因果応報
「次のニュースです。任期が切れた非常勤講師が、校内に侵入し男子生徒二名に暴力を振るったとして逮捕されました。容疑者は容疑をおおむね認めており……」
あれからしばらく経った。先生は逮捕された。当たり前と言えば当たり前だ。私のための行動に対して誰も報いはしない。私ですら何もできなかった。先生はそれがわかっていて、それでも私のところに来てくれたのだろう。
「おい、ニュース見てないで飯作れ」
この家の中で、私の名前は「おい」だ。結局、私はこのマンションの地獄のような一室からは逃れられないのだ。パパが私をこき使うのは別に今始まったことじゃない。テレビを消してキッチンに戻る。「テレビは消すんじゃねえ! 気の利かないやつだな!」テレビは付け直す。パパはいつも家で飲んだくれている。しかしお金に困ったことはない。パパのパパからいくらかの土地を相続して、それをある企業に貸している。だから働く必要がない。家にいる時は私を殴るかこき使うかして、家にいない時は色んな女とセックスしている。ママは愛想をつかして出て行ったが別にかわいそうとも思わない。元はと言えばママだってそんな女たちの一人だったからだ。
「任期が切れたのにわざわざ学校に行って生徒を殴るなんて、馬鹿なやつもいるんだな」
「……そうだね」
胸がキュウっと締め付けられる。先生は私のために来てくれたんだ。私の先生を馬鹿にするな! でも口には出せない。私は意気地なしで、頭を低くしてパパに殴られないようにするだけだから。そういう生活が染みついている。けれどもこの、普段と違う息苦しさはなんだろう。
パパ好みの、味付けの濃い夕食を作ってテーブルに置く。今日の出来には自信がある。殴られなくても済むはずだ。
「熱燗がぬるいんだよ!」
ああ、しまったなあ。熱燗がぬるいならしょうがないや。痛みとぼやける視界の中で、朧気にそう思う。飲み物のほうに気が向かなかったな。自分で味見できないんだから仕方ないや。
「さっさと入れなおしてこいや!」
額に熱い液体を感じる。なんだ、ちゃんと熱いじゃないか。立ち上がり、すごすごとキッチンに戻るが、心の中は煮えたぎっていた。これまでにない感情だ。言われた通りに熱燗を作って出しはしたが、内心は怒りで打ち震えていた。怒ったのはいつぶりだろう。私でも、パパに怒れるのだろうか。いや実際怒っている。
私は一つの決心をした。
ノートは騒動の中でいつの間にかなくなってしまった。けれども、だからと言ってノートに書いたことを忘れたわけじゃない。私は確かに本当の魔法使いじゃないかもしれないけれど、火をつけることぐらい、魔法を使わなくたってできるんだ。深夜二時、丑三つ時がふさわしいだろうと私は思った。
「スロコキヤ・ヲヤオチチテッ・カツヲユツ・ブクョシ」
即席の呪文を唱えると、油を張った鍋に火をかける。20分もするとぼわっと音がして、立派な火が付いた。周りにきちんと引火したことを確認して、部屋を出る。
本来はマンションの屋上には入れない。けれども掃除の業者が面倒がって鍵を踊り場隅っこの鉢植えに隠していることを私は知っている。ガチャリと鍵を回す。普段人が使っているような場所ではないから特段目を引くようなものはない。けれども私にとっては、あのスカイツリーの展望台に等しいんだ。まあ、スカイツリー登ったことなんてないんだけど。メラメラと足元で炎が燃えていくのを私だけが知っている。そろそろパパは焼け死んだだろうか。
先生、私はここで死にます。同情してくださってありがとうございました。
「君は! ここで死なない!」
幻聴? 願望? 振り返るとそこに先生がいた。
「でも逮捕されたって」
「不起訴と罰金刑で済んだ」
「でも、なんでここがわかったんですか」
「職場の連絡網に載ってた」
私が生きるための言い訳として作り出した妄想でないことを確かめたくて、先生を抱きしめた。成人男性にしては細いけれども、余計な肉がついていない体の感触がした。先生は振りほどこうとした。
「女子中学生が先生とハグするものじゃないよ」
「だって余りにも嬉しいんですもの。でも先生、もう降りてくださいな。まだギリギリ間に合うはずです。私、あのノートに書いたみたいに、自分の部屋に火をつけてきました。ああ、先生はあのノートを読んだかしら。読まないでいてくれたら嬉しいのだけれど、先生にだったらまあ読まれたっていいわ。あの本の中では私は自由な魔法使いなんです。そうやって妄想をつらつら書いて現実逃避していたんです。でも中二病に逃げるのももうおしまいです。魔法使いにはなれないけど、これぐらいのことだったらできるんだって、気合を入れててんぷら油で火をつけてきたんです。てんぷら油で火をつけて自由ですって! 我ながら笑っちゃいますよね。同じ部屋に住むパパはもう死んだ頃合いです。でも今から急いで降りれば間に合うかもしれない。先生は私の中二病的自暴自棄に付き合って死んでいい人じゃない」
「君が降りない限り、君も降りない」
「ダメです!」
「むしろ君が降りるべきだ。少年法があるから、何人死んだって、君は必ず死刑にはならない。裁判では君の事情は必ず勘案されるだろう。君はまだやり直せるんだ」
「でもやり直す気も気力もないって言ったら?」
「その時は、僕も降りない。誰かが、もっと真っ当な大人が、もっと早くこうするべきだったんだ。一人の少女に寄りそうということを。誰もそうしなかったなら、僕がそうする。もう手遅れかもしれないけど」
なおも口を挟もうとした時、つんざくように火災用報知器が鳴った。
「実際のところ、もう手遅れのようだ。それでも君には最後まで生きようとしてほしい、一人の教師としてそう思う。」
「嫌です」
「嫌かあ」
お互いに黙り込んだ。
「私の最期の我儘を聞いてください」
「君は最後だなんていう必要はない。これからも一杯我儘を言っていい年ごろなんだ」
お互いにサイゴの違いを聞かなかったことにする。ああ、嬉しい。私と先生は共犯者なんだ。
「生娘のまま、キスもしないで死ぬのは癪だわ、先生、あなたとキスしたいの。もっと深いことをシたっていいけれど、間に合わないし、先生は嫌がるでしょうから」
「教師は生徒とキスしないものだ」
「それをなんとか」
「ダメだ」
つれない先生。でもそういう人だから私は好きなんでしょう。随分と熱くなってきた。もう下の階ぐらいまで火が回ってきたんでしょう。これじゃまるで先生と私が心中したみたい。火をつけた時は孤独に死ぬんだと思ってた。嬉しいと思っちゃいけないけど、やっぱりちょっと嬉しい。
「先生、ありがとう」
「どういたしまして」
メアリー・スーと非常勤講師の熱い物語 全焼編 只野夢窮 @tadano_mukyu
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