番外編 カンナギの過去『孤独のスケッチ』 第6話

 夏特有の強い日差しが目に眩しい。

 陽の光をまともに見たのは久しぶりだった。

 祖父の死から僕はずっとこもりきりで泣いていたし、手紙を読み終え新たな感情が伴っているにせよ、今もなお泣いている。喪った悲しみは消えない。だけど――

 「…行かなくちゃ」

 声に出すことで交錯する感情になんとか統制をとり、意志を固めた。

 

 今いる祖父の部屋から物置小屋を目指すなら、玄関口まで行くより庭に面したリビングの掃き出し窓から出た方が早い。わざわざ靴を取りに行く必要もないはずだ。窓を開け、靴脱ぎ石に置かれた母のサンダルを確認、足を滑り込ませそのまま拝借する。


 ぶかぶかのサンダルが脱げないよう煉瓦れんがづくりの小径こみちをすり足で進んでいく。

 それにしても、物置だとばかり思っていたものがまさか祖父の「秘密基地」で、それを自分がまるごと譲り受けるなんて考えもしなかった。そもそも、いつから秘密基地になっていたのかすらわからない。


 五歳のとき、たまたま鍵が開いていた小屋の中に足を踏み入れようとしたのを運悪く母に見つかり「危ないから近寄らないように」ときつく注意された。芝刈り機やら鎌だのがちらりと見えて「なるほどたしかに」と幼な心に納得し、以降すっかり関心も失せていた。


 なにしろ祖父が「秘密基地」というくらいなのだから、きっと特別なものに違いないが、皆目見当がつかない。何があるんだろうというわくわくする気持ちより、自分が祖父について何も知らなかったのだという事実を自覚させられたような気がして、僕は軽く唇を噛んだ。

 

 もっと、祖父と話をしておくべきだった。もっと、聴いておくべき話があるはずだった。無条件に与えられる愛情に満足するだけの日々を後悔しても、もう遅い。


 次々と湧き起こる切ない感情の洪水に翻弄ほんろうされ、小屋の扉を前に動けないでいる。右掌みぎてのひらのディンブルキーをぼんやり見ながら、立ち尽くした。



(『大丈夫だよ、侑。さぁ、入っておいで』)


 祖父の声に僕はハッとした。


 都合のいい幻聴か、はたまた本当に語りかけてもらったのだろうか?


 ふわっと風が吹いて、僕の顔を優しく撫でていく


 祖父は案外すぐとなりでニコニコと見ているのかもしれない



 大きく息を吸い込みディンブルキーを差し込む。そのままゆっくり半回転、ガチャッという応答を合図にドアノブを捻り手前に引く。


(………………!)


 薄暗い室内。まず視界に飛び込んできたのは、上から下まで左一面を覆い尽くす本の壁だった。


 その蔵書量に圧倒され、扉を半開きにした状態で一瞬息を呑んだ。もっとよく中の様子を見ようと扉をぐいっと開け、すばやく目を走らせる。右側にも壁一面、本が並んでいた。

 床から天井まで届くオープン棚だ。本ばかりが並んでいると思いきや、小引き出しやディスプレイ用のスペースも設けられている。


 誰もいないことを知りながら「お邪魔します」と声をかけて中に入り、ドアを閉め、無意識に鍵をかけた。サンダルを脱ぎつつ、電気のスイッチを探す。左手、ちょうど目線の高さくらいの位置のボタンをカチッとやる。白い灯りが室内を明るく照らした。


 裸足の僕を迎えてくれたのは円形のラグだ。足裏に吸い付くようなシャギーのふんわりとした感触が気持ちいい。

 改めて左右のオープン棚に目を遣ると、『日本思想史』や『方法序説』といった専門性が高く、難しそうな本がずらりと並んでいる。…かと思えば、所々設けられたディスプレイスペースには、ちりめん細工で作られた可愛らしい季節の置物やつまみ細工の花が飾られており、びっしり埋まった本棚の圧迫感を和らげていた。


 正面の壁には横幅がたっぷり取られたラック付きデスクが取り付けられている。シンプルでかつ奥行きが浅いため、すっきりとした印象だ。

 左右に本やモノが所狭しと並んでいるのに反し、デスク上は何もなく備え付けのラックは空っぽだった。が、近づくとデスクに小さな紙切れが置いてあることに気がついた。


――――――――――――

 この部屋にあるものでも、これから出会うものでも、侑のお気に入りの本をここに仕舞ってください。 おじいちゃんより

――――――――――――


 まぶたの裏に、祖父がこのメモを残している姿を思い描いた。

 およそ、感じたことのない何かが込み上げてきて、肩がぶるぶると震える。また涙がこぼれそうになって、僕は乱暴に目をこすった。


 祖父が亡くなってからというもの、容易に言語化できないような「生まれて初めて」を立て続けに味わっているような気がする。心が敏感になりすぎているのだろうか。それとも、日頃は抑えている僕の厄介な「感受性」とやらが暴走でもしているのか。いやまて、祖父はこんな自嘲を望んだか。僕は軽くかぶりを振った。


 部屋の中央に置かれたフットレスト付きリクライニングチェアに腰掛け、そのまま身体を預けると、心地良い傾斜が僕を支えた。まぶたを閉じ、白熱灯の光を遮断する。


 祖父の笑顔も、両親の笑顔も大好きだ。僕にとって「家族」とはもっとも大切な存在であると同時に守るべき対象でもある。理由をあれこれ説明するより先に、魂に刻みこまれた、としか言いようがない。

 「家族を大事にしましょう」なんて言われるまでもなく、その観念は物心がつく前からあった。長子としての本分を引き受けていく気負いだってある。年齢なんて関係ない。「僕が僕であること」とは、「家族」を抜きに語ることはできない。


 あれは何歳のときだっただろうか。父がドライブに連れて行ってくれた。途中で立ち寄った飲食店の店主に「かわいい子だね」と声をかけられ、父は満面の笑みで「わたしの宝なんですよ」と答えた。その父の笑顔に、嬉しそうな様子に、胸のあたりがぎゅっとなった。


 意地悪する子とも手を繋ぐだとか、“なかよく”お遊戯する意味がわからなくて、保育園にどうしても行きたくなかったあの日。それまで溜め込んでいたものが決壊するかのように泣き喚いた。母を困らせている自覚はあったのに、止まらなかった。それでも母は「そっか、じゃあ帰ろうか」と自転車を来た道に走らせ、家に着くなり「帰ってきちゃったね、早く保育園に連絡しなきゃ」と笑ってみせた。


 家族みんなで出かけた動物園、水族館、テーマパーク、挙げればキリがない、しあわせな記憶の数々。それなのに、それなのに、どうして涙が出てくるのだろう。お父さん、お母さんの愛情に、願いに、応えたい。お父さん、お母さんが喜んでくれるような「侑」でいたい。


 ――なのに…


 好奇心旺盛な子、という僕に向けられていた内外からの評価は、いつしか「変わった子」や「扱いづらい子」といった好ましくないものへと反転していた。

 小学校では僕への嫌がらせ、仲間外れはしょっちゅう起こった。みなひとしく「異質」なものに敏感であり、子ども特有の残酷さと苛烈さでもって積極的に「排除」を試みる。これが社会の縮図なのだと言われればそうなのかもしれない。


 一対一で話す限りにおいては「面白いね」と好意的に受け止められることはあっても、集団となればあっさり風向きが変わる。教室内のグループ分けで声がかかることはなく、いつも先生から「誰か巫さんを入れてあげて」とお願いされる始末だった。家庭訪問で「難しいお子さんで大変ですね」と告げられたときの母の苦しそうな表情を僕は一生忘れることはできないだろう。


 そうした数々の事態に呼応するように、両親は「人様に迷惑ばかりかけている」「このままだと侑は社会で必ず失敗する」「社会で孤立する」と口にするようになった。紛れも無い、愛情による憂慮だ。僕を心から心配してくれていたんだ。わかっている。

 だけど、その言葉の数々は、僕の自尊感情や自己有用感を少しずつ削り取っていった。大切で、大好きな人たちからの言葉だからこそ、誰の否定的な言葉よりも絶対的な意味を持ち、僕の心に重く響いた。

 

 かつては「宝」だった自分は、大切な両親を悩ませる「心配の種」に格落ちしたのだ。かわりに、僕が八歳の時に生まれた弟が家の「宝」となった。弟は、望まれた子だった。


 嫌いにならないで――口にできなかった痛切な懇願。

 自分ですら、傷みの在り処がどこにあるのかわからない。


 上手く頭が回らなくなって、僕はゆっくり目を開けた。


「僕は、家族を、大切にしたい。でも……」


 祖父は、僕も持て余していた性質の可能性を認め、まるごとすべてを受け入れてくれた。

 ここが、分岐点だ。このままずっと自分に嘘を吐き続けて、偽りの自分を演じ続けて、悩み抜いていくのか。ぎゅっと目を瞑った。


(「悩む」んじゃない、「考える」んだ)


 はっきり言葉にすることはできないけれど、自分のなかで何かが変わりかけている気がする。

 僕が僕として生きるヒントを祖父が「秘密基地」として残してくれたとしたら――


 腹にぐっと力を入れ、立ち上がる。祖父の手紙にもう一度目を通す。



――――――――――――


 この世で侑はひとりしかいない。

 だれも、侑の代わりを生きることはできないんだ。

 なんだそんなあたりまえのこと、と思うかもしれない。

 でもね、これはとっても大切なことなんだよ。

 侑の心のままに生きなさい。

 大丈夫。孤独はずっと続かない。

 必ず、侑の魅力に気づいてくれる人が現れるから。


 侑の目に見えなくても、おじいちゃんは侑をずっと見守っているよ。

 侑をずっと応援しているよ。侑のことが大好きだよ。


――――――――――――



 ずっと見守ってくれているという祖父。

 ずっと応援してくれているという祖父。


 「僕が僕として生きる」ため、最初の一歩を踏み出す。

 祖父から贈られた最期の誕生日プレゼントを受け取る覚悟を決めた。

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