第9話 キーワード:スティグマ

「社会学って色々なテーマがあるから目移りしてしまうんだけど、やっぱりカンナギから教えてもらったゴフマンが気になって、彼が提唱した概念を中心に調べてみたらどれもこれもなるほどなと思わされるものばかりで」 


 いつしか人を遠ざけてきた自分が、よもや同級生とこういう話ができる日が来るとは――胸の高鳴りを感じつつ、カンナギは首をぶんぶんと縦に振ることで蓮の言葉に同意を示す。


「その中でもとくに印象深かったのが、『スティグマ』の話かな」

「おお、烙印スティグマか」 


 カンナギは記憶の引き出しからすぐさま「スティグマ」を取り出し、思い出せるだけその内容を脳内に広げていく。


 スティグマ――もとはギリシャ語で、奴隷や犯罪者、謀反人など、何か悪いところや異常なところがある人びとを区別して示すための身体に刻印されたしるしを意味していた。のちに、カトリック教会では「聖痕」の意味に転化したのであるが、ゴフマンによるとスティグマとはある社会における「好ましくない違い」であるという。


 では、どういう属性がスティグマとみなされうるのか。それは身体的な特徴――たとえば病気や傷あと、障がいなど――や、性格的な特徴――精神異常、薬物使用者など――、集団的な特徴――人種、宗教など――言い換えると否定的な社会的アイデンティティをもつ者、があげられるが、簡単にいってしまえば「(悪い意味で)普通じゃない」「周りと違う」人に、スティグマは付与される。


 ゴフマンはスティグマ化のプロセスがどのように差別を生みだすのかを理論化し、スティグマのレッテルを貼られた人がどのように応じるのかについて調査を行なった。ゴフマンの関心は、相互行為秩序がどのように成立しているのか、に寄せられていたわけだが、スティグマ理論はまさしく、ある特徴や属性を有する人が日常の相互行為から排除されることを説明しているのである。


 スティグマ概念においてとりわけ重要な点は、ある属性や特徴それ自体がスティグマというわけではなく、それらの特徴や属性に対する他者の否定的な反応――すなわち人びとの間の相互行為によってスティグマが生み出されているという点なのだ。

  

 「気味が悪い」「普通じゃない」と同級生から蔑まれ、軽んじられ、距離を置かれてきたカンナギにとっても、ゴフマンが展開したスティグマ論は非常に印象深いものであった。

 そして蓮もまた、スティグマの話を心に留め置いていたというのは、何かしら自身の経験になぞらえて感ずるところがあったのかもしれない。


「僕もまだきちんと理解できてるか自信はないんだけど」

 

 そう前置きして、蓮は言葉を続ける。


「“自分たちとは違う“、“標準じゃない“って偏見の対象とされてしまう特徴としてのスティグマっていうのは、その特徴自体が悪かったり、問題があるからではなくて、そういう特徴をネガティブに捉える価値観や考え方が浸透しているから――誰かのネガティブな反応があってこそ、スティグマが生み出されるって指摘がすごく印象的で」


「うん。スティグマっていうのは、ある社会で、特定の関係性のもとで付与されてしまう。自分はスティグマをもっていないからこれから先も大丈夫だ、じゃなくて、出会う人や居る場所が変われば、『標準』『普通』とされる基準や価値観も変わるわけだから、その集団や社会にとって好ましくない特徴や属性を自分がもっているかもしれない。だから、誰しもがスティグマをもちうるんだよな」


 カンナギの話に頷く蓮の瞳がほんの一瞬、揺れたように見えた。が、蓮はいつも通りの――クラスメイトに囲まれている時と同じような――爽やかな笑みを浮かべたかと思うと、明るく切り出した。


「全然大したことじゃなかったんだけど、僕、小学校の時ちょっとクラスの子達とうまくいってなくてね」


 ――嘘だ。大したことあったんだろ、と喉元まで出かかった言葉をかろうじて押さえ込む。蓮のように有能で我慢強そうなタイプが言う「大したことない」や「大丈夫」は、実際のところそうではないことをカンナギは知っている。けれどもここで水を差すのは野暮だということもわかる。カンナギは蓮の言葉を待った。


すると、蓮はバックパックから除菌シートを取り出し、自身の手指を丁寧に拭き始めた。


「僕の眼、」


 そう言っておもむろに俯くと、手慣れた様子で右眼からコンタクトレンズを外し、再びカンナギに向き直る――

 茶色の左眼。そして、右の裸眼は透き通るように青かった。


「――! すごく、綺麗……」


 静かで、率直な感嘆がカンナギの口からこぼれた。その言葉を受けた蓮の瞳が、わずかに揺めく。少し間が空いて、「ありがとう」と蓮が微笑んだ。涙を堪えていたのかもしれなかった。 


「この通り、僕の眼、実は青いんだ。祖母が北欧にルーツをもっている人でね。隔世遺伝だと思うんだけど。髪は真っ黒、顔立ちだってそう彫りが深いわけでもない。でも眼だけおかしい、みんなと違うって――」


 そこまで言うと、蓮は水の入ったグラスを手にして、唇だけを湿らすように口をつけた。


「気持ち悪いとか、変だとか、ビョーキなんじゃないかとか、色々言われて……なんだったらバイ菌みたいな扱いだったのに、小学校高学年に上がった頃からすごく好意的な評価をもらっちゃって、びっくりしたよ。僕はずっと、僕のまま変わってないのにさ」


 そう言って、蓮は困ったようにあははと笑った。そして、流れるような手つきで右眼を茶色に戻す。


「それで、なんていうのかな……僕は、小学校の同級生とは違う中学に進学することになっていたし、あ、カラコンつけちゃえばいいやって。周りのみんなと同じようにすればいいかなと思ってね」


 なんでもないことのように淡々と、それでいて明るく語る口ぶりが、かえって蓮の直面した苦しみの深さや困惑ぶりを思わせた。


 蓮の話した内容が「すべて」ではないことくらい、考えるまでもなくわかる。変えようのない身体的な特徴を、心ない言葉と態度で踏みにじられて、どれほどつらかったか。仲間に入れてもらえないことの心細さを、自分の存在を否定され続けているような感覚をいかほど味わったか。


 本当のつらさや苦しみは、蓮にしかわからない。どんな声かけも薄っぺらく思えて、口に出すのは憚られた。蓮の気持ちを想像すればするほど、言葉は出なくなる。


 反して、蓮を傷つけた心ない――無神経で、感性が貧困で、自分たちが「ノーマル」だと信じて疑わない視野の狭さと傲慢さをもった――奴らへの静かな怒りがふつふつと湧いてくる。しかしそれ以上に、気の利いたことも言えず、ただ「そうだったのか」としかつぶやけない自分が情けなくて、カンナギは奥歯を強く噛み締めた。


  ――カンナギって、何されてもいつも同じ顔してるよな。感情とか死んでるんじゃないの?

 違う。心を動かされれば、誰かが…友人が傷つけられたとあれば、カンナギの感情だって溢れ出すのだ。

 言うべきかどうか――理性が判断を下す前に、口が動いた。


「蓮は全然大したことじゃないと言ったが、僕にとっては全然そうじゃない。気持ち悪い? 変? ビョーキだ? 言われた相手がどう思うのか深く考えもせず言い放った奴ら……蓮、そいつらの住所はわかるか? 今からでも遅くはない。僕が正々堂々一人ずつ叩きのめしてやる」

「え、ちょっと待ってカンナギって意外と武闘派?」

 意表を突かれたと言わんばかりに、蓮が両眼を大きく見開く。

「暴力の行使のみが叩きのめすことの全貌ではないぞ」

「ちょ、ちょっと待って! 余計に怖いよ! 一旦落ち着こう、カンナギ。…って目が怖いよ!」


 そう言いながら、蓮は盛大に吹き出した。なぜだ。止められることは予想していても笑われるとは思ってもみなかった。ふくれっ面で、「何がおかしいんだ」と蓮に詰め寄る。


「ごめん、カンナギの本気ぶりに思わず……いや、嬉しかったんだ。カンナギは、怒ってくれた。僕のことを思って。…ありがとう」


 ――カンナギ「は」、ということは、誰かはそうじゃなかったということだ。その誰かが、蓮にとって大切な人物でないことをそっと願った。


「ところでさ、カンナギ。お互い、飲み物が空になっちゃったよね」

 

 蓮がカップを持ち上げて小首を傾げた。少々わざとらしい仕草に思えなくもないが、美少年がやるとどういうわけかそれはそれでアリかもと思わされる説得力がある。くそぅ、ずるいぞと心の中で不平を言い、メニュー表を手に取る。今日は感情が忙しい。そのせいなのか、小腹が空いた。よし、チーズトーストも注文しよう。


「すみませーん!」

「マスター!」


 蓮、カンナギ、それぞれの言葉が重なり、二人は眼を合わせて顔を綻ばせた。


――――――――

主要参考文献

 アーヴィング・ゴッフマン,1980『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』石黒毅(訳),せりか叢書.

 濱嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘(編),2005『社会学小辞典 新版増補版』有斐閣.


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