第11話 キーワード:感情の社会学、社会学ってなに?

 どうしてこうなった――頭を抱える代わりに、愛は口の両端をぐいっと上げてなんとか笑みを作った。上手く笑えている気がしない。実際、愛の笑顔は引き攣っていた。


 愛の目の前には想い人である志之元蓮が座っている。まさか私服姿が拝めるなんて思ってもみなかった。できることなら今すぐスマホを取り出してこの貴重な姿を写真に収めたい。シンプルな服装だが、決して地味ではなく、かえって品良く見える。美形は何を着ても似合うのだ。


 それに引き換え今日の自分ときたら見られたものじゃない。量販店で購入した薄グレーのパーカーに着古したデニム、履き心地がいいからと選んだよれよれのスニーカー。どうでもいい格好の極み。可愛いの「か」の字もない有様。もう少し見栄えのする服装にしてくるべきだったと後悔してももう遅い。


 違う! そんなことよりも、である。問題はなぜこの二人――カンナギと蓮――が、校内だけでなく、休日にまで一緒にいるのか。それも、よりによって祖父の喫茶店にいるなんて! 聞きたいことは山のようにあったが、まずは落ち着く方が先だ。状況を整理しよう。愛は混乱する情緒を押さえつけ、必死で記憶のネジを巻き戻す。


 ――近所のおばさんから大量にもらった杏子を「せっかくだからおじいちゃんにも分けてあげよっか」という母の案で、愛がお裾分けを持って行くことになった。ルディックへはしばらく足が遠のいていたし、久しぶりの祖父に会いたかった。祖父の淹れてくれる黒糖ミルクコーヒーを楽しみに、ルンルンで扉を開けるとそこには信じられない人物――「ぼっち」、もとい、カンナギユウが居た。


 人間、予想だにしない状況に遭遇すると声が出ないということを愛は初めて知る。「な、なんであんたがここに……」と声にならない声で叫ぼうとした愛を遮ったのは「あれ? 久野さん?」と、カンナギが居る奥のボックス席からひょっこり顔を出した蓮だった。本日二度目の、それも、強烈な予想外である。


「へぇ、久野さんがマスターのお孫さんだったのかぁ」

「――ということは、ルディックの名付け親は君だったんだな。良いネーミングセンスじゃないか」

 

 あんたに褒められたって嬉しくもなんともない! とカンナギを睨みつけようとして愛はハッと我に返った。蓮に般若のようなコワイ顔を見られるわけにはいかない。


「いやぁ、もしかしたら、とは思っていましたが。お二人とも愛と同じ中学で、その上クラスメイトだったとは」

 目を細めつつそう言って、祖父が黒糖ミルクコーヒーを愛に差し出す。

「お母さんには私から連絡しておくから、ゆっくりしてゆきなさい」


 今この時ばかりは祖父の心遣いも要らぬ世話である。

 聞きたいことがあるとはいっても、さすがにこの状況でゆっくりできるほど愛の神経は太くない。もちろん蓮とは一緒にいたい。が、本意ではないとはいえ、クラスメイトらと邪険に扱ってきたカンナギが居るのだ。自業自得であることは理解している。それだけに平常心で談笑するなんてとても出来そうになかった。


「え⁈ いや、これを飲んだらすぐ帰るし……」

「久野さんさえよかったらゆっくりしていきなよ! ――って、僕が言うのもおかしいかな」


 そう言って照れくさい表情を見せる蓮の破壊力は愛の決断を鈍らせるには十分すぎた。好きな人に引き止められてどうして帰ることができようか。愛の心臓がどくんと跳ね上がる。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。実はレンレンが私のことを⁈ と愛の期待がピークに差し掛かったその時、


「今さ、社会学の話をしてるんだけど、すっごく面白いから、久野さんもどうかなって」

「……へっ?」


 シャカイガクの話? 新手の求愛方法だろうか? いやそんなわけがなかろう。聞き馴染みのない言葉だが、蓮はたしかに「シャカイガク」と言ったはずだ。素直に変換するなら「社会学」か。社会の学――――だめだ、どう頑張っても愛が望む方向に解釈することができない。

 愛の脳内が落胆で埋め尽くされるのをよそに、


「カンナギ、久野さんにも参加してもらってもいいかな?」

「もちろん僕は構わないぞ。むしろ大歓迎だな。一人でも社会学の面白さを知って、興味をもってくれたら嬉しいし」

「ありがとうございます。愛、お二人もこう言ってくださっていることだし、遠慮せずゆっくりしてゆきなさい」


 外堀は完全に埋められた。これでは観念せざるを得ない。まぁ蓮が面白いというものを知りたい気持ちがないわけではないし、共通の話題がもてるというのは喜ばしいことである。


「ええと、じゃあ、ちょっとだけ……お邪魔するけど、シャカイガクだっけ? 学校でやってる社会の授業の難しいバージョンみたいなこと?」


「いや、小中高で習う『社会科』と『社会学』はまったくの別物だよ。社会学は、社会科学と呼ばれる学問分野のひとつなんだ」


「シャカイ、科学ぅ?」


 また「シャカイ」と名の付くものが増え、愛の眉間の皺も増えた。いったい何が違うというのか。


「社会科学っていうのは、人間が生み出したあらゆる社会現象を研究対象とする学問のことだよ。経済学とか、政治学、法学、社会福祉学、国際関係論……全部挙げ切ることは難しいんだけど、社会科学には社会学以外にも、いろんな学問があるみたい」


 蓮からの噛んで含めるような説明に、愛の眉間と口元が緩む。カンナギが相槌を打ちつつ、蓮の説明を引き取った。


「そのとおり。小中高の『社会科』と社会科学たる『社会学』では、それぞれで学ぶ内容の性質も全然違っているんだよ。

 僕たちが日頃習っている『社会科』では、社会にかんする知識の習得がメインになる。でも、社会学を含めた社会科学は単なる知識の習得だけでは終わらない。その学問がもつ視点や理論、方法で社会を分析することを学ぶんだよ」


「は、はあ」


 とうとうと話すカンナギの姿がどうしても学校でのそれと結び付かず、愛は困惑気味に返答する。そんな愛の困惑などお構いなしに、カンナギは話を広げていく。


「社会科と社会学との違いはこれくらいにするとして。せっかくだし、色んな角度から『社会学』っていうものに触れて欲しいよな。よし。じゃあ、たとえば、だ。久野さんは『楽しくないのに楽しいフリ』することってある?」


 どきりとした。そんなの学校では――クラスメイトらといるときはしょっちゅうだ。愛は平静を装いながら「そうね、ある……ような気もするわ」と答えた。愛の返答に頷きつつ、蓮が「空気を読むっていうのかな、自分が実際に抱いた感情より、周りから求められているであろう感情表現を優先してしまうシチュエーションとかって結構あるよね」と返す。するとカンナギが


「それを『表層演技』として指摘したのが、アメリカの社会学者、ホックシールドだ」

 と言って、メモに「表層演技」「ホックシールド」と書き付け、愛と蓮の前に差し出した。


「ひょうそう、えんぎ……」


 思わず口に出してつぶやいていた。日頃無意識に行なっていた振る舞いに、名前があったとは。


「演技といえば、人は皆それぞれ社会という舞台で自分の役割を演じているって主張した社会学者のゴフマンもいるよね」


 蓮は決して早口ではないものの、愛にとっては新しい情報が多すぎてリスニングが追いつかない。


「ご、ご不満?」

「あはは! 違う違う、人の名前でね、アーヴィング・ゴフマンっていうんだ」

 そう言って、蓮がゴフマンについて書かれた自分のノートを愛に見せる。は、恥ずかしい! 愛の顔が赤くなったのを見て、


「いや、でも、僕もさ、初めてカンナギからゴフマンのことを聞いた時、なんのことか全然分からなくって。なにかのキャラクターかなって思ったもんなぁ」


 と蓮がフォローを入れてくれた。ああ、やっぱりレンレンは優しいなぁなんて感激しているうちに、カンナギが蓮の言葉を引き取った。


「ふふ、たしかに耳慣れない言葉だもんな。話を戻すと、実はホックシールドとゴフマン、この二人の社会学者は無関係ではないんだ。ホックシールドはゴフマンの演技論を引き継いで、『感情の社会学』を展開したんだよ。久野さん――」

「な、なに⁈」


 カンナギから話を振られるとドギマギする。こいつは一体どういうつもりで私の参加を受け入れたのだろうか。どうしてこうも平然と話ができるのだろうか。愛の猜疑心を知ってかしらずか、カンナギは愛に問いかける。


「久野さんにとって『感情』ってどんなもの?」

「えっ……そうね、嬉しかったり、悲しかったりするような……自然と湧き起こってくるもの、かな」


 愛の返答にカンナギがニヤリと笑う。他意はないのかもしれないが、後ろめたい気持ちのせいか、カンナギが自分を罠にはめようとしているのではないかと必要以上に身構えてしまう。


「うん、一般的には自然に湧き出てくるものが感情であると考えるよね。だけど、感情を社会学的に捉えるとそうは考えないんだ」


「感情を、社会学的に捉える……? どういうこと?」


「社会学は、人や物事といった何かしらへの働きかけを通じて生み出される関係やつながりを重視するんだよ。たとえば、お金を使うことっていうのは、社会や他人との関係を生み出す働きかけの一つだ。このとき社会学では、『お金を使うこと』が社会や他者と、どんな関係やつながりを生むのかっていうことに注目して、考えたり、分析したりするんだよ。

 だから、感情を社会学的に捉えるっていうのは、大まかに言うと感情と社会のつながりを考えるってこと。感情は一人ひとりの、個人だけのもののように見えるけど、実は社会と深い関係があるんだよ」


 感情と社会のつながりを考える――そんなこと、愛は思いつきもしなかった。これまで習った「社会」の授業に、そういう発想はなかったように思う。


「『感情の社会学』という考え方に基づくなら、『感情』っていうのは人の胸のうちから自然と湧き出てくるもの、というより、行為者によってその場に相応しいカタチで操作的に喚起されるもの、だと捉えられるんだ」


 ――行為者によってその場に相応しいかたちで操作的に喚起されるもの? それはつまり、人は感情をその場に相応しいかたちになるようコントロールしているということなのだろうか。

 感情の社会学とやらがいわんとすることをきっちり理解できたとの自信はなかったが、なんとなく自分にも心当たりがあるような気がして、愛はこくんと息を呑んだ。


 カンナギの説明に「それって」と、蓮が切り出す。

 

「たとえば、仕事とかに多いパターンなのかな? ほら、自分が本来抱いている感情を隠して接客したり……」

「あ! わかった! モンスタークレーマーに接客するサービス業の人とか?」


 気がつけば前のめりに発言する自分に気づいて、愛は誤魔化すように黒糖ミルクコーヒーへと手を伸ばした。そんな愛の様子を見て、カンナギが心の底から嬉しそうな笑みをこぼすものだから、愛はますます調子が狂う。


 (なによこいつ……こんな顔して笑えるんじゃない。学校でもこういう感じでいたらいいのに)


 愛と蓮、双方に目線を配りながらカンナギが言う。 


「そうそう! ホックシールドは、現代社会においてはそういう『感情管理』が『商品』として扱われて賃労働化していることを批判しているんだけど、要は『心が商品になる』っていう側面を指摘したんだよ」

「仕事に求められるのは必ずしも頭脳と身体だけではなくて、感情のコントロールも必要になってくるってことか」

「――言われてみれば、そんなことだらけのような気がするわ。仕事でなくても、感情をコントロールしている場面ってたくさんあるような気がする」


 そう、仕事でなくても、である。大人だろうが子どもだろうが、この社会で生きている以上、感情を管理している――いや、しなければならない場面がたくさんあるように愛は思った。


 「自分が所属している集団や社会をうまく動かしていくためには『感情管理』も有効かもしれない。しかも、それがごくごく『あたりまえ』のように行われてきている、っていうところがポイントだと思うんだ。一見、上手く回っている。でも、知らないうちに自分を抑圧し続けて、心が疲弊しきってしまうケースだってたくさんありそうだよな」


 カンナギが熱のこもった口ぶりでそう言った。

 「あたりまえ」のように、「知らないうちに」――あたりまえのように生活していた毎日に、実は自分では全然気がつかなかったことがたくさん溢れていて、その中にはそういう気づけない何かにしばられていたりすることもあるのかもしれない――


 「そう! そうなんだよ久野さん!!」


 カンナギの強い語勢とらんらんと輝くまなざしに愛はびくっと身体を強張らせた。どうやら先程の胸の内が声に出ていたらしい。愛の驚く様子にも構わず、カンナギは言葉を続ける。


「社会学がどんな学問かは、色々説明できるんだけど、ひとつには、僕たちの振る舞いや『心』に作用している社会的な『力』に注目して、それを明らかにしていくんだ。僕たちは、『自分で』考えて、『自由に』行為を選択しているって思っているけど、実際はそう簡単なものでもない。個人の選択、心理を超えた集団や社会の力に拘束されている場面もあるはずなんだ」


 集団や社会の力に拘束されている場面――このフレーズが愛の心を妙にざわつかせる。まだよくわからなかったが、自分に無関係でないことだけははっきりと分かった。


「見えない社会のルールや、価値観に縛られていることもありそうだよね」


 蓮が神妙な顔つきで述べると、カンナギが深く頷いた。


「うん。僕たちが今あたりまえのように暮らしている社会は、あくまで特定の時代の、特定の地域で、特定の集団でしかないんだ。つまり、普遍的でもなんでもなくて、少し見方を変えればひどく限定的なもの――狭い世界での話でしかないんだよ。みんなが『常識』だって言っているものは、実は歴史が浅かったり、特定の『社会』でしか通用しないものだったりするんだよな」


「特定の『社会』でしか通用しない、っていうと……あ! 外国とかに行くと日本の常識とはかなり違ったりするものね」


「たしかに! 外国を対象にして考えると、わかりやすい。言葉も文化も全然違うから、考え方も違って当然ってすんなり納得できるな」


 蓮の応答を聞いて愛は内心ほっとした。愛の発言はどうやら見当違いではなかったようだ。できれば好きな人にはバカだと思われたくない。


「そう。でも、『日本』のなかのことを考えようとすると、とたんにその感覚が鈍くなる。みな『日本人』だから一緒であたりまえ、知っていて当然、みたいな感覚に陥りやすくなる。同じ感覚を共有していてあたりまえ、わかっている、知っている、っていうのは僕はとても危険だと思う」


「正直、難しいことはよくわからない。でも、あんたの言ってること、なんとなくわかる気がする」


「それは嬉しいな。ま、ちょっとかたい話になっちゃったけど、あたりまえだと思ってる世の中の価値観とか社会のルールとか仕組みだったりに、違和感を覚えたり、疑問を感じたりするところから社会学は出発するんだ。その対象は決して難しいものばかりじゃなくて、それこそ僕たちにとっても身近な『コミュニケーション』や『人間関係』を考えるにも、社会学は多くの頼もしいヒントをくれる」

 

 コミュニケーション、人間関係。愛にとってはどちらも興味深い内容ではあった。しかしそうはいっても、このままこの謎のシチュエーションに参加し続ける胆力はなかった。どちらかと一対一であればまだやりようがあるかもしれないが。

 そんなことを考えて愛が言葉に詰まっていると、

 

「今日はちょうどゴフマンについて話していたところだったんだよ。実は僕もまだ勉強中だから、久野さん、一緒にカンナギからゴフマン社会学の話を聞いてみようよ!」


 曇りのない、惹き込まれるような笑顔を見せて、蓮が愛を誘う。咄嗟に愛は手で鼻を覆った。よかった、鼻血は出ていない。 

 好きな人からこんな風に笑いかけられて逆らえるわけ、ない。愛はがっくりとこうべを垂れて「はい……お願いします」と言うのが精一杯だった。

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