彼」を「あなた」と呼べる日を、待っていたよ。秋谷さん。



 あなたの手の中に、一際眩い光を放つ、小さな見知らぬ指輪があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

見知らぬ指輪 押田桧凪 @proof

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ