まひるのほうき星
最果屋うたう
本編
◇ 彗星のように ◇
自分は天才じゃない、そう気づいた日のことを覚えているだろうか。
私にとってのそれは、私達が小学四年生の時だった。
それまで同世代のピアノコンクールで敵なしだった私の世界に、星崎ほうきは彗星のように現れた。
結果だけを言えば、あらゆるコンクールの優勝は彼女の独占するところとなって、それ以降の私は準優勝が指定席になった。
そして、結果以外のことを言うなら、私は他人を呪ったり、自分を呪ったりといった、それまで無縁だった人間の負の感情を大いに学ぶことになったのだった。
念のために言えば、それを表に出したりはしていないはずだし、星崎ほうきにも嫌がらせをするような真似はしていない。そんなことをしても自分が惨めになるだけだという程度のことは、子供なりにわかっていたのだ。
二年ほどして、現れた時と同じように突然に、星崎ほうきはコンクールから姿を消した。
仲が悪かったわけではないとはいえ、よかったわけでもないから、理由を聞く機会もなかった。
ただ、想像はできた。
星崎ほうきの父親は、私でも知っている会社の経営者だった。そして、そんな私でも知っている会社の不祥事のニュースは、私の目にも自然に入ってきたのだ。
理由はどうあれ、気まぐれなほうき星の去ったコンクールで、私は主役の席に返り咲いた。
でもそれは、私にとっても周囲にとっても、あまりに空虚な玉座だったのだ。
◇
「まひるー、例の新人の件、どうなってる?」
昼休みのとっくに終わった事務所の十五時、自席で遅い昼食にありついていると、先輩に声をかけられた。
まひるというのは私の名前だ。大道まひる。
音大までは行ったもののピアノで食っていける程の才能がなかった私は、今は演奏家をプロモーションする仕事をしている。
「今夜、ライブハウスで演奏後に会うことになってます」
「しっかし、あんたも物好きね、十歳で神童だって、二十歳過ぎたらただの人だよ?」
「……わかってますよ」
わかっている。だけど、その〝新人〟に私は期待せずにいられないのだ。
だって、
―― 会える、星崎ほうきに!
◇ 再会 ◇
ライブハウスは盛況だった。
歌もないピアノだけの演奏だというのに、席にはほとんど空きがない。
演奏が始まるまでまだ時間がある。ジンジャーエールを飲みながら、私はコンクールでの星崎ほうきを思い出していた。
彗星のように現れた星崎ほうき。彼女のピアノは、圧倒的な緻密さと正確さで他を圧倒した。
本人の性格はクールないし無口だったから、彼女のピアノには人間味がないという陰口は飽きるほど聞いた。私も、その意見に与したい誘惑には何度もかられたけれど、私にとっては、その冷徹さの中に見え隠れする情感こそが彼女のピアノの抗えない魅力だった。
そう、私は彼女のピアノの魅力に抗えなかった。だから、十五年たった今も、こうしてここに足を運んでいるのだ。
◇
誰!?
と思ったことは責めないでほしい。むしろ、叫ばなかったことを褒めてほしい。
まず目についたのは銀色の、腰まである長い髪。黒いドレスは暗い室内に溶け込んで、所々に散りばめられた粒が照明を反射して星のように輝いている。胸元の開いたデザインは着る人によっては扇情的にもなるのかもしれないけれど、スレンダーな体型だからか下品な印象にはなっていない。
ここから見るときつめのつり目に見えるけど、私の知る星崎ほうきはそこまではっきりしたつり目ではなかった。よく見れば化粧で、そのように見えるようにしているのだとわかった。
ほうきがピアノの前に座ると、室内のざわめきは静かになったものの、まだ小声でささやき合う声が聞える。クラシックのコンサートとは違う空気感だった。
そんなものを気にした様子もなく、ほうきは鍵盤に向かう。そして、
いきなり、圧が来た。
低音のフォルテシモ、そこからいきなりトップスピードで疾走する旋律、さっきまでささやきあっていた声も聞こえなくなる、そもそもこの音量の前では掻き消されて聞えない。
最初の一発で、場内の注目を一気に集めると、どこか切ない歌い上げるような旋律で、ほうきは一気に自分の世界観に聴衆を引きずり込んだ。
映画でも見ているような、悲しみの情景が目に浮かぶ。
ふりしきる雨、瓦礫以外何もない廃墟、天に向かって叫ぶ一人の女。
そんな情景が目に浮かんだ。
(これが、あの星崎ほうき?!)
思い出すのは小五の時のコンクール。
ほうきは、高難度の曲を一つのミスもなく弾ききった。氷のような冷静さと機械のような精密さ、それがあの頃の星崎ほうきの武器だった。
だけど、今のほうきの演奏の主役は精密さではない。あの頃はかすかに見え隠れするだけだった情感、それが今では誰もが認めるであろう最大の魅力になっていた。
それでも、どんなに派手で感情的な演奏をしても崩れないのは、強固な基礎があるからだ。ドラマチックな演奏の奥底を支える機械のように正確な鼓動は、間違いなくあの星崎ほうきだった。
(十五年、か……)
十五年もたてば人は変わる。父親の会社が倒産して、コンクールにも出てこなくなったほうきのピアノが変わるのは、そんなのは当たり前のことだった。
その時、一瞬、ほうきと目が合った気がした。楽譜なんて初めからなくて、客席に視線を投げながら弾いているから、偶然なのだろうと、その時は深く考えることはなかった。
◇
「飲む?」
そういって、目の前の銀髪の女がオランダビールの緑の小瓶を差し出した。
ライブが終わった狭苦しい控室。私は事前のアポイント通り、星崎ほうきであるはずの人物と対峙していた。面影は、言われてみればなくはない。とはいっても、事前の情報がなければまず気づかないと断言できるけど。
同い年のはずだから飲酒に問題がある年齢ではないことはわかる。だけど、どうしても星崎ほうきにビールというのが、私の頭の中では結びつかなかった。
「い、いえ、仕事中ですので」
「えー」
辛うじて言葉を絞り出した私に、不満そうな顔を隠しもしない。
何度目がわからない「誰!?」という問いが脳内に響いた。
私の知る星崎ほうきは、無口でもあったけど、何かに対して不満を見せるということもなかった。まあ、毎回優勝してれば不満なんてなかったのかもしれないけど、それ以外にも感情をみせるということがほとんどなかったのだ。
「あ、じゃあ、ちょっと待って」
そう言って立ち上がると部屋の隅にある自販機で何かを買った。
「これ、好きだったでしょ」
そう言って差し出したのは缶のカルプスウォーター。
確かに、私は子供のころからカルプスが好きだった。今はカロリーを控えたいから飲む機会は減らしているけど、
「好き、ですけど……どうして」
「だって、コンクールの時、いっつも飲んでたじゃない」
……え?
「わ、私のこと、覚えているんですか?」
「そりゃ覚えてるよー、アタシ、他に友達いなかったし」
そういって、嬉しそうに笑った。
確かに、星崎ほうきには友達がいなかったと思う。だけど、私の主観では、私もそれに含まれていた記憶がなかった。こんな表情を見た記憶がないのも、その証拠と言えるだろう。
「それに、こんな場末のライブハウスにわざわざスカウトに来るなんて、昔のアタシを知ってる人じゃないとありえないしねー」
それはそうかもしれない。私も小学校の頃から付き合いのあるピアノ仲間、つまり星崎ほうき被害者の会の仲間ということだけど、から、星崎ほうきという名前のピアニストが場末のライブハウスに出没するという噂を聞いて、今回の訪問に至ったのだ。
「再会を祝して飲みにでも行きたいとこだけど、その前にオシゴトの話だっけ?」
そう言われて、我にかえる。確かに星崎ほうきに会いたいと思ってはいたけど、一応、私は仕事で来ているのだ。
あまりの記憶とのギャップに頭が麻痺していたけど、演奏家としての実力は間違いない。今日のところはまず挨拶で細かい条件については後日ということになるが、うちの事務所に籍を置いてもらい、ライブや楽曲の発表などのプロモーションをしたいということを説明した。
「ふーん」
あまり、興味のなさそうな反応だった。こういう反応は珍しくはない。そもそも、私のことが信用してもらえるだけの材料がないのだから、それはこれから積み重ねていくしかない。
「いいよ。やる。大道さんが面倒みてくれるんだよね?」
意外な答えが返ってきた。
いや、自分でいうのもなんだけど、そんなに簡単に他人を信用していいのか?
確かに、ほうきに出会う前の私は人を呪うことも知らない純粋な少女で、名字のごとく大道の真ん中をまっすぐに歩きたがる人間だった。そういう意味では、相手を騙すような人間ではないという判断はありかもしれない。
だけど、あれから十五年もたっているのだ。挫折と妥協を重ねて生きてきた今の私には、この名字は少々重いし、彼女からの信頼を素直に受け止めることができなかった。
……そもそも、妥協はともかく挫折の大半は目の前のモップの親戚みたいな名前の女のせいなのだ。
とはいえ、私もほうきを食い物にしたいわけでは確かにない。そんなに簡単に信用していいのか? というようなうしろめたさはあるけど、それはビジネスの相手に見せるべきものではなかった。
「久しぶりに、昼間に太陽浴びながら出歩く生活にも戻りたかったしねー」
現在の時刻は午前三時。確かに、今の星崎ほうきは一般的な社会人とはかけ離れたサイクルで生きているようだった。
◇ 真昼の吸血鬼 ◇
「まぶしー、死ぬ、灰になる」
ついこないだ、太陽の光を浴びたいといっていたのは誰だったか。
街を歩くほうきは、数分に一度は太陽を呪う言葉を吐きださずにいられないようだった。実際、白い肌に黒い服、銀色の髪のほうきは昼の世界に迷い込んだ吸血鬼のようだ。
「普段、どんな生活してるんですか?」
「んー夜が明けるくらいにうちに帰って、だらだらしてから寝て、夕方くらいにバイト先に行く感じかなー。客入ってない時は練習もさせてもらえるから、早めに行く時もあるけど」
質問ではなく皮肉だったのだが、まあ、担当する演奏家の生活を把握するのはそれはそれで必要だ。
そして、把握した内容は私に頭痛を起こさせるに十分だった。
「……お望み通り、昼間の仕事入れますから、深夜のバイトは減らしてくださいね」
「はいはい」
そんな話をしている内に、今日の仕事場についた。
繁華街から駅へと向かう地下道、その中にある天井の高い空間、その中にアップライトの白いピアノが置いてある。このストリートピアノが設置されたのは昨日のことで、今日はそれを記念したライブイベントだった。
「何弾いてもいいんだっけ?」
「一応、リストは用意しましたけど、好きに弾いてもらって構いません」
「おっけー」
そういって、ピアノの前に座ると、指をわきわきと動かして、いきなり鍵盤に指を躍らせた。
始めはスローテンポな曲。美しいメロディだけど、聞いたことのない曲だ。おそらく、ほうきのオリジナルなんだろう。私の知る星崎ほうきはクラシックの曲(クラシックのコンクールでしか会ってないんだから当然だけど)を、精密に弾く演奏家だった。今のほうきは、もうクラシックを弾くことはないんだろうか。
ゆったりと始まった曲は、次第に音を増やして行く、森の小道を歩いていた旅人が、乗合馬車に乗り換えたように、賑やかな曲調に変化した。
気づけば、ほうきのピアノを立ち止まって聴いている通行人の数も増えてきた。
馬車がスピードを上げる。行きすぎる風景の変化もめまぐるしくなっていく。その中に、一抹の不安な空気が混じる。
暗い夜の神様の手が後ろからすーっと伸びてくる。
それに追い立てられるように馬車は走る。
そして、夜の手に捕まるギリギリのところで、馬車は街に辿りついた。
そこで一曲目は終わり。ほうきが一旦手を止めたところで、周囲からわっと拍手が沸き起こった。
ほうきは笑顔で聴衆に手を振り、続いて二曲目の演奏に入った。
二曲目は夜の静かな雰囲気で始まる。街の喧騒も遠く、月明りだけが旅人の部屋を照らしている。
その時、突然、電子音のメロディが流れた。
これは、確か子供番組の主題歌、それを電子音だけにアレンジしたものだ。
現実世界に引き戻された聴衆がその音の元を探す。
親子連れの母親が、子供のポケットから携帯電話を取り出すのが見えた。
その時、たった今、電子音で流れたものと同じメロディがピアノから流れだした。
片手で月明りの夜の情景を表現しながら、もう一方の手でポップな子供番組のメロディを奏でる。それは、旅人が眠っている間に、どこからともなく現れた小人達が遊び始めた風景をイメージさせた。
聴衆の視線が親子から、ほうきに移る。
小人たちの遊びは、アレンジを変化させ、ダンスのような旋律に変わっていく。
ほうきが私に目くばせをした。何?
はっと気づいた私は手拍子を始めた。
それに気づいた若い男性が私に合わせて手を叩いてくれる。恥ずかしい思いをしていたであろう母親もそれに加わると、子供も嬉しそうに自分の大好きなメロディに合わせて手を叩き始めた。
その様子を目の端にとらえて、ほうきが嬉しそうに笑った。
夜通し行われた小人たちの舞踏会、それは夜明けが近づくにつれて、少しづつ人数を減らしていく。そして、最後の一人が、開け放たれた机の引き出しの中に姿を消すと、音楽は静かに終わりを迎えた。
一瞬遅れて沸き起こった二曲目への拍手は、一曲目よりもはるかに大きなものになった。
◇
「いや、なんてゆーか、子供って生き物見るのがちょー久々でさ。かわいーなー」
ライブ演奏は大好評で終わった。動画も取っているので、これはちょっとした宣伝として使わせてもらうことになるだろう。
そんな事務所側の話はあまり気にしていない様子で、ほうきは上機嫌でライブの感想を語っていた。太陽が傾いて調子が出てきたのかもしれない。
その笑顔は、十五年前のほうきがまったく見せなかったものだった。こんな無邪気な表情は、年相応でもなければ、初めてあった頃の印象でもないけど、きっと彼女にとってはいいことなのだろう、なんとなくそんなことを思った。
星崎ほうきは変わってしまった。
だけど、どうやら私は、今の彼女も彼女のピアノも、けして嫌いではないらしかった。
◇ ねじれた煌めき ◇
「星崎さん、変わりましたよね」
「今更かよっ」
ほうきの馴染みだというバーのカウンター、二人きりのささやかな打ち上げでのことだった。
私がもらした言葉に一瞬ポカンとして、ほうきはツッコんだ。
「まー、いろいろ変わったけど、まひるが突っ込みたいのはどの辺の話?」
いかにもおかしそうに笑いながらそう言って、ほうきは自身の銀色の髪をつまみ上げる。
「ピアノの話です」
「相変わらずピアノの虫だなー、まひるは」
何がそんなに嬉しいのか、ほうきは上機嫌だった。
「そうだなー、じゃあその話の前に、マスター、エクストラコールドも一本ちょうだい」
舌をしめらせようとばかりに、お気に入りらしい緑色のビールを注文する。
今日は私も同じものを飲んでいるけど、味はまあ普通のビールだ。私にとってのビールは、好きというわけでもないけど、暑い日によく冷えたものを飲むのは悪くない飲み物という位置づけ。その点では、ここのビールは特製の冷蔵庫で冷やしているとかで、氷みたいに冷たいのが心地よかった。
一本目と同じく瓶に直接口をつけながら、ほうきは語り始めた。
「ピアノの話ってことだから、細かい話ははぶくけど、まひると会わなくなってからは、まあ、しばらくはピアノなんて弾けない感じだったんだよね。アタシもまあ、それまで無茶苦茶な感じでレッスンさせられてたから、もうピアノなんていいやー、って感じだったし」
「……」
「でも、何かの時に街なかにピアノ置いてあるの見かけてさ、自然と弾きたくなっちゃったんだよね」
今日弾いてきたようなストリートピアノのことだろうか。
「それで、誰もいない時間を見計らっては一人で弾いてたんだけどね、昔のこと、いろいろ思いだしてた。まひるのこととか」
「私の?」
「ピアノのことで楽しかった思い出っていったら、コンクールの時のことくらいだし、そこでも友達なんてまひるくらいだったからねー」
ほうきは、また私のことを友達と呼んだ。
「でも、アタシ、コンクールの夜は毎回ベッドでじだばたしてたんだよね。うわー、まひるに馬鹿なこと言っちゃったとか、馬鹿な奴とか思われてたらどうしようとか、もうまひると会っても余計な事言わないぞって思うのに、会ったら、また変な事しゃべっちゃってさ」
あの星崎さんが、内心そんなことをを思っていた? そういわれても、正直信じられなかった。第一、そんなに深い会話をした記憶がない。
それに、コンクールの夜というなら、それは私が悔しさで枕を濡らしていた時ということだ。そんな時に星崎ほうきはそんなことで枕を相手に格闘していたというのだろうか。
「でもさ、そうやって心をぐちゃぐちゃにしたりされたりしてる時が一番キモチイイんだって、気づいたの。会話でも、ピアノでもね」
そう言って、ニヤリと笑う。「まー、あの頃は恥ずかしいやらなんやらで、そんなこと考える余裕なかったけどねー」と続いたのはどうやら照れ隠しらしい。
「で、飼い主もいなくなったことだし、好きに弾いちゃえーってね」
「飼い主……?」
「あー……星崎サンのことね」
あなたも星崎さんでしょうに、と聞いてしまうそうになって止まる。あの頃聞いた醜悪な噂話を思い出したからだ。
曰く、星崎ほうきは養子で父親と血のつながりがない、曰く、人身売買組織から買われてきた、曰く、星崎家に潜り込んだピアノ星人だ。
……くだらない、子供の妄想だ。
「まあ、変わった理由っていったら、それくらいかなー」
そう言って、ほうきはビールに口をつけた。
つられて、ビールを口に運んで、考える。
あのまま、まっすぐ育っていたら、ほうきはどんな音楽を聞かせてくれただろうか。そう思うと残念な気持ちもある。
だけど、今日の演奏を聴いて思った。今のほうきの演奏の価値は、あの頃にけして劣るものではない。私にとっては、もうすでにそれ以上の存在になりつつある。
一度は断ち切られて、ねじくれて、その果てに辿りついた音色。二度と同じ演奏を聴くことのできないような即興の結晶。それはあまりに儚い煌めきだった。
奇跡と言い換えてもいい。
そんな奇跡のような煌めきにほうきを導いたのが、あの頃の、私との取るに足らない会話だったというんだろうか。
だとしたら、それはバタフライエフェクトみたいなものだろう。
蝶の羽ばたきというごく小さな変化が、結果的に遠く離れた土地で竜巻を起こし得るというような例え話だ。蝶は何かを考えていたわけでもないし、何かを成しとげたわけでもない。
それでも、私という人間が、音楽というものに何かしらの貢献をしたことがあるとしたら、それは今まで叩いてきた鍵盤の数ではなくて、あの日起こした蝶の羽ばたきの方なんだろう。
少しぬるくなってしまったビールを呷る。冷たかった時には感じられなかった、かすかな香ばしさ、それにほろ苦さが舌に残った。
◇ まひるとほうきの片想い ◇
傘をさして、雨の街を歩く。行先はほうきの待つスタジオだ。
前回のイベントの映像を見た上司から、ホールでのイベントのゴーが出たので、その準備だ。今のほうきの魅力は縦横無尽な即興演奏にあるけど、まったく計画を立てないというわけにはいかない。実際に弾きながら二人でタイムテーブルを決めていくことになるだろう。
友達だっただろうか、私達は。
ほうきに再会してから何度となく繰り返した問いが頭をよぎる。答えは同じだ。少なくとも私にそんな感情はなかった。ほうきがそんな風に思っていたとも思っていなかった。
ほうきがどうして、そんな風に思っているのか私にはわからない。友達だったからと距離を縮めてきて、まひるだからと信頼してくる、そんなほうきの態度が、私には重かった。
あんな場末のライブハウスで真夜中に弾いているよりもと思っていたけど、今思えば、ライブハウスは満席だったし、バーのマスターとだって良好な関係を築いているように見えた。
私は私の都合でほうきの居場所を奪ってしまったのではないか?
ほうきが何かの勘違いで私を友達だと思っているのを利用して。
考えれば考える程、自分が何か卑怯なことをしているように思えた。
……そして、そんな私の思いはこの日、ついに爆発してしまったのだ。
「止めて!」
私の声が、私達二人しかいないスタジオに響いた。
「……ごめん。でも、私達、そんな、友達なんかじゃなかったよね?ただ、コンクールで会ったら少し話をしただけで。少なくとも、私は友達だなんて思ってなかった。星崎さんには絶対負けたくないって、星崎さんなんていなくなればいいのにって思ってた」
そこまで一気にまくし立てた。
さすがのほうきも、私の剣幕に驚いている。
その表情に我にかえる。
……言ってしまった。だけど、そう思っても、吐きだしたものをなかったことにはできない。
ほうきの目を見ることができない。
その時、ほうきの口が動いた。
「知ってた」
あっさりとほうきが言った。
「なんか、あの頃はピアノを弾くと、どんどん嫌われたんだよねー。一緒の先生に習ってた子も口きいてくれなくなったし」
それはそうだろう。コンクールは将来へと続く切符だ。誰もが優勝したい、少しでも上へ行きたいと思っている。子供だろうとそれは変わらない。
「でも、まひるは変わらなかった」
「……私が星崎さんを無視したりしなかったのは、私の最後の意地だよ。ただ、自分が最低の人間になりたくなかっただけ」
「あたしはエスパーじゃないから、心ん中でいくら私のことを嫌ってたかなんてどうでもいいんだ。てか、そんなに嫌いだったのに、普通に接してくれたまひるはいい奴だよ」
確かに、私は表面上はほうきと普通に接していた。だけど些細な態度に、言葉の端々に、私のうす暗い感情が滲んでしまっていたはずだと思う。
「ま、友達じゃなかったんなら、私の片想いってことでもいいよ。それはそれで美しいじゃん?」
平気なわけではない、と思う。
だけど、あっさりとほうきは言ってのけた。どうしてほうきは、そんなことを私にいえるのだろう。
「……私があなたに何をしたっていうの」
「んー、お空の太陽さんもそういうのかもね。私は勝手に燃えてるだけですうって。……それに照らされた人がどれだけ救われたかなんて考えもしないんだ」
「それはっ!」
それは、こっちの台詞だ。
ほうきのピアノを聴かされて、自分の目の前にある楽器の力に、私がどれだけ気づかされたか
ただ褒められたくて弾いていた私にとって、音楽というものの可能性を見せつけるほうきの演奏が、どんなにまぶしかったか
ほうきと同じ場所に立っていられることが、どれだけ誇らしかったか
あの頃、片想いをしていたのは、間違いなく私の方だった。
「それに、今はそんなに嫌いじゃないでしょ?」
「……自分で言うんだ」
「まひるは真っ直ぐなくせにひねくれてるからねー」
「……」
「てか、十五年もたってるのに、わざわざ会いに来てくれた時点で何言っても無駄だって」
「……」
「まー、今の私のピアノに幻滅されたらどうしようとは思ってたけどさ」
困惑、はした。だけど、今はもう今のほうきの音こそが、唯一無二のものだと思っている。ただ、この流れでそれを正直に告白するのは癪だった。
「まひるって顔に出るよね」
そういって、ほうきは心底嬉しそうに笑った。
「あの頃も、」
「え」
「この子は私のピアノが好きなんだなーって、なんとなくわかったんだ」
「な」
私はほうきのピアノに惹かれていた。それを本人に言ったことなんて絶対にない。だけど、ほうきのことが嫌いだった気持ちと同じくらい、それはどんなに隠しても伝わってしまうものだったのかもしれない。
頬が熱を持っていくのが分かる。
それなら、ほうきが私を疎ましく思わないのもわかる。自分のピアノを、自分の魂を、好きだと思ってくれる相手なら、他のことなんてどうでもよくなって当たり前だ。
「……その変わり果てた性格の方に幻滅されたらとかは考えなかったわけ?」
動揺を隠したくて、かろうじて憎まれ口を叩く。
「失礼なっ。でも、まひるって結局ピアノにしか興味ない人だし、ピアノで掴めばなんとかなるかなーって」
「そんな、」
ことは……ない、はず? あれ?
「ぷっ」
こらえきれなくなったみたいに、ほうきが腹を抱えて笑う。
つまり私達は、ピアノ以外のことはどうでもいい、そんな同類同士だったのかもしれない。
◇ まひるのおと ◇
翌日も、私はスタジオに来ていた。
昨日はいろいろと言うべきではないことをいってしまったはずだけど、最後には私が一人恥をさらして、ほうきはむしろ今までより機嫌がいいくらいなので、私の仕事がなくなるようなことにはならなかった。
私も、胸のつかえがとれたといえなくもない。いろいろと納得はいかないけれど。
ひとしきり演奏して今は休憩中。ソファで休憩しているほうきが気づけば舟をこいでいるので、無理に起こさない方がいいだろうと、私はなんとなく鍵盤に向かっていた。
人差し指で鍵盤を押せば、ポーンと音がなる。ただ音を鳴らすだけなら、ピアノほど簡単な楽器もない。ピアノを仕事にすることは諦めたけど、今もピアノは好きだ。諦めたおかげで、というべきかもしれない。
人差し指だけで、順に鍵盤を叩いていく。きらきら星。最初に弾けるようになった時は嬉しかったな。
「ねえ」
気づけば、ほうきが目を覚ましていた。
「弾いてよ」
「……私はもうピアノはやめたから」
敬語は止めた。あれだけ失礼なことを言ってしまって今更だし、当のほうきはその方が嬉しそうだったから。
「今、弾いてたじゃん」
「ただの暇つぶしだよ」
「暇つぶしでいいから」
一つため息をつくと、鍵盤に指を下した。子守歌のピアノ曲。
私のピアノなんて、聴いて面白いものでもない。だけど、これからほうきにはみっちりピアノを弾いてもらわなければならない。それを思えば、少しくらいサービスしてやろうと思ったのだ。
それを目を閉じて聴いていたほうきが、少し眠そうな声でいう。
「まひるは信じないんだろうけど、アタシ好きだった。まひるのピアノ。お父さんにもお母さんにも可愛がられてて、幸せーって感じで」
「……薄っぺらいって意味?」
思わず棘がでてしまう。
ほうきのピアノに対する陰口の定番が〝人間味がない〟なら、私のピアノへのお決まりの悪口は〝薄っぺらい〟だ。それを音大の教授にも言われて、私は演奏家の道を断念した。
「違うよ。違う」
ほうきが首を振る。
「まひるだって、わかってないんだよ。わたしにはあんな音はもう絶対出せないのに」
それなら私だってそうだ。どうやったって、ほうきと出会う前の私には戻れない。
「でも、好きだよ……大好き……」
こっちが赤面するようなことをいいながら、ほうきの声は徐々にとぎれとぎれになっていく。子守歌が功を奏したのか、目を閉じて聴いていたほうきは、再び眠りの世界に帰っていったようだった。
◇ 光の門 ◇
「まひるー」
「おはよう、どうしたの?」
スタジオに入ってくるなり、ほうきが話しかけてくるのはいつものことで、一日の会話があいさつで始まらないのも、ほうきの場合それほど珍しいことでもない。だけど、今日はどこか様子がおかしい。
「一曲目なんだけどさ……」
ほうきが言いよどむという珍しいものを見た。
「いいアイディアでも浮かんだ?」
「あー、うん、こんなのはどうかな」
一曲目の導入をどうするかは、私達がここ数日頭を悩ませていたところだった。どうやら、妙案が浮かんだようだけど、言いよどむ理由は何だろうか。予算的なもの?
などと考えながら、ほうきから手書きのノートを受け取る。
「どう、かな」
「……」
「いやー、駄目なら他のアイディアも考えるんだけど」
「…………いや」
「……嫌?」
いや、嫌といったわけではない。いや、嫌でもあるんだけど、だけど、
「……いいえ、いい、と、思います」
なんで敬語、と普段のほうきならツッコむところだろう。だけど、今はそんな余裕はないらしい。
「本当!? 後から、やっぱナシとかナシだからね?」
「……クラシックでもなければジャズでもない、ボーカルもないピアノのライブだし、ストーリー仕立ての導入はわかりやすくていいと思う」
ほうきの出してきた案は、一曲目の導入に芝居的な要素を取り入れた案だった。
この案では、ほうきの他にもう一人がピアノを弾くことになる。ほうきが言いよどんでいたのは、つまり、その一人を私にやらせる案だからだった。
今言葉で言った通り、この演出はほうきの演奏が創る世界観を伝えるのに有効だろうと思えた。私の役もそれほど技術が必要なわけでもないし、それなら、手伝いで弾くくらいは問題ない。
いたって冷静な判断であって、別にほうきを喜ばせたくて言っているわけではないのだけど、ほうきが嬉しそうにしているのを見るのは悪い気はしなかった。
「でさ、アンコールでも、この続きを入れたいんだよね、こんどは連弾でさ」
「は!?」
私はこの女が自分の天敵であることを思いだした。
◇
ステージの上で、私は一人ピアノに指を下す。
何をどう間違えたのか、私は音大卒業以来、数年ぶりのステージに立っていた。
小さな箱とはいえ、観客は満員に近い。先日のストリートピアノの動画が何かの拍子に注目を集めた結果らしい。
昔から本番が苦手な方ではなかったから、満員の観客を前に演奏すること自体に緊張はない。ただ、私の羞恥心をあおるのは今の私の服装だ。演出上の理由により、私は高校卒業以来数年ぶりにブレザーの制服を着用していた。
ノートに書かれていなかったことを後だしで次々と追加された時にはどうしてくれようかと思ったけど、ストーリーを考えれば、この服装まではギリギリ納得した。ほうきの「絶対生足で!」という主張は手刀と共に却下した。こっちはほうきのようなエルフ族とは違う普通の二十五歳なのだ。
その羞恥心を除けば、演奏する曲は決して難しいものではない。誰もが習い始めの頃に一度は弾く曲。それを私は丁寧過ぎるくらい丁寧に弾いてゆく。
そこに突然乱入者が現れる。天使のような白い衣装をまとったほうきは無言で私の座る椅子の端に小さな尻を押し込むと、高音の旋律を私の奏でる旋律にかぶせていく。
私は譜面通りに弾こうとするのに、隣の傍若無人な天使に引きずられて次第にアップテンポで、楽し気な音楽が形作られていく。
しばしの心地よく満たされた時間
だけど、それをキーンコーンカーンコーンと、鐘のような旋律が遮る。
そのタイミングで、私は我に返ったように、急かされるように譜面を片付けて、足早にステージを去る。
一人取り残された銀色の髪の天使は、人差し指でポーンと鍵盤を叩く。
そして、そこからステージは、一曲目の天使の孤独と飛翔を描いた曲に移っていった。
◇
アンコールの声が響く。
汗だくのほうきにタオルをかぶせ、急いで髪とメイクを直す。
ほうきのステージは圧巻だった。満員の観客はほうきの演奏に圧倒され、酔いしれ、涙していた。
「じゃあ、ご褒美いこう!」
ご褒美と言われては逆らうこともできない。確かに、今日のほうきは百点満点で百二十点の出来だった。つまり、ギャラ以上のご褒美が与えられてしかるべきということだ。
いや、逃げるつもりだったわけではないけど、どうやら私も腹をくくるしかない。
スタッフがもう一台の、私のためのグランドピアノをステージに運び込む。それと共に、客席のアンコールの声が歓声に変わった。
◇
向かい合った二台のピアノに私とほうきが着く。私の服装はほうきと同じ、白い天使の衣装になっていた。
最初の曲とは逆に、今度はほうきの演奏から物語は始まる。
静かに、だけど煌めくような旋律で一曲めの天使の主題が繰り返される。
それを受けて私は同じ主題を、より柔らかい表現で返す。
会話するように数回、演奏のキャッチボールをした後に、徐々に二人の旋律が混ざり合い始める。
時には私がほうきのアドリブを支え、ほうきが私の旋律に軽やかな翼を与えた。
そうして、絡み合った二人の旋律は、徐々に高みを目指していく。
私はもう全力だった。だけど、ほうきはそんな私の渾身の演奏を軽々と受け止めて先へ先へと私を促していく。
気づけば私は、絶対に超えることはできないと思っていた自分の限界の壁の向こう側にいた。
私は、自分がこんな演奏ができることを知らなかった。音楽はこんなにも楽しくて果てのないものだということを、私は今まで知らずにいたのだ。
二台のピアノの向こうで、ほうきが得意げに笑うのを感じた。
私はほうきのピアノが好きで、ほうきは私のピアノが好き。
今なら、それを信じられる。
この時間を永遠に続けていたい。
ほうきもステージを見守る観客も、誰もがそれを望んでいるとわかった。
だけど、私にはわかってる。それでも私には、わかっているのだ。
はるかな高みに至れるのは、
ほうきのピアノだけだってことを。
キン、と一音を残して、私が脱落する。もう指が痙攣して動かない。ブランクのツケ、というよりも、私にはこれ以上吐きだせる音楽の力が残っていないのだ。
ほうきが目を見開く。
取り残される悲しみに顔をゆがめる。
そして、切なさ、悲しさ、嘆き、絶望、それらを飲み込んで旋律が無限に変化する。胸が張り裂けそうな、だけど、残酷なほどに美しい音の奔流。
いくら手を伸ばしても届かない、私が恋い焦がれたほうきの生み出す魂の煌めきだった。
そして、その音は次第に混沌から力強い羽ばたきへと姿を変えて、再び高みへと昇っていく。
高く高く、眩しい光の世界、どこまでも透明で白く神聖な世界
その先にそびえる荘厳な光の門
輝く翼を持つ天使は、その門を力強い羽ばたきで越えていく。
門の先に辿りつくと、ほうきは髪を振り乱し、最後の旋律を圧倒的な技巧で弾き上げた。
◇
演奏が終わった。私はいつの間にか立ち上がって、ぽろぽろと目から涙を流しながらほうきを呆然と見つめていた。
満身創痍のほうきが立ち上がって、私に歩み寄る。
そして、痛いくらいに強く、私の体を抱きしめた。
次の瞬間、金縛りが解けたみたいに、爆発するように客席から拍手が沸き起こった。
ピアノの道を諦めたはずなのに、どうして私は、こんな万雷の拍手の中にいるんだろう。もちろん、わかってる。この拍手は全て、ほうきに向けられたものだ。
だけど、そのほうきはさっきの私よりも顔を酷い有様にして泣いていた。
もしかすると、ほうきは最後の光の世界にまで、私と一緒に行けると思っていたんだろうか。だとしたら、何もかもお見通しみたいなほうきにも、見えていないものがあるのだろう。
あの世界には、きっと選ばれた人間しか立ち入ることはできないのだ。ほうきが私のピアノを好きだといってくれたのは今なら素直に受け入れられる。それは私の一生の宝物と言っていい。
だけど、私は一緒には行けない。
私にできるのは、蝶の羽ばたきよりはましな力で、ほうきの背中を押してやることだけだ。
ほうきの呼吸が少し落ち着いたところで、優しく、ほうきの体を押し返す。驚いた顔をするほうきに、私は観客席を指し示した。
ここがステージであることを今思い出したみたいに、ほうきは観客席に向き直る。
深々と一礼して。そして、再び勢いを増した拍手に、ほうきは両手を振って応えた。
まひるのほうき星 最果屋うたう @saihateya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます