見知らぬ指輪
押田桧凪
前
人生は一度しか皿の流れてこない、回転寿司のようなものだと思う。手を伸ばさなければ、味がわからないどころか、もう二度と取ることはできないのだ。
正直、俺はチャンスを逃した。指輪まで渡したのだから、あの時、結婚していれば。千載一遇とはよく言ったものだ、と独り慨嘆する。
✤ ✤ ✤
その日は頭が空っぽだったのか詳しいことは覚えていない。群れからはぐれて、人間の生活圏に紛れ込んだ小動物のように、ふらつきながらあてもなく歩いていた夜。仕事疲れだったせいか、多分あの日は何か癒しを求めて、歩いていたんだと思う。
今年で32歳。このままサラリーマン一筋、生涯未婚なんだろうかと一見無駄とも思える、先の見えない未来についての想像を膨らませながら、いつものように歩いていると。
寂れたシャッター街の中にチカチカ点滅する、レトロな電光看板を見つけた。
『BAR 月夜の太陽』
胡散臭い西洋のロマンス映画じみた店名。いつもだったら、絶対に立ち寄ることは無かっただろう。だが、その日の俺はどうかしていたのだ。本当に疲れていたとしか思えない。うん。そう、思うことにする。
実際に入ってみると案外悪くないもので、店内の素朴な雰囲気を気に入って、今では週に何度か訪れるようになった。趣味みたいなものだ。気温の落ち着いた夜に、歩くのも健康に良いだろうし。そう思った。
✤ ✤ ✤
──ある日、女神が降臨した。
まるで、俺への当てつけのように。俺の、理想像を投影するかのような、精巧なフランス人形のような美しさを体現する女性に出逢ったのだ。
名前を、亜矢という。
カウンター越しに見る彼女はいつも輝いていて、俺にとっての女神といっても過言ではなかった。煽りではなく、率直な気持ちとしての比喩だ。まさに、一目惚れだった。
彼女を初めて見た時、指輪をつけていたため、既婚者かと訝しく思った。話を訊くと、どうやら結婚はしていないらしい。が、怪しい。ちょっと母の形見でね、と誤魔化すように言っていたが、母の形見をつけるか? 普通。
それに。こんな美女が誰とも付き合ってないなんて到底信じられなかった。どうにもそれが腑に落ちなかったが、彼女を嫌いになる事はなかった。それぐらいに、彼女を好きになっていたのだ。
✤ ✤ ✤
初めての会話は、とてもぎこちない始まりだった。彼女から漂う、言いようもない甘さがちくり、と鼻腔を刺激する。ああ、この匂い。俺の好きなやつだ。
「シャネルだよね?」
……しまった。思わず、口走ってしまった。
え、と短い声が、彼女の唇の合間から漏れる。一瞬驚いたように表情を止め、その目に一筋の動揺が走るのが見えた。聞いちゃまずかったかなと思い、慌てて言葉を重ねる。
「あっ。いや、その香水」
まるで雷が空気の合間を縫うようにして地面に落ちるように、声が遅れて耳に届いた。
「そう。去年ぐらいに流行ったやつなの」
双眸を細めて、弱々しい笑顔を見せる。
──ああそういえばあの時もそうだった、と胸が嘆息をつく。苦い思い出が脳裏をよぎる。
「ほんの、軽い口論だった。鋭利な言葉のナイフを、体に突き刺すように。あの時、かなり外見を罵ったような気がする。俺は知ってた。なのに。自分の顔をすごく気にしていることを知っていながら、嫌味のように罵った。口走ってた。そんなこと、本当は思ってないのに。馬鹿だよ俺は」
自嘲気味に、嗚咽まじりの声が出る。つう、と雫が頬を滑るのを感じる。あれ、なんで泣いてんだ、俺。あれ、なんでこんなこと喋ってんだ。みっともねえ。彼女の前でこんな姿を見せるなんて。
俺はスーツの袖で水滴をさっと拭い、酒に思考を委ねて、全部ぜんぶ忘れてしまえばいいのにと、投げやりな気持ちで二杯目のカクテルを彼女に注文した。
✤ ✤ ✤
それから、彼女が新入りのバーテンとして店に来てから以前よりも回数を増やしてこの店に通うようになった。
初対面から、身も蓋もない明け透けな質問をしてしまったし、しかも俺は未練話を唐突に語り出すなんて。距離を作ってしまったに違いない、と不安だったが、彼女──亜矢さん、とはそんな心配をよそに外食に何回か誘うくらいの仲にまで漕ぎつけることができたのだった。
今日。あわよくば、という淡い期待にすぎないが、俺は正式に結婚を前提にした告白をすることを決意した。もし成功したら、それはドッキリ番組くらいにできすぎたことだろうと思う。それでも。もうチャンスを逃したくない、という思いが俺を喰らいついて離さないから。空虚な妄想に賭けてみよう。そう思えた。
「なあ。明日ちょっと外では落ち合えないか」
これで四度目になるデート。だが、今回はちょっと違う。とびきり高いところに予約をとっているのだ。都心部に位置する有名なレストランで、ミシュラン二つ星だという。
クチコミではオトせる店、として評判らしいが別にそんなゲン担ぎ的な理由から選んだ訳ではない。そう言い訳のように内心で呟きながら、俺は亜矢さんを見つめた。
僅かな逡巡を経て、亜矢さんはええ、と小さく頷く。妖艶な笑みをとともに、暖かみのある眼差しをこちらに向けた。
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