第2話

 たっぷり十五分かけて歩いてきた道を一心不乱に逆走した結果、蓮は十分もかからず学校に戻ってくることができた。

 短距離走から長距離走、距離の長さに関係なく常に上位入りする蓮の走力なら不可能ではない。が、そこそこ重量のあるカバンを携えながらの全力疾走は、いかに身体能力に秀でた蓮であっても相当息が切れる。肩で息をするほど本気を出して走ったのは初めてのことだった。


 とにかく暑い。五月の夕刻、穏やかな体感温度に反して蓮の身体は汗だくだった。

 この状態で教室に直行するのはさすがに気が引ける。


 カバンに入れてあったペットボトルの水で喉の乾きを潤しつつ、蓮は自身の学年に割り当てられた三階の男子用トイレへ駆け込んだ。


 洗面台の鏡を覗き込み、乱れた頭髪を整え、流れる汗を拭って制汗剤を散らす。

 走り終えたからといって汗はすぐにひいてはくれない。


 ――どうして僕はこんなことしてるんだろう。

 鏡に映る余裕のない自分が、らしくない蓮の行動に疑義を呈する。


 いくら「知りたくなった」とはいえ、ほかのクラスメイトの目を欺くためわざわざ一旦帰路についてからもう一度全力ダッシュで学校に向かうなんて、どうかしている。


 今年初めて同じクラスになったというだけの間柄。

 しかも未だ一言も交わしたことがない相手をつかまえて、僕は何を訊ねようというのか。


 ――いいや、本当はわかってる。

 わかってるから、こうして必死で戻ってきたんだ。

 答え合わせの自問自答を終えた蓮は身だしなみを一通り確認し、急ぎ足で教室へ向かった。



 一緒に帰ろうという決意の申し出が意外にもあっさり了承され、蓮は喜びを隠しきれなかった。視線の先、帰り仕度を始めた同級生の隣の席に腰掛け、嬉しさや感謝の気持ちを前面に押し出すように話しかける。


「みんな僕のこと『レンレン』って呼んでいるんだけど、実はあれけっこう恥ずかしいんだ。なんか、可愛すぎるっていうか。だから、できれば僕のことはふつうに『蓮』って呼んでくれないかな」

「そうか。僕は苗字――カンナギでいい」

「わかった。カンナギ。やっぱりカッコイイ苗字だよな」

「そうか?」


 準備を終えたカンナギが気のなさそうな返事とともに立ち上がり、教室の出入り口に向かって足早に歩き出した。

 もう少し会話が続くものと思っていた蓮は慌ててカンナギの後に続く。すぐに追いついて隣に並んだものの、学校を出るまでの間、ついにカンナギに話しかけることはできなかった


 二人が通う学校は木々の豊かな高台に位置しており、その周囲を新興住宅街が取り囲んでいる。

 学校の周辺はもともと山間部で、静かな地域だったのだが、何度かの開発を経て利便性が大きく向上し、今ではファミリー層からの需要が高い人気のエリアへと変貌を遂げた。

 密集する住宅街を抜ければ、外資系カフェやベーカリーショップなどを併設した駅が、さらにそこから徒歩で数分の距離に大型商業施設が集積している。 


 バスや電車といった公共交通機関を利用して通学する生徒も多くいる一方、蓮とカンナギの家は徒歩圏内にあった。

 学校から住宅街へ向かう道は緩やかな下り坂が続く。

 蓮は無意識にいつもより少しだけゆっくり歩いていた。

 対するカンナギの歩調はやや早めで、まるで一人で歩いているような歩き方でスタスタと先を進んでいく。それでも、後ろにいる蓮を気にかけているのか二人の距離は一定で広がることはなかった。


 蓮はカンナギの背中を見ながらどう話しかけるべきかについてまだ考えあぐねていた。


 カフェにでも寄っていかない? だめだ、これは違う意味に取られかねない。

 ふつうに話すという簡単なことが、なぜか今の蓮にはできなくなっている。日頃クラスメイトと会話をするとき、こんなに困った経験はなかった。戸惑いは深まる一方だったが、悠長に悩んでいる暇はない。とにかく声をかけるべきだと腹を括ったそのとき、


「何か僕に聞きたいことでもあるんだろ?」


 おもむろに、カンナギが会話の口火を切った。

 こちらの意図を慮ってのことなのか、それとも回りくどいやりとりを避けたかはわからないが、いずれにしても蓮には有り難かった。


「うわ、お見通しかぁ。そうだよな、ちょっと話してみたいからって突然一緒に帰ってくれとかおかしいもんな」


 そう言いながら、いざ面と向かって問われるとどう話していいかわからなくなり蓮は口ごもった。


 せっかくのチャンスをふいにするなんて、ありえない。一緒に帰ろうと誘った張本人が押し黙ることもまた、ありえない。この不本意な沈黙をすぐにでも終わらせたい――のに、やはりいつものようにスラスラと言葉が、答えが、出てこない。見慣れたはずの静かな住宅街が、今日はひどくよそよそしく、閉塞感に満ちた空間に感じられる。


 何か、何か言わなければ。蓮の焦りが加速してゆく。


「あのさ、カンナギはいつもひとりでいるよね?」


 しまった、間違えた――

 口をついて出た質問とも確認ともつかない一言。

 

 せっかく突然の申し出に応えてくれた相手に向かってこんな言い方はない。これじゃただの嫌味だ。

 違う、僕はこんなことを言いたいんじゃない。

 蓮が慌ててカンナギの真横まで駆け寄ったちょうどそのとき、カンナギが口を開いた。


「あー、そうだな。でも、僕はその方が気楽でいいんだ。ひとりでいるのも悪くないぞ。そもそも、あのクラスメイトたちの…集団に入りたいと思ってないしな。そのへんは蓮だって何となく気付いてるんじゃないのか?」


 穏やかな口調でそう答えつつ、カンナギは隣に来た蓮の顔を見遣った。

 夕陽に照らされたカンナギの表情が、幼い顔立ちに反してとても大人びて見える。不思議と安堵の気持ちが胸に広がり、蓮はふうと一息つく。


 失言ともとれる自分の問いかけに気を悪くするどころか、誠実に本音と思しき回答を返してくれたことに、感謝せずにはいられなかった。


 たとえ相手が気にしていなかったとしても、失礼な発言についてちゃんと謝りたい。それが礼儀だ。

 蓮はカンナギの目に視線を合わせて謝罪の言葉を探り始める。


「変な聞き方してごめん。その…」

「でもさ、蓮は『ひとり』ではないけれど、クラスメイトの人たちに囲まれていても楽しそうじゃないよね」


 蓮とほとんど同じタイミングでカンナギが言葉を発した。

 もちろん、カンナギに謝罪を遮ろうとする意図はないだろう。

 しかし、その核心をつくような指摘は、蓮に大きな衝撃を与えた。


 ――楽しそうじゃない? 僕が? そんなはずは……みんなと一緒にいるのは「楽しいこと」で。たしかに、たまに少し疲れるななんて感じる時はあるけれど、それでも、それは些細なこと……ほんの一瞬のことだ。

 僕は、はずで――あれ? うまくやれているって、なんだ? 本当に……そうなのか?


 これ以上は考えてはいけないような、気づいてはならない領域に思えて蓮はたまらなくなった。強制的に思考を停止し、次の言葉を引き出すべく取り縋るような視線をカンナギに送る。


 いったい、何を言われるのだろう。クラスの中の「僕」はどう見えていたのだろう。とっくに汗が引いたはずの背中を冷たいものが流れていく。

 そんな蓮の動揺を知ってか知らずか、カンナギは独り言のように言葉を発した。


「人気者、を『演じる』のも大変ってとこか」

「? それってどういう…」

「ゴフマン」

「え?」


 はっきりと聞き取れたはずだったが、意味はわからなかった。「マン」というくらいだから男性だろうか。それともカンナギの好きなキャラクターかなにかだろうか。


「アメリカの社会学者、アーヴィング・ゴフマンさ。彼は演劇の比喩を用いた『ドラマトゥルギー 』を提唱して、人々の日常生活やコミュニケーションを観察したんだよ」


 耳慣れない言葉の連続に蓮は面食らいつつも、なにか重要なものを差し出されたような、特別な感覚にとらわれた。


「ドラマ…トゥルギー 」

 思わず蓮は反復する。

「そう。ドラマトゥルギー 。ごく簡単に言うなら演劇の視点を人びとの相互行為の観察に持ち込んだんだよ。日常生活は『舞台』、人びとはみんなそこで『演技』をしている」

「僕たちが演じてる?」


 そう言われてみれば学校で、家で、それぞれの「自分」を演じている気がしないでもない。蓮は妙に納得した。


「人が自分に期待する『役割』に応えようと『演技』したり、またときには自身が望む『自己像』のイメージを抱いてもらうため『印象操作』をする。ゴフマン、よくそんなこと思いついたよな。すごく面白い発想だよ」

「うん。たしかに、たしかに面白い」

「ああ、さっき蓮のこと、『演技』してるとか言ったけど僕は別にそれが良いとか悪いとかそういうことを言いたかったんじゃない。たまたま僕には蓮がそのように見えて、ゴフマンを思い出した。それだけの話だよ」


 ――僕は間違ってなんかいなかった。蓮は確信した。

 カンナギに対して芽生えた、強烈な「知りたい」は間違いじゃなかった。

 もっと、カンナギと話をしたい。今まで出会った誰とも似ていない、この魅力的な同級生には、未知の世界が詰まっている。


 蓮は、これまで曖昧に感じられ、掴みきれなかった「自分」の輪郭が、「カンナギ」を通してくっきり浮かび上がってくるような、そんな予感に包まれた。




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